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 特急の駅のホームで立っていると、たまに、「列車が通過します」という意のアナウンスが流れてくる。それを聞くたび、またあの地響きとともに、画面が横にずれる感覚を味わうのかと、どうしても構えてしまう。ほら、アナウンスって結構ゆとりをもって流れるでしょ? その長いゆとりの間、まだかまだかとホームに立ち続ける。パアッと光る前照灯が見えたかと思うと、一瞬にして目の前を新幹線の車両が通過していく。ゴウンゴウンって何両も通過して行って、最後部の列車が過ぎ去ると、唐突に見知らぬ人からバケツたっぷりの水をかけられた後のような、そんな感じに視界が晴れる。台風が一秒だけ来て去っていったって言った方が分かりやすいかもしれない。


 とにかく、あれはいくら経験しても慣れないのだ。


 東京に出るのは、大学時代以来だった。あの頃は何も考えずに日々の流れに身を委ねていた。友人との出会いや関係もその一つ。誰か自分に合った人を全国から探すのではなく、大学という選択肢の中から自然とできていった。その全国民と比較するなら抽出されたというか、あぶりだされた俺の友人たちは、皆陽気に、時に朗らかに接してくれる。


 出会い系とかなら比較的多数の人間から自分のパートナーを見つけ出さなければならないが、こういうコミュニティは違う。同じ講義を取る人たちは、毎回一緒にならざるを得ないから、自分と馬がぴったり合う人は見つけづらいとしても、自然と顔見知り程度にはなれるのだ。顔を見て、少し話すだけで、身近な人間にでもなったと錯覚でもしてしまうのだろうか。出会い系で全国から気が合う人を探すよりは、こういう大学とか学校の顔見知りから同じ馬を育んでいく方が省エネ。あと、三流大学の文系だったこともあって、結構暇。


 そんな大学の居やすさに、悩みの一つや二つ忘れてしまいそうだった。


 上越新幹線に乗って東京駅で降りるはずの俺を、人でごった返す改札口の端で待ち、見つけると、頭の横で手を振ってくる彼女もその一人だ。きっと彼女も、俺の生き易さの欠片。


「待ったよー。女の子待たせるなんて随分な度胸じゃないの」

「時間決まってるだろ、新幹線なんだから」


 春海は俺の知っている春海だった。やはりこのウィンドブレカー姿やジャージ姿の方が彼女には似合っている。こないだテニスをしたときは、珍しく私服なんて着てくるからびっくりしてしまった。こちらの方がしっくりくる。


 二人で歩き出すと、改めてすごい人の数だと思った。田舎では見かけないほどの夥しい人の数。まるで祭りの屋台通りをすり抜けて歩いているかのようだった。屋台ならまだいい。進行方向が二つしかないのだから。でもこの駅は、進行方向が点でバラバラ。大学時代の自分がこんな場所で生活していたかと思うと、今では昔の俺はよくそんなことができたなあと思えた。雑踏に紛れて同化できるくらいには簡単で、一人になろうとするくらいには難しい。極端に振れない指示器の振れ幅の範囲内で、人々は暮らしている。極端な人間は、この世界にはいないことのように扱われる。下振れのニートは興味を持たれず、上振れのフリーライダーは生きられればそれでいい。大事なのは、振れ幅の中で生きる人間の過程だった。


 東京に来ると、こんな人混みの中に入ると、そんなことを思ってしまう。紛れられているようで紛れられていない。一人でいるように見えて一人じゃない。


 不思議だった。隣を歩く春海は、そのどちらでもないような気がした。頭の中で、方向指示器がちかちかと光っている。差した先は、右でも左でもなくて、ぼやけていて曖昧だった。


「今日って春海の練習してるとこに行くんだっけ」

「そうだよ。私のペアにも紹介するから」


 そんな話をしながら、私鉄に乗り換えた。

 ドアが閉まり、列車は進む。


 この間会ったときに誘われたのだ。今度東京来ないか、と。一緒にテニスがしたい。隆磨の上手さを自分のペアに自慢したいとも言っていた。俺はわざわざ有休をとって東京に来ていた。


