序 レイターズとノーマル
照明の消えた室内で一点だけが照らし出されていた。
周囲に目を配るが、自分たち二人を除いて客の姿はない。画面を浴びるような気分を味わえた。二人っきりの名画座という言葉そのまま、僕らはただ着座して映し出される画を見続ける。
物語は進む。
次に、昔の名優はこう口にするだろう。
「弾いて、『時の過ぎ行くままに』を」
と。
大きく映し出された映像は一秒毎24コマの速度で次の場面へと切り替わった。画面のなかの二人は、僕が思ったままのやり取りを行っていた。
僕の口からは自嘲めいた笑いが漏れた。僕の想像通り過ぎたからかもしれない。
「時の過ぎゆくまま……か」
「? 何か言った?」
かなみは映画から視線を逸らすこともなくそう聞いた。僕は暗闇へと返事を簡潔に吐いた。別段反応は返ってこないので、聞いているのかいないのかはよくわからない。彼女は反応する時間が惜しいのか、映画を食い入るように見続けているのだった。
僕も彼女を見習い、背中を座席に預けて画面と向き合うことに決めた。
そのまま薄暗い部屋で、ぼんやりと考えていた。
未来。その意味。
それは分からない。それがどこにあるかも僕は知らない。
今判ることと言えば、この世は天使も悪魔も不在なくせして、天国と地獄だけが存在しているということくらいだ。
そう。そして今、僕はその場所に、その世界にいる。
間違いないと思う。だって――。
******
朝の6時となったので、僕はねぐらを抜け出して覚悟を決めた。
寝室を抜けトイレのある廊下を通り過ぎて玄関でサンダルに履き替
ああ。
その前に僕はハッとして靴下で三和土に降りてチェーンをはずし鍵を開けた。それからサンダルに足を通して腰に手を当てひと伸びをした
ところでドアが勝手に開いた。
「おはよお。きょうもがっこうだよお」
みっともない体勢を正して、僕はかなみに平静を装ってみせた。
かなみは無反応で返事を待っていた。
「あ……、おはよう。早いね。起こしに行こうと思ってたんだけど」
「えー。いつもあたしがおこしにきてるよお? へんなのー」
「あ、そうだね。うん。あ、そうだ。ご飯食べた?」
「ううん。いっしょにたべようっておもって」
「じゃあ、今用意するからさ。座って待ってて」
かなみは僕の言葉を最後まで聞き終えないうちに既に廊下を歩んでいた。後ろ姿からも制服がくたくたであると見分けがつくが、彼女自身はそれに対してやけに姿勢良く身じろいでいる。白いことを除けば何一つ欠点のない美しい髪は人形みたいに切りそろえられており、陶器のように白い肌は雪よりも透き通って見える。廊下を曲がった際に見えた横顔がまるでこの世のものには思えないので、保護欲に駆られて僕も慌てて追いかけた。
居間に入るとすぐ背中が見えた。
「待たせたね。あとちょっと待って」
「うん」
狭い室内の中央にある円卓の前で、彼女は狭苦しく正座をついた。
僕はすぐさま欠けてない食器を棚からひっぺがして、釜から白米を盛り付けると、かなみに渡した。
それが功をそうしたか、彼女は普段どおり受け取って目の前に置き、
「いただきます」
掌を合わせて朝食をとり始めた。僕はその光景に安堵の息を吐いた。
「あのさ。適当でごめんね。おいしい?」
……。
「そうだ。ぼくとかなみで、今日は放課後に映画でも行く? チケット余ってるんだ」
……。
「……」
……ごちそうさま。
「ああはい。おそまつさまでした。じゃあ、」
戸が開き、すぐに閉まる音。
「片付けるね。玄関で待ってて」
もう用は済んだとばかりに、かなみは僕の言葉を最後まで聞かないうちに既に室内を後にしていた。いつもどおりに残された僕は、誰もいない室内で一人ため息をつく。いつもどおりに脳裏の錆が主張を始める。
いったいいつまでこんな――
僕はぶんぶんと首を横に振った。
