プロローグ
**********
生きるということは実に素晴らしいことだ。誰かに貢献している、社会貢献、自分のしている仕事が誰かのためになっている。そんな充足感に満たされるが、反してできる限り、周りに迷惑をかけたくはないという自営本能も人間には備わっている。だから少しぐらい自分は我慢してでも、誰かのために頑張れる。養う家族のために頑張れる。
そんなもの塵だ。
俺はそうやって生きている人間の意義がわからない。誰かのために頑張る? 確かに思う。ここまで迷惑かけてきた親にこれ以上迷惑をかけたいとは思わない。そのためなら、夥しい憎悪を感じる対象にまで手を伸ばして耐えようと思えるか。
迷惑はかけたくない。優しさも知っている。でも自分自身は彼らを幸せにする行為が好きではない。穢く思える。皮肉。両価性。
だから、そういう意味では生きることは素晴らしい。そういう試練を耐え抜いている世の中の人間が素晴らしいと思える。当人たちは、働くこと生きることを当たり前のようにやってのける。仕事が嫌。そうやって愚痴をこぼすことがあったとしても、大抵はその一時で収まる。次の日にはまた出社して、気に入らない人間関係に鬱憤を溜め込み、金曜になれば同期と居酒屋でまた愚痴を交わす。その金曜こそ、とても人間らしく美しく見える。
ただ、今の俺に月曜から金曜まで耐え抜けるほどの精神は備わっていない。生きるために働きたいとも思えず、かと言って誰かのために働きたいとも思えない。どこかで貧乏に暮らしている人がいるんだ。下を見ればごまんといる。今の生活がどれだけ贅沢だかわかるか。そんな問いかけに応える術が、今の俺にはあるのかないのかわからない。可哀想だと言ってしまえばそこまでで、可哀想という言葉が嫌いでもある。そうやってどこの誰かも知らない貧乏人を卑下して自分の苦痛な毎日を生きる糧にする。
断言や言語化することはできない。でもなんだかそれでは腑に落ちないような気だけはしていた。
寧ろ、以前はそういう不遇の環境に置かれた人々を悲しむような人間だった気がするのだ。以前の自分はそういうことに敏感で、争いごとも好む方ではなかった。何かあればすぐ「ごめん」という言葉が出て、その場を収めようとする。自分が悪くなかったとしても、それで場が治まるのならそれでいいじゃないかと。誰かがミスをしたときもそうだ。無理に咎めることはしない。自分が我慢すればそれで済む話だ。俺が怒りの矛先を立てなければ、相手も気分を悪くすることもなく、金曜に同期と愚痴をこぼすこともない。
そういうことに関しては我慢できる人間だった。
だが、タガが外れた。
もっと自分本位に生きちゃ駄目であろうか。他の人など気にせずに、もっと周りに迷惑をかけちゃ駄目なのだろうか。ミスをしたらそいつが悪い。学校で大事な行事をさぼっても、教師が責任を取る。それが教師という仕事だから。
そうやって責任転嫁を繰り返して生きていても別によくないか? 少し面倒事が増えただけで、彼らは結局金曜に愚痴を零せばそれで済む話なのだから。




