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05. カミングアウト

 あかりが案内されたのは、外観からでもさほど広い間取りではないと判る古い賃貸アパートだった。想像していた“家族と住む一戸建て”ではないことが意外だったあかりは、つい余計な詮索を口にした。

「てっきりご両親と住んでいる家にお邪魔するのだとばかり思っていました。独り暮らしだったんですね」

「実家も近所にあるんだけど、何かと居心地が悪くて。ここだと警戒しちゃうかな?」

 相変わらずユウはあかりの顔色を窺うように意向を尋ねて来る。そんな気遣い――というよりも、あかりの反応に怯えたかのようなユウの表情に寂しさを覚えた。

「警戒するなら始めからお邪魔しませんよ。ユウさんったら、深読みし過ぎです」

 あかりは彼女の窺う瞳の色を拭いたくて強引に笑みをかたどった。

「よかった。っていうか、別の意味で全然よくないけど。ゼミの仲間やダチが倉庫代わりにするもんだから、取っ散らかった部屋になっている、っていうのがデフォで、キミには呆れられるかも」

 と、ばつの悪そうな顔でユウから言われて通された彼女の住まいは、2DKの間取りで玄関口からすぐがダイニングになっている。玄関の三和土(たたき)を上がってすぐ右手はバスルームだろう。真正面に見える二つの扉のうち、右の扉だけが解放されていて、そこがユウの過ごすメインスペースだと思われた。「散らかっている」と言う割には、寂しいくらいに閑散としていた。女性ならもっといろんなアイテムがあるだろうに、とも感じられるほど必要最低限のものしかない。

「スリッパもなくてごめんね。取り敢えず上がって」

「はい。お邪魔、します」

 恐縮の想いでそう返し、ユウのあとに従う形でダイニングキッチンのフロアに足を踏み入れた。先に上がったユウがコートを脱ぎながら左側の扉を開けたとき、あかりは驚きのあまり「わ……」と声を漏らしてしまった。

 左の四畳半間は半ばクローゼットと化していた。何よりも始めにあかりを驚かせたのは、色とりどりのカジュアルスーツやワイシャツの並ぶハンガーラック。それが三列もある。その足許には靴箱が何段にも重なっていて、どれもブランド物のロゴが印刷されている。ドレッサーも視界の片隅に映ったが、その上へ無造作に置かれたブレスネットは、ブランド物に頓着しないあかりでも一目で高級品だと判る精巧なデザインだ。その部屋にある何もかもが、これまで見て来たユウのファッションからは想像もつかない品々ばかりだった。

「やっぱビックリするよなあ。掃除とか片付けが苦手でさ」

 ユウの言葉と苦笑いではっとして頬が熱くなる。これではまるで、独り暮らしをしている姉の生活ぶりをチェックしに来た口うるさい妹のようだ。

「そ、そういう意味で驚いたんじゃなくて、普段ユウさんが着ている服とは全然違うものが多いから、意外だな、と思っただけです」

「あ、言われてみればそうだな。なんかねえ、仕事モードになっちゃうし、カジュアルとは言え一応スーツだから肩が凝っちゃうから、仕事のときしか着れないや」

「仕事、ですか?」

「ああ、バイトのこと。取り敢えずテレビのある部屋の方に座って。今お茶を淹れるから」

「え、あ、でも」

 ユウからそう促されるころには、もう彼女がコートをハンガーに掛け終わって、クローゼットもどきな四畳半間から出て来るところだった。

「はい、コート、これに掛けて」

 と差し出されたハンガーを受け取りながら一応確認を取る。

「ありがとうございます。あの、私、急に押しかけてしまったし、プライベートの部屋にいきなり上がり込むのはユウさんが困りませんか?」

 言いながら、少しだけ「しまった」と後悔する。別に散らかっているとは思っていないのに、遠回しにそう言っているように聞こえやしないだろうか。言ってから気付いてももう遅いけれど。

 焦りと自己嫌悪をごまかすように俯いてコートをハンガーに掛けていると、小さな苦笑が少し上から落ちて来た。

「俺も虐めの経験がある、って話したことがあったよね。その原因が解ると思うから、俺の人となりを知ってもらうためにも部屋を見てやって」

 そう言ってあかりの打診を無用の配慮だと告げたユウの言葉がひどく怯えた声音に聞こえた。その違和感を口にさえしてはならない雰囲気だったこともあり、あかりはそれ以上何も言えず「じゃあ」とだけ答えて居室の方へ入らせてもらった。


 ユウがキッチンで茶の用意をしている間にぐるりと部屋を見渡す。

 青が基調のカーテンやベッドのカバー、簡易テーブルもホームセンターで売っている安価な商品という感じだ。白い壁には、あかりには疎いので誰なのかは解らないものの、ボディビルダーの有名人と思われる人物のポスターが貼ってある。テレビが収まっているスチールラックの上段に並んでいるフォト・スタンドは少し埃を被っている。このフォト・スタンドだけが妙に可愛らしくて部屋の中で浮いていた。

 なんとなく収められている写真を見ようと思って近付くと。

(……あれ? これ……ユウさんと……バイト先の仲間、ということ?)

