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04. 発覚

 今年の夏休みは、時間のやり繰りをしながら週四日のアルバイトと勉強の毎日だった。あかりはそんな日々の合間合間に訪れる息抜きを楽しみに、どうにか酷暑の季節を乗り切った。去年は夏休み直前に起きた最悪な出来事のせいで引きこもりがちだったが、今年は忙しいながらも充実した夏休みを過ごせて楽しかった。

 ユウの幼馴染、黒崎耕太が、彼の在籍するボランティアサークルのアウトドアイベントに度々誘ってくれた。不登校の小中学生と川遊びをしたり、バーベキューをしたり、といったことも息抜きの一つ。あかりの目指す看護師とは方法が違うものの、黒崎たちの活動もまた目指すところはあかりと同じだ。ただ楽しいだけでなく、勉強にもなった。


 ユウと会う機会も格段に増えた。彼女の住まいがあかりの住む地域の最寄駅から三つしか離れていないことが判ったので、彼女が一人で出掛けるときに何かと声を掛けてくれるようになったからだ。

「わ……ぁ……。髪の色が違う。思いっ切りプラチナ・ブロンド」

 数日前に美容院へ行ったことは聞いていたが、これほどまでのイメージ・チェンジをしているとは思ってもいなかったので、声を掛けられた瞬間びっくりした。

「顔が地味だからねえ。前のはワインレッドのマニキュア程度だったんだけど、バイト先の先輩に勧められて、がっつりカラーリングしてもらってみた。変?」

「全然! いいなあ。私はストレートだし真っ黒だから、髪を染めようとしてもきっとユウさんほど綺麗には染まらない気がします。柔らかい髪って憧れです、羨ましい」

 あかりがまばゆげにユウを見上げると、彼女は不意にあかりの長い髪を一束そっと摘まんで指に絡ませた。

(わ……)

 思わずびくりと肩が大きく揺れた。

「あ、ホントだ。結構髪が太いね。でもハニーは日本人形みたいな上品な顔立ちだから、今のヘアスタイルが一番似合う。いいじゃん、このままで。カラーリングはかなり髪が傷んじゃうんだぞ?」

 ユウの指からするりと髪が解かれる。それと同時にあかりの肩からも力が抜けた。

「そ、う、ですか」

(ビックリした……)

 別に潔癖症というわけでもないし、そもそも不快だったわけでもない。なのに、急に触れられたことでなぜかひどく緊張した。

「うん、せっかくこんなに綺麗な髪をしているんだから、傷めちゃうのはもったいない。お母さんは割と細い髪質に見えたよね。ハニーのこれはお父さん譲りかな」

「だと思います。私が小学校へ上がる前に亡くなってしまったから、お父さんのことはあまりよく覚えていないんですけど」

「そっか。じゃあハニーの黒髪はある意味お父さんからもらった形見だね。大事にしな。せっかく似合うんだから」

 父からの形見、そんな発想は今までなかった。ちょっと手入れを怠るとすぐに跳ねるから、あかりは自分の髪があまり好きではなかった。だがユウの一言で初めて、自分の髪をもっといたわってあげようと思った。

「言われてみれば、そうですね。ありがとうございます」

 また一つ、自分のことが好きになれた。この人はきっと何の意図もなくそう言っているのだと思う。それが人の気持ちを温かくしてくれる。

(そういう人に、なりたいな)

 優しい気持ちが伝播する。あかりの唇が自然と笑みをかたどった。




 そんな穏やかな夏休みを過ごせた分、二学期からの学校生活はその反動でかなりきつく感じられた。

「はい、では、今日はこれでショートホームルームを終わりにします。ああ、そうだ、林田。数学の谷口先生から伝言だ。夏休みの宿題の提出がまだだ、と珍しがっていたぞ。次の授業までで構わないから提出するようにとのことだ」

 昨日の数学の授業のとき、確かに提出したはずだ。

(あ……でも)

