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1夏休みの些細な楽しみ

————何してんのよ! 誰か助けなさいよっ! まったく役立たずばかりなんだからっ!


湖を必死に掻きながらディアナは心の中で悪態を吐く。

そんな強気な態度を崩さない根性は天晴れなものの、彼女は今間違いなく窮地に立たされていた。

どんどん水を吸って重くなるドレス、空気を求めても口と鼻から入り込んでくるのは水ばかり。


これは……死ぬかもしれない……


死への恐怖が段々と濃くなって来た時、ディアナの兄レイヴィが湖に飛び込んだのを目の端に捉えた。


兄様! 兄様っ! 私はここです! 苦しいっ! 早く、早く来てっ!


しかし彼女の声にならぬ必死の叫びはレイヴィには届かない。

無情にも彼はディアナとは別方向で溺れている義妹であるアリスの元へ一目散に泳いで行ってしまったのだ。


予め説明しておくとレイヴィの行動は正当である。

アリスの方がディアナよりも岸の近くで溺れていたのだから、まずは手近な方を助けるのは妥当だ。

そもそも湖の底を覗き見ようとして足を滑らせたディアナが咄嗟にアリスを掴んで巻き込んでしまったのだから彼女は完全な被害者である。

それでも、兄の行動はディアナにとって信じがたいものであった。


何故? 何故兄様は私ではなく、下賤な孤児なんかを助けているの?

私はこの格調高いクラメンス家の令嬢であり、兄様の実の妹なのよ!?

計り知れない怒りと悲しみ、そして絶望の渦に呑まれたその時である。

前世の記憶というものが蘇った。



前世のディアナはこことはまるで違う世界の、女子高生だった。

とても内気な性格で、丸い目が愛らしくはあるが今世のような華やかさなど一切ない田舎者丸出しの垢抜けない容姿。クラスでもかなり地味な部類の少女だ。

そんな彼女にはハマっていたものがあった。


『ビューティフルダックリング』というアニメだ。

昼の視聴率低迷に悩んだテレビ局が打ち出した斬新な企画で、コンセプトは大人の観る昼アニメ。

内容は昼ドラそのもの、近親相姦上等のドロドロとした薄幸ヒロインの愛憎劇。

しかし実写では出来ないエセ西洋な煌びやかな雰囲気が奥様方の支持を得て、この時間帯にしては高い視聴率を誇っていた作品だ。


そのアニメは丁度彼女が夏休みに入る頃に始まった。

住んでいる田舎から街へはとても遠い上、お小遣いはクラス平均と比べてもかなり少な目。

そして数少ない友も毎日部活に勤しんでいるとなると、帰宅部の彼女は夏休みの大半を家に篭る他ない。

昼食の素麺を啜りながら惰性で観ていたアニメであるが、一度ハマってしまえば次回が見逃せなくなる。

原作である漫画を読んだり、アニメ化に合わせて発売されたゲームをしたりするほどの情熱はなかったが毎日の楽しみであったのは確かだ。

残念ながら物語が佳境に入った頃に夏休みが終わってしまい録画の術を持たぬ彼女はエンディングを知らない。


というか学校が始まってしまえばそんなアニメのことは頭から吹き飛ぶ。

すぐにテストやら体育祭やら文化祭やらの行事が目まぐるし襲ってくるのだから。

それらの記憶は途中で途切れている。

恐らく前世の彼女の死は突発的なものだったのだろう。

前世の両親に申し訳なさすぎる。

しかしディアナに嘆いている暇はない。

何せ溺れている最中なのだから。


冗談じゃないわ! この私の前世があんな冴えない女だったなんてっ……ゴボボボ!

冴えないって何さ! 今の性格がきつ過ぎるだけだよ……ブクブクブク!


水中で二つの人格が溺れながら喧嘩する。


い、今はそんなこと考えている場合じゃない! このままじゃ死ぬっ!


