政美、素数を知らないことがバレる
ガタン、ゴトンと揺れながら、電車が走っている。
結局あれから、放課後を待って教室に鞄を取りに行き、父の事務所へと向かうことにした。
地下鉄なので窓から見える景色は黒一色であり、見ていても退屈なだけだ。
わたしは背もたれに体重を預けながら、ぼんやりと天井につり下げられたチラシを読んでいた。
やがてそれに飽きると、パンダに話しかけてみる。
「あんた、昔は普通に生きてたんだよね?」
〈おう。生きていた頃は、甘栗動物園にいたぞ〉
パンダは遠い目をした。
視線の先には、真っ黒なトンネルの壁しかない。
甘栗動物園は学校から数駅しか離れていない。
わたしだって、小さい頃に何回か行ったことがあった。
「そういや、ずっと前に動物園でパンダが死んだんだっけ。
確か、ポンポンとかボンボンとか、そんな悪趣味な名前の。
そいつがあんただったの?」
〈名前はポンポンだよ。
命名した飼育員は、三度の飯よりもパンダよりも、麻雀が好きな男でな。
後で入ってきた俺様の嫁はカンカンという名前だったし、子供はチーチーという名前だった〉
「それ、飼育員としてどうなのよ」
〈ろくでなしだったよ。
でも、カンカンがいい女だったので悪い環境ではなかった。
彼女は今流行の肉食系女子というやつでな。
毎日、餌の孟宗竹の山を見ては、『肉が食いたい』とぼやいていた〉
パンダのセックスアピールは理解できない。
語りだしたら長いのか、彼の回想は続いていた。
〈何で俺様がこんな姿かってーと、それには深いワケがある。
思えば昔、甘栗動物園は相当の経営難でな。
国から補助は降りてるが、その額は年々減っているし、客足もだんだん少なくなっていた〉
「うん」
怪しげな方向に話が逸れ始めている。
めんどくさい話は聞きたくない。
〈特にチーチーが死んでから、その傾向が顕著で、十数人しか入園しないって日すらあった。
カンカンも最初の子供が死んで、それはもうショックを受けていた様子でな。
俺様は彼女を励まそうと必死になったが、上手く行かなかった。
今でも良く覚えている。
あの日俺を飼育していた男は、こう言ったんだ……〉
飽きた。わたしは目を閉じて鞄に顔をうずめる。
〈おい馬鹿野郎。
自分で話ふっといて寝る奴があるか。
こら、起きろ!〉
パンダが短い腕で殴ってきた。
わたしがじろりと睨むと、パンダは偉そうに腕を組みながら、再び語り出した。
〈全く、失敬なサルめ。
いいか、こっからは聞くも涙、語るも涙のエピソードだ。
ハンカチを用意しな〉
演技じゃないあくびをして、わたしはパンダの言葉をさえぎった。
「何処まで話してたんだっけ?
隕石が落下して動物園が壊滅したあたり?」
パンダは、ぎゃふん、と唸って数歩後ずさった。
〈今、悟った。俺様は馬鹿だ〉
「自分が馬鹿だと理解するのは、いいことなのか悪いことなのか」
〈知るか馬鹿。もうオマエには話さん。
絶対に話してやるもんか〉
むすっとする奴を見て、思わずにやにやしてしまう。
からかいがいのあるパンダじゃないか。
それからというもの、わたしは彼をいじり不安をごまかしながら、時間をつぶした。
郊外にあるその駅は、人通りが少なくゴミゴミとしていた。
自転車がひしめいている通りを抜けて住宅街に入る。
〈なあ、マサミ〉とパンダが言った。
わたしは眉間にしわを寄せた。
「あんたなんかに、下の名前で呼ばれたくないんだけど」
〈タクシーを呼んだ方がいいんじゃねーか?
少しでも早く、神通力を解いたがいい。
何しろオマエが何かを願うたびに、どんどん状況が悪化していくんだぞ〉
パンダの言いなりになるのは不快だが、その発言には一理ある。
素直に助言に従うことにした。
タクシー乗り場は駅の反対側なので、踏切の方に歩く。
無事に着きますように。ちらりとそんなことを 願 っ た。
ぐいと鞄を引っ張られる。
凄い力だ。
後ろを振り向くと、黒いスクーターに乗った男が、わたしの鞄を掴んでいた。
フルフェイスのヘルメットをしていて、顔は分からない。
「え?」
とっさのことで、素の声が漏れた。
エンジン音。
男はスクーターをユーターンさせて、走り去ろうとしていた。
男の革手袋が、わたしの指に当たる。
そのまま鞄ごと、スクーターに引きずられそうになる。
離すまいと力を込めると、ますます引っ張られ、意志に関係なく走らされた。
男がスクーターを加速していく。
転倒しそうになって、わたしは鞄を手から離した。
みるみるうちにスクーターが遠ざかっていく。
広い道に出て右に曲がり、視界から消えてしまった。
へなへなと腰から崩れる。
あれは何だ?
ひったくり。
その言葉を思い出したのは、男の姿が見えなくなってからである。
怒りよりも悲しみよりも、徒労感を感じた。
わたしは一気に苦境に立たされていた。
財布は鞄に入っていたから、もはやタクシーに乗ることはできない。
それどころか、帰りの電車代すらない。
電話で誰かを呼ぼうにも、スマホは鞄の中である。
思えば、鞄の中に自分の財産のほとんどを入れていた。
定期券だってあと二ヶ月分は残っていたし、それに……それに……宮城君に渡すはずのラブレターだって、綺麗に折って封筒に入れてある。
心の支え、なけなしの勇気まで盗まれてしまった気がする。
後でひったくりはあの手紙をどうするだろうか?