 数学の谷口は効率優先の教師なので、皆が問題を解いている間に宿題のチェックをすることがある。だから数学のときは提出物がある場合、授業開始前に教卓へ各自が提出しておく方式になっている。だから、それはきっと自分の提出忘れではない。

「はい、すみませんでした」

 京子たちにノートを隠されたのだろうと思ったので、下手な言及をするのは彼女たちを喜ばせるだけだと考えた。夏休みの余韻があってこちらへ意識など向かないと思っていたが、万が一に備えて宿題のコピーを取っておいてよかったと考えることで、あかりはふつふつと沸き始めた恐怖感から逃げた。

 教室のあちこちから、くすくすと嗤う声がし始める。やることをやって気が済んでいるときは無反応なのが京子たちのやり口だ。だが、あかりを煽るようなその反応から推察するに、今日はこれで終わりというわけではないらしい。

(今日はユウさんと夕飯を食べに行く約束をしていたけれど、断るしかない、かな)

 今日は紀代が「夕方上がりだから洗濯や掃除はお母さんがやるわ。せっかくの週末だし、ゆっくりしてらっしゃい」と許可をくれたので楽しみにしていたのだが、もう楽しむという心境ではない。

 そう考える傍らで、要らぬ計算がぐるぐると先の展開をあかりに予想させる。


 もしかしたら「ノートを書い取れ」と言われるかも知れない。

 今日はお財布にいくら入っていたっけ? 

 長い時間付き合わされるのだろうか。

 ユウさんに連絡できないままいつまでも引きずり回されない方法を考えないと。

 お母さんにバレない形でなんとかやり過ごさないと。

 ユウさんに知られたら、きっとお母さんに話してしまう――。


「きりーつ」

 日直の声ではっとする。あかりも慌てて立ち上がり、「れーい」の号令とともに頭を下げた。

 ざわざわと教室が賑やかになり、急いで部活へ向かう者、一人の周りに集まって談笑を始める者、そして――。

「あーかり」

 のろのろと配布されたプリント類を鞄の中に片づけるあかりの席を、数人の女子が取り囲んだ。

「ノートを出し忘れるなんて珍しいじゃない。私、復習用にもう一冊ノートを用意してあるんだ。貸してあげるから、一緒に帰りましょ」

 ゆっくりと顔を上げれば、立ちはだかる数人のうち、真ん中からあかりを見下ろす人の微笑があかりの表情を強張らせた。

「……京子」

「写すだけだから、土日でやっつけられるでしょ? ついでに買い物にも付き合ってよ。ヴィトンの新作のお財布がメチャクチャ可愛いの」

 ブランド物の財布。あかりが介護施設で四ヶ月アルバイトをしてようやく稼げる高額な商品だ。手持ちの現金ではまったく足りない。

「……今、手持ちが、ない、から」

 そう答える声がくぐもった。


 高校の裏門は利用者が少ないので警備員が配置されていない。また、細い裏路地に面した小さな門のため、外部からの侵入者がいたとしても二階にある職員室の窓から一目で判る。

 その反面、校舎側は植栽や花壇などの遮蔽も手伝い、職員室から死角になるので、生徒の逢引きや隠れ喫煙などに悪用される一面もあった。

 あかりが京子たちに連れていかれたのは、壁に面した中でも常緑高木が職員室からの視線を遮り、手入れの行き届いていない灌木が同じ目線からも人を隠す奥まった一角だった。

「諭吉一枚も持ってないの? しょぼ」

 あかりの鞄を勝手に漁った女子が、財布の中身を確認してそう零した。あかりはその女子が札入れの中身を全部取り出すのを黙って見つめていた。震えと涙を堪えるのに精いっぱいで、反駁の一つも口にできない。固く喰いしばった奥歯が、ギリ、と誰にも聞こえないほどの小さな悲鳴を上げた。

