森でクマに出会った
荷馬車はがらごろ野道を進む。
僕はがらんとした荷台の上で朝日を浴びつつ、うとうとしていた。
すごく眠い……。
賢者として生きた四十年ちょっとの前世の記憶が、十二歳のクリス・アレスターの記憶を圧迫している。だから僕が今まで生きてきた記憶が曖昧模糊で、思い出すのにものすごい負荷がかかっているようだ。
抑止の呪印が世界に蔓延している状況とか、まだ考えたいことが山ほどあるんだけど無理は禁物。しばらく大人しくしていよう。朝ごはんを抜かれたからお腹も空いてるし。
御者台ではベルガさんが手綱を握っている。僕たち二人きりだ。
寝たら怒られるかな?
でもさっき僕に投げ飛ばされてから、あからさまに僕を警戒している様子だ。
よし寝よう。
といっても前世の記憶が戻った今、当時の癖で意識の一部を警戒にあてる。前世には油断ならない人ばかりだったからなあ。あの館でしか安心して寝られなかったんだよね。
しばらくすると森の中へ入った。さらに長いこと道なりに進んで荷馬車が止まる。
着いたのかな?
僕は休ませていた脳の大半を覚醒させて『ずっと起きてましたよ』とばかりにベルガさんに微笑んだ。
「テメエはこの奥で薪を拾って、そこらに集めておけ。俺はいったん戻る」
「一緒じゃないんですか?」
「俺はいろいろ忙しいんだよ。夕方迎えに来てやる。サボるんじゃねえぞ」
ずいぶん非効率だなあ。道具も何もないし。
まあ魔法を使えば簡単か。その意味ではベルガさんはいないほうがいい。僕は魔法が使えない無能ってことになっているのだから。
でもちょっと待ってほしい。お昼ご飯も抜きのコース? それはキツイなあ。野兎でも狩って食べようかな。
と、ベルガさんがズボンのポケットからやたら慎重に何かを取り出した。
「それから、これを付けてろ」
鈴だ。受け取って振るとチロリンなんて可愛い音が鳴った。
「ここで鳴らすんじゃねえよ!」
「ごめんなさい。でもこれ、なんのために?」
ベルガさんはいやらしい笑みで答えた。
「獣除けってヤツよ」
ああ、熊が出るとか言ってたっけ。
「だったらここで鳴らしても問題ないですよね?」
「そそそそりゃあ、アレだ……、そう! 使い過ぎて壊れちゃマズいだろ?」
なんだか『素晴らしい言い訳を思いついた』みたいな顔をしているけど、鳴らした程度で壊れる鈴なんて存在意義が問われると思う。
チロリン。
「だから鳴らすんじゃねえよ!」
ものすごく焦っているね。
うん、人の可聴域を超える範囲でも音がよく響いている。聴覚増幅の魔法で確認した。
鈴には魔力も込められていて、おそらく人より高い音が拾える獣なんかを呼び寄せる効果がありそうだ。
その証拠に――。
「まったく危ねえったらないぜ。いいか、鳴らすなら森の奥だ。そうすりゃ――」
「もう遅いと思いますよ?」
「へ?」
僕がベルガさんの背後を指差すと、
「グゥゥゥ……」
木々の間からぬっと大きな熊が顔を出した。
「ひええっ!?」
ベルガさんの悲鳴に驚いたのか熊の存在に気づいたのか、荷馬車を引いてきた馬が嘶き、前脚を大きく跳ね上げた。そのまま荷台が浮き上がるほど大暴れする。
「うわっ!」
馬が足を滑らせ横転すると、荷台が大きく揺れてベルガさんが放り出された。
「ぐがっ!」
受け身が取れず頭を強く打った彼は気を失ってしまう。命に別状はなさそうだ。
僕は荷台から飛び降りると馬に近寄った。必死にもがいているけど立ち上がれない。脚が折れていた。すぐさま治癒魔法を施し、これ以上暴れないよう睡眠魔法もかけておく。
「グゥゥゥ、グオォ!」
熊のほうはいきなり襲いかかってはこずに、吠えて威嚇しながらゆっくり道へ姿を現した。
体長が五メートル近いその巨躯。ただの熊ではなく『ブラウニーベア』と呼ばれる魔物だ。魔物と獣の明確な違いは魔力を有するかどうか。あの個体からはそこそこの魔力を感じた。
それにしても慎重だな。
もしかしたら人を襲って返り討ちにあったことがあるのかも。でもそれは場数を踏んでいる証左でもある。放置すれば今後も被害は続くだろう。
「グオォォオォッ!!」
魔物が立ち上がって吠えた。
僕は両手を広げる。
無詠唱で右手に火の玉を、左手に氷塊を生み出した。
ちょっと迷ったのち、狙いを定めて同時に放つ。
瞬間増幅で威力を増した火球が熊のすぐ横で爆ぜた。
「グオッ!?」
遅れて氷塊が、火球とは反対側の地面を抉る。
「グァッ!?」
ブラウニーベアは突っ立ったまま固まった。
「まだ向かってくるなら、今度は当てるよ。できればこのまま退いてほしいな」
あれ? 言っててなんだか違和感がある。僕ってこんなに甘かったっけ?
いやいや。いくら相手が魔物でも、こちらの都合で殺すのは気分がよくないよね、うん。それでも僕たちに執着するなら、そのときは身を守るために容赦なく戦わなくちゃならないけどさ。
「グ、ゥゥ……」
魔力を込めた言葉が伝わったのか、巨大熊は上体を下ろし、降参とばかりに首を垂れた。
「人里からも離れたほうがいいよ。組織立って狩りが始まれば、君の身が危ないからね」
ブラウニーベアは小さくうめくように鳴くと、森の中へ姿を消した。
さて問題は片付いた。この体で攻撃魔法を苦も無く使えたし、結果は上々だね。
で、これからどうしよう?
ベルガさんはまだ目を覚ましそうにない。手当を考えたものの、きっとこの人、僕を嵌めようとしてたんだよね。
ま、いっか。軽く治療して……よし。あとは放っておくか。
馬もまだ眠っている。こちらは治療済みだから、ゆっくり休ませてあげよう。
その間に――。
三十分ほど、僕は森の奥を駆け回っていた。
枯れ木を拾い集めて荷台に積み上げる。あまり多いと馬一頭だけでは辛いだろうから、こんなものかな。
馬を起こして落ち着かせ、失神から熟睡に移行したベルガさんの頬をぺちぺちと叩いた。
「ふがっ!? うーん……はっ! ひぃお助けぇ……ってあれ?」
ベルガさんはきょろきょろ辺りを見回す。
「熊はどうした? まさか……」
怯えで瞳を揺らす彼に、僕は鈴を掲げて微笑んだ。
「ベルガさんの言うとおりでした。これを鳴らし続けたら逃げていきましたよ。でも鈴は壊れちゃいましたけど」
ひび割れて音が鳴らなくなったのは僕がわざと壊したからだ。
ベルガさんは何がなんだかわからないといった風に目をぱちくりさせている。
「気持ちよさそうに寝ていたので起こさずに仕事をしていました。このくらいでいいですか?」
僕が荷台に積み上げた枯れ木を指差すと、
「嘘だろ……この量を、たった一人で……?」
いっそう目をぱちくりさせた。
特に文句を言われなかったので、僕は先に荷台へ乗りこもうとした。これでお昼ご飯にありつけそうだ、とウキウキしていたら。
「クリス! ああ、よかった。無事だったんだね」
白馬に乗った金髪の美青年が唐突にやってきた――。