09. 置いてけぼり
柴田が虐め加害者たちへの対応について、あかりたちにはなかった発想を打ち出した。
「田所少年にアプローチしてみよう。彼なら協力してくれる可能性が高いと思うんだ」
柴田が以前虐めをテーマにした仕事から導き出した考察によると、虐めを構成するのは“被害者”と“加害者”と“傍観者”であり、何かと加害者に分類される“傍観者”の中にこそ、解決の糸口になり得るキー・パーソンが潜んでいると言う。
「京子ちゃんという子があかりちゃんをターゲットした本当の動機は彼女にしか解らないけれど、田所少年との一件が最後の引き金になったという考えは妥当だと思うんだ。彼があかりちゃんを無視したり避けたりするようになったのは、彼が君に告白しているところを京子ちゃんに見られた日から数日経ったころに気が付いたと言っていたね。まだあかりちゃんに目立った虐めがなくて自覚がなかった、と思っているのであれば、ひょっとすると彼は、自分が告白したせいで君たちの仲が悪くなったんじゃないか、という罪悪感を持っているから避けるようになったのかもしれない。。憶測と事実を混同して対応を間違えないためにも、まずは傍観者に徹している田所少年を懐柔して情報を得なくては、と思うんだ」
だが、あかりは柴田の提案を受け入れることができなかった。
「証拠や情報が少なくては太刀打ちできない、という理屈は、解ります。でも、今の状態で田所くんとどう接触すればいいのかも解らないし」
京子からターゲットにされて以来、廊下ですれ違うたび露骨に顔を引き攣らせた田所に、自分から「協力して欲しい」と頼むどころか声すら掛けられない気がした。それに、京子のばら撒いた噂を信じた彼の友人たちが浮かべる下品な笑みや、珍獣を見るような視線にも耐えられそうにない。
「それに私……これ以上、京子を煽るような、そういう、田所くんに頼るとか、関わるとか、もう、嫌です」
ぽろりと零れたわがままな言葉の中に、ずっと目を背けていた自分の本心を意識させられる。
(私、京子にとって自分が友達ではなかったことが、思っていた以上に、キツいのか)
京子は初めて気さくな口調で話し掛けて来てくれたクラスメートだった。
あかりの“醒めた人”という敬遠されがちなキャラクターを知っても「ま、片親だから、親が揃っていて甘ったれた生活をしている私たちより現実を知っちゃってるだけだよね」と、笑い飛ばしてくれた子だった。
あかりにとって京子は、クラスの中に溶け込ませてくれた人。お洒落に興味を持つきっかけをくれた人。そして、小学生のころまで図書館の本が友達だったあかりにとって、初めてできた“友達”だ。
「私、ちゃんと京子本人と喧嘩をして、彼女の言い分もきちんと受け止めて、私も言いたいことを伝えて、けじめをつけたいだけ、なんです。自分のそんな都合に、ほかの誰かを巻き込んで迷惑を掛けたくはありません」
解らないから何もできないのだ。それが、ともて悔しい。肉体的精神的な暴力ではなく、きちんと言葉を使って伝え合い、納得したい。それが叶えば、残りの高校生活もやり過ごせる。転校という選択を考えてもいい。
「訳の分からないまま、逃げることだけは、自分に赦せない。それだけ、なんです」
あかりは三人に語ることで、自分の中にあった混沌を整理することができた。
しばらく三人は無言のままそれぞれが思案に暮れていた。困っているのがよく解る。困らせているのが自分だと思うと、あかりの視線も次第に下がっていった。
「あかりは、えらいね」