「まあ、ぼっちだとそんなものでしょ。交際費を持ち歩く必要がないんだもの」

 あかりの真正面に立っていた京子が声の方へ少しだけ顔を傾け、金額を確認したあとそう言って笑った。

「あかりぃ、銀行に付き合ってあげるわよ。買い物はそのあとでOK」

 つまり、金を下ろして来いということだ。

 あかりは目だけで逃げ道がないかを必死に探した。両脇には京子の取り巻きの女子が二人。あかりが逃げないよう壁に寄り掛かって退路を塞いでいる。あかりの態度に逃亡を察したのか、両脇の女子があかりの腕をぐっと掴んで肩を壁に押さえつけた。

「京子、ちょっと」

 あかりの鞄を物色していた女子が難しい顔をして京子を呼んだ。

「何?」

 面倒くさそうな声で返す京子に、その女子があかりのスマホを手にひそひそと彼女の耳元に何かを囁いた。あかりのスマホの上部が点滅している。通話かメッセージの着信があったということだ。

「……そうね。あかり」

 京子は不快げに眉根を寄せると、あかりのスマホを持っていた女子からそれを奪って目の前に差し出した。

「着信があるみたい。どうせ親からでしょ。放置だと後々面倒だから、先に処理を済ませて」

 そう言われてスマホをずいと突き出されると同時に、右片側だけが解放された。九死に一生を得た気分でそれを受け取る。だがそんな希望も、あかりがパスワードを入れてホーム画面が表示されると同時に潰えた。スマホが再び京子に奪い取られたからだ。

「誰、これ。ユウ? 何これ、“予定より早く終わった、今から向かってもいい?”って」

 メッセージを読み上げられて顔中が熱くなる。同時に腹の底がひんやりとした。待ち合わせ場所はこの高校の最寄り駅。普段待たせたことのないあかりがいないともなれば、ユウのことだ、心配してあれこれ聞くだろう。京子たちと鉢合わせをするのもマズい。

(無視されているだけっていう嘘がユウさんにバレちゃう)

 なんとかこの場をやり過ごして駅へ行かないと。その焦りがあかりの語気を荒げさせた。

「勝手に見ないでよ」

 あかりのそんな抵抗も虚しく、身体が更に強く両脇の女子に押し付けられた。京子が勝手にスマホのデータを覗いていく。

「へえ……LINEの友達、随分と増えたのね。ユウって、男なんだ。田所くんを誘惑しただけじゃ物足りないなんて、随分よね。彼がお気の毒」

 京子は片方の頬だけを引き攣らせて笑みらしきものを浮かべ、忌々しげに吐き捨てた。それからあかりの言葉を無視して、勝手にスマホを操作し始めた。

「何、やってるのよ。勝手なことしないでってば」

「今日この人とデートの予定だったんでしょ。でも、提出のノートを写す方が優先よね。断っておいてあげるわ。女の友情をないがしろにすると怖いわよう」

 おどけた口調でそう言うが、京子の顔は醜くゆがんでいた。嫌な予感があかりを後先考えずに行動させた。

「返してッ」

「痛ッ」

「きゃ」

 両脇の女子に頭突きを食らわせ、怯んだ隙に肩を押さえていた彼女たちの手から逃げ出す。京子の背後に回り、慌てて振り向いた瞬間にスマホを取り返す――つもりだったのに、あと少しというところでガシャっと鈍い音が響いた。

「あ、ごめーん。落としちゃった」

 罪悪感など微塵も感じられない謝罪。その言葉を吐いた主は、今のあかりにとって命綱とも言えるスマホを靴で踏みつけていた。

「壊れちゃったかしら。私のせいね、修理に出しておくから、パスワードを教えてよ」

 当然のようにそう命じる京子の言葉がとても遠くから聞こえる気がした。

(どうしよう……ユウさんと、連絡が、取れない)

