神様、降臨してしまう
台風の直撃を受けたかのような部屋だった。
自由奔放に床に散らばった少女漫画にCDケース。
机の上は少しつつけば何かが崩れ落ちるくらい、色々なモノが積みあがっている。
無造作に貼られたポスターには、統一感が全くない。
イケメンで鳴らしているアイドルグループの横で、最近話題のゲームのリアルすぎて不評なゾンビたちが激しく自己主張している。
春は来たがまだまだ寒い。
ひんやりとした床の感触が、かかとにだけ感じる。
フローリングの床だけど、冷たさを意識したことはない。
なぜなら、床を直接踏むことがないくらい、モノが散らかっているから。
そういえば、長い事掃除していない。
鏡の前の自分を確認した。
寝不足だったけど顔には出ていない。
一六五センチ五二キロ。
プロポーションにだけは自信があった。
最近の腐ったミカンのような生活のせいか、横腹がちょっとだけ自己主張をはじめたようだけど、ほんの誤差だ。大丈夫、大丈夫。
こうして朝からきちんと身なりを整えるのは久しぶりだった。
大きく深呼吸をする。気合いを入れていこう!
忘れ物がないか確認。
鞄はほとんど空だ。
友達から借りたホラー小説が一冊のみ。
今日は教科書を持ち帰るだけなので、ほとんど空で構わない。
ああ……大切なものを一つだけ、忘れていた。
宮城君へのラブレター。
何処に置いたっけ。
カオスな部屋を見渡すが、視界には入ってこない。
きっと机の中だ。
引き出しをあけて、がさがさと中を引っ掻き回しはじめた。
「ない、ない。どこにいったんだろう」
そのラブレターは、半年ほど前に書いた。
可愛らしいピンク色の自作の封筒に、飾り紙に書いたメッセージを入れてある。
とはいえ、渡す勇気なんてない。
その手紙はわたしにとって、相手に気持ちを伝えるためのものというよりは、自分自身の恋心から逃げ出さないためのおまじないのようなものだ。
「……よかった。あった」
時計を確認する。
午前六時三十分。いつもならばまだ寝ている時間だ。
今日は始業式である。
わたしは、高校二年生になる。
床に散乱しているCDケースを割らないよう気を付けながら、自分の部屋を出た。
廊下に出て、一歩ずつ踏みしめるように階段を降りる。
テレビの音が耳に入ってきた。
「……五日、B国との国境地帯に計約三万人規模の軍を展開したことを発表しました。
A国外交筋は『これは挑発ではない。最終命令が降り次第、速やかに行動に移す準備がある』と声明を発表。
これに対しB国は国家総動員体制を発令、核兵器の使用も示唆しており……」
黒縁眼鏡のニュースキャスターが、遠い国のきな臭いニュースを淡々と伝えている。
すっきり片づいたリビング。
わたしの家は母子家庭だ。
母はここのところ忙しいらしく、今日はすでに出勤している。
食卓では妹が、のんびり朝食を頬張っていた。
わたしは椅子を引くと、彼女の正面に座った。
「え? ……お姉ちゃん?」
妹はわたしの姿を把握すると、しばし考えこんでから尋ねてきた。
「何で起きてるの?」
「今日から学校だからね」
妹は首を大きく振った。
「何言ってるのさ。
たとえ学校があっても、いつもなら、毎日毎日七時四十分か五十分くらいに、死にそうな様子でよろよろ降りてくるのに。
時計見るなり顔色変えて、ブルドックみたいな顔で朝ご飯をのどに押し込んで、『最悪だー最悪だー』って騒ぎながら、ゾンビみたいにずるずると家から這い出るのに」
散々な言われようだ。
しかし所詮は、昨日までのわたしの話。
微笑んでみせる。
「あら、そうだったかしら」