 バクン、と心臓が大きく脈打った。一瞬辺りをもう一度見回してしまう。

 どこか既視感を覚えつつ見慣れない部屋の雰囲気。それは、まだ田所のよい部分しか見えていなかったころ、京子と一緒に彼の部屋へ遊びに行ったときに見た田所の部屋と似た雰囲気――男子だからこそなのだろうと妙に感じた、“憧れの対象や好きなもので飾り立てた、どこか子供っぽい部屋”の雰囲気だ。

 フォト・スタンドに収められていた写真に写っているのは、隣の部屋にあったような明るい青のカジュアルスーツを着たユウと、似たような服装をした派手ないでたちの男性たち。その背景に写っているのは夜の繁華街の風景で、彼らのすぐ後ろで“Club Eden”の電飾文字が瞬いていた。その電飾文字を戴いている店の壁にバックライトで照らされて瞬いているのは、集合写真の人物たちと思しき人たちの顔写真。いわゆるホストクラブの“メニュー”というものらしい。その顔写真の上に刻まれた“Cast MENU”の文字が、無知なあかりにそれを教えていた。

 その隣のフォト・スタンドにある写真には、黒崎や花火大会のときに知り合ったメンバーが写っている集合写真だ。あかりと面識のない人もこのイベントのときにはいたようだ。その中には、ユウの醸し出す雰囲気と似た性別不詳に見える人も何人か写っていた。

「もう大丈夫だ、キレない、って言ってるのにさ、おふくろが心配して“何かあったときに自分が一人じゃないってことを思い出せるよう、いつでも見られるようにしておけ”、なんて無理やり飾ってるんだ。掃除するとき邪魔なのにな」

 背後から突然そう声を掛けられ、どきりとする。咄嗟に振り返れば、茶色の温かそうな液体で満ちたマグカップを簡易テーブルに置いて、腰を落ち着けようとしているユウがいた。

「花火大会のときさ、みさきから謝られたんだ。俺の通称をキミにバラしたこと」

 ユウがあかりの方を見ないまま、俯いてそう言った。口許は笑みをかたどっているが、俯いているから表情がはっきりとは解らない。

 花火大会のとき、ふと疑問が湧いたみさきとのやり取りを思い出す。

『私も大概中身がおっさんだからね、実際のところ。まあ、ユウトほどじゃないけど』

『え? ユウの名前、まだ聞いてない?』

『うん? 聞き間違い』

 そこでユウが慌ててみさきを遠くへ連れ出したことを思い出した。

「あの……もしかして、ユウトさんって」

 フォト・スタンドに背を向けて立ち尽くしたまま、あかりはおそるおそる尋ねてみた。

「うん、俺の通称。そこのホスクラでバイトをしているのは、性別適合手術の費用を貯めるため。……GIDって、知ってる?」

 そう尋ねて来るユウの声は、今にも消え入りそうだった。

「……ジーアイ、ディー、ですか……知りません」

 だが、なんとなく解った気がする。答えを促すかのような沈黙は、ユウから確認の言葉を聞きたいと思ったからだ。


 ――Gender Identity Disorderの略、つまり、性同一性障害。


「俺の虐めの原因は、それだったんだ。キミが差別意識のある子だとは思っていなかったんだけど、男性嫌悪のきらいがあったから、俺の内面が男だと判ったら避けられると思って……言えなかった。ごめん」

 その瞬間に弾けた感情がなんなのか、あかり自身にも解らなかった。




 どこか麻痺した頭の中に、あかりのいない深夜に紀代と祖母が居間で語っていたシーンが蘇る。

『あかりと三つしか違わない子なのよ。悩みを抱えているのは目に見えて解っていたのに、気付いてあげられなかった』

 子供のように祖母の胸へ縋り、嗚咽混じりで語っていた紀代の後ろ姿。小学生だったあかりには紀代の語る内容のすべてを咀嚼することはできなかったが、深刻な話だということだけは幼心にも察するに余りある紀代の声だった。

『紀代、自分を責めるのはおやめ。あなたのせいじゃない』

 そうなだめる祖母もまた、苦しげな表情をかたどっていた。

『でも、私が性同一性障害について学んでいたら、もっと適切な接し方ができていたかも知れないのに』

『心の病気の担当じゃないのだから、仕方がないでしょう。自分の担当科の勉強で今も精いっぱいじゃないの』

『でも、それじゃあなんのための看護師なの? 私は見過ごすために看護師になったわけじゃないわ』

『それは紀代の奢りだと私は思う。いいかい、勘違いしちゃいけないよ。紀代、あなたはその子の親でもなければ友達でもない。数ヶ月しかいられない入院生活の中に理解者がいたとしても、それは根本的な解決じゃない、そうでしょう?』