 あかりの身体から力が抜け、ずるずると京子の足許に身を崩していった。映画か何かを見るような感覚で、彼女の足が何度も路面に捻り込んでいる自分のスマホを茫然と眺めた。次第にその光景がぼやけてゆき、へたり込んだあかりのスカートのひだに透明の雫が一つ二つと落ち、それがじわりと滲んでいった。

「やだ、スマホが壊れた程度で普通、泣く? 依存症みたい」

「それとも、あれ? 男とのデートがドタキャンになったら振られる、って程度の付き合いとか」

 頭上から降る嘲笑に釈明するどころか、悔しがることさえできなかった。

(約束を黙って破るなんて……きっと、呆れられる……)

 また嘘の上塗りを重ねないといけない。出逢って間もないころと違い、今のユウはあかりの顔色を見て本当のところを見抜いてしまうから、貫き通せる自信なんてないのに。

“嫌われる”

 その単語があかりの脳内をぐるぐると回り、ほかのすべてに対する思考を停止させた。

 京子がスマホから足を除け、汚物を摘まむようにそれを拾い上げた。あかりがぼんやりと目でそれを追うと、蔑む微笑があかりの瞳をまっすぐ見下ろした。

「パスワード、忘れちゃったんだ? それなら学生証を借りていくわね。事情を説明してリセットしてもらえば、中身なんてソッコー確認できちゃうし」

 京子の声に反応し、取り巻きの一人があかりの鞄を探る。

「あれ? ない。あ、財布の中かも」

 その女子が立ち上がり、捨て置かれたあかりの財布の方へ視線を移した瞬間、顔色を変えた。

「これ、俺があかりちゃんにプレゼントしたのと同じ財布だ。落とし物?」

 すっかり耳に馴染んだハスキーな声が、あかりの顔を声の方へ上げさせた。京子たちから見て背後に当たるそちらへ彼女たちも振り返った。最初に小さな異変に気付いた女子が、あかりの鞄をとさりと落とした。別の誰かが小さな悲鳴を漏らし、そして彼女たちに遮られていたあかりの視界が、両脇に彼女たちが退いたことで一気に開かれた。

「お、あかりちゃん見っけ。何やってんの? すぐ返信が来ないなんて初めてだから、心配になってガッコまで迎えに来ちゃった」

 ユウのその言葉には、あかりよりも先に京子が反応した。

「どなたですか。関係者以外立ち入り禁止のはずだし、裏門も鍵が掛かっているはずなんですけど」

「やあ、後輩クンたち。俺も数年前までここに通っていたんだよね。知ってた? 裏門からぐるっと回ったちょっと先、あそこの柵は俺たちの代がコッソリ壊して遅刻や早退のときの抜け道にしてたんだ」

 ユウがそう言って裏手の方を指さしたが、誰もそちらへ視線を移さない。

「卒業生……ですか」

「まあ、そんなトコ。そのハンネは本名の古川優子から取って、ユウ。こんな声と見てくれだけど、一応女子なんで。予想が外れてゴメンね」

 柔らかな口調と裏腹に、ユウの視線は威圧感を抱かせる強さで京子を睨み据えていた。笑っているのに、あかりにはそれがとても怖い微笑に見えた。知らないうちに両の肩がふるりと揺れた。

「蔵木が俺の元副担だから、なんだったら確認してみるといいよ。それと、あかりちゃんを連れ帰っていい? こっちが先約なんで」

 ユウはそう語りながら女子の輪に近付いて、皆が硬直している間にあかりの腕を取って立ち上がらせた。

「あかりちゃんのドジっこ。スマホ落として壊しちゃったんだ? お友達さん、拾ってくれてありがとねー。一緒に失くしたスマホを探してくれていたんでしょ?」

 あかりにとっても、そして恐らく京子たちにとっても想定外の言葉がユウから放たれ、一瞬誰もが答えに詰まった。

「あかりちゃんの代わりにお礼、と言うのもなんだけど、そっちの柵から帰るのを見逃してあげる。職員室から丸見えの裏門から帰るのは、君たちも何かとマズいでしょ?」

 ユウはそう言ってあかりの財布をコートのポケットに収め、代わりに別のアイテムを取り出した。

「――っ!」

 京子の息を呑む音がかすかに空気を揺らした。ユウが翳したのは、自分のスマホの画面。あかりや京子たちに見せた画面には、ついさっきまでの出来事が録画映像として再生されていた。

