06. 決断のとき
あかりは何度も嗚咽で言葉を途切れさせながら、それでも今度は包み隠さずユウにすべてを打ち明けた。途中で差し挟まれる共感をこめた相槌に添えられたユウの経験談に、幾度となく言葉を詰まらされもした。
虐めに程度の優劣や強弱などないのは理屈で解っているあかりだが、それでもユウの受けた虐めの内訳を聞いたらまだマシだと思える内容だった。
ユウをターゲットにしたのは、女子だけでなく男子もだった。理由は、当時のユウですらGIDという概念も知らずに悩んでいた、“心の性と身体の性の不一致から来る違和感”を弄ぶような行為。
女子はユウの身体から女性と認識し、容赦のない言葉の暴力と陰湿な行為でユウを精神的に追い詰めた。そのくせ、ユウが女子には絶対手を上げないという、多くの一般的な男性が持つ気質も敏感に察していた。その認識は女子たちの虐め行為をエスカレートさせ、遂には素行の悪い男子たちを焚き付けてユウを襲わせるに至ったらしい。
「襲う、って」
「俺は自意識としては男だから、男子からの直接的な虐めには拳で応戦することになんの抵抗もなかったんだけど、女子にはどう対抗していいのか解らなかったんだ。何もやり返せないでいるうちに、女子グループのヤツらに入れ知恵された他校の男子どもから“本当に女子かどうか確認してやる”って剥かれそうになって。こっちが一人なのに対して向こうは六人でさ。さすがにヤバいと思ったんだけど、手足を縛られていたからどうしようもなくて。でも、そのときは耕ちゃんに助けられて、どうにか無事だった、っていうか」
苦笑いを浮かべ、過去のこととして話すユウの表情が却って痛々しい。
どれだけ怖かったのだろうと想像しても、あかりとユウの間には想像の域を越えられない厚い壁がある。それは、あかりにはそういった経験がないからだ。
「……」
痛みを分け合えない悔しさがあかりを無言にさせ、唇をきつく噛み締めさせた。
「ほっとするよりもまずは驚いたんだよな。あとで初めて知ったんだけど、耕ちゃんは俺が虐めに遭っているんじゃないかと疑っていたらしい。隠していたつもりだったのに、学年も違うのに気付いてくれていて、他校の男子生徒が俺のクラスの女子と話しているのを度々見掛けていたのをおかしいと思っていたみたいで。その日、俺がヤツらに囲まれて溜まり場に連れていかれるを見て確信したらしくて、後を付けて来てくれていたんだ。さっきのスマホで録画っていう手は、そのときの耕ちゃんのやり方を真似ただけ」
すぐに助けなくてゴメンと言われ、大きく首を横に振った。
「ハニー、お母さんに心配させたくないとか、カッコ悪い自分を知られたくないとか、俺もそうだったから、解らないでもないんだよ。でもな、俺は耕ちゃんにすげえ叱られた。なんで黙っていたんだ、って。それでも耕ちゃんは俺の気持ちを汲んでくれて、おふくろや親父には黙っていてくれた。俺も耕ちゃんも、中学さえ卒業しちまえば、またやり直せると思っていたから」
でも、現実は違った。ユウの言動と見た目の性の不一致は、すぐ周囲の目に奇異として映った。結果的に高校へ行ってからそう時間も経たないうちに、ユウは中学のときと似た状況になった。
「高校に入ると自由度が格段に上がるじゃん。ネットも親の制限がかなりゆるむようになるから何でも調べ放題で、虐めタグの動画を見て真似をしてみたり、バイトができるから金回りもよくなって、足が付かないよう拉致った上で監禁とか暴行とか」
「拉致、って……それは犯罪じゃないですか。ユウさん、まさか」
