赤菊
リストカットをして自殺未遂を繰り返す少女として有名だった。
雪は。
彼女は俗にいう自殺志願者ではない。これは僕が彼女本人から耳にタコができるほど滔々と聞かされたことだ。
「自分がリストカットをするのは自殺したいからじゃない。衝動だからだ」
衝動的にリストカットをしたくなる瞬間があるらしい。いや、それが自殺したいってことなんじゃないかと彼女に言ったが、自殺をすることが目的ではないのだと断固として主張した。いや、主張されても困るのだけれど。
曰く、リストカットをしたいからする、というのが彼女の一貫した主張であった。やりたいからやるって愉快犯か、と突っ込みを入れたら、あいつ、笑って答えたんだ。薄紅色の柔らかそうな唇に嫌に綺麗な笑みを浮かべて、そうだよって。
正確には愉快犯は"楽しいからやる"なのだが、その辺の細かいところは気にならなかったのか、それとも気にしないつもりでいたのかは知らないが、どちらが正しいのかなんて、もう知ることはできない。
思ってもみなかった。
雪が本当に自殺するなんて。
僕は絵を描くのが好きだ。
デッサンだの色塗りだの、そんな丁寧なことはしない。モノクロの絵を描くのが好きだった。モノクロの鉛筆絵。歴史とかで習った水墨画とかも好きだったから、僕は純粋にモノクロ絵が好きだったんだろうな。
僕は、色のあるこの世界があまり好きじゃない。
白くて黒い家の中にばかりいたからだろうか。
家は白く塗りたくった土壁に、黒光りする瓦屋根を持つモノトーンの古風な外見を持っていた。
庭は小さな池と葉も花もない変わった黒い木だけで、さして広くもなかった。
けれど、僕はそこに違和感なんて感じることはなかった。むしろ安らぎさえ覚えていた。
僕は幼い日、そんな中にすんなり入ってきた白い肌に黒髪黒目の女の子に――雪に初めて、色を教えられた。
僕はその頃から、せっせせっせと絵を描くのが好きだった。
その日も庭の風景を描いていた。
そこにひょこっと顔を出したのが、雪だった。
名前も知らない、家族ではない女の子はモノトーンの笑顔でにっこり笑った。僕も戸惑いながら会釈をすると
びしゃっ
女の子は自分の手首を持っていたナイフで掻き切って、僕に向かって前のめりに倒れた。
モノクロだった僕の絵に初めて色が乗った。
絵は台無しになった。
紅で。
雪は僕が学校に入る前、彼女自身も就学する、そんなに前から、リストカット少女だった。
呆れたものだと今にして思うけれど、彼女をわかってあげたいと思ったのは事実で、だからその時から彼女の側にいるようになったわけで。
盛大にモノクロ絵を台無しにしてくれた彼女だけれど、彼女は僕に色の世界一歩踏み出させてくれたかけがえのない、恩人だった。
僕の家が消えるまでは。
僕の家は炎の中に消えた。火事だった。不審火だった。放火だった。
土壁の家はよく燃えた。めらめらと、紅く紅く。その端を橙に揺らめかせ。
僕の脳裏にその光景がこびりついて離れない。今でもまだ、あの色をよく覚えている。庭で火が消えるまで、僕は呆然と眺めていたから。
何故庭にいたかは覚えていない。僕は庭の黒い枯れ木の側で火を見上げていた。大事そうにスケッチブックを抱いて。
消火に来た人が、僕を見てひどく驚いていた。
僕は燃え盛る炎の前で一心不乱に絵を描いていた。んだって。
炎が生み出した灰で、頬に貼りついた煤で、やっぱりモノクロの絵を描いていたんだってさ。
一頁目には燃えていく自分の家を、二頁目には何故か……リストカットする少女を。
炎の紅が雪のくれた紅に重なって、僕はすごく怖かったんだろうな。
自分のことなのに他人事みたいに語るのは、僕があの時の感情を全く覚えていなく、一般論としても、今の僕としても、僕の行動はあまりにも理解できなかったから。
ただ、トラウマになっているのは確かだ。僕はそれから紅い花や橙色の花を見るたび千切って花弁を散らかすから。
モノクロの世界にすがっていた。
でも、不思議と雪のリストカットは平気だったな。
小さい頃から何度も見せられて、感覚が麻痺していたのかも。
