エピローグ 全略、宮城光敏君へ
あの若い警官は、救急治療室の前にある茶色いベンチに座っていた。
隣に中年女性の姿がある。
彼女が引ったくりの母親だろうか。
不安そうな顔で、面会謝絶とかかれた赤く点灯している蛍光板を見ていた。
警官の手に、わたしの鞄はあった。
家に隕石が落ちたので帰りたいと伝えると、彼はその場で電話をして、上司に鞄を返す許可を取ってくれた。
「しかしこの状況で隕石が家に落ちるなんて……凄まじい偶然だな。
全く……」
納得いかないといった表情で、警官が頭をわしゃわしゃと掻いた。
鞄を差し出されて、わたしは受け取ろうと持ち手に指をかけた。
つるりと滑る。
鞄が地面に落ちて、中身が散らばった。
我ながら何をやっているのだろう。
全く、何から何まで最悪な日だ。
わたしは屈み込んで、教科書を拾った。
警官と側にいた中年女性も手伝ってくれた。
ピンク色の封筒に手が触れる。
わたしの表情は固まった。
ラブレターの封筒は空になっている。
宮城君へのラブレター。
落下の衝撃で出てしまったのだろうか。
中身は何処にあるのだろう?
周囲を見ると、警官と中年女性とパンダ、三人の視線が一ヶ所に集まっていた。
中央では二つ折りの厚紙が開いている。
文面が丸見えである。
「見るな!」
鋭く怒鳴って、パンダを払いのけた。
ふわりと軽いパンダの体がころころと転がった。
「失礼」
謝ったのは警官である。
パンダへの台詞を、自分に向けたものだと受け取ったのだろう。
「それにしても、誤字だらけだね」
ぽつりと呟いたのは、これまで黙っていた中年の女性である。
「……そう……なの?」
気まずそうに頬を掻きながら、警官が言った。
「最初の単語からして間違ってるよ。『全略 宮城光敏君へ』……『ぜんりゃく』は前に略と書くんだ。
全部略したら、手紙にならないよ」
中年女性も躊躇いながら、丁寧な口調で指摘する。
「一行目なら、『あなたに合うたびに引かれていく気がしました』って部分もね。『あう』は会合のカイの方だし、『ひかれる』は若いに心よ」
「心が引っ張られる気がしたし、これはこれで正しいんじゃないかと思って……」
「これじゃ、あなたが嫌われていってるように読める」
日本語というのは、何でこんなにややこしいのだろう。
〈字が汚すぎるな。
この部分なんて、『恋』と書いてあるところが『変』と読めるぞ〉
流石にそれは言い掛かりだ。
わたしはパンダを睨みつけた。
手紙を鞄にしまい直す。
地面に広がった他の私物も無理矢理押し込んだ。
警官と中年女性を見ると、二人とも気にしなくていいといった感じで柔らかく微笑んだ。
恥ずかしい。
霊安室に駆け込みたい気分になる。
立ち上がり、その場を去ろうとした。
実際に行動に移すよりもワンテンポ速く、集中治療室の扉が開いた。
厳めしい初老の医師が現れた。
金縁眼鏡を押し上げて、堅い口調で告げる。
「尼川光二さんの脈が大変弱まっています。
大変危険な状態なので、ご家族の方はすぐに入ってください」
あのひったくりの名前は、尼川光二というのか。
和やかだった空気が一転した。
警官が渋面になる。
青ざめた無表情で中年女性が集中治療室に入っていく。
ショックだった。
ひったくりに恨みはあるが、もしこれで亡くなるような事があれば流石に気分が悪い。
何より、あの中年女性が気の毒である。
どこまでが本人の意志でどこまでが呪いのせいなのかは分からないが、思えばあのひったくりも呪いの犠牲者なのだ。
呪いのせいだ。あのわけの分からない神様のせいだ。
怒りがわいてきた。ぐるぐると思考が回る。
ふと閃いたことがあった。
ひょっとすると今ならばできるかもしれない。
思考を続ける。
――その神様から、変な呪いをもらい、かつ思考を制御できなかった自分のせいだ。
しかしそれでも、わたしにせよ、わたしの家族にせよ、中尾先生にせよ、中年女性にせよ――誰も悪い事はやってない。
ひったくりに関しても、罪と罰が釣り合ってない。
最悪だ。
これが神様の意志ならば、なんでわたし達だけ不幸にならなきゃいけないんだ?
これがずっと続くのか。
次は何が起こる?
妹や優華も巻き込むのだろうか。
本気でなければ意味がない。
理不尽な現実を、強く意識する。
今頃関係のない他の人々は、幸せな日常を楽しんでいるのだろう。
あまりに不公平すぎる。
あんな神様最悪だ。
こんな世界は最悪だ。
――わたしは怒りのままに、強く 願 っ た。
みんな、不幸になりますように。
異変は集中治療室から起こった。
中年の看護師が部屋から飛び出してきた。
「尼川光二さんの脈が正常に戻りました!」
「はい……はあ」
警官は顔を上げた。
喜ぶというよりは不可解だと感じているようである。
成功したのだろうか?