「蔵木には黙っておいてあげる。その代わり、今さっき話していたノートってのを貸してくれないかなあ。あ、それから、今後は行動に気を付けて。俺、蔵木とは在学中にいろいろあって、未だにときどき呼び出されてココに来ることがあるんだよね。あんまり君たちがあかりちゃんと仲良くしていると、姉貴分の俺としても君たちがどういう子なのかなあ、って気になるから、また声を掛けちゃうよ?」

 カラカラと笑う声が、ユウのその脅しを冗談なのか本気なのか冷静に判断させない。

「……あかり、約束があったなら、先にそう言えばいいのに」

 悔し紛れの一言が京子の口から漏れた。女子の一人が恐る恐るユウにあかりのノートを手渡している。

「あれ? あかりちゃんのノートなの?」

「え、と、その」

 口ごもる女子に苛立った様子の京子が小さく舌打ちをした。

「昨日の日直が私だったんです。うっかり自分のノートにあかりのノートを紛れ込ませてしまって。返そうと思ったんですけど、実は私がまだ未提出だったから返す前に写させてもらおうと思ったんですよ」

「ふーん、そう。でも、ズルはよくないなあ。自力でがんばれ?」

「そうですね。反省しました。もう私たち、帰ってもいいですか」

「どぞー。さよなら」

「……さよなら」

 京子は吐き捨てるようにそう述べると、あかりの方へ向き直った。彼女はブレザーのポケットからハンカチを取り出し、あかりの汚れたスマホを丁寧に拭き取った。

「あかり、ちょっと」

 京子はそう言ったかと思うと、女子やユウから少し離れた場所へあかりを引っ張っていった。離れたとは言っても、彼女たちから二人の姿は丸見えだ。何をされるか解らない怖さは、それで少し和らいだものの、京子の気性を解っているあかりは身構えて彼女と向き合った。

「壊れていたら弁償するから。せっかく見つけたのに落としたのは私だし。これ、家の電話番号を渡しておくわね。そっちの家電からケータイだと電話代が高くつくでしょ」

 彼女はそう言って鞄からメモ帳とサインペンを取り出し、何かを走り書きした。それをスマホと一緒にあかりへ渡し、彼女らしくもなく深々と頭を下げる。

「本当に、ごめんなさい」

 その殊勝振りがあまりにも京子らしくなくて、あかりは返す言葉もなく茫然と彼女の前に佇んだまま下がった頭のてっぺんを見下ろしていた。

 だが、彼女の真意はすぐに解った。それは、彼女が顔を上げた瞬間に忌々しげな表情を見せてあかりを睨んだから、ということからだけでなく。

『アイツの録画データ、必ず消して来なさいよ』

 メモに書かれていたのは京子の自宅電話番号ではなく、その一言だった。

「……もう、いいから。わかった、から」

 そう返すのがやっとだった。今の急場をしのげたとしても、週明けの報復が、怖い。

「みんな、帰ろ。カラオケ行こうよ、カラオケ」

 京子はわざと明るい声でそう言い、ユウの指し示していた裏手の方へと消えていった。取り巻きの女子たちは怯えた表情を浮かべながらユウとあかりを一瞥してから、京子の後を追うように走り去っていった。