僕は学校に入ってまもなく、というか、僕の家が消えてすぐあと、何故か知らないが、僕の絵が世間様に知れ渡った。
炎の恐ろしさをモノトーンで表現した幼き画家! ――とかいう触れ込みだったかな。そんな感じで僕の預り知らぬところで僕の絵は人の心をざわめかせたらしい。
僕は素知らぬ顔をして、ノートにらくがきをしていた。もちろん色なんて着けない。
先生は赤ペンではなまるをくれた。
花の絵、描かないの? と雪が唐突に提案したのは、秋のことだった。
僕は風景を描くのが好きだったから、意識してもの単体を描いたことはなかった。
花って例えば? と僕が訊くと、彼女はにっこり笑って言った。菊とか、曼珠沙華とか。
曼珠沙華は紅い花だから却下した。けれど菊、菊か……
僕は一度、白い菊を家で見たことがあった。菊ならその辺の店でもよく売っているし、試しに描いてみようか、と思った。
白い花は好きだった。
ハコベやナズナ、スズラン、どれも愛らしい花だ。
僕のスケッチブックは白い花畑みたいに、花で埋め尽くされた。
その花畑が、よりどころだった。
あの日、全てを台無しにされたけれど。
あの日、僕は菊の絵を描いていた。白い菊園の絵を。
スケッチブックの一頁を菊で埋め尽くした僕は、スケッチブックをそのままに、数分席を外した。
戻ってくると、そこには雪がいた。
リストカットの傷口から流れる紅をぽたぽたと僕の絵に落として、笑っていた。
その時初めて、僕は雪が怖いと思った。
けれど恐怖は一瞬で、次には沸々と怒りが込み上げてきた。
気がついたら、僕は雪の左頬を張っていた。雪は驚いたように僕を見上げた。僕は雪の顔よりも、絵の中の菊を見た。
白かった菊はてらてらと紅く光り、曼珠沙華のように咲き誇っていた。
うわあああっ!
僕は半狂乱でその頁を破って捨てた。紅が滲んだ次の頁も。その次の頁も。そのまた次の頁も次の頁も次の頁も次の頁も次の頁も次の頁も次の頁も次の頁も――
引き裂き続けたスケッチブックはいつしか頁をなくし、辺りには紙片が散っていた。
花弁みたいだ、といくらか正気に戻ってきた頭が紙片を見て場違いなことを呟く。
顔を上げれば雪の姿はなく、点々と紅い跡と透明な粒だけが残っていた。
その日の夜、雪は死んだ。
雪は自分で曼珠沙華の向こう側に行ってしまった。
雪は常々、家で僕の絵のことを話していたらしい。
色のある絵を描けばいいのに――そうこぼしていたという。
白黒であんな素敵な絵を描けるんだから、色を乗せたらもっときっと綺麗なのに、なんで、色を捨てているんだろう? と。
色を捨てている――?
その言葉が、ぽつりと水面に波紋をもたらしたように染み込んで。
僕はペンを置いた。
それからしばらく本を読みまくった。
花が出てくる本を読んで読んで、花を睨むように眉間にしわを寄せながら読み耽って。
ある日、赤い菊があることを知った。
「花言葉、ですか」
僕の傍らには机みたいな茶色い髪の女の子がいた。雪以外の女の子はみんなこんな感じだ。雪がいなくなってから、周りの女の子たちは僕によく話しかけてくるようになった。今ここにいる少女のように。
「うん。最近初めてそういうのがあるって知ったんだけどさ」
絵ばかり描いていた僕はそういう知識には疎くて、赤い菊のことを調べている最中に、花言葉のことを知った。
より深く知るために手っ取り早いと思って、僕はこうして名前も知らない女の子に訊いているのである。
「赤い菊の花言葉って知ってる?」
僕がそんなことを気にしたのは、雪が死んだあの日、リストカットの血で白い菊を赤く塗りたかっただけなんじゃないか、と思ったからだ。
彼女は僕より色のある世界にいたから、その辺りの知識は多分、あったと思う。だからもしかしたら、赤い菊に何かメッセージを託していたのかもしれない。
僕は気づきもしないで破ってしまったから、冷静な今、その正しい言葉を受け取っておきたかった。
ところで問われた女の子はというと、顔を真っ赤に染め上げて、僕と視線がかち合うなり、ものすごい勢いで走り去ってしまった。