わたしは家族のことが気になっていた。
鞄を掴みなおし、その場を立ち去る。
「そうか、無事に生まれたのか。良かった良かった」
「お爺ちゃん、お爺ちゃんが喋った!」
「結婚してください!」
廊下を歩いていると、あちこちで泣き声やら笑い声やら聞こえてきた。
待合室を通る。
テレビではまだニュースをやっている。
「……A国とB国の国境では、現在も緊迫した情勢が続いております。
二時間前、A国首相もまた、核の準備が整ったとの声明を発表し……失礼しました。
たった今ニュースが届きました。えっと……これはどういうことでしょうか、A国軍が国境から離れたようです」
呪いはわたしの予測を完全に超えて、節操なく効果を発揮したらしい。
テレビまでがおかしなことになっていた。
騒がしい中を突っ切って、正面玄関から病院の外に出る。
妹から電話がかかってきた。
「もしもし」
「お姉ちゃん! お母さんと連絡が取れたよ。商談中だったんだって」
ほっと一息を付いた。
とりあえずはこれで一安心だと思っていいだろうか。
妹が続ける。
「それはそうと、なんかこの隕石、かなり珍しいものらしくて……買いたいっていう連絡と沢山の名刺があって……お姉ちゃん……どうしよう」
安心したら、馬鹿馬鹿しくなってきた。
自然と笑みが浮かんだ。
笑う。腹を抱えて笑う。
一度笑い出すと、もう止まらなかった。
携帯の向こうで妹が狼狽しているのが分かっていても、どうしようもない。
目に涙をためて大口を開けて、周りの目を気にすることなく笑った。
妹に今から行くともう一度伝えて、電話を切る。
我ながら単純なもので、不安が消し飛び、心は晴れ渡っていた。
これならば、呪いだって悪くないとすら感じた。
意味不明でちぐはぐなテンションのまま、わたしは 願 っ た。
病院の門を通り過ぎる。
横をパンダが通り過ぎた。
何処へ向かうのか、どんどん遠くへ走っている。
かなり小さくなったところで、こちらの方をふり向いて手をぶんぶんと振った。
そしてくるっと後ろにターンすると、そのままぱたぱたと角を曲がり、見えなくなった。
● ○ ● ○ ●
その後わたし達家族は家の前で合流して、その足で外食に行った。
その日はビジネスホテルに泊まることになり、荷物をまとめて移動する。
それまでトラブル続きだったのが嘘のように、あっさりとホテルに行くことが出来た。
へとへとに疲れていたので、服を着替えるなり泥のように眠る。
また、朝が来た。
目を覚ましてあたりを見渡すと、部屋が綺麗すぎて落ち着かない気分になった。
自分がホテルに泊まっていることを思い出す。
うー、とか、あーとか、言葉にならないうめき声をあげながら支度を始めた。
ユニットバスになっている洗面所に入り込んで、顔を洗い時計を見た。
午前七時五十分。遅刻ぎりぎりだ。
化粧は電車でしよう。
鞄をひっつかみ食堂に行くと、妹が優雅に紅茶を飲んでいた。
わたしよりも学校が近いので、のんびりしていても大丈夫らしい。
羨ましいことこの上ない。
「三つ子の魂百まで。恋した程度じゃ、そうそう変わるわけないか」
妹がませたことを言って、一人でうんうんと頷いていた。
この日は母もいた。
わたしの姿を見ると、「おはよう」と挨拶をした。
「うう」と呻き声を返すと、母は呆れ顔になった。
「昨日の夜、あの人から連絡があったわ。
政美、会いに行ったんだって?
何があったのか知らないけど、あの人、霊媒師辞めるって言ってたよ。
人生をやり直すって」
母は心なしか機嫌が良さそうだ。
わたしは「うう」と相づちを打った。
「とりあえず、借金を方付けるまで帰ってくるなと言っておいたわ。
まったく、相変わらずの駄目人間だね。
政美はああなっちゃ駄目よ」
わたしの母は優しい。
その優しさが父を駄目にしたのかもしれないが、そのことには気付いているだろうか。
何とも言えなかったが、家族関係が少しでも良くなるのなら、それは素直に嬉しい。
わたしはご飯を口に押し込んで、ずるずるとした足取りでホテルを出た。
学校には普通に間に合った。
校門で中尾先生と会う。
額にはガーゼがテープで止めてあって痛々しかったが、本人は上機嫌のようだ。
時間は押していたが、問うてみる。
「何かいいことがあったんですか?」
「昨日の夜、彼と話してね。
告白されたこと、まだ返答してないんだって。
だからわたしも告白してみた。
彼が答え出すまで、もう少しあがこうと思うよ」
「そうですか。
良かったです、先生が元気になって」
「上手くいくかどうかは分からないけどね。
やらなければならないことがあるから、いつまでもうじうじはしてられない。
政美ちゃんは体調大丈夫?