不意にそんな言葉が向かいから投げ掛けられ、紀代の手がそっと頬に触れてあかりに顔を上げさせた。
「お母さんがあかりの立場なら、女の友情より男を取る京子ちゃんなんて大っ嫌い、って切り捨てちゃうところだけど。あかりはそういう選択をしないのね」
――あかりにとっては、今でも京子ちゃんは友達なのね。
「それなら、京子ちゃんのために頑張ってみない? 京子ちゃんも、本音は全然平気じゃないはずよ。だって、生活の中からあかりがいなくなっちゃったんですもの。初恋がまだらしいあかりには解らない心境かな。自分の好きな人が心配をしてくれたら、張っていた気がほどけて、甘えたくなってしまうこともあるの。京子ちゃんだって、田所くんが心配してくれていると思えば、少しは彼に本当の気持ちを打ち明けてくれるかもしれないわ。田所くんがあかりと彼女を仲違いさせた原因だと罪悪感を持っているのだとしたら、仲直りの手伝いをしてもらうことで償って、とお願いしてみてはどうかしら」
消毒してばかりの毎日で荒れた紀代の指先が、あかりの瞼をなぞって今にも零れ落ちそうになっていた涙を拭う。クリアになった視界に映るのは、哀れみではなく慈しみを湛えた紀代の優しい笑顔。
「それなら、あなたのためだけに協力してもらうことにはならないでしょう?」
紀代の言葉に二つの反する感情がせめぎ合う。
どうせ何もしてくれないに決まっている。
支援的な意味で虐めのターゲットに関われば、自分が次のターゲットにされるのだから。保身を優先してあかりを無視し、京子のでっち上げた嘘の噂話を否定も肯定もしないまま今日まで知らん顔を決め込んでいる田所が、いまさら改心するはずがない。彼自身が京子にしでかしたミスを見られているのだから、味方になってくれるはずがない。
でも。
田所は京子のことも避けている。あかりに対してのそれほどではないにしても、彼なりに中立を保とうとしている節はある。
彼が当直のときは提出物が消えない。終了のチャイムが鳴ると同時に教卓へ行き、急いで提出物を束ねて教科担任と一緒に職員室へ行ってくれるからだ。京子たちが抜き取る隙を与えない。
ときどき、LINEに未登録のアカウントから画像が送られて来る。それは、あかりが教室にいない昼休みの間にイレギュラーで先生から伝えられた連絡事項だったり、なくなったはずの私物が捨てられていたらしい焼却炉前の画像だったり。教科書を捨てられていたときには、それをこっそり取りに学校へ戻ったら、すすけた自分の教科書の下に真新しい同じ教科書が隠し置かれていた。
(あれも、田所くんだったのかな……でも、多分)
あかりのフルネームを書いた田所の文字を見たことはないし、意識して彼の書く文字を見たこともないが、右肩上がりの癖が強い文字は、田所が指名されて黒板に書き出す文字と似ている気がしないでもない。
「お母さん……田所くんは悪い子じゃない、って言ったよね」
「うん。悪巧みができる子ではないわよね。悪い言い方をすれば、直情バカ? あの子も素直でかわいい子だと思っているわよ」
「そっか……」
一人だとやっぱり怖いけれど、学校や家の近くではなく、知っている人がいない場所でなら、ユウが一緒なら、頑張れるかも知れない、と思った。
「それなら、一人じゃなければ、知っている人がいないところで、とか、だったら、私」
あかりが自分を追い込む意味で宣言し掛けたそのとき、不意に隣から感情の乗っていない手短な異論が割って入った。
「あかりちゃん、田所は確か、サッカー部だったよな」
「え? あ、はい」
(口調が荒い。もしかしてユウさん、怒ってる?)
