4小さな親切大きなお世話
その後、予想以上に捻じ曲がってしまっていることを再確認させられたリオの根性を直すべく、親分として彼を心身共に鍛え上げ始めたディアナ。
彼女の厳しい指導の元、食事制限と運動を続けたリオは徐々に痩せ始めた。
するとどうだろうか。マスコット的愛嬌しかなかった彼に、クレメンス家の美貌が現れた。
少し出来の悪い頭はそのままだが、今や天使のような愛くるしさで周囲の人間を魅了するようになった。
だが相変わらずディアナの脅しは有効で、きちんと子分の役割を全うし彼女の背を追う日々は続く。
一方レイヴィとの関係は、当たり障りのない無難なものだ。
出くわせば気温や天気と言った日常会話を一言二言にこやかに交わす顔見知りのご近所さん程度の仲だ。
同じ家に住む者としては随分と希薄に見えるがディアナはこれに満足している。
リオとは血の繋がり以前に弟分的な親しみを感じているが、年上でいつも忙しい長男の存在はどこか遠い。
それに加え血の繋がりがないとなると、もう完璧に赤の他人のようなものだ。
レイヴィと対面すると、家賃を長いこと滞納している大家の息子さんに会ってしまった気分になり毎回ドギマギする。
レイヴィは聡明で鋭いので、いつ伯爵家を叩き出されるか分からない。
さて、肝心なのはアリスとの関係だ。
これは一言で上手く言い表すのが難しい、微妙な仲である。
日頃からレッスンは大体二人で受け、そうなれば必然的に食事の時間も一緒だ。
レイヴィと違い双子として扱われるアリスとは何かと接点も多いのだが。
記憶が戻った当初は後悔や罪悪感から上手く接することが出来ずにいたが、それではいけないと自分を奮い立たせて彼女に近づいた。
穏やか親切丁寧をモットーに。
彼女に家庭教師からの宿題を見せ、ダンスのコツを教え、マナーの間違いを指摘する。
最初の頃は目を白黒させ戸惑いを見せたアリスだが、そのうち段々と態度が変わってきた。
なんだかよそよそしいというか、迷惑そうというか。
今までイビリにイビってきた義姉が突然態度を変えてくれば、確かに警戒に値するかもしれない。
今までの謝罪をするタイミングを計りながら、縮まらない二人の距離にディアナは焦れていた。
「では、お二人とも昨日お出した課題の作文をお見せ下さい」
本日も二人並んで受ける一般教養の授業。
家庭教師の言葉にサッと作文を取り出す。
昨日はこの宿題のおかげでほんの少しだけアリスと仲良くなれた気がすると上機嫌のディアナ。
作文に目を通した教師も上々の出来に頷いている。
「大変良い仕上がりですよディアナ様。ではお次はアリス様の……おや? どうされましたアリス様?」
隣を見ればアリスは目に涙を溜め俯いている。テーブルの上には何も置いていない。
「ごめんなさい先生……作文、ないんです」
彼女の意外な言葉に驚いた。
おかしい。
彼女が一生懸命この課題に取り組んでいたのを知っている。
昨日アリスは珍しくディアナの部屋を訪ね、作文の進行具合を聞きにきたのだ。
参考にしたいので少し出来上がった作文を借りたいと言われたディアナは、それは喜んで彼女に差し出した。
程なくして作文を却しにやってきたアリスに調子を尋ねると、バッチリだと可愛らしい笑顔を返されたのだが。
「おやおや、貴方様にしては珍しいですね」
家庭教師もあまりない事態に困惑気味だ。
普段のアリスから考えると、本当に珍しい。
少し不器用で要領の悪い彼女は、あまり優秀とは言えないが真面目で宿題を忘れるようなことは一度もなかった。
どちらかと言えば何でも器用にこなしてしまうディアナの方が、不真面目で言われた課題をして来ないことが多い。
「何か事情でもお有りですか?」
悲しげに俯き続けるアリスに家庭教師は優しく尋ねる。
「あの、その、朝まではきちんと机の上にあったのですが……いつの間にか無くなってました」
おずおずと答えるアリスにふむ、と顎に手を当て何か考える家庭教師。
そのままディアナの作文を一瞥し、そして彼女ら二人を交互に見ては、もう一度ふむと唸った。