昨日の事故は本当にごめんね」
「大丈夫です。ぴんぴんしてますよ」
実際わたしの方も、昨日とは比べものにならないくらい調子は良かった。
昼休みが来ると、屋上に行った。
コンクリートに座り込み、財布から一円玉を出す。
本当に呪いがなくなっているのか、確認してみる。
願って投げる、願って投げるを繰り返した。
「表だ。やっぱり、呪いは消えたのか」
ふと、小さい影が一円玉の上に落ちる。
〈正確にはそっちが裏で、植物のマークの方が表なんだがな〉
低くて不気味ながらがら声。
顔を上げると、悪人面のパンダのぬいぐるみが、えらそうに腕を組んで立っていた。
「てっきり成仏したのかと思ったわ。
今までどこ行ってたのよ」
〈成仏などしてたまるか。適当にその辺をぶらついていたんだよ。
神通力がなくなったせいで、オマエに取り憑いている理由もなくなった〉
「じゃあ、なんでここにいるのよ」
パンダが口ごもる。
ははん、そういうことか。わたしはにやりと笑った。
「行くところが無いんじゃないの?」
〈馬鹿野郎、そんなわけ……あんまりないぞ。
俺様は一人でも平気なんだ〉
まあ、どうでもいいか。
それよりも、聞きたいことがあった。
「ところで、何で例の呪いがなくなったのか、あんたには分かる?
やっぱりパワーを使い果たしたから?」
〈それは違う。
あれだけの神通力が一晩で消えるなんて普通はない。
何にせよ、はっきりとは分からんが想像はつくぜ。
ほれ、よくよく考えてみな。
誰かが解いたわけじゃない。
自然に解けるものでもない。
それなら答えは一つだろ?〉
「分からない教えて」
〈いや、ちょっとは自分で考える努力をだな〉
思い切り不機嫌な顔をして睨みつけると、しぶしぶパンダは白状した。
〈神通力そのものの効果で消えたんじゃないかってことだ。
つまりオマエは『呪いと共存すること』を願ったんだ〉
考え込む。
混乱状態だった病院で、わたしは何を考えたのか。
泣いて笑ってという無茶苦茶な気持ちの中、確かこんなことを思った気がする。
自分の思考をコントロールしてみせよう。
自分の不幸を願うことはできなくても、他人の不幸ならば願えるかもしれない。
そうしてこの強力な力で、みんなを幸せにして――。
視線を感じて顔を上げた。
パンダと目が合う。奴はにまりと笑った。
〈いいところ、あるじゃねえか〉
不意打ちの一言だった。
直球で性格を褒められたのは初めてだ。
みるみる顔が熱くなる。
〈人格というのは、書いて字のごとく人としての格なのだ。
オマエは馬鹿で間抜けで自分勝手でろくでなしで計算できなくて漢字書けなくてとにかく性格悪くて本当にダメでダメでダメダメだが、それでも他人の為に自分を犠牲に出来る精神があれば、まるっきり駄目人間というわけでもない。
これを教訓に人間性を磨くべきだと俺様は思う。
だいたいオマエは他人に頼りすぎなのだ。
あと、自発的に行動しない。
すぐに暴力を振るう。
思えば例の神通力にしても、他力本願なお願いをするのではなく、自分から行動しろという神様からのメッセージだったのやもしれん。
きっとこの結果だって、全てお見通しだったのだ。
――あの時のように。
そう、この俺様、甘栗動物園のポンポンはあの日天に召されて……〉
パンダが何やらべらべらと教訓めいたことを喋り続けていたが、わたしは聞いちゃいなかった。
大きく伸びをして立ち上がる。
春風が髪を撫でていく。抜けるような蒼天が心地よかった。
フェンスの方まで歩くと、校庭ではサッカーをする学生達の姿がある。
平和で平穏な昼休み。
校庭の時計を確認すると、休みが終わるまであと二十分程だ。
周囲を見渡す。
屋上にいるのはわたしとパンダだけでない。
わたし達のほかには、隅っこの方で詩集を吟じている、細面の男子生徒が一人。
宮城光敏君だった。
彼は毎日、昼休みをここで過ごしている。
大きく深呼吸した。
〈……こうして、俺様は今の体を手に入れたのだ。
って、おいマサミ。
何している?
ちゃんと俺様の話を聞いていたのか?〉
「ちょっと静かにして。気が散るから」
〈何をする気だ?〉
「宮城君に話しかけるのよ」
パンダがまじまじとわたしの顔を見た。
〈お、おう。……がんばれよ〉
――大丈夫、大丈夫。
口の中で何度か唱えてから、わたしはゆっくりと歩き始めた。