「うん。あ、でも被害には遭ったようで遭わなかったと言うか」
ひどく言いづらそうに言葉を濁して視線を左へと流すユウに、何かしらの迷いを感じた。あかりは確認を取る形で、彼に迷う必要がないことを訴えた。
「きっかけが向こうからなのだから、ユウさんが被害者です。中学のときみたいにやり返して事なきを得た、ということですね?」
ユウの逃げた視線があかりに戻り、彼の唇が小さくぽかりと開いて驚きの形を表した。
「うん、まあ、そういうこと」
苦々しげに笑いながら、ユウが自分の頭の中を整理するように髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。
「俺、ゼロか一の極端な人間だからさ。敵と見做したら容赦ないっていうか……高校のときの主犯格は直接手を出して来ない小賢しいヤツで、拉致られたときに初めてソイツが主犯格だと知ったんだ。なんだかんだあって、最終的には相手に怪我をさせちゃって。高校へ入学したころには護身を考えて、筋トレで身体を鍛えたり極真空手を習ったりして、それなりに実戦で使える程度にはなっていたから。拉致った目的はやっぱりゲスい理由なわけで、正直、俺の感覚では同性から、みたいな嫌悪感もあるわけで、怖いと言うよりもムカつきのほうが大きくて、考えるより先に手が出ていた、というか」
そのときばかりは両親にも知れる大事になった。当然ながら怪我を負った生徒の保護者から学校への苦情という形で双方の保護者と学校側との三者会議という事態になった。
「そのとき、主任教師や俺の担任に食い下がって庇ってくれたのが、ハニーの今の担任」
「蔵木、先生」
「そう。“古川を加害者だとは言い切れない”“女の子一人に対して男子が何人も寄ってたかって知らない場所まで無理やり連れ出して何をしようとしていたのかも聴取すべきだ”とか。校長や担任は、ヤツらの言っていた“古川も同意した上でついて来た”って証言を鵜呑みにしていたんだけどな。蔵木だけは、自分の立場を度外視して俺に加勢してくれた。学校で唯一の味方だったんだ。当時は副担だったから権限も少なかっただろうし、授業の教材作りやテストの添削とかの実務で忙しかったはずなのに、俺のことを心配して学校を退けたあと毎日俺の家まで足を運んでくれたりもして」
ユウは中学時代の虐めを知った黒崎から、それ以降もし似たような事態が起きた場合は物証を少しでも集めておくようにと言われていたらしい。ユウは蔵木を信じてそれらを開示した。そのとき、初めて自分がGIDかも知れないことも打ち明けたそうだ。
「俺がGIDという言葉とその意味を知ったのも丁度そのころ、高二のときだった。耕ちゃんは元々福祉関連に興味のある人だったから、俺のこの違和感について調べてもくれていたんだ」
ユウが黒崎に伴われて支援団体の見学や相談へ行ってみたところ、受診する診療科や診断には時間が掛かること、様々な心理テストを受けて認定をもらう必要があるなどの詳細を教えてもらった。
そして今あかりがユウから仄めかされているように、ユウもまた黒崎の気長な説得によって両親へのカミングアウトを決断した。
「親父はそれを受け容れられなくてダメだったんだけど、おふくろは理解しようとしてくれた。一緒に病院へ付き添ってくれたり、一緒に支援団体の相談窓口へ話を聞きに行ってくれたり。俺はあとから知ったんだけど、家族対象の講演会もあったりしたらしくて、耕ちゃんがおふくろにそういう情報を流してくれていたみたいで……俺、それでようやく、おふくろとは和解ができたんだ。ずっと女らしくしろと言われて喧嘩ばかりしていたんだけど、初めておふくろが泣きながら謝ってくれたんだ」
