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 淡い夢にとどめを刺すかのようにカーテンが開けられた。遮っていたはずの日光が、ガラス越しに視界を明るくする。重たい瞼を細く開け、おぼつかない視界のまま目を擦る。次第に視界は明瞭になり、ありふれた自分の部屋にいることを無意識に理解した。


「もう九時だよ。早く起きなよ」


首をひねり、目線が追いつく。春海(はるみ)がカーテンに手を掛けていた。なんでいるんだと一瞬思うが、ちょうど頭痛が射して昨晩のことを思い出す。真澄と八海山の一升瓶を開け、録画してあった恋愛映画を見ていた。その隣には春海がいたこと。明日は休みだからと言って、今日は一緒にどっか行こうと約束していた。


「今日休みだったんだ」


 独り言は虚しく部屋に消えていった。春海はすでに寝間着から着替えたようで、昨日この部屋に来たときの私服姿になっていた。食事で会うときは大体スカートで、その履いている姿に見慣れていたせいかデニム姿が新鮮だった。


「スカート嫌いになった?」

「動きやすいと思って」


 まあそれもそうかと思った。普段あまりスカートを履かないのだろう。どちらかといえば、ユニフォームやジャージ姿の方が見慣れている気がする。最近はあまり会っていなかったせいで、大学時代の彼女の私服を思い出したのだろう。


 俺は布団から起き上がった。春海に「朝ご飯どうする?」と聞かれ、「また途中でコンビに寄ればよくない?」とそっけなく返す。部屋干ししてあったバスタオルに手を掛け、そのままバスルームに入った。


 数分軽くシャワーを浴びて、ドライヤーで髪を乾かした。洗面台には、春海が化粧をすでにしたような跡があった。汗で流れないのかなと一瞬思う。


 乾かした後、クローゼットの一番下の引き出しを開ける。ありふれたスポーツブランドのジャージを取り出して着替えた。


「化粧したみたいだけど、普段動くときもすんの?」

「するときとしないときあるかも。試合の日はちゃんとするけど」

「汗で落ちたりしないの?」

「そういうことじゃないのよ。意気込みが違うんだから」


 寝床の隣にあった机の横に、春海はカーペットの上に正座していた。インスタントのコーヒーを口にしている。


俺は着替え終わって洗面台で歯を磨いていた。鏡に映った自分を見ながら、耳元に視線が行く。大学時代にあけたピアスの穴がうっすらと見えた。大学を卒業して就職してからは、ピアスなんてつけていない。今付けたら入るのだろうか。


「確かに意気込みとかありそうだよね。マラソンとか日本選手権みてると、女の人でもピアスとかしてるしね」


 先日行われた名古屋ウィメンズを思い出していた。サングラスやネックレスはともかく、ピアスをしている選手がいたのを感心しながら見たのを思い出していた。


「私もピアスしようかな」


 春海がそんなことを言った。彼女は確かピアスは開いていない。イヤリングでいいのではと思うが、動き回るのだから落ちる可能性があるのか、と自問自答して口には出さなかった。


 歯磨きを終え、手にすくった水でうがいをする。タオルで口を拭き、歯磨き粉が口元に残っていないか鏡を見た。


 部屋に戻って、クローゼットの中にある段ボールを漁る。ネット通販の小箱の中を開ける。懐かしいな、と思った。小袋で仕分けされたいくつかのピアスを眺めて、大学時代はずっとここにあるピアスを付けていたなあと懐かしくなる。一時迷走した期間があって、今では堂々とつけて街に出られないようなピアスもあった。とりあえず、右のインナーコンクと左右のロブに付ける、小ぶりなピアスを手に取り、また鏡の前に戻った。


 久々にピアスを入れたせいか、ホールがきつくなっているようだった。少し入れづらかったが、一応入った。まだ完全には塞がっていなかったようだ。


 ピアスを付け部屋に戻り、春海の隣に腰を下ろす。彼女のコーヒーカップは、すでに空だった。


「行く?」

「うん」


 そう言って春海は立ち上がり、俺よりも先にこの部屋を出た。それに続いて俺も立ち上がり、サンダルをつっかけて外に出た。部屋の鍵を閉める。鍵を抜いた後の鍵穴を眺めながらふと思う。


「明日筋肉痛かもな」






 もう通い慣れた道だった。長野の真ん中の右端。高原列車で山梨へ向かえば、秘境とも奥地とも呼べそうな何もない集落を跨ぐ。浅間山と八ヶ岳に挟まれる、そんな高原線の比較的住宅地が広がる下の方。そこのアパートの一室に、俺は住んでいた。


 春海とは高校からの同級生だった。卒業すれば皆都会へ出たがるだろうに、当初の彼女は地元に残った。ゆくゆくは都会に出ることになるのだが、都会に出た今でもこうして月に数回は会っている。そう考えると長い付き合いだった。


 ハンドルを握り、車に揺られ数十分。目的地の公園へと車は到着した。先に春海が降りた。サイドミラーからトランクを開けろと言っている彼女の姿が見える。トランクを開けるレバーを引いた。