誰も読むことがないようにと、 願 わ ずにはいられない。
ああ、何もかもが嫌になる。
「最悪だ」とつぶやくと、パンダが言った。
〈オマエ、何か願ったんじゃないのか?〉
じっくりと考えて、ようやく気付く。
「『無事に着きますように』とか、考えたかもしれない」
〈その願い方なら、一応、無事じゃないなりに到着することはできるかもな。
よし、悪いことは言わん。
もう何も考えるな。
『ちゃんと着きますように』とか願ったら、永遠にたどり着けなくなるやもしれん〉
「ちょっと思っただけなのに。
あんなんで呪いが利くの?」
〈神通力を甘く見ない方がいい。
願いが叶わないというなら、それは絶対だと思う〉
「息を吸いたいと願ったら、窒息死するわけ?」
〈その通りだ。
呼吸なんて普段は意識してないから願いもしないだろうけど、例えば溺れている時にそう願った場合なんかは、死ぬことになるだろうな〉
ぐうの音も出ない。
状況は、わたしが思っていたよりも遙かに深刻だった。
願いと聞いて、大ぶりなことばかり考えていたのだけど、このままではいずれ日常生活が成り立たなくなる。
このまま立っていても仕方がない。
交番に行かなければ。
被害届を出さなければいけないし、電話くらいなら貸してくれるだろう。
幸い事務所に行く途中にあることが分かっていたので、歩いて向かった。
家に帰りたい、自分の部屋で休みたいと 願 っ た。
住宅街を抜ける。
閑散とした商店街を抜けた。
田んぼに挟まれた道を過ぎて、トンネルを抜けた。
わたしが不機嫌の局地にあることを察してか、パンダはあまり話しかけてこずに、わたしの後ろをついてきている。
地図に載っていた交番は、思っていたよりもずっと小さかった。
人通りの少ない住宅街である。
ちょっと大きめの公園にある公衆便所とそう大きさの変わらない建物が、十字路にぽつんとあった。
中に入るが、誰もいない。
勇気を出して「すみません」と言ってみたけど、返事はなかった。
再び不安になってきた。
今のところ自覚はないが、ひょっとしてここに来るまでにいらないことを願ってはいないだろうか。
行動はコントロールできても、思考までコントロールするのは難しい。
いらないことを願っていませんように。
そう 願 っ て はっと気づく。
額に手をつきため息をついた。
パンダが心配そうな様子で、声をかけてくる。
〈またいらんこと願ったのか?〉
「いらないことを考えていませんように、と願った」
〈オマエ馬鹿だな。何が起こっても知らんぜ?〉
「わたしも知らないわよ」
やけくそ気味に応えて、何とも虚しい気持ちになった。
パンダが予言したとおり、どんどん状況が悪化していく。
出来るだけ早くこの呪いを解かなければならない。
わたしは無言のまま交番を出た。
目をつむる。
大きく深呼吸。
歩き出す。
何も考えない。
無心になるのだ。
無心、無心、無心になるのだ。
何度も頭の中で呟いているうちに、無心になれますようにと 願 っ て いた。
気づいたときにはもう遅かった。
……これは、かなり、まずい。
ただの意志が願いに切り替わると同時に、洪水のように雑念が押し寄せてきた。
様々な考えが頭に浮かんでは消えていく。
自分の意志に溺れて、わたしは混乱状態になった。
無事にたどり着けますように、そして呪いを解除できますように……ちらりとそんな 願 い が頭をかすめて……ああ……。
「最悪だ! この呪いって反則だわ」
〈あ?〉
パンダに説明する前にことは起こった。
わたしの目の前を歩いていた中年の主婦らしき女性が、ふらふらと足をもつれさせてその場に倒れ込んだのだ。
早速何かが始まっている。
不安で頭がいっぱいになる。
助けを求めるかのようにパンダを見たら、奴も呆然としている。
うーん、と苦しそうに、主婦がうめき声をあげた。
助けるべきか、速やかにこの場を離れるべきか。
周囲に自分達以外の人影はない。
下手に近づいたら呪いに巻き込んでしまうかもしれないという不安があったが、それでも放置するわけにもいかない。
しばらくおたおたした後で主婦に駆け寄る。
揺さぶる。
声をかける。
おばちゃんは口を反開きにして、もう一度、
「うーん」とうなった。
意識があるんだろうか?
パーを作っておばちゃんの目の前に突きつけた。
「大丈夫ですか? これ、何本ですか?」
返事はない。まるでしかばね……って、縁起でもない。
「どうしようどうしようどうしようどうしよう」
震えながらわたしは立ち上がった。
意識が飛んでいてうわ言を言ってただけなのか。
おばちゃんの周りをぐるぐると回る。
ついでにパンダもぐるぐると回る。
〈落ち着け、落ち着くんだマサミ。
深呼吸してから、素数を呟いてみたらどうだ。
一、二、三、ダー……〉
「落ち着いてられないよ! 素数って何よ!」
〈オマエ、もうちょっと勉強しろよ!〉
三百六十度見渡したが、やはり周りに他に人はいない。
冷や汗がだらだら流れる。
無人の交番が恨めしい。
救急車を呼ぼうとして、スマホを探す。
鞄がない。
嫌になるくらい無力だった。
途方に暮れて涙が出てくる。
肩に何かが触れた。
パンダだと思い振り払おうとするが、しっかりとした力で捕まれていた。
何事かと視線を向けると、長く伸ばした髪にぱっつんと切りそろえた前髪。
見覚えのある、古風な髪型が目に映る。
彼女が通りかかったのは、本日初めての幸運だと思う。
「政美ちゃん、どうなってるの?」
担任の中尾先生だった。