――母さんはずっとあんたを否定していたことになるんだね。苦しんでいることにも気付かなくて、本当にごめん。すみませんでした。
「親なのに慣れない敬語まで使って謝りやがるの。自分だって親父から散々躾が悪いみたいなことを言われて苦しんでいたのになあ。結局おふくろは理解する気のない親父と家庭内別居の状態で、俺も実家は居心地が悪くなって。弟は親父ほどじゃないけれど、やっぱ気持ち悪いんだろうな。全寮制の高校へ進学しちまったし。俺が家庭崩壊させちまったようなものだから、すげえ悪かったと思ってる。少しでも早く一人前になって、おふくろとまた一緒に暮らせたらな、とは思ってる」
そこまでを話し終えたユウの表情が、どこか吹っ切れた清々しいものに変わった。あかりはそんなユウを見て妙にまぶしさを感じ、目を細めて彼を見た。
「ハニー、話し合わないと、何も始まらないよ」
ユウは仄めかし程度の弱い表現から、一段強い表現でもう一度あかりを促した。
「俺の場合はGIDが原因の虐めだったから、そういう意味では特殊に見えるかも知れないけれど、虐めという根本は同じだ。ハニーの虐めについても言えることだと思うんだ」
やり過ごせばいい、拳に訴えて事件を起こす、そんな対応ではなんの解決にもならない。
ユウは確信を持った強い口調であかりにそう訴えた。
「人を貶めることで自分の底上げをするクズはどうしても存在してしまうけれど、それに抗うことはできるんだ。それに、自分の今いる場所だけが世界のすべてじゃない。それに気付けないほど追い込まれている人に、そういう経験をしているからこそ、それにどう対応したかを伝えていかなくちゃいけない、と俺は思っている。でないとただ息苦しい想いをしてバカみたいじゃん? 伝えるためには、自分がまずヤツらから逃げるんじゃなくて向き合わなくちゃ始まらないんだ。だからもし、ハニーが俺のこんな体験談からでも何か得られたと感じてくれるなら、それに、さっき話してくれたみたいに、誰かに手を差し伸べることが君の望む姿なら、その京子? ってヤツらから逃げるんじゃなくて、真正面から向き合ってみないか?」
――絶対に守るから。
「俺だけじゃなくて、ハニーのお母さんや蔵木も、それに耕ちゃんたちだって、みんな絶対にハニーを守るから。蔵木は薄々勘付いているよ。俺、相談されたことがあって今でも連絡を取り合っているし」
「え……?」
担任が実は虐めを把握している。それはあかりを腹の底まで凍えさせ、ぞわりとした悪寒を走らせた。
「相談された当時はハニーとまだ知り合っていないから、まさか君のことだとは思っていなかったけれど、多分ハニーのことだと思う。お母さんから相談を受けたのだけど、虐めの傾向は見られない。自分は何を見落としているんだろうって悩んでた」
把握されているわけではないと知り、肩の力が抜けてつい溜息を漏らした。そんなあかりを見たユウは、痛々しげな笑みを作りながら、あかりの反応をやんわりと諫めた。
「何度も言うけれど、知られたくない、ことを荒立てたくない、という気持ちは、解るんだよ? だけどハニーも、その京子ってヤツも、高校を卒業した後も生きていくだろう? ターゲットがハニーから別の誰かに変わるだけでしかないんだ。ハニーはそれで、いいの?」
ユウは優しい口調で、だが容赦なく痛いところを突いて来た。そして、それは正論だ。自分の保身のために、他の誰かが犠牲になっていいのか――?