 俺が外に降りると、春海は当たり前のように荷物を取り出していた。いや、それ俺の荷物だから、と喉まで声が出かかる。彼女は習慣化された動作のようにバッグを肩にかけ、トランクを下へと押した。それを見て俺は鍵を閉める。


「持つよ」

「ありがとう」

「いや、俺のバッグだからね」

「私のラケットも一緒に入ってるじゃん」


 そう言われてから確かに、と納得する。いつもはジャージにシューズと完全装備で来るはずなのに、今日の春海はこの私服だ。きっとそのせいで勘違いしたのかもしれない。


 管理棟まで歩く。春海とこの道を歩くのは幾分久しいことだった。彼女が上京する二年か三年前までは、週末は大体一緒に歩いていた。誘われるというよりは、ほぼ駆り出されると言った方が近く、日曜の朝になれば何も言わずとも決まって朝九時にインターホンが鳴った。


 公園内の並木道は、随分と心が休まるようだった。樹々の揺れが聞こえる。それに反応するかのように、横で部活動に励む生徒たちの声がこだましている。


「すいません。テニスコート予約してた桜田ですけど」


 管理人はペンと用紙を差し出す。それに記入し、管理棟で支払いを済ませコート内に入った。入ってすぐのベンチにラケットバックを降ろす。


「ほんとにその格好でやるの? いつもジャージじゃなかったっけ?」

「大丈夫よ」

「股破けねーの?」


 失敬な、とでも言うように春海は眉間にしわを寄せた。でも視線は下に行って、「え、大丈夫だよね?」と確認してくる。

「まあ、最近のデニムって伸縮性あるから大丈夫じゃない?」

「そうなの?」

「知らねーわ」


 俺はバッグからテニス用のシューズを取り出し、履き替える。その間に、すでに準備万端、ではないのだが、靴を履き替える必要のない春海がネットを上げに行った。硬式用のネットの中心にかかっているセンターベルトを外し、クランクを回してネットをギシギシ鳴るまで上げていた。俺が靴を履き終えるころには、ベンチに戻ってきてバッグからラケットを取り出していた。


「ボールある?」

「どっかに入ってんじゃない?」


 これもいつものルーティーンみたいなものだった。毎度毎度ボールがあるか気にするくせに、次にやるときにはすでに忘れている。事前に準備をする気は、さらさらない。


 春海が鞄を漁ってボールを二つ取り出した。手で握ってへこみまくってるのを見るからに、空気がないのだろう。


「空気入れは?」

「それもどっかに」


 またバッグを漁り出す。見つけてボールに芯を刺す。シューシューと膨らむ。


 ラケットを取り出して俺は、コートの反対側に回った。


 久々に手にしたラケットは、久々に握ったにもかかわらずしっくりと来た。ガットが茶色く変色しているが、切れたら切れただろう。ぶんぶんと軽く素振りをする。


「いくよー」


 向こう側で春海がボールを握った手をあげた。いや、お前本当にその格好でやるのか。やっぱり不自然だった。でも、遊びに来る人たちは皆そんなもんだろうなと思いもした。恋人同士でテニスをしに来る人も中にはいるだろう。でもきっと、隣で学校の指定ジャージやらユニフォームやら蛍光色のシャツを着て、白球を追いかけて打つ学生たちがいるから尚更なのだろう。コート一面に対して人が三倍も四倍もいる。対してこっちのコートに立っているのは俺と春海の二人。ダブルスよりも少ない。


 春海の打ったボールが山なりに飛んできた。うわ、久々。身体を半身にして打ち返す。快音を鳴らして跳ね返ったボールは、春海の元へときっちり戻っていった。これもいつも思うことで、久々なのに勘はちゃんと残っている。身体に染みついているのか、久々だとしても多少は打てるのだ。問題なのは勘が鈍っていないかとかではなく、それが長時間持続できるかということだった。


 疲労はすぐに来た。最初の十球二十球は「俺まだまだいけるじゃん」と思う。しかしその後。右肩が張ってきて筋肉疲労を直に覚える。気づけば、ふくらはぎがマラソン後のように張ってくる。毎日立って働いているとはいえ、運動しなければ筋肉が衰えるということを身をもって感じられる。


「毎朝走ってたんだけどな」


 趣味で一年前くらいまでは毎朝一時間ジョギングしていたにもかかわらず、このざま。使う筋肉が違うのだ。


 ラリーが長く続けば続くほど、早く途切れねえかな、少し休みたい、という衝動に押し迫られる。でも、春海がミスすることはほぼないといっていい。ほぼロビングだし、俺がミスる以外でラリーが止まることは、ほぼない。ネットに引っ掛けるのも俺だけで、結局そのボールを拾いに行くためにネット際まで走らなければならない。苦痛だ苦痛。それ以外の何ものでもない。


 毎回思う。シングルスの選手はスタミナがあると。それも硬式となればゲーム数がフルセットで五ゲームもあるのだ。今の俺だったら一ゲームも耐えられるかわからなかった。


「ちょっと休むー?」


 俺のあたふたしている姿が映ったのか、春海は向こうから声を掛けてきた。


「ちょ、もう無理」


 開始十分程度でベンチに戻ることとなった。


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