「意外とね、近いんだよ」

「会社?」


 春海は頷く。


「最近結構楽しいんだ。仕事は少し大変だけど、学生時代以上にテニスができる。それで大会にも出られる。強いライバルのチームメイトがいる。練習はきつかったりもするけど、それってどんなことも苦労しなきゃ得られるものなんてないじゃん? 同じでしょ? 今の私の生活は欲しい環境が全部そろってる」

「それは羨ましいな」


 羨ましい他なかった。やりたいことがあって且つ、それが自分の能力と比例しているのだ。尚且つ努力を惜しまない。恵まれているという言葉では表現しきれないが、そんな感じがした。


 三十分程度私鉄に揺られ、俺と春海は電車を降りた。改札を出て五分程度歩いたところだった。建物と建物の間に、緑色のネットで区画された五面近くある人工芝のコートが広がっていた。「今日は休暇だから」と春海は言っていたが、もう十時近いこの時間でも、快音を響かせてポンポンポンポン打っている蛍光色の人が、コートの外からでもいるのがわかった。春海は家にでも入るように、コートの扉を開けて、中に入っていった。彼女の後姿が凛々しく映る。


 コートの姿というかいでたちとか印象は、都会だろうが田舎だろうが変わらなかった。フェンスやネットに囲まれた空間に、湖を見ているようだった。樹々の揺れに逆らおうと、山奥の木を切り倒してできた決闘場。その外側からフェンスやらネットやらに指をかけて、眺める観衆。観衆の見つめる内側では、当の本人たちが熱く争う。俺はその観戦者のはずだった。


 血が騒ぎだしていた。また、この間の春海とテニスをした際の不穏な感覚が頭を過る。


 春海と一緒にコート内に入っていくと、打ち合っていた二人も気付いたようでこちらに寄ってきた。


「春海ー。この人? 上手いのって」

「そうそう。そこら辺の実業団の選手よりはよっぽど上手いよ」


 そんなに上手くはないだろうと、ハードルを上げる春海に素早く訂正を入れていた。

「いや、そんなに上手くないって」


 二人の女性は、おそらく春海の同僚だろう。この人たちも同じように毎日テニスをしている。そう考えると忍びなかった。たまに春海と打つだけの俺が、毎日練習をしている彼女たちに勝ってしまうなんて、努力とか烏滸がましい。たとえそれが女子選手だったとしても、だ。


 そんなことを思って少し驚いた。無意識に、彼女達には勝てるような気がしてしまっているのを自覚している。そんなはずがないのに。この間春海にだって負けたのに。


「へえ、仕事は?」

「介護職に」

「ソフトテニスはどのくらい?」

「中高でやってて、あとはたまに春海と」

「実家暮らし?」

「いえ、一人暮らしです」

「自炊とかする?」

「まあ、それなりに」

「結構イケメンね」

「はあ」

「ちょっとー合コンじゃないんだから」春海が割って入って来た。「ごめんね、最近彼氏と別れたみたいで、男に飢えてるのよ」

「違うってー。私は彼氏がいようがいなかろうがイケメンが好きなの」


 開き直ってる。


「ちゃんと顔見てよ。よくよく見たらイケメンじゃないでしょ?」


 春海が場を治めようとし始めた。


「まあ、確かによく見たらそんなにイケメンではないかも」


 おいおい。


「でしょー? ほらそんなこと良いから早く打とうよ。四人で。ね、藍佳(あいか)


 春海は奥のベンチに視線を送った。イケメン好きの女性と先ほどまで一緒に打っていた女性は、いつの間にか奥のベンチに座っていた。おとなしそうな女性だった。スマホを触る訳でもなく、ただ座って遠くの方を見ている。「こっちこっち」と春海が呼ぶと、立ち上がってすたすたと歩いて来た。


