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「意外とまだまだできるね」
「うそこけ。もういっぱいいっぱいなんですけど」
「スタミナはなさそうだけど、打ち方とか現役時代と変わってないし、球筋とかちゃんと面に当たって打ててるし、私の練習相手にはなるかもね」
ベンチの背もたれに寄り掛かってぐったりしている俺とは正反対に、春海は俺の前でラケット軽快にを振っている。さすが現役と言わんばかりだった。
「まあ、試合になれば疲れとかあんまり感じなくなるし大丈夫よ」
「無理無理。だってシングルじゃん。ダブルスの前衛とは訳が違う」
「そっかー。隆磨くんって前衛だったね」
「まあ、前衛も小刻みな動きが激しくてうざいんだけどさ。頭も使わなきゃならんし、てんてこ舞い」
降参とでも言わんばかりにジェスチャーすると、「前衛難しいよね。私出来ないや」と謙虚に頷いていた。
「いやいや、あんたプロなんだから素人相手だったら全然できるでしょ」
「そうね。隆磨くん相手だったら余裕勝ちかも」
うるせーよ、と突っ込む気力ももうなくなっていた。
ベンチにもたれかかりながら清涼飲料水を口に含む。少し顎をしゃくると、青く広がる空が見えた。テニスコートを囲うように建てられた緑色のフェンス。それを沿うようにして樹々が連なる。山奥の湖。そんなものを想像した。湖の上だけ吹き抜けになっていて、日光の光が水面に刺す。水面に反射した日光がキラキラと目に映り、湖の青さが曖昧になる。青さを光が隠す。でも調和されている。
そんな山奥の湖のようなコート。俺たちの隣では学生たちがひっきりなしに白球を追いかけて、打ってはまた列の後ろに戻ってと繰り返している。掛け声や打つときの奇声は鳴りやまなかった。
それを俺は隣のベンチから見ている。同じ舞台に立っているようで、実はそうではない。脇役にもなれず、舞台に立っているようで裏方のスタッフ。全体を見るとどうしてもそう見えた。
春海は早く体を動かしたいと打ち気になっているように見えた。当然彼女の耳にも学生たちの声や姿が映っているだろう。自分もああなりたい、早くやりたい、そう思っているに違いない。
そんな慕情が、俺にはなかった。
俺はベンチを立った。春海に「試合でもやるか」と声を掛ける。
「なんかやる気出した? 高校時代の部長さん」
「プロ相手にやる気なんかでないよ。楽しむって意味のやる気」
春海は面白そうに笑った。
じゃんけんをして、ラケットをくるくると回し、「こっちが表だっけ?」「それ裏」とリアルな試合では許されないようなのんきな会話を交わし、二人はエンドラインへと向かって行った。
「サーブなんか打つのいつぶりだよ」
そう呟くが口だけだ。要するに保険を掛けていたい。若しくは、自分の本性を相手に知られたくないという傲慢さを隠すため。
左手の掌から滑らかにボールは上がった。雲一つない晴天、青空。学生時代、雲がないと距離感が掴みづらいと誰かが言っていた。本当にそうなのだろうか。青空を見ていると心が安らぎ、曇天模様の時よりも滑らかにラケットが背中から出てくるように感じていたのは、俺だけだったのか。膝を曲げ、肩を開き、左手を天に仰げば上がったボールにだけ集中する必要はなかった。空に上がったボールに視点が集中していても、向こう側にいる春海の姿は想像できた。コートの左奥。腰を曲げて彼女の視点は、今から俺が打つボールに集中している。内側に来るのか、外側に来るのか。きっとそんなことは考えていない。素人の俺相手だから。
頭の上あたりから出たラケットはボールを右斜め上に擦りあげる。ボールを丸め込むように外側へはじき出されたラケットは、無様に地面を跳ねた。掌からラケットが抜けたと思ったときには、すでにサーブはコートのちょうど真ん中へと飛んで行っていた。球の速度がそんなになかったせいか、春海はフォアで打とうと回り込んでいた。回転を目いっぱいかけたから少しツイスト気味に跳ねるだろう。でも、春海はおそらくミドルしっかりと打ち返してきて、そのまま前に走ってネット際のプレーになるだろう。俺は角度の付けづらいミドルに打たれたボールを打ち返すので精一杯で、緩く上がったルーズボールは彼女の頭上からショートクロスへと入り、コート外へと飛んでいく。はず。
というかその前に、俺ラケット落としたんだった。
拾いに行かなくては。なのに、俺はラケットを拾おうとしなかった。予想通りミドルに球が返って来た。バックハンドでそのまま打とう。右膝を曲げ、肩を入れて外側へと振り抜こうとする。予想通り、視界の端で若干大きくなっている春海が見えた。ロブ打つか。いや、ダウンザライン。
スッ、と春海の左横を白球が抜けていった。
「え、うま。ライジングでその速さは強くない? しかもバックだし」
春海は本当に驚いているようだった。俺自身も驚いた。だって球がちゃんと跳ね返っていったんだもん。俺ラケット落としたはずじゃん。
恐る恐る視線を手元に送る。そこには自分の手相などは見えず、黒いグリップと緑と白のラケットが見えた。
「いや俺ラケット持ってるし!!」
「ええ?」