それから先はだめだ。だめなのだ。自分で決めたことなのだから、と考えを否定し続ける。大丈夫だと念じる。しかしその括弧つきの「大丈夫」は、思考の妨げにテキメンなのだった。わずか数秒の安穏のためとは理解していてもやはり縋る対象を求めずにはいられなかった。
蛇口に口を付けて水を飲みにかかる。最初からかなみが全部聞いていなかった可能性。頭か耳に穴が開いているということに決めつければ、そんな可能性を生む腐った思考は黙り込むに決まっている。
念じる。
念じる。
念じる。
誰にだって一生に一度できないこともある。
ついには頭を抱えてひとり唸りだしていた。
救いの声が廊下から響き渡った。
アニメ声はとりわけクソよく通った。かなみにほかならない声だった。
「まーだー? ねーえー」
「ああ! 今行くよ!」
僕は洗い物を放っぽって、半ばヤケクソに立ち上がると壊れかけの学生鞄を抱えて部屋を後にした。
******
学校へ行く、その意味するところは大別すると2つ。
1つ目は、まだ正常な生活を続けている人々による確認事項だ。学校へと通う群れを目撃することはすなわち、その日が偶数の日であることにほかならない。
「ねーえー。もっとはやくあるいてよお」
2つ目は、もっと特定の、狭い対象者の話だ。でも、何よりも大切なことだ。
レイターが活動できる限られた一日――彼女、かなみも含めて。
「大丈夫。学校は逃げも隠れもしないよ」
彼女は2日分のワクワクで僕を学校へと急かす。
じれったいと言わんばかりに振りむき、
「でもさあ。なんかいやなきがするの。はやくしないとみんなかなみのことわすれてそうなの」
「ありえないさ。かなみだって連中のこと忘れてないだろ」
「うん。まっちも、よっちゃんも、しほも、たどもおぼえてるもんね」
「……ユウナは?」
「?」
かなみはコンパイルエラーを吐いた機械みたいに急停止した。
その姿から僕は理解した。
「……そうだね。ごめん、変な事言った。行こう」
それだけ話すと二人は無言になり、僕はいつの間にか歩む速度を上げていた。
レイターズ、それは突如として消えた日常の被害者たちを意味している。
彼らはその日を境に時間軸を異にし始めた。その対象者はまとめて、遅れた人々――Laters レイターズと命名された。
この問題は、現実世界におけるリフレッシュレートとフレームレートのずれに起因するとされる。
些細なズレはまず社会生活に異変を生じ、次第には生命活動にまで影響し始めた。
レイターでない人――ノーマルから見れば、レイターは奇怪に映る。なんせ急に加速減速を始めるのだから恐ろしいことこの上ない。無理だ。こんな生活耐えられない。そう思った連中は自らの命を断つか、相手の命を手にかけ始め、その対策のために国家の枠組みを超えた組織が形成されるに至った。
フレームレートの遅延が生じ始めた時、世界は時計を失くした。人類の英知が結集し協議と追及を進めた結果、その対策が編み出され、人類は新たな枠組みへの移行を迫られた。特定の時間操作によって産み出された、新たな『時間』という概念が世界に蔓延している。
その結果、大まかな分断――つまり、毎時、活動を行うことが可能な人類と、不可能な人類の二つが誕生した。
可能な人類はこれまで通りだ。しかし、不可能な人類――レイターは異なった時間軸を矯正された。彼らは二日に一度活動可能、言い換えれば、1日動けば翌日は死んだように眠り続ける。
眠っている時間は、(パーソナルデータ)をサムネイルとして取っておき、起床時に復元するよう再プログラムされる。要は人体改造の繰り返しだ。とりわけ、脳みそに直接電波やら波動をぶち込むので外面はまさしく本人にしか見えないが、内実狂っているとしても感知、完治することは不可能に近い。
いったい、何が現実で、何が仮想なのか。
働く人口は減り、学校は歴史的建築物にその意義を変え、奇跡はノストラダムスの予言に変貌した。ある意味、世界は一定の速度でループしているように見える。
しかし、それでも着実に人類は滅亡への時間を早めている。