本来ならば長い時間悩み苦しむべき“前世の記憶”であったが、緊急事態ゆえにその問題をあっさりと受け入れ二つの人格はいい塩梅に混ざり合い一つとなった。


そんな中アリスが兄の手により岸に上がったのが見えた。

落ち着きなさい私。

兄様がアリスの方を助けるのは仕方ないよ。寧ろあの子を助けてくれてありがとう。

兄様のことだからすぐにこちらにも来てくれる筈だ。待っていよう。


ディアナは前世の記憶から着衣水泳を思い出す。幸いここは小さな湖で波も少ない。

人間の身体は浮くものであり、服が重く感じるのは彼女が暴れているからだ。

こういう時は浮いて待てが基本。

ディアナは動きを止めた。

すると沈むのを止めた身体。

ようやく肺に息を取り入れることが出来るようになったが、それからのことはあまり憶えていない。ただレイヴィに助け出されたのは確かだ。


その後、水の飲み過ぎと過度の緊張とストレス、それから前世の記憶の復活による脳への負荷により一週間高熱に魘されていた。





熱の合間にディアナは思い出せる限りの『ビューティフルダックリング』の情報を脳内から掻き集めていた。

由緒正しき伯爵家のご令嬢であるヒロイン。

彼女には同じ年の姉がいるのだが、双子というわけではなく完全に血の繋がりがない。

どちらか一方は伯爵家の本当の娘、どちらか一方は盗賊の卑しい娘。

物語中盤までどちらがどちらなのかは明らかにされない。

何故このようなややこしい事態が起こったかというと、事の発端は伯爵婦人の出産時にある。

二人目とあって比較的スムーズに産声を上げた赤児。

母の腕の中でしばらく祝福に包まれていると、産湯につけてくると産婆が赤児を取り上げ部屋を退出した。

命懸けで頑張った伯爵婦人を労わっていた周囲の人間達は疑いもしなかったであろう。まさか産婆が盗賊の一味だと。


赤児である伯爵令嬢はそのまま数ヶ月間戻って来なかった。

身代金目的の誘拐かそれとも貴族の争いに巻き込まれたのか、最終回を観ていない真相を知らない。


ようやく助け出された赤ん坊は二人に増えていた。

他に子供を攫われた家の話は聞かないので、片一方は盗賊の子なのだろうか。

盗賊のアジトで二人仲良く寝かされていた籠の中を覗き込み、救出者達は途方に暮れた。

赤ん坊は両者ともグレーの瞳に栗毛で、とてもそっくりであった。

どちらが伯爵令嬢かと問い質そうにも、盗賊達はアジトへ踏み込んだ際怒りの感情に身を任せ皆処分してしまった。


ほとほと困り果てた伯爵はどちらの赤ん坊も引き取ることにし、僅かに身体が大きかったディアナを姉、小さい方のアリスを妹として届けを出した。

初めから双子だったことにしてしまおうと思ったのだ。


だが人の口に戸は立てられぬもの。

伯爵家の双子の出生は社交界では公然の秘密だった。

面白おかしく、趣味の悪い者には賭けの対象として姉妹の成長は熱心に観察され続ける。

姉と妹、一体どちらが“ハズレ”なのだろうかと。


そして、成長する毎に妹の方が“ハズレ”であるという見解が濃厚となってきた。

依然グレーの瞳と栗毛の妹に対し、姉の方の外見にはクレメンス家の特徴が現れ始めたのだ。

栗色は見事な金髪に、グレーは淡い青という見事に代々クレメンス家に多い色味に変化した。

それに伴いクレメンス伯爵婦人は姉のディアナだけに愛情を注ぎ、妹のアリスを蔑ろにしてしまう。婦人は未だに娘を誘拐した盗賊を恨んでいた。

だが幾ら色味が一致しようとそれが確かだとは限らない。そもそも、増えた赤ん坊が盗賊の子であるかも定かではないのだが……出産直後の悲劇に婦人の心は病んでしまっていた。

父親の方はどちらも平等に接し妻を諌めるものの、姉妹の噂が醜聞として広まってしまったクレメンス家を挽回させようと今まで以上に仕事に打ち込むようになり家にも帰れない日々が続く。

歪んでいく家庭に対処出来なかった———否、多忙を理由に現実から逃げていた。


支えてはくれぬ夫に社交界の噂話、病んだ心はどんどん悪化し、娘を産んだ二年後にもう一人息子を産み落としたはいいが、肥立ちが悪く更にその二年後には儚くなってしまった。


大好きだった母を亡くしたディアナを周囲の大人達はこぞって慰めた。

なんて可哀想な悲劇の少女だと。あんな事件さえなければ、伯爵婦人は今も健在だったかもしれないと。盗賊の娘である義妹のアリスの存在が母の心的疲労を加速させたのだと、オブラートに包み伝えた。