「この子が藍佳で、今話してたのが景子(けいこ)」紹介されて、藍佳とやらは軽くお辞儀し、景子は、よろしくねーと張り切っているようだった。


「で、この人の名前は?」

「あ、ごめん言ってなかったっけ?」

「そうよー。先にこっち教えてもらわなくちゃ」


 俺が軽く自己紹介を終えたところで、とりあえず打ってみようかと、空いている一番真ん中のコート内に入った。


 右半分と左半分に分かれてストレートでの乱打が始まる。「私、隆磨くんと打っていい?」と景子は乗り気だった。俺の正面の数メートル奥には、初対面の女性が立っている。「いくよー」と打ち上げられた山なりのボールは、俺の一メートル手前で跳ねた。あまり移動することなく山なりに打ち返す。


「なかなか打てるねー」向こう側で景子が叫んでいた。俺は打つことを忘れたかのように彼女のストロークに見入っていた。


 また来た。この感覚。自分が打つことは二の次。ただ生活しているかのようなのに、俺の視界の端から見えた自分の腕とラケットは、繰り返し繰り返し同じ動きをリピートしているかのよう。そのたびにボールは向こう側へと飛んでいき、また返ってきて飛んでいきと繰り返される。打っている感覚がないのだ。勝手に身体が動いている感覚。まるで思考だけが俺のもので、身体は誰かに操られているかのように。首から下の感覚が消えてしまったかのように。


 ロビングの乱打はだんだんと低くなっていった。景子も速い球を打つようになり、だんだんと打ってからまた打つまでの時間が短くなっていく。パン。パン。パン。パン。その音だけが耳に流れ込んでくる。止まらないラリー。常習化されたそれが心地よく感じたのかもしれない。疲れないのだ。この間春海と打ったときにはすぐに疲労感が込み上げてきたのに、今はそれが全くない。普通ならすでに疲れているはずなのだ。当然だ。だって、勝手に手も脚も動くから。右肩の筋肉疲労も感じない、沈みこんだときの右腿の倦怠感もない。じわじわと伝わるシューズ内や足裏の熱気もないし、砂が靴の中に入って、ざらざらという感触もない。自分の動き、その一つ一つが自分のもののように感じられなくなっていた。


 その代わりなのか、向こう側で俺の球を打ち返し続ける景子の姿だけはよく見えた。最初と比べ、身体に力が入っているように見えた。少し顔を歪め、奥歯を噛んでいるのがわかる。脱力していて滑らかだったストロークは、なかなか終わりが見えない継続的な打ち合いに突如上がった終わりの兆し。うらあ! と声が聞こえるぐらいの勢いで、俺の出してしまったルーズボールに集中して叩き落す。その一瞬の油断や隙は、誰にでも起こり得るものだった。


 絶対に決まると思っていたボールが、スッと横移動してきた相手に打ち返され、頭を越えてエンドラインに落ちる。やれる、そう思った瞬間が人間の一番の敵。その瞬間だけは、他のことに目がいかなくなるのだ。すなわち、景子にとって相手の俺が、どこにいて、この後どういう動きをするか、普段の打ち合いだったら常に考えているだろうそのことが、見えなくなるのだ。


 なんだ? 俺ってこんなに頭よかったっけ? まるでテクニックはもう十分で、今度は相手の思考にまで目をつけ始めたテニスの上級者みたいじゃないか。


 そう訝ったとき、エンドラインに落ちたボールが、転がって後ろのフェンスに当たったようだった。ガシャン、と弱い音が聞こえる。


 景子は息が上がっているようだった。当然だろう。あれだけ打ち返せば疲れるのが人間だ。普通のことだ。じゃあ普通じゃないのは……。


「俺か」


 隣から簡素な拍手が聞こえてくる。「すごいじゃん。試合してるみたいだったよ。気迫がすごい」春海は手を叩くのをやめていなかった。いつの間にか春海たちは打つのをやめて、こちらの打ち合いを見入っていたようだった。藍佳も春海の隣でこちらの様子を窺っていた。


 それに反応したように、「疲れたー」と景子はネット際に座り込んだ。家と外を勘違いしているかのように地面に背中を預け、胸と腹が露骨に上下に動いていた。息が上がっていた。