あかりがおずおずと答えつつ隣を見ると、ユウが無表情のままスマホの画面を睨んでいた。
「うちの高校のサッカー部は、ほぼ毎年県大会まで進出しているみたいだ。今、歴代の選手一覧を検索していたんだけど、耕ちゃんのダチが選手で出場していた」
ユウはスマホをちゃぶ台に置くと、柴田に視線を移した。
「柴田さん、幼馴染の友人にサッカー部のOBがいます。この友人の協力を仰ぐのはどうでしょう。あかりちゃんはこれまで一人で精いっぱいやって来ていたし、これ以上のストレスが加わると、心身症が出る可能性もあるから心配です」
「協力、というと? その幼馴染の友人という人は信用できる人かい?」
「幼馴染はあかりちゃんとも面識があるので信用できます。彼が信用してよいと言うなら、その友人も大丈夫かと。それに、うちの高校の体育会系は縦並びに厳しいんですよ。幼馴染は今、大学でボランティアサークルの運営をしています。イベントに参加してもらう形で、幼馴染の友人に田所も参加するよう促してもらったらどうかな、と思います。イベントを通じて田所の連絡先を掴んだら、自分の幼馴染、自分、それから柴田さん、という迂回ルートになるけれど、圓手をついて逃げられることなく聞き取りの場を設けるのは可能だと思います。その辺り、幼馴染は人当たりがいいから、田所を懐柔して巧く話を運んでくれると思いますし。どうですか」
柴田が突破口を見い出したとばかりに瞳を輝かせ、ユウの提案に二つ返事で了承した。
「そういう伝手があるならありがたい。確かに、あかりちゃんがこれ以上のストレスを負うのはいただけないね。それじゃあ古川くんに繋ぎを頼んでもいいかな」
「はい」
あかりの意向を無視して話が進んでしまう。
「あの、でも、私」
と遠慮がちに声を上げてみたものの、柴田から
「あかりちゃん、無理は禁物だ。これまでずっと一人で頑張って来ただろう? 少し長めの夏休みだと思えばいい。身体や心を休めたり、美味しい物を食べたり、好きなものでいっぱいの休みを過ごすのがよいメンタル・デトックスになるよ」
と先回りをされてしまい、異論を口にすることができなくなった。
「柴田さんもユウさんも、ありがとう。私も連絡先を交換している同級生のお母さんから、それとなく情報を集めてみるわ。あかりの担任の先生にもう一度問い合わせるのは、どのタイミングがいいのかしら」
「お母さんからだと蔵木が多分また先走る可能性があると思います」
「また?」
「蔵木には自分も在学中に世話になったんです。自分を庇い過ぎて、状況証拠しかないのに校長に立てついたせいで謹慎食らっちゃったんですよね」
「そうだったの……。事を荒立てたいわけではないから、それは厄介ね。先生にも申し訳がないし」
「証拠が揃う前に親が前面に出てしまうと、却って面倒なことになると思います。自分たちのやっていることに自覚があるから、隠すための連携プレイはスゴイですよ。今はLINEがあるからその場で辻褄合わせをしちまうし、校外の連中との繋がりもあるから、そっちに頼んで物証を潰してもらうとか、やることが大人顔負けですから」
「あかりと同い年の子たちが、そんな殺伐とした学校生活を送っているのか……なんだか、今の時代って、何かと怖いわね」
「学校は社会の縮図、というからね。古川くん、あかりちゃんの担任の先生とは、今はもう?」
「あ、今でも蔵木とは連絡を取り合っています。半分ダチみたいな感じになっちゃってるんで。柴田さんの指示待ちをした上で自分の方から蔵木に切り出してみます」
「助かる。頼むよ」
「なんだか、何もかもユウさんや柴田さん任せでごめんなさい」
「ああ、ほら、紀代さん、もうゴメンは無しだ。あかりちゃんまで気に病むだろう?」
「あ、幼馴染からメッセ届きました。事情説明のメッセを送っておいたんですけど、その返事です。柴田さんと連絡先を交換したいそうです」
「や、本当かい? それなら古川くんの手を煩わせなくて済むので助かるよ。ああ、それから――」
あかりはそんな三人のやり取りを、どこか憮然とした想いで聞いていた。
(自分のことなのに……私、何もしない……できない……)
弱い自分が悔しかった。懸命に対応してくれている三人の厚意に感謝する反面、自分の不甲斐なさが無様過ぎて、自分の意向を口にすることさえ厚かましく思えてしまった。