「……よく、ない、です」
返す言葉が意図せず震えた。真っ二つに分かれた矛盾する想いが、あかりに頭を垂れさせた。
「なら、まずはハニーのお母さんに打ち明けよう? ハニーが許してくれるなら、ハニーが言えない部分は俺が代弁するから」
真剣なまなざしを受け留めた理性の部分が、あかりに「そうするべきだ」と厳しく諭す。
よく目耳にして来た虐め被害者の自殺報道で知った自殺に至る経緯が、あかりを尻込みをさせる。
遠慮がちにあかりの手を包むユウの温かな手が、一歩踏み出そうと言外に呼び掛ける。それに応えたい自分がいる。
実情を話したら浮かべるであろう紀代の表情が脳裏を過ぎっていく。それがあかりの眉間に苦悶の皺を浮かばせた。
「……怖い、よう……ッ」
敬語を使うことすら忘れ、本音が嗚咽となってあかりの口から零れ落ちた。
「……がっこ……ひっく……LINEも……外に出る、のも、こわ……ひぃっく」
視界がぼやけ、ユウの手に包まれた自分の両手が輪郭を崩して滲んでいく。あかりの手からゆるりと温もりが離れ、次第に前のめりに傾いていった身体が遠慮がちに優しく包まれた。
「大丈夫。解決するまでは学校になんて行かなくていい。気付きさえすれば蔵木は頼りになる。お母さんだって学校へ行けなんて絶対に言わないから。呼び出されても行かなくていい。俺が傍にいる」
なだめる声があかりを幼子のように号泣させる。励ますように力強くなったユウの腕が、あかりに彼の背へ腕を回させる。
「たすけて……ユウさん、こわ……たす……っく」
あかりの縋る手に力がこもり、顔を埋めたユウの胸元がぐしょぐしょに濡れていく。
「できるだけ時間を作って、少しでもハニーの隣にいるから。耕ちゃんやみさきや、みんなにも協力してもらえるから。どんな手を使ってでも尻尾を掴まえてみせる。だから、ハニーはもう何も我慢しなくていいんだよ」
切なげに震えるユウの声に、あかりはますます泣き声を大きくした。彼の胸に埋めた顔が、彼のコンプレックスを直接感じ取る。さらし帯できつく戒められた慎ましい胸の隆起が、彼の纏うシャツの奥でわずかに上下している。コトコトと小さくあかりの鼓膜を揺らす彼の心音が、少しずつあかりの荒ぶる激情をなだめていく。その胸の緊束の在り様が、彼の奥底に眠る自分と同じ激情を有していながらそれを制しているようにさえ感じられた。
号泣がすすり泣きに変わり、泣くことにも疲れて眠気を感じるくらいに吐き出し切ったころ。
「……帰ります。ユウさん……お母さんが帰るまで、一緒にうちにいてもらっても、いいですか」
あかりはユウの胸へ直接訴えるように、囁くような小声でそう告げた。拭い切れない怖さが小声にさせたが、ユウはちゃんと聞き届けてくれた。
「喜んで。すっかり冷めちゃったけど、ココアを温め直すから。それを飲んで少し落ち着いたら、帰ろう」
そう提案してくれたユウの声は力強く、あかりの中にもある気丈さを取り戻させてくれた。
「はい。ありがとうございます」
と顔を上げようとして初めて気付く。
(ち、近い……)
身体を丸めてユウの胸に縋り付いていたが、顔を上げようと少し身を起こした瞬間、額を隠していたあかりの前髪がユウの吐息でわずかに揺れた。驚いて更に身を引いてから顔を上げれば、ユウのほっとした表情の瞳に、みっともない自分の顔が映った。真っ赤に目を腫らして浮腫んだ醜い両目。鼻の頭まで赤くなっているのがユウの瞳越しでも一目で判った。
「あの、す、すみません。取り乱し過ぎた、というか」
突然湧いた恥ずかしさが、あかりを正座のままじりじりと後ずさりさせた。するとユウまでハッとした表情になり、なぜかあかりと同じ距離だけ反対の方へ後ずさった。
「え……あ、いえ、こっちこそ、その……気安く触れて、ごめんね? 別に下心があったわけではないから、その、なんていうか」
「え?」
「あっ、いや、これオカシイわ。却って下心あったように聞こえる! い、今の無し! 無しね!!」
ユウはそう言うや否や立ち上がり、あかりの反応を待たずに二つのマグカップを持ってキッチンへ消えた。
(ただ、同世代の男子が苦手なだけ、って言ったはずなんだけどな)
あかりはユウの逃げるようなそんな態度をどこか寂しく思いながら、キッチンでココアを温め直しているユウの背中をぼんやりと見守った。