我に返って口を塞ぐ。「ごめんごめんなんでもない」と春海に視線を送る。少し首を傾げ、春海は後ろに転がっているボールを拾いに行った。
俺の元に春海からボールが返ってくる。サーブを打とうとボールを数回つき、トスを上げようとするときに、一瞬春海の姿が見えた。気合がさっきとは段違いだなあと、プロの意識の差に驚愕する。服装があれなだけに、それと顔とのギャップが違和感ありまくりだった。多分彼女の隣に居たらげらげら笑ってた。
隣に居たら。
またサーブが入る。春海はまたミドルに打ってきた。俺もミドル打ち返す。彼女は当たり前のように右のショートクロスに球を沈めてきた。ステップが一歩遅れていたら届かなかったなあと、バドミントン並みに股関節を広げてラケットを伸ばす。
あら、またネット際に走って来てる。
きっと、ボールを拾われたとしてもルーズボールになるだろうと仮定しての行動だ。ネット際で俺の左側に打たれればもう終わりだ。春海のその判断は正しい。
ただちょっと右に寄りすぎだなあ。
俺は薄く握っていたラケットを厚く持ち直し、球を擦りあげる。春海は不意を突かれたとラケットを伸ばす。ネットの上すれすれに上昇して通過したボールは、そのまま下へと滑らかに降下し抜けていった。
「ええー上手すぎなんだけど。プロじゃん?」
「まさかあ。マグレだわ」
春海に言われ恐縮する。彼女は上手い。でも俺はど素人。なのにこの結果。男と女の差かね? 多分違う。
「私のポジション駄目だった?」ネット越しに春海に問いかけられる。
「あ、いやいや、あれでいいと思うよ。ここに落ちたんだから、落ちた場所に近づいてくるのが当然だし。あの態勢じゃストレートにはなかなか打てないからね。打ったとしてもロブだし」
「じゃあなんでロブ打たなかったのよ」
「いやだって、前に出て来てるの見えててロブなんか打たないよ。俺そんなに上手くないからエンドライン際に落とすとか無理」
「じゃあ私はどうすればよかったと思う?」
「反射神経に身を委ねる」
「何よそれー。どうやっても取れなかったみたいじゃない」
「まあ、なんつうか、俺ってどっちかって言うと、打つ時にコースよりはタイミングを意識するんだよね。さっきのライジングもそうだし、大体の人ってボールが地面に着いてから跳ね上がって打つまでの時間ってあんまり気にしてなくない? 気にするまでもなく、感覚で掴めるからさ。それこそ反射神経みたいに、大体が打ち返せる。ライジングで速球を打つのって難しいから気にするまでもないんだよ」
「えっと、つまり?」
「つまり、春海が走って来てるのが見えた。走ってる途中に打つのがベストだったけど、そんな余裕なかったから、逆に打つのを遅らせたっていうか」
「なんか曖昧だね」
「俺はプロじゃないんでよくわかりません」
「私はプロじゃないテニスもよくわからない人にポイントをとられたのね」
そう言いながらも、「まあ遊びだしね」と濁して笑っていた。
その後も試合は続いた。結局俺が負け。最初の二ポイントは俺が言った通りマグレとなった。別に調子が悪かったとかそういう言い訳はしたくないが、強いていうのなら戦う前から負けていた。そう結論づけられる。
試合中は、ずっと考え事をしていた。元々そういう性格なのもある。悩みの対象は仕事とかこの先の将来とか、不安などではない。今まさに起こっている不穏な感覚について。まるで、自分で自分のことがわからない。手にラケットを握っている感触がないのに、ちゃんと打てているのだ。最初にラケットを落としたとき、落とした、ということを理解したはずなのに、その後の俺の行動といえば、ラケットを拾うこともせずに当たり前のように球を拾いに行った。でも、手ぶらで走っている感覚はなかったと思う。だから、確かに落としたはずなのに手元にはラケットが握られていた、ということなのだろう。誰かが拾ってくれたのだろうか。試合中に、「あ、あの人ラケット落とした。拾ってあげよう」とコートに入ってきて優しく俺の手にラケットを握らせる。
「ありえんがな」
「え、うそ? やっぱり私駄目だったかな」
目の前で春海が驚いている。
「何が?」
「やっぱり好きな人にいきなりプレゼントなんてしたら、びっくりするかな」
こりゃまたどんな話の展開だ、とすぐに訝る。話を中途半端に聞く癖もいきなり叫んじゃう癖も、そろそろどうにかしなければならない。
「春海って好きな人いるんだ」
「そりゃいるよ。女の子ですもの」
「へえ、女の子は楽しそうだな」
「男だって楽しいでしょうに」
春海は俺の前に立っていた。俺はベンチに座ってもたれかかっているというのに、彼女はなんてタフなんだ。二時間で予約したこのコートに立って、まだ一時間も経っていない。俺は疲弊しているが、彼女はまだまだ打ち足りないという様子だった。
「ほら行くよ」とまたコート内にと誘われる。
「もう疲れたんだけど」
「早すぎるから。高校のときはあんなにスタミナあったのに」
「もう現役じゃないから」
「でもやっぱり衰えないね。テニスの上手さとかテクニックとか全然まだいける感じじゃん。どう? 今度大会に出てみるとか」
「やめておくよ」そんなに上手くないし。
そう現実と自分の心に呟いて、俺はベンチから飛び出した。
白球を高く打ち上げた。