 陰湿で粘り気のあるささやかな喧騒が、気まずい静寂に変わった。あかりは突然現れたユウを前に、どう立ち振る舞えばよいのか解らず、壁にもたれたまま立ち尽くしていた。

 ユウは荒らされたあかりの鞄を拾うために背を向けていた。彼女は気だるそうに鞄を取り上げると、土や植え込みの枝葉を丁寧にそっと取り払った。

「ねえ、なんで持ち物が全部ビニール袋に入っているの?」

 あかりはそれに答えられない。ユウは土汚れですっかりくすんでしまった財布をコートのポケットから取り出した。ファスナーが全開された長財布の口から学生証やポイントカードがパラパラと地面に落ちる。

「ねえ、いつも小銭しか持ち歩いてないの?」

 落ちたカードを拾い集めながら、ユウがあかりの方を見ないまま淡々とした声で問い質した。

「ハニー」

 いつもと変わらない穏やかな声があかりを呼ぶ。だが、いつものように「はい」と返事ができなかった。

「――ッ」

 喉の奥がひりりと痛み、あかりの意に反して無様な嗚咽が唇の隙間から嫌な音を立てて漏れた。俯いた先の地面がぐにゃりと曲がり、あかりは壁に背を付けたままずるずると地べたに座り込んだ。

「――っぐ……え……っ」

 みっともない泣き声と涙が地面へ吸い込まれてゆく。恥ずかしさと悔しさと、そして自分をコントロールできない自己嫌悪が、あかりに膝を抱えて蹲らせた。顔をそこへ深く埋め、ユウの視線から逃げた。

「……俺、怒ってるんだぞ」

 そんな言葉と裏腹に、哀れみの混じった穏やかな声が頭上から降って来る。不意にあかりの頭上から照らしていた陽射しの熱が遮られたかと思うと、それとは別の温もりがあかりを包んだ。

「ユ」

「俺、最初のメッセージのとき、言ったよな? 愚痴でもなんでも聞けるから、一人で抱え込むな、って」

 顔を上げたあかりの目の前には、今にも泣きそうな顔をしたユウの顔があった。驚きのあまり立てていた膝から力が抜けた途端、引き寄せられてもっと強く抱きすくめられる。

「どこが“ちょっとハブられてるだけ”だよ。器物損壊に窃盗、立派な犯罪だぞ、これ」

 コトコトと心臓がせわしなく動き始める。感情の高ぶりを抑え切れない。

「なんで話してくれなかったんだよ。俺、そんなに頼りない?」

 あかりをきつく抱くユウの腕は震えていた。背に回された彼女の手は握り拳を作っていて、必死で何かを堪えているかのように、やはり震えている。息苦しさの中に、別の何か荒ぶる感情があかりに自分の立て直しをさせてくれない。

「ごめ……な、さ……違うん、です」

 自分のことのように怒ってくれている人がいる。一年以上も前のネガティブなポストをずっと気に掛けてくれていた。こんな惨めでみっともない自分を知られたくなどなかったのに、それ以上にあかりを圧倒する感情がユウの背におずおずと手を回させた。

「こんなの、本当の、私じゃ……ない、のに……ひっく……弱虫……逃げ……て……っ、みっとも、ない……そんな、自分なんか、知られたく、なかった……ひぃ……っく……」

 あかりの髪を撫でる手が、泣き言を許してくれるから。

「怖いよ……ユウ、さん……どう、しよう……ど……したら、いいか……っく、わが、な……ひぃっく」

 あかりは祖母が亡くなってから初めて人前で泣いた。紀代に負担を掛けるようなことは絶対にしない。天国へ逝った祖母にそう誓ったのに。あと少し我慢すれば、卒業という形でやり過ごせると自分に言い聞かせて来たのに。

「参考になるか解らないけれど、少なくても俺のやり方は間違っていた、という話なら、できる。ウチに来る?」

 ユウはためらいがちに言葉を区切りながら、そう言った。こんなに目の腫れ上がった顔では、どこにも行けない。それに、ユウをいつになく重い口調させるほどの内容も気になった。

「……はい」

 あかりは少し迷ったあと、ユウの申し出に短くそう答えた。

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