政美、パンダに取り憑かれる
我に返ると、わたしはホールに立っていた。
唖然、呆然。
何なんだあれは。
懸賞に当たったと思ったら、実は悪質な押し売りに引っかかっていたような。
「ちょっと、政美」
優華が横から声をかけてきた。
わたしは何でもない様子を意識しながら、彼女に笑いかけた。
「早く起きすぎたせいかな。変な幻覚見ちゃったよ」
「どうしたの?」
「なんか変なオヤジが現れて、天地の法則が最悪らしい」
「わけが分からない」
「わたしにもわけが分からない。
まあ、幻覚に意味なんてないでしょ」
三人の教師が、それぞれ丸めたでっかい模造紙を抱えながら横を通り過ぎた。
そのまま掲示板の前に立つと、掲示板に刺さっていた画鋲を抜いて、模造紙を広げる。
模造紙の最上部に書かれた、二年生という文字。
クラス発表の紙。
わたしは駆け寄ると、自分の名前を確認した。
紺野政美。
か行なので、今のところずっと真ん中よりは前の方に名前があった。
一組らしい。
最初に目を通した組に、自分の名前を見つける。一分とかからなかった。
松下優華の名前も見つけた。
同じクラスである。純粋に嬉しい。
あとは、宮城光敏君が同じクラスにいるかどうかだ。
探す。探す探す探す。
……前田……宮城……あった!
宮城光敏君は、確かにわたしと同じクラスだった。
飛び上がって喜びたくなるところを、周りの目を気にして我慢した。
笑みがこぼれる。新しい一年間への期待で、胸が一杯になる。
その時わたしの頭からは、さっきの神様のことなんて吹き飛んでいた。
● ○ ● ○ ●
始業式が終わった。
新しい教室にて、ホームルームが始まる。
「みなさんおはようございます。
わたしが担任の中尾佐奈です。
担当は現代国語……みんな、一年間、頑張って勉強してくださいね」
先生の腫れぼったい目が痛々しい。
教室を見渡すと、アクが強そうなクラスメートの面々が視界に入る。
真ん中の列の一番後ろの席に、端正な細面に渋い表情を作り、髪をうなじのあたりで括っている男子がいる。
彼こそが宮城光敏君だ。
文学青年であり、ホームルームが始まるまでは一人で詩を吟じていた。
じっと見ていると、顔が熱くなってしまう。
中尾先生が新学年の短い説明をした後、生徒の一人一人が自己紹介をした。
わたしは自分の名前をつぶやき、よろしくお願いしますとだけ言った。
次に学級委員を決めることになった。
先生は最初に希望者を募ったが、誰もなろうとしない。
誰はどうだ彼はどうだとクラスメートたちの私語が飛び交い、軽く無秩序になった。
先生は部屋の隅でただ立っている。
それまでの仕切りで精神力を使い果たしのか、口から魂が抜け出ているようだ。
わたしは職員室での言葉は忘れていない。
彼女をフォローしたかった。
しかし悲しいかな、委員長に立候補する勇気も、この場を仕切るだけの度胸もない。
不意に大きく、「やろう」という言葉が聞こえた。
目をやると、男子生徒が一人立ち上がっている。
宮城光敏君だった。
静まり返った教室を見渡してから、教室の前の方へと歩いていく。
わたしの横を通り過ぎた。
一瞬肘が彼の上着の端に当たり、電撃が走ったよう感じる。
宮城君は教卓に立つと、教室を見渡した。
「委員長のことだ。誰も成り手がいないのならば、私がやろう」
教室は静まり返ったままだ。
やがて、誰かが拍手を始め、広がっていく。異論を出す人間はおらず、なし崩しに決まった。
拍手に包まれながら、宮城君は中尾先生のほうをちらりと心配そうに見た。
こんな行動に出た理由というのは、中尾先生に気を使ってのことなのだろうと、彼の視線を見て思う。
彼は困っている人を見たら、しばらくは遠巻きに見ていても、最終的には助けてしまう人だ。
だからわたしは、好きなのだ。
そして気づいた。
これはひょっとすると、チャンスではないか?