『でも、私がちゃんと男の子として接していたら、胸を果物ナイフで切り落とそうなんてこと』

 そこまで聞いて怖くなり、あかりはトイレに行くのも忘れて自分の部屋へ逃げ込んだ。

 子供特有の想像力の逞しさが、あかりに血の海を妄想させた。

“女の子なのに男の子”

 その意味が解らなくて混乱した。ただ一つだけ解ったのは、自分を傷つけたくなるほどの苦しみをたった一人で抱えて入院している子だということ。しかも、自分と三歳しか違わないのに。

 思えば、それもあかりが看護の道を考えるきっかけの一つだった。家族にすら打ち明けられずに一人で苦しんでいる人がいる。そういう人たちほどではないにしても、紀代に心配を掛けまいとして一人で抱え込みがちだったあかりには、ほんのわずかでしかないだろうと思いつつも、紀代が担当していたその患者に共感を覚えた。

 家族ではないからこそ吐き出せる場合もある。そんな歪んだ配慮は今もあかりの中で健在だ。

 思い出された、名も知らない過去の紀代が担当したその入院患者とユウが、あかりの中で重なった。


「ハ……あかりちゃん、ごめんね」

 自分の名を呼ばれて我に返った。はっとしてユウに焦点を合わせれば、今にも泣きそうな顔をして笑っているユウがあかりを見上げていた。ユウのカミングアウトを聞いた瞬間に自分の中で爆ぜた想いが、またじくじくと燻り出す。そして、それがどんな想いなのか、やっと解った。

「やっぱりドン引きするよね。いきなりリアクションに困るカミングアウトなんかをして申し訳ないと思うけど」

「違います。そうじゃなくて」

 あかりは今自分の感じている想いを根拠に、はっきりとユウの言葉を否定した。

 彼女――否、彼の誤解を解くべく、厚かましいほどの近い距離、真隣に正座をした。

「私、性同一性障害という言葉は知っています。詳しいことは何も解っていないけれど、小学生のころ、母の受け持ちだった患者さんがその診断を受けていたみたいで、自分の胸を果物ナイフで切り落とそうとする騒ぎを起こしてしまって、母が入院病棟から異動したことがあるんです」

 あかりは少年とも少女ともつかない患者の痛々しい血みどろの姿に対して恐怖した当時の心境をユウに伝えた。

「その患者さんは当時で中学三年生だったそうです。誰にも悩みを打ち明けられなくて、きっと苦しかったに違いない、って、今でもその話をときどき思い出します。私はその患者さんの中に自分を重ねていました。今の私にとってのユウさんみたいな人が、その人にはいなかったんだろうな、って。当時の私にもいなかったから、おばあちゃんが言っていたように、お母さんが感情移入し過ぎてはいけないとは思えなかったんです。通りすがりの誰かだからこそ吐き出せることもあるんじゃないか、って。私が看護師を目指そうと考えたきっかけはそれもあるんです。だから、ユウさんがそうであっても、引くとか敬遠するとか、そういうことはありません。私、言いました。ユウさんのおかげでこの一年以上をどうにかやり過ごせて来たんだ、って。ユウさんはユウさんだ、とも言いました。うわべだけでなく、自分をちゃんと見て欲しい。それが叶わない苦しさや寂しさを、少しは私も解っているつもりです。だからもっと私を信じてください。これからも、私を元気にしてくれる呼び方で呼んでください」

 ユウに口を挟ませない勢いでまくしたてながら確信する。少しだけ自分のことが好きになる。

 ありのままの自分でもいても、誰かの役に立てる。思うままを伝えてもいいと許してくれる人がいる。自分にはそれだけの価値がある。そう認めてくれる人が目の前にいる――くしゃりと顔をゆがめて瞳を潤ませたユウを見て、そう思えた。

「……ありがと……ハニーが相手なのに、ビビって、ごめん……ありがと」

 涙声でそう呟きながら、ユウは袖で乱暴に目許を拭った。そんなユウになんとも言えない感情を抱きながら、あかりはバッグから取り出したハンカチを差し出した。

「私の方こそ、ありがとうございます。カミングアウトがどれくらい勇気の要ることか、少しでしかないだろうけれど解るつもりです。さっき助けてくれただけでも嬉しかったのに、自分のことみたいに一生懸命一緒に考えてくれて……私、ユウさんと出会えてよかったと思う気持ちは、話を聞いた今も変わりません」

 自分の言葉を改めて噛み締めると、あかりの視界がまたぼやけて滲んだ。

「ユウさんに……クラスの人以外に知れてしまったから、きっと報復されます。お金や嫌がらせだけじゃ済まなくなる気がして、来週から登校するのが、怖いです。私は、どうしたら、いいですか」

 あかりは初めて、誰かに助けを求めた。

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