妹が気味悪げに眉をひそめた。
このままでは気分悪いので、補足しておく。
「ちなみに、今日はクラス発表の日なの」
沈黙。
妹がふざけた態度を改め、しんみりとした口調で応えた。
「そう言えば、お姉ちゃんは二年生なんだよね。
そろそろ、受験も考えて心を入れ替えていかないと……」
「そんなわけないでしょ。
同じ学年に、ちょっと格好いい人がいてね。
彼と同じクラスになれるように、心を入れ替えてるわけ。
正しい行いをしていれば、きっと神様が応えてくれるって」
妹が引きつった笑みをした。
「うん。うん。まあ、頑張って」
馬鹿にされている気がするが、彼女が生意気なのはいつもの話だ。
もともと彼女に理解してもらえるとは思っていなかったので、気にはならなかった。
ご飯を食べながら思った。
先ほどの会話に出た彼の名前は、宮城光敏君という。
廊下で立ち話する程度には仲がよく、まあ友達と言えないこともない。
しかしわたしが奥手なせいで、向こうが意識することもなく今日まで過ごしてしまっている。
わたしの考えを見通したように、妹がぼやいた。
「失恋もいい経験だよ」
むしゃむしゃと白米をほおばりながら、わたしは妹の向こう脛を蹴り上げた。
● ○ ● ○ ●
茶色いレンガの洒落た校舎。
校門には間論学園と書かれた表札がある。
都会にあるためか、敷地は狭く建物は高い。
ガラス製の扉を開け校舎の中に入る。
靴箱の場所は三年間変わらない。
たかだか数週間ぶりなのに、懐かしい気がした。
白い廊下を歩く。
階段を上ってすぐに第一職員室があり、その隣の広間に掲示板はある。
クラス発表の紙は、まだ張り出されていなかった。
職員室を覗くと、教師たちはすでに仕事に入っていた。
奥の窓際の席に、若い女性教師が座っている。
中尾佐奈先生。去年の担任だ。
綺麗なサラサラの長髪に、ぱっつんとそろえた前髪がトレードマーク。
癒し系な人柄で、皆から好かれている。
しかしいつもは明るい彼女の表情は、今日はどんよりと曇っていた。
口をへの字に曲げ、泣きそうな表情で何かを考え込んでいる。
わたしは職員室に入ると中尾先生の横に行った。
目の前で手のひらを振ってから、声をかけてみる。
「おはようございます。元気ないですけど、どしたんですか?」
先生がこちらを見上げる目は、うるうると潤んでいた。
「……政美ちゃん。わたし、もうダメかもしれない」
中尾先生は視線を落とした。
しばらく沈黙してから、ぽつりぽつりと語り始める。
「好きな人がいてね。
小学校の頃から、ずっとずっと好きな人で。
別に、付き合ってる訳じゃなかったんだけどね……。
昨日の夜、その人から連絡があって」
聞いたことがあった。
その彼というのは、現在大学院の博士課程に在籍していて、ネズミの生態を研究しているとかなんとか。
付き合うタイミングを逃してしまった結果、長々と友達以上恋人未満を引きずってきたらしい。
「大学の後輩に告白されたって言うんだよ。
付き合うことも考えてるって。
お前も早く彼氏を作ったらどうだって。
急にそんなこと言われても困るよ。
何も言うことができなくてね。
結局それから一晩中泣き過ごして……」
先生は机に突っ伏した。
「わたし、教師失格だわ。
というか、社会人失格だ。人間失格だ。
ミジンコ以下ボルボックス以上くらいの生命体なんだ。
でももうそれでいい。
ごめん政美ちゃん。わたし帰る。
あとは任せたって、岩見先生に伝えておいて」
これは酷い。いつもの彼女からすると、別人のようだ。
「ちょっとちょっと、これから始業式なんですよ?