副委員長になるのだ。
委員長と副委員長。
放課後の二人。
自然と一緒に帰る流れになり、校門の時計の下で、一生懸命に告白の言葉を切り出す彼。
つきあってください。
よろしくお願いします。
新婚旅行はマチュピチュがいいな……。
「では、次、副委員長を決めたいと思う。
誰か、やってもいいという者はいないか?」
深呼吸。言うぞ。小さく 願 う 。副委員長になれますように。
「はいはーい」という元気のいい声が、横から聞こえた。
わたしはびくんと震え、口をぱくぱくさせた。
声の主は、松下優華だった。
「やるよ副委員長。
委員長は宮城君に先を越されたけど、別にやってもいいって思ってたくらいだし。
わたしそういうの嫌いじゃないからね」
どうしよう、先を越された。
優華にはわたしが宮城君のことを好きだということを伝えていない。
でも彼女ならば、言えば譲ってくれるだろう。どうしよう。
わたしの根性の無さは、筋金入りだ。
自分にちゃんとクラスがまとめられるとも思えない。
一瞬の自問自答とともに、答えを出す。
楽な方に逃げようとする弱い気持ち。
結局わたしは何も言いだせなかった。
その後、風紀委員だ部祭実行委員だと、他の役職も埋まっていく。
わたしは心折れてしまい、ぐったり座り込んでいた。
宮城君の仕切りは上手く、スムーズに進んでいる。
結局、一限が終わったところで、役職はすべて決まった。
あとは席替えと教科書の配布が終われば解散だから、休憩時間後十分やそこらで家に帰れるかもしれない。
気疲れしていた。例の幻覚を見てケチがついた気がする。
昨晩夜更かししていたということもあり、自然とまぶたが重くなる。
仮眠を取ろうと思い、机に突っ伏した。
休憩時間終了のチャイムが鳴れば、きっとそれで目が覚めるだろう。
○●○●○
家の近くのコンビニで少年誌を立ち読みしていた。
雑誌の並ぶガラス張りの壁から、所々街灯に照らされた夜の並木道が見える。
読んでいた雑誌をもとの場所に戻すと、栄養ドリンクを買ってコンビニを出た。
住宅街であり、時間も時間なので、店の外は静まり返っている。
夜桜が綺麗な並木道を通り過ぎ、薄暗い路地を曲がる。
じりじりと、寿命の近づいた街灯が点滅していた。
〈おい、そこのオマエ〉
突然、誰もいないはずの右上背後の方から、声をかけられた。
ねっとり纏わりつくようなしゃがれ声。
心臓が飛び跳ねそれにつられて体の方も跳ねた。
両手で胸を抱えてぶるっと震える。
心臓がばくばく鳴っている。
恐る恐る後ろを向くと、しかしそこには何もいなかった。
視線が泳ぐ。
空耳ではないはずだ。
〈そっちじゃない。ここだ馬鹿〉
また、男の声。
どうやら、塀の上かららしい。
視線を向けると、そこには二頭身のパンダのぬいぐるみが座っていた。
ニタニタと邪悪な笑みを浮かべている。
ガラスの瞳の目つきは悪く、サメのようなぎざぎざの歯が大きな口に並んでいた。
優華から借りた小説に出てきた、パンダ悪霊。
小説の挿絵そのままのあいつが、塀に腰かけてわたしの方をじっと見ている。
恐怖に駆られて、わたしは薄暗い夜道を走り出した。
げらげらと哄笑しながら、悪霊が飛び跳ね追ってくる。
〈ふははは、憑りついてやる〉
言葉はすぐ背後から聞こえた。
わたしは声にならない叫び声をあげて、道ばたのポリバケツに足をつっこみ転倒した。
ガシャンという大きな音とともに、視界が落ちる。
○●○●○
ぼんやりとしたまま目を開けると、クリーム色の蛍光灯が見えた。
視界の隅には窓が見えて、その先に青空がある。
まぶしくなって瞳を閉じた。
年季の入ったフローリングの床に、仰向けになっていた。
ゆっくりと体を起こす。
周囲の視線を感じる。
見知った顔の生徒がいれば、全く知らない生徒もいた。
皆、わたしの方を見ている。
わたしは頭に疑問符を浮かべたまま、パンダを思い出した。
あいつはどこに行ったのだろう。
何故か教卓に立っていた宮城君が、近づいてきた。
手を取って起こしてくれる。
「大丈夫か?」
と聞かれたので、頷いた。
ぼんやりしていた頭が、はっきりしてきた。
今日は……始業式だったっけ?
式が終わって、ホームルームをやっていた……はず。
……新しいクラスで……担任は中尾先生で。
あれ、パンダは……?
夢。夢だったのか。
それだったらいい。
夢じゃなきゃ困る。
夢でありますように、と 願 っ た 。
〈よう〉
すぐ側で聞き覚えのある声が聞こえた。
わたしは小さく悲鳴をあげながら、ゆっくりと声の場所、自分の机の方を向いた。
そこに、奴がいた。
〈なんか朝から妙なオーラ漂わせて、ただならぬ雰囲気だと思ってたら、ついに俺様まで巻き込みやがったか。
おいオマエ、名前は何て言うんだ?〉