破 きづき
彼はまだ気が付いていません。
もう物語は終わっているのに、まだ席を立たない人もいるのです。
彼は瞼を閉じて小さく寝息を立てています。
きっと見続けているのです。
目を覚ましたその後を。
***
読書を失った僕に、時間はあまりに膨大すぎる余暇と化していた。
陽射しを遮るものを持たない教室は軽く汗ばむ匂いがする。僕は左手を持ち上げ腕時計を見つめた。あと10分もすれば昼休みになる。
教室内は依然として静まり返っていた。レイターは微動だにしない。ただそこにいることに意味があるのか、根を張った木を演じているのか、その答えは僕にはわからなかった。
演じる――といえば、
僕の頬が自然と緩むのを感じた。
そういえば、なんて思う。
みんなでやったクラスの出し物が、演劇だったっけ。
***
「ほら、起きて」
机に突っ伏していた僕の背中を誰かが揺すっている。否応もなく意識が引き寄せられた。
「……ん」
「ほら、もう放課後なんだから。練習しないと」
「う、うーん。ちょ、やめて」
ぐわんぐわん。
首ががっくんがっくんと揺れて気持ちが悪い。僕は両手を机につけ手から逃れると、左側へと背筋を伸ばし体を捻った。見上げたその先には笑顔のサクラがいた。サクラの漢字は「桜」だか「佐倉」だか「咲良」だか。んなこたあどうでもいい。
彼女は躍起になっているようだった。浮つく声で、
「ほら、主役がそれじゃあ、姫が可哀相よ」
姫――その言葉は僕に効く。
眠気がふっとんだ。
振り向いてみると、すでに教室の後ろで姫はクラスメイトに遊ばれていた。
「かなみ……」
サクラが僕の頭をごちんと叩く。
「いたっ」
「かなみ……じゃねーの。とっとと起きて机どかすの!」
「わかったよ。でも、殴ることないじゃないのさ」
「うるさい」
まあ、サクラが怒るのも分からないわけではない。
この演劇が彼女の偉大なる脚本家デビューなのだった。どこからどう見ても何かのパクリ――今ならわかるが、当時読書などしない僕にはわからなかった――だし、レイターなんて単語が世界を埋めるずっと前だったし、誰にでもある15歳が僕らにも来るものだと当然考えていたあの頃だったわけで、違っていたのはただ一点。
彼女は作る側の人間だった。
少なくとも、そうなろうとしていた。
それに気付いたのも最近になってからだけど。
演劇も佳境に入るシーン。
彼女の言うとおりに、僕とかなみは手を取り合う。不自然なタイミングを二人で合わせ、手のひらをくっつけ指を絡める。
しかし、サクラはメガホンをバンバン叩いて大声を上げた。
「ちがうちがう! そうじゃない!」
僕らは二人、無意識的に二つの手を遠ざけた。
「もっと、こう――そう! 見つめ合って二度と離れないように!」
サクラは舐るように身をくねらせた。
周囲の気味悪を通り越した嘲笑染みる視線を微塵も感じないのか、
「サクラ、それは勘弁してよ」
「うるさい! 王子は口答えしない! 姫を見習いなさい!」
僕はかなみの小さな背を見下ろしてみる。
彼女は小さく、顔を真っ赤にして縮こまっていた。長い付き合いだからよくわかるが、かなみはツチノコばりの引っ込み思案である。人前で演技などできるわけもない。ましてや主役など狂気の沙汰だ。もちろん、意識して黙って従っているのではない。恥ずかしくて口を開けないだけだ。
「見習えって……。ねえ?」
「いいの! ほら、リテイク!」
サクラはそう言うとどしどし近づいてきた。強引に二人の背後に手を回すと、その輪を窄めた。
「うわ!」
「!」
「これでよし。キャメラ!」
かなみの顔面が僕の胸に埋まる。完全に抱き合う形になると、外野から嬌声があがった。サクラは念を押すように、
「ほら、離れちゃダメだって。そのままそのまま……今! セリフ!」
くそう、と僕は思うが半分やけっぱちに、
『ひ、姫。どうか黙って聞いてほしい』
かなみから返事はない。
『そなたの見目麗しきその容貌、わが君に相応しい』
かなみから反応はない。
『そなたの万物を愛すその心。わが太陽に相応しい』
かなみから答えはない。
『そなたはつまり、だから……うん? かなみ?』
