プロローグ
やっと倒した。
じわじわと胸から暖かな多幸感が広がり、満たされた気分になる。凍りついたように剣の柄に張り付いていた僕の手先までそれが広がってからやっと、ひきつれていた手が緩んだ。
剣が床に落ちた音が、やけに大きく響いた。
勝利に酔い、自分が悪を滅ぼしたという事実に高揚しながら、もう一度考える。
やっと倒した。
激しい鼓動が耳を打ち、次いで荒い息遣いが聞こえた。少し考えて、その息が自分のものであることに気づく。
そんな自分に、そこまで思考力が落ちていたのかと乾いた笑いが零れた。
それも無理はない。僕は今、とても疲れ果てているのだから。
僕は今、魔王を倒したのだ。
くらくらとする頭で魔王を見つめる。王座に座ったままの魔王の胸には、僕が聖剣で貫いた穴がぽっかりと開いていた。どくどくと流れる血を見て、魔王の血も赤かったんだな、なんてくだらないことを考える。
僕が見ているうちにも血は流れ、その黒い服に更に黒い染みを作り、白い肌を伝い、ぽたり、とその足元に垂れていた。
「ついにお前を倒したぞ。」
死体に向かって意味もなく言う。魔王の名に似つかわしくない穏やかな死に顔が、嘲笑しているように見えた。
「お前の悪行もここまでだ。」
悪行。そう、悪行だ。僕は忌むべき悪の親玉を倒し、悪行を制止し、人類を救った。勇者に選ばれ、冒険をして力をつけ、魔族に殺された村のみんなの敵を取った。人類の敵は倒し、国に帰れば喝采を浴びせられ、おそらく王女との結婚を挙げることになるだろう。そしていずれは国王となり、歴史に名を刻まれ、永遠に英雄として語り継がれる。
そう、
「邪悪なる魔王は討ち滅ぼした!!!」
僕は、勇者は正義だ。彼は、魔王は悪だ。悪を倒した善である僕は、言いようのない幸福感に酔いしれた。快楽ともいえる全能感に恍惚とする。
嬉しい。嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい!!!!
清々しい笑みが浮かんでいるのが自分でもわかる。叫び出したいような、走り出したいような快さに気分が浮かれる。
嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい!!!!!!
――――気持ち悪い。
魔王を見た。
溢れていた血は止まっていた。鮮やかだった鮮血は、今はどす黒く固まっている。ただでさえ真っ白だった肌は、もはや陶器のように硬質で青白い。そして…………崩壊が始まっていた。
砂のようにさらさらと流れる金色の光。魔王の足先から徐々に光へと変質し、消えていく。
浄化。
魔に属する者は聖魔法に弱く、それは強い力を持つ魔王も同じ。そして、その者たちが聖なるものによって倒された場合、消滅する。蘇ることも、生まれ変わることもなく、欠片も残さずに。
「あ、ああ……あ゛あ゛あ゛ぁぁああ!!!」
僕は今何をした?魔王を倒した。違う。彼を殺した。正義が勝った。あれ?正義って何?もちろん神だ。あれ?でも、魔族は、魔王は、彼は…………
「神々は酷く身勝手だ。君に刻まれたその加護は、君を惑わすことになるだろう。とても大変なことだとは思うが、力に溺れず、神に踊らされないように、しっかりと己の目で真実を見なさい。アレン、――――。」
そう言ったのは誰だっけ?そのとき隣にいたのは……
「お前たち人族が俺の家族を殺したくせに!俺の家族は、魔族は――――!!」
あ れ?
「ははは、おかしなことを言うな、アレン、――――。善悪に種族は関係ない。そもそも善や悪など曖昧なものだ。誰かにとっての善が、別の誰かにとっての悪であることもある。善悪に固執するのは神くらいのものだよ。なぜなら善と悪の象徴である勇者と魔王は神々の――――なのだから。」
これ はいつの こと だ ろう
「アレン、俺は――――でお前は――――だけど、俺はお前のことが――――。」
あ れ ?
「僕も!僕も、――――のことが――――!」
こ れ は だ れ ?
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
『アレン。』
こえがひびいた。
そこには神々しい女神がいた。世界のすべての美を集結させたように美しく、見ているだけで幸福感が溢れ出てくるような女神が。背中から生える三対の大きな純白の翼をはためかせ、厳かにこちらを見下ろす女神はこの世のものとは思えぬほど清廉だった。彼女のためならば死んでもいい、彼女の笑顔が見れるなら、何をしてもいい。そう思わせる何かがある。
「ああ……女神様…………。」
『アレン。あなたは立派に勇者としての務めを果たしました。ひとつ褒美を授けましょう。』
「は、はは……。そう、ですよね。僕は勇者だ。勇者は魔王を滅ぼすのが務め……僕はやり遂げた…………。」
『そう、そのとおりです。あなたはやり遂げた。アレン。あなたは何を欲しますか?』
「聖剣……聖剣をください。魔王を倒すほどの力を持つ、すべてを滅ぼす聖なる剣……聖剣を賜る栄誉を。」
『わかりました。アレン、あなたに聖剣を授けましょう。』
「ああ、ありがとうございます。すべてを滅ぼす剣……魔王すらも塵ひとつ残さず消滅させる…………
じゃあ、対になる勇者も消えますよね?」
『アレン!何をしているのですか!おやめなさい!!』
一瞬の衝撃のあと、途方もない激痛が全身に響いた。背中から剣先が突き抜けると同時に、血が溢れた。こぽりと音を立てて、口からどす黒い血の塊が落ちる。
徐々に、徐々に、少しずつ、自分の何かが崩れていくのを感じた。足首までが消え去って、大理石の床に倒れ込む。じわじわと侵攻する崩壊に恐怖を覚えるものの、これを彼も感じたのだと思うとその恐怖すらも愛おしい。
「あっはははははは!今行くよ!もうすぐ、君のところへ行くから!!あはははっはははははは!!ああ!痛い!あはっ!!君もこれを感じていたんだね!はははひゃっははははひゃひゃはは!!!」
『やめなさい!やめて!誰か止めて!!』
「あははは、ごめん、ごめんね、僕のせいで君は死んだ。消えた。僕が殺した。あはははははは!!君がいない世界なんて生きている意味ないよね!!!あははひひゃはははは!!!!」
「ごめんね、魔王。」
『あらら、封じた記憶を思い出しちゃった?洗脳も解けちゃったみたいだし。せっかく今回は勝てそうだったのに。この物語は引き分けかしらね?』
もう百年も前の話。善なる人族の勇者と、邪悪なる魔族の王がいた。神に選ばれた人族の勇者は、相打ちになって魔王を倒したと伝えられている。
冒険をし、強い力を得た勇者だが、実は幼いころに一度だけ消えたことがあったらしい。一年後に戻ってはきたがその空白の期間は現在でも謎のままで、魔族にさらわれた、神の国にいた、などとさまざまな説があるが、その一説に、賢者の住む天空の島にいた、というものがある。勇者はそれについて「先生と友達と遊んでいた」と言うだけだった。勇者はすぐにその出来事を忘れ、“先生”や“友達”について何も口にしなくなったために、真相は謎のままだ。
聖剣()の魔を滅ぼすうんぬんは実はデマで、ブスッとしちゃったやつを消滅させるだけの武器だったり。