仕方ない、自分で調べよう。
久しく、絵を描いていないな、とぼんやり花の本を眺めていると、茶髪の女の子が戻ってきて、僕に小さく声をかけた。
「何?」
僕はその子を見上げ、首を傾げた。
女の子は未だに頬を赤らめながらもじもじとし、しばらく視線をさまよわせた後、言った。
「好きです!」
「え?」
あまりに唐突だったので、僕はきょとんとした。女の子の頬は更に赤みを増していく。……訳がわからない。
女の子は何度か口をぱくぱくさせ、空気を食みすぎたのか、掠れた声を発する。
「赤い、菊! はなこ、とば」
その意味を理解した瞬間、僕の視界がくらりと歪んだ。
赤い菊の花言葉"好きです"
「はは……」
僕は知らず、笑みをこぼした。女の子は顔色を戻し、怪訝そうに僕の顔を覗き込む。
「はは、はははは……そうか、僕は」
フラッシュバックする、千切れた紙片、雪が残した紅い跡と透明な雫。
血色に染められた菊たち――
「僕は、そんな大切な言葉を、引き裂いたんだね」
こくりと、傍らの少女が息を飲むのが聞こえた。
僕は顔の上半分を手で覆った。景色が滲んできたから。本を読みすぎて、目が疲れたんだろう。目が熱くて、ちょっと痛い。
けれど滲む景色の向こう側で、雪が微笑んだ気がした。
僕は久々に絵を描いた。白い菊に囲まれた雪の微笑む姿。滲んだ景色で見た雪のそのままの表情を僕は描き出した。
そして僕は、筆を手に取り、赤い絵の具のチューブを持った。チューブのキャップを開け、小指の先くらいを躊躇い気味に出す。
白いパレットに一点の赤。僕は少し震える手で筆をバケツの水に浸し、縁で少し水を切って、パレットの赤をめらりと伸ばす。その動作を数度繰り返し、紙に乗せるにはぎりぎりの薄さの淡い赤が生まれた。
その頃には慣れたのか、手の震えは小さくなっていた。僕は意を決し、先っぽにその赤をつけた筆を白黒の絵へと向かわせた。
赤をここまで伸ばしたのはせめてもの抵抗だ。赤に対する恐怖を拭うために。
未知のものに触れるように、僕は筆先でちょん、と白い菊の花弁に触れた。瞬間、白が淡く色づく。
――雪の唇も、こんな色だったっけ。
背景の白に溶けきらない薄紅の色を見てふと、初めて会ったときのことを思い出す。
そしたら、その色が急に愛しく思えて。筆が一片一片にどんどん色を乗せていく。
花弁の片側の輪郭をなぞるようにして乗せられた薄紅は鉛筆の黒が混じって陰影ができ、優しくも懐かしい色を醸し出した。
雪、こんな風に淡い色を乗せてくれたら、僕だってあんなヒステリーは起こさなかったのに。
そんなことを思いながら、花一つ一つの中央に黄色と緑の斑点を乗せ、色づけは終了した。
雪、君に贈るよ。
僕は雪の家に線香をつけに行き、雪の母親にその絵を渡した。
仏壇に飾られた雪の遺影は何故か、写真ではなく絵だった。
かつて、僕が灰と煤で描いた、リストカットをする少女の絵。幼かったあの頃に描いた絵は、何故だか死んだときの――十四歳の彼女に似ていて。
微笑んでいた。
何故遺影をあれにしたのか訊くと、あの子が笑っている顔なんて、あれくらいしかなかったから、と答えた。
リストカットをしていても、笑っているあの子を見ていたかったの、と。
描いてきた赤菊の中の雪を見て、雪の母親は咽び泣いた。
ありがとね、雪の笑顔を撮ってくれるのは、やっぱりあなただけね、と雪の母親が言うのに、僕は苦笑いで返した。――僕は、写真家ではないですけどね。
間を置いて、僕は付け足す。
敢えて言うなら僕は、なくしてから初めて好きだと気づいた、愚か者です。
その一言を吐き出すと、ようやく胸がすとんと落ち着いた。
雪にそう、伝えておきますね、と雪の母親が笑うのに、僕も素直な笑みを返した。
帰り道。
近頃は木枯らしも吹いてきて、秋の暮れを感じさせる。黄色い銀杏の葉が足元に散らばって、木枯らしに吹かれたり、人に踏まれて土色に溶けたりし始めている。
びゅう、と冷たい風が黄色をはらみ、僕の頬をすり抜ける。
ああ、もうすぐ冬だ。
雪の季節がやってくる――