僕は埋まっているかなみを掘り起こすと、
――きゅう。
くてん、と死んだ。
「ああああああ! 目がぐるぐるになって、かなみ!? かなみぃ!?」
ふつーの酸素欠乏。
まず彼女曰く、ドキドキが頂点に達した。そして、そのまま胸に潜ったから息を吸えなかった。だって胸で荒く呼吸するなんて、変な奴だって思われるなんて、耐えられるわけないから。だから我慢しようと思ったけど、拍動が拍車をかけて無駄に酸素を奪い、頭が妄想と現実を往来し始め、これは夢だと思った瞬間、
「意識が飛んだ、と」
サクラが僕にそう教えてくれた。
「……それ、本人が僕に言っていいって、言ってた?」
「ううん」
当たり前じゃん、という風な口ぶりだった。
「だめじゃん」
お開きになった教室で、居残りを彼女に告げられた僕は半分ふてくされていたのもあって、少し怒っていた。
サクラはしかし、カーテンを閉めるとなぜかほほ笑んだ。
囁くような声をその後聞いた。
「じれったいんだよね。あなたたち」
幼さの薄い声に、僕は返事ができなかった。
サクラは鼻で笑う。
「だって、バレバレじゃん。特にかなみ。あの子、いっつもあなたの前だと、一層小さく見える。あなたを目で追ってる。私はそんなかなみをずっと見てきた」
サクラは僕の目を見て言った。
「心当たり、あるんじゃない?」
――ある。
それでまっちから茶化されるのも茶飯事だ。かなみのことを「嫁」だとか揶揄される。僕はいつも怒って一発殴るが、不思議と嫌な気はしない。だから、
「うん」
「おせっかい、とか言わないんだ」
「サクラはおせっかい」
「コラ」
当て障りのない笑い声を僕らは上げた。
それから僕は何度も頷いて、
「――わかってるよ」
サクラは少しだけうれしそうな顔をした。
「そう。それでいいんだよ。時間はいくらでもあるって思ってたら、いつか無くなってた時に取り返しがつかないよ」
「そう……かもね」
「ねえ、演劇って、似てるね」
突如、サクラの問いかけには対象語がなかった。
「何かのために始まりと終わりがあって、誰かのために存在している」
不自然なほど静かな教室へ、一風が入り込んだ。
彼女の背後、カーテンがゆらゆら揺れている。
「でもそれは、作っただけでは存在しない。誰かが演じてはじめて形になる」
「――うん」
「ねえ、目を閉じてみて」
「え?」
「いいから」
僕はしょうがないなあ、とぼやいて従った。
「私、今どこにいる?」
「どこって、カーテンの前でしょ?」
「本当に?」
「うん」
「どうしてそう思うの?」
「だってそこにいたじゃないか」
「嘘」
肩を叩かれた。勢いで瞼を上げるとサクラの顔が、僕と30cmくらいのところにあった。
「ねえ、じゃあ、『君』はどこにいるの?」
「ここ、だけど」
「指示語という表記的な意味じゃなくて、『君』はどこにいるの?」
――僕は、どこにいる?
「わからない? じゃあ、かなみは?」
「――かなみは、保健室」
「場所という意味ではなく、かなみという存在の居所」
かなみという存在?
「わからない?」
サクラは僕の目の前を闊歩する。
「たとえば、画面の向こう?」
――違う。
「うん。画面の向こうに私たちの知るかなみはいない」
その場でゆるりと立ち止る。
「じゃ、どこ? わかる?」
「――それは、衒学だよ」
「それじゃ、地理学的に言えば正しい?」
「そういうわけじゃ、ないと思う」
「だよね」
僕はその答えを用意できない。
そして、誰のものでもない様な表情で違う答えを用意した。
静かに呻き声を上げる。
「人間なんて、どこにもいないと思う」
***
その後、その演劇を文化祭で終えると、僕はかなみに気持ちを告げようと決めた。何故かはわからない。しかし、サクラの言いがかりに不吉な予感がよぎった。
そして、それは叶わなかった。
かなみはその劇の最中に、突如異変をきたした。
また呼吸でもしなかったのだろうか。そんな期待は打ち破られた。
今にして思えば、彼女はまさしくキャリアなのだった。
かなみは、その日を境に、遅れ始めた。
サクラはもういない。
僕はいつだって気が付くのが遅い。
まるで、遅れているかのように。