 数秒して起き上がり、「隆磨くん強いね。これは上手いとかじゃない。強い感じ。この間一緒に練習してくれた男子選手より強いかも」


「またまた」そんなに強い訳がない。だって俺は中学でも高校でもぎりぎり補欠に入れるくらいの……。

 あれ? 俺は補欠だったんだっけ。部長だったよね、確か。部長が補欠だなんて格好悪かっただろうな。


 そろそろ試合をやろう、と春海が言い出した。


「え! もうやるの? まだ打ち始めたばっかじゃん」

「景子と隆磨くんが打ってる間に、こっちはもう準備万端だわ。早く試合やろうって言おうとしてもなかなかラリーが続くもんだから言い出せなかったのよ。もう始めてから二十分は経ってるし」

「嘘? 私二十分も打ち続けてたの?」

「それはもうすごい形相で」


 驚きつつも渋々といった感じで景子は立ち上がっていた。藍佳も近寄ってきてペアはどうするかということになった。


「一応、私と藍佳は普段ペア組んでて、私が後衛で藍佳は前衛だけど、藍佳、後衛もやったことあるし、まあ誰が組んでも大丈夫だよね。景子はシングルスもやってるし」


「隆磨くんはどっちなの?」景子が聞いてくる。


「前衛か後衛かってこと? 中学では後衛だったけど、高校では前衛だった」

「高校の前衛ってことはなかなか強いな。中学の前衛ってほぼルーズボールを叩くくらいしか仕事ないし」

「それ田舎の公立は、でしょ? 全国区になったら高校生並みに強い中学生だっているんだから。最近は小学生でも社会人並みに強い人だっているし」


 春海に指摘され、それもそうかと景子は笑った。「私の中学のときの前衛がへぼだったからね」それは相手に失礼。


 結局ペア決めはじゃんけんだった。春海と景子、藍佳と俺のペアに決まる。サーブ権は俺のペア。


「じゃあやろう」


 春海の掛け声とともにネット際からエンドラインに戻ろうと藍佳は背を向けていた。「藍佳さん前衛後衛どっちやります?」


 俺の問いかけに藍佳は、「後衛ですかね?」と曖昧に答える。


「前衛じゃなくていいですか?」

「最近コーチからストロークにダメ出し貰ってて。ちょっと練習したいなと思って」


 初めて話したが、見た目通りおっとりとした雰囲気だった。でも大体普段そうやって振る舞っている人は、スポーツとか争いごとになると目の色が変わる。けど、彼女の今の姿からは、目の色を変える彼女が想像できなかった。


「でも、懐かしいなあ。高校の土日の練習とかで試合やるとき、じゃんけんでペア決めてたんですよ。先輩も後輩も関係なしに決めるんで、あれ結構楽しかったりするんですよね。いろんな人と組めて」

「なんか浮気みたいですね」

「いやいや、学生の部活でしょ?」

「ちょっと嫉妬しちゃいますね」


 それはどういう意味だ? と思いながら俺はネットの前に張り付いた。向こうは、春海が後衛で景子が前衛という態勢だった。


 藍佳の打ったサーブが入って、春海の深いレシーブが入って、藍佳がロブを打って、それが短くて景子にスマッシュされる。サラーっと過ぎていった一ポイント目だった。野球で言う、一番がシングル打って二番がバントして三番がタイムリーみたいな。で、四番がホームラン。


 案の定だった。ぼったちだった俺の右サイドを、景子のレシーブがスッと抜けていった。

いやー、流れというのはどんなスポーツにでもあるんだなと少し関心。こういうときってどうやって流れを変えるんだっけ? サーブを打つためボールを拾いに行くと、すでに藍佳が拾ってくれていた。手渡される。


「ごめん抜かれた」

「いえ」


 なんかそっけないなーと思いつつも、エンドラインに左足を置く。ボール付きをしながら考える。安定のミドルにサーブ入れればいいかと安直に打つ。そのまま前に走ってローボレーして前に着けばいいか。そんなことをぼやぼやと考えながらプレーする。本番の試合だったらペアに恨まれるだろうなとか考えながら。藍佳は怒らないだろうけど。なんかそっけないし。


 そこで思いつくのだ。さっきの『嫉妬しちゃいますね』という言葉の意味が。春海と藍佳はペアだと言っていた。きっといつも一緒に組んでいる春海が、景子と組んでいるから嫉妬するという意味なのかと。別に遊びなんだしそんなに俺への態度、そっけなくなくてもいいんじゃ、ない!