帰らないでください。
今日は二限で終わりですし、わたし、できるだけフォローしますから。
……できることがあればだけど」
「そういえばわたし、今年も政美ちゃんの担任だった」
「ならなおさら、フォローしますから、帰らないでください。
ミジンコなんかに負けないで!」
「ありがとう。
ちょっと頭冷やす。
……悪いけど、今は独りにして」
わたしは先生に会釈をすると、静かに職員室を後にした。
職員室を出て、広間の中央にあるベンチに座った。
面識ある教師を見かけたので、挨拶する。
そのまま世間話に入った。
聞くところによると、クラス発表まであと二〇分はかかるらしい。
徐々に人が集まり始め、掲示板の前が騒がしくなってくる。
新学期が始まるという実感がようやく湧いてきた。
背後から「おはよう、早いね」と声をかけられた。
ショートカットの小柄な女子が、いつも浮かべている挑発的な笑みで立っている。
親友の松下優華だ。
わたしは軽く手を振って「おはよう」と返した。
鞄から薄い文庫本を取り出すと、優華に差し出す。
「貸してくれてありがと。すごく怖かったよ」
優華はにこにこ笑いながら受け取ったが、ふと動きを止めた。
「怖かった? 本当に?」
「昨日はこいつのせいで悪夢を見たわ。
ちょっとトラウマだよ……」
「ありゃ。
ホラーじゃなくてコメディでしょ。
だってパンダだよパンダ」
優華から借りていたのは、ホラー小説である。
気の弱い少女に、パンダの悪霊が憑りつく物語。
パンダの悪霊は少女に悪態をつき続け、ついに少女は発狂してしまうのだ。
昨晩は緊張して眠れずに時間をもてあましたので、読み返していた。
すると心底怖くなって、よけいに眠れなくなった。
「パンダがつきまといつつ、ずっと悪口言ってくるんでしょ。なんて恐ろしい……」
「あははは……政美のセンスが分からないわ」
優華が乾いた笑いをした。
ちょっと寂しいものの、いつも特殊な感性をしていると言われるので慣れっこではある。
時間はまだある。
優華と話そうとしたがクラス発表が気になって、あんまり集中できない。
結局だんまりとしたまま、二人並んで待った。
いらいら。待つ待つ待つ。いらいらいら。
ふと、願おうと思った。
無責任な神頼みだし、もちろん叶うとは思っていないが、気分を落ち着かせるくらいはできる。
瞳を閉じ、手を合わせた。
「――神様仏様ご先祖様。
一生のお願いです。
わたしを光敏君と同じクラスにしてください。
今後のわたしの願いが叶わなくたっていいから!
どうか、どうか、これだけは!」
その時だった。
何の前触れもなく、目の前に白い光が広がった。
天井が見えなくなり、地面も見えなくなる。
周囲には誰もいない。
広大な空間に、ポツリと独り浮かんでいた。
空が晴れ渡っている。
ふわりと目の前から風が吹き付ける。
わたしは小さく「うわ」とつぶやき、目を閉じないように抵抗した。
荘厳っぽい曲が、どこからともなく聞こえてくる。
目の前に男が現れた。
いや、たぶん男だと思うけど、正確にはよく分からなかった。
後光が差していたのだが、わたしからは逆光となりその人物? の姿がよく見えない。
ただ、シルエットだけにせよ、無闇やたらと神々しい。
わたしは思わぬ不意打ちにぽかんと口を開け、言葉を発することができなかった。
現実味がない。
このハデハデな天変地異は、誰かが行ったいたずらなどではありえない。
〈その願い、叶えてしんぜよう〉
厳かな声が鼓膜に届くと、ぽかぽかと暖かい何かが、全身にゆっくり染み渡っていった。
恐怖は感じない。
お化けも幽霊も信じないし、神様もあんまり信じていない。
そんなわたしにも、この影の主が神聖な、侵しがたい存在に思える。
――神か。ああ、神様なのか。
これは夢なのだろうか。
夢でもいい。
わたしは感激して仰いだ。
帰ったらホームセンターに行って、神棚を買ってこよう。
〈紺野政美よ。
貴殿の真摯なる願い、確かに聞いた。
その誠なる思いに応え、願いの通りに、貴殿に運命を用意しよう。
天地の法則のままに、貴殿は宮城光敏氏と同じクラスに在籍することとなろう。
ただし、天地の法則のままに、貴殿の今後の願いは叶わないであろう〉
神様、ありがとうござ……。
……。え?
今、何て言ったんだろう。
不穏な言葉を聞いたような気がする。
「は? ちょ、ま……は、何、へ……?」
声をかける間もなく、光が弱まっていく。
その厳かな声は、だんだん遠ざかっていった。
〈ではさらばだ、紺野政美よ。達者に暮らせよ〉
みるみるうちに光は消えた。