「今日のところは宜しいです。気を取り直して昨日の続きから始めましょう。お二人とも本を開いて下さい」
何事もなかったかのように授業を始めた家庭教師にディアナは驚く。
何故この不可解な事態を追求しないのかと。
結局最後までその件は触れられることなく授業は終わった。
だが、これにはまだ続きがある。
それは夕食前、珍しくアリスの居残りもなく二人揃ってダンスのレッスンが終わってすぐのことである。
リオがリバウンドをしないよう夕食を見張る為、彼の部屋へ向かおうとアリスと別行動しようとした時だ。
「レッスンは終わったようだな」
背後から掛けられた声に二人同時に振り向く。
レイヴィがキビキビとした足取りでこちらへ向かってきていた。
「お兄様」
春の蕾が芽吹いたかのような温かい笑みを浮かべるアリスの横で、ディアナも口端を僅かに上げて頭を下げる。
「少しディアナと話しがある。すまないが少し外してくれるかアリス」
「分かりました」
掛けられたレイヴィの言葉にアリスはおっとりと微笑みその場を去る為に足を踏み出した。
瞬間、『クスッ』という音が耳に届いた気がした。
軽やかで鈴のように可愛らしいその音は、しかし何故かとても嫌なモノを含んでいる気がした。
すぐ隣のアリスから響いたのように感じたが、彼女はいつもの穏やかな表情で真っ直ぐ前を見据えており、とてもではないがあのような嘲笑をするようには見えない。
「それで、用件についてだが」
空耳だったろうかと首を傾げながら去り行くアリスの背を見つめていると、レイヴィが早速本題に入った。
「実は先程お前たちの家庭教師から相談を受けた。今日の課題の作文をディアナは提出し、アリスは忘れたと」
「ええ、そうでしたわ」
家庭教師が何故そのように些細なことをレイヴィに一々報告し、それをアリスではなくディアナに確かめるのか。
見えないレイヴィの主旨を訝しく思いながらも相槌を打つ。
「ところがディアナの提出した作文は、アリスの筆跡と酷似していたようだ。これについて説明してくれ」
「…………」
一瞬、何を言われているのか分からなかったがすぐにああ、と思い至る。
ディアナの提出した作文がアリスの筆跡であるのは当然だ。
「昨日あの子に作文を貸したのですが、その時誤って用紙を破いてしまったようで。それでお詫びにあの子が私の作文の内容を清書し直したのですわ」
割りとドジなところのあるアリスのことだ。
別に特段気にすることもなく、謝罪と共に差し出された用紙を受け取った。
勿論その時にも盛大に怯えられ、地味に傷ついたディアナであった。
「なるほど。しかし私には良くできた言い訳のようにも聞こえる」
「……え?」
ディアナは目を瞬かせレイヴィの顔をまじまじと見つめた。
普段から表情豊かとは言い難い彼だが、いつもに増して固い表情でこちらを伺っている。
この時、初めて疑われていることに気付いた。
「アリスの作文を奪い自分のものだと偽ったのではないかと家庭教師は懸念していた」
「お兄様は、どうお思いでしょうか」
「……お前の普段の行いから察するに、私も家庭教師に同意だ」
兄の返答にスッと気持ちが冷えるのが分かった。
「それは、アリスに真偽を確かめての発言でしょうか?」
「いいや。まだアリスには話していない。この疑惑が本当だとしたら、あの子は大きく動揺するだろう。不確かなことであの子を悲しませたくはない」
つまりはアリスの心の平穏の為、確かな事実確認もなくディアナに嫌疑をかけたということだ。
これが、己の今までのアリスへの仕打ちの結果である。
レイヴィへの失望より先に大きな罪悪感がディアナを襲う。
本来ならば笑い話のような誤解である筈なのだが、この件はディアナの胸を深く傷付けた。
「私は、そのようなくだらないことはしませんわ。アリスに聞いて頂ければ誤解も解けるでしょう」
そう言うのが精一杯であった。
俯いてしまわぬよう、前だけを見据え歩みを進める。
レイヴィはその様子をいつもの無表情で、しかしいつもよりずっと強い眼差しで見つめていた。