まるで壊れたゲームの登場人物みたいに動くレイターをただ見ていることしかできない。もしくは――
やめよう。
この先はもう、想像したくない。
記憶なのか習性なのかは知らないが、何故か彼らはこういう時も学校へと通うのだった。
その学校は国鉄の新宿駅南口から歩いて7,8分の、甲州街道の2本はずれに面したツタの目立つ六階建てビルの中にあった。一階の半分は既にガラスが取っ払われ、残りの半分をヒビ入りガラスと血の色をした生ごみが占めていた。
以前自然を売りにした喫茶店であったその場所を横目に、僕らは階段を上がった。僕は「開封後できる限り早く食べてください」と札のかかったドアを開けて、教室に入った。
「ひい、ふう、みい、……ああいた。おはよう、まっち」
「つまりじだいはあのごかいじょにいるんですね」
もの欲しそうに伸ばしてきた手を軽く払い、僕はまっちの顔を見つめた。
「慌てるなよ、今日も元気だな。まだ、田中と連絡はついてないのか?」
僕は上着を脱ぎ椅子に座る前に、ポケットから一枚の紙を取り出しまっちの机の上に置いた。
「かんのんびらきがじみによいのです」
「そうか。でも、もう時期に始業時間だ。その紙見て時間つぶしとけ」
「あいさー」
そのとぼけた会話が終わってようやく、かなみが後ろの席に到着し座った。始業時間の鐘は鳴らない。にも関わらず、教室の喧騒がピタリと止んだ。
先ほどの会話の中身を常人が聞けば、意味不明という顔をするだろう。
しかし、毎度のことともなれば内容ではなくその意味が通じればよくなってくる。
様々な物事や価値観の意味が失われてきている。それらは、世界がもう別に必要としていないのかもしれなかった。
時間は8時ちょうど。長い一日が始まる。
******
時間になってからというもの、誰一人として席を立つものはいない。
座ったまま、不在の教壇をただ見続ける生徒たち。誰もしゃべることはない。呼吸音だけが無意味に響きわたっていた。
彼らは、こうして放課後まで時間をつぶす。何もせずに。
既に普通の人々――ノーマルはこうした無意味さに向き合うことをあきらめ、学校へは来なくなった。今ここにいるのは僕以外は皆レイターだった。そして、僕も彼らと一緒になって、ただ放課後を待ち続けるしかできない。
半身になって、まっちの方を向いてみる。反応はない。彼もただ一心に教壇へ視線を保ったまま動かない。
今度は振り返って、かなみに向き合った。反応はない。彼女もただ一心に教壇へ視線を保ったまま動かない。
誰しもが僕を”いないもの”として扱っているのかもしれなかった。
レイターズは前からこうだったわけではない。
彼らもその初期においてはまともに会話を行えたし、だから学校へ来ることに疑問を持ち、討論が為されたこともある。しかし、次第にその無意味さを理解するにつれ、ノーマルの方がレイターを避けるようになった。仕舞いには「レイターが病気る」と噂立ち、接触することすらおこがましいとすら言われるにまで至った。
別段そんなことはない。カラスが鳴いた。しかし、ノーマルにとって大切なのは事実か否かではなく、そう思うことによって得られる安心感の方にあった。彼らは辛い生よりも、幸せな死を祈る敬虔な信徒にすぎない。
記憶を辿ってみれば、それに抵抗していた人もいた。
登校時にしたかなみとの会話――いや、ひとりごとか――の中にいたユウナが、まさしくそうだった。ユウナがこの場所に姿を現さなくなってから、既に1000日が経過している。きっと、もう来ることもない。
ユウナは学校に来ると、努めて全員とのコミュニケイションを図った。当然、僕ともそうした。
「ねえ。あんたずっとぼーっとしてるんじゃなくて、何かしたら」
「なにかって?」
「ほら、例えば図書室の本を読むとかさ。まだ症状が深刻じゃないなら、できるでしょ? なに、場所を知らない? じゃあこのわたくしが案内をしてあげよう」
ユウナはそう言って僕の手を取り、僕はしぶしぶ引っ張られた。