幼いディアナはまるで母の意思を受け継ぐがごとくアリスを憎み蔑んだ。

自分こそが伯爵令嬢でありアリスは卑しい盗賊の娘、伯爵家を不幸へ陥れた存在だと疑いもしない。


だが実はそれは間違いだ。


なんという運命の悪戯、色味の違うアリスこそが本物の伯爵令嬢であり金髪青目のディアナは盗賊の娘だったのだ。

それが明かされるのが物語の中盤。

伯爵家の成人した者にだけ稀に現れる背中の羽根のような痣を、アリスが持っていることが判明するのだ。


それは兄であるレイヴィと恋に堕ちたアリスに大きな衝撃を与える。

血の繋がりがないと信じていた愛する人が本当の兄だった!? 嗚呼、禁断の愛!

真実を知った意地悪な義姉は保身の為に狡猾な罠を張り巡らす!

そこへ久々に再会した幼馴染みの公爵令息からの求婚!

果たしてアリスは義姉から身を守れるのか!

彼女が手を取るのは血の繋がった愛する兄か、無償の愛を捧げてくれる幼馴染みか!

ドロドロハラハラネチネチジリジリイジイジ!



とまぁ確かそんな感じだったなと熱に浮かされ虚ろな目で更に遠くを見つめる。

現在11歳のディアナ。

確かアニメの開始はこの世界で成人として認められる15歳からだ。

正直そのような展開が将来繰り広げられるかもしれないと思うとうんざりする。


「ディアナ……大丈夫か?」


不安げな義兄レイヴィの声。

彼もアニメの開始時よりも若く、まだ14歳の少年である。

命の恩人のはずだが何故かディアナの発熱に責任を感じているらしく、こうしてもう何時間も付き添っている。


結局アリスが誰と結ばれるのか分からぬままであるが、血の繋がっていたレイヴィは恐らく幼馴染みの公爵令息の当て馬だろう。

でないと主人公のアリスが幸せになれない。実の兄と結ばれ実の兄妹で子を成して誰が祝福するというのだ。

そう思うとこの生真面目で優しい義兄が哀れになってくる。

前世の記憶が戻る前からディアナは彼が大好きであった。

とても優秀で見目麗しく自慢の兄様。

何よりクレメンス家の金髪碧眼をバッチリ受け継ぐ嗣子の存在は、そっくりな色味を持つディアナが伯爵家の娘であると肯定してくれる。

だからこそ真っ先にアリスを助けた彼の行動に強い衝撃を受けたのだ。


自分の足元が揺らぐ音を聴いた気がした。

密かに持ち続けていた恐怖。

アリスこそが本物の伯爵令嬢ではないのかという疑念。

眉の形が少し母に、髪色が絵姿でしか見たことのない曽祖父と似ている。

ディアナは……色味は誰がどう見ても伯爵家のものだが、吊り上がった丸い目やふっくらとした唇は誰にも似ていない。

レイヴィも本当はそれに気づいているのではないか。


自分を放りアリスを助ける兄を目にしたディアナが途方に暮れそうになったその時に前世の記憶を思い出した。


『なんだ、やっぱり私はここの家の子じゃなかったんだ』


落胆と同時に案外気が楽になった。

もう疑惑に怯えアリスを威嚇する必要もなく、これからはクレメンス家の令嬢ではなくただのディアナとして生きていける。

そう思い到ると、熱に浮かさながらも口元に笑みが浮かぶ。


「ディアナどうした? 苦しいのか?」

「大丈夫、です……レイヴィさん」


兄妹だと分かり、ただの兄に戻った彼はアリスの幸せを願い公爵令息との恋を応援するのだろうか。

ついでに今までの悪事がばれたディアナは絶縁を突きつけられ大団円。

おそらくこれが一番無難なエンドだ。

本来は改心したディアナがアリスに泣いて謝るのが綺麗な終わり方だろうが、それには彼女はいささかやり過ぎている。

いじめの果てには殺人未遂まで仕出かすのだから。


「……ディアナ?」

「大丈夫です。どうか一人に、させて下さい」


不思議そうなレイヴィの声に目を瞑り応える。

他人に熱で苦しみ寝乱れる無様な姿を晒すのが嫌で彼に背を向けた。


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