 ストレート展開になって、春海がクロスに打った中ロブを俺は狙っていた。ない! という心の声と同時に打ち出されたスマッシュは、右のショートクロスに刺さってコート外へ抜けていった。


 藍佳さんがその気なら、俺と組んだ甲斐があったと思わせてやる。よくわからないところに熱が入り始めた。サーブ打って、ボレーして、相手後衛の右も左も全部止めて打つところを無くしてやる。ロブに逃げたくなったらスマッシュで叩いてやる。最初はなーなーでやるつもりだったが、気が変わった。ポジションは積極的にミドル寄りになった。フェイントなんかいれない。相手の精神に直接訴えてやる。右に打とうとした春海にそれは無理だと問いかけ、打つ直前でコースを変えて左を抜こうとしたこの球にも、そこで変えちゃだめだよとボレーしに行く。相手後衛にどこに打っても駄目だという心理を植え付けに行く。一度や二度、サイドを抜かれても俺の自信は消えない。俺なんかよりも、春海の「何処に打っていいかわからない」という心理の方がずっと消えづらいからだ。俺が空回りして二球三球続けて抜かれない限り、彼女はもう打つ手立てがない。曖昧なところに打って、俺が叩いて終わり。その分、藍佳も打ち分けがしやすくなる。藍佳のストロークの練習にはもってこいかもしれない。


 なんてね。



 藍佳と組んで、その後は一通り景子と春海と組んで試合をやった。みんな笑って終わり。有意義な遊び。遊び感覚で尚且つ日常の息抜きにもなる。争いごとや張りつめた空気が永遠に漂う現代社会の中では、きっと息抜きが必要だった。金曜の愚痴を零す時間こそが、人間らしく生きる一歩だった。


 みんな笑って終われればそれでいいのだ。誰かが苦しんでいたとしても、誰かが我慢をしていたとしても、誰かが隠した感情も、誰かに隠れた人も隠された人も、表面的に笑って終われればそれでいい。それがすべてだった。


「ねえ、今度大会出てみない?」


 試合を終えて、ベンチで休んでいると、春海にそんなことを言われた。確かこの間も言われた気がする。冗談だと思っていたが、意外とそうでもないのかもしれない。


「俺に組むペアはいないよ」

「誰でもいいじゃん。ミックスダブルスでもいいし」


 景子も会話に混ざって俺に勧めてくれた。でも、上手いと思っていないのに上手い人間の傲慢さは知っている。そんな人間がなんとなく試合に出ていいのか、と思った。試合に出てしまえば、遊びとかじゃなくて真剣にならざるを得ない。当然誰もが勝ちにいくだろう。それは俺にだって言えることだ。俺だって、遊びじゃなくてそういうちゃんとした大会に出るとしたら、真剣になって勝ちにいくに決まっている。勝ち抜いたときの妄想が頭に浮かぶ。屈辱の環境で育ってきたがために、「なぜそんなお前が上手いのだ。輝こうとしているんだ」とどこからか野次が聞こえる。


 いや、やっぱりさ、俺みたいな人はそういう大会に出ちゃいけないんだと思うんだ。「無理」そう簡単に断れれば楽だ。相手が断ってくれてもいい。「お前は駄目だ」そう言ってくれるのが一番楽だった。


「じゃあ出ようかな」そう言ってしまう自分がよくわからなかった。昔はもっと忠実に生きていた気がするのに。

 俺の人生って何なのか。会話の流れやその場のノリと、本心の境目が曖昧になっていた。



 春海と景子は会社に用事があるようで、先に行ってしまった。取り残された俺と藍佳の間に流れる空気は、微妙なままだった。普段からこういう子なのだろうか。春海たちについていけばいいのにと思った。自分は用事がなかったとしても後ろにくっついていけばいいのに。そういう金魚の糞みたいな人なんてごまんといるのに。


「駅まで行きますか?」


 藍佳は頷いた。


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