かなみは僕らに視線を移すようなことはしない。少し寂しかった。
階段を上ると、崖のようになっている廊下に突き当たる。移動手段として設けられた梯子を手で掴み、それを支えとして、振り子のように反動をつけて、僕らは対岸に飛んだ。勢いをつけた反動で、僕らは勢いよく地面とぶつかった。
幸いケガはなかった。
前方にはドア以外に何も存在していない。
閉まり切っているドアをこじ開けると、そこに図書館というより書庫という言葉が似つかわしい場所があった。
「ほら、こんだけたくさんあるんだから、全部読み終わる頃には白骨化死体になれるよ」
「骨が本を読むとは初耳だ」
「じゃあ私がその名誉ある第一発見者なわけだ。皆に教えてあげるといいよ」
彼女はそう言うと、タバコをちぎって咥えた。そして、本棚の一つに腕を組んでもたれかかった。その際に落ちてきた埃を頭に受けながら、ユウナはこう言った。
「……ねえ、息苦しくない?」
そんなものを吸ってるからだろう――その言葉は僕の口からは出ない。
「息苦しい? どうして」
「どうしても」
「まあ、濃度計でも確かに注意の数字を出してるし、そう思うのも当然じゃないか」
彼女はずっと根付いていた言葉を吐いたらしかった。
「……そっか、君はそうなんだね」
「逆に聞くけどさ、ユウナはなんで学校に来てるの?」
子どもが抱くような純粋な疑問だった。
――時には残酷なほど純粋だと気が付いたのは当分後だったが。
長い沈黙の後、ユウナが口を開いた。
「どうしてだろうねえ。自分でもよくわからないや。でもね、ここに来なかったらさ、私たち、何処に行けばいいんだろう。大人は仕事に逃げればいい。子供は遊べばいい。でも私たちはその中間。あのね、うちの両親先週自殺しちゃったんだよ。だからさ、その死体を見つけてから私もう家には帰ってない。弟がさ、レイターで悩んでたのは知ってた。だからって、なにもそこまでね」
ユウナは自嘲めいた笑いをこいて、タバコでむせた。続きは聞きたくなかった。
「ごめん。変なこと聞いた」
「ごほ。……そうだね。変なこと言った」
タバコを床に落とし足で消火すると、彼女は「帰ろう」と言って部屋を出た。
僕は適当に本を見繕って鷲掴みにすると、彼女の後を追って教室へと帰った。
いったい何が言いたいのか、その時はまるで見当もつかなかった。しかし、今ならわかる。
今思うと、この出来事は彼女なりの申し訳なさの表れだったのかもしれない。
唯一コミュニケイションができる僕を一人置いて、彼女が去る。純真な魂と明晰な頭脳を持つ人間が至る帰結。かつ当然な行動。別に気を使う必要などないのに彼女はそれを罪と憎んだ。だから、去らない僕にせめてでも、と何かを残そうと考えたのだろう。
罪などつまらぬ神の戯言にすぎない。
彼女は盲とした思い込みに堪えきれず、自ら手を下したのだ。
結果的に言えば、ありがた迷惑といってよかった。
僕は、ユウナに言われたとおり読書を試していたことがある。案外楽しいものだった。シリーズものを読むときはその主人公に惚れ惚れし、単発の作品には、その瑞々しい感性に感動した。中には機械と交流をする話もあれば、探偵がその事件の真相に至る話もあった。鈍い痛みのように、彼らは常に脳内から去ろうとしなかった。去る必要などないのかもしれなかった。
僕に異変が生じた。
その内容を誰かと共有したいという願望。真っ先にユウナが浮かんだ。しかし、彼女はあの日以来姿を消した。とても辛いものだ。誰でもいいから聞いて、反応して欲しい。その欲求の苦しみは解決する手段を他に持たなかった。
去らねばならないのかもしれなかった。
さらに、追い打ちのように真実へ至った。図書室の本の多数を読み終えたことに気が付いた。無限に存在しているような書籍も、人間の手で生み出した以上は終わりがあった。
その事に気が付いた時、その先が怖くなって僕は読書をやめた。
彼らは去らなければいけなかった。
時間は11時ちょうど。やはり誰一人席を立つものはいない。