02. 初顔合わせ
八月二日、正午過ぎ。あかりは待ち合わせた会場最寄りの駅でユウが来るのを待っていた。
日ごろは下車する人の少ない郊外の小さな町の駅。だが今日の花火大会は、国外からの花火師も参加するという意外にも大きな花火大会だ。なので、いかにも町外から来ましたといった感じの浴衣を着た人で溢れ返っている。開催時刻の数時間前では混雑する、と予測したのは何もユウだけではない、ということらしい。
改札口の正面にある小さな商店のショーウィンドウに映る自分の姿を今一度確認する。
あかりの背が伸びるたびに祖母が作ってくれた浴衣は、少しだけ丈が短くなってしまっている。高校に入ってから五センチも伸びたせいだが、もう浴衣を仕立ててくれる祖母はいない。それでも、大輪の牡丹が裾を飾る、白が基調の涼しげなこの浴衣があかりのお気に入りだった。牡丹の淡桃色に合わせた浴衣帯も、どこか醒めたキャラ、と人からよく言われるあかりの第一印象を和らげ、華やかに見せてくれる。真っ黒で重たげな長い髪も、今日はパッションピンクのシニョンでまとめて隠して来た。SNSのPF画像にアップしている自撮り画像では明るい茶髪に画像加工してあったから、ユウが実際のあかりを見ても気付かないかも知れないと思い、その写真を撮ったときと同じ色のメッシュで似非ものの茶髪を演出して来た。
(浴衣にトートバッグは、やっぱり変だったかな)
急に不安が押し寄せる。第一印象が悪かったらどうしよう。そんな不安を抱くのは初めてだ。虐めを経験するまでは、ありのままの自分でいい、という概念さえないくらい素の自分でいられたから。
『あかりはストレートの真っ黒な髪だから地味に見えるのよ。私みたいに柔らかくて明るい髪色だったら、きっとモテるよ。染めてみれば?』
まだ親友と称していたころの京子に言われた言葉を思い出す。意識したことなどないつもりでいたのに、彼女の言葉があかりにコンプレックスを抱かせていた。急にそんなことに気付いたら、彼女の言葉一つ一つが思い出されて来る。それらが実はアドバイスではなく、自画自賛をする比較相手として自分と付き合って来たのだと思い知らされる。周囲の目から比較対象として劣る自分を横に置いておきたかっただけだろう。あかりは京子を信用していた過去の自分に強い憤りを覚えた。トートバッグの取っ手を握る拳がわずかに震え出す。途端に周囲の目が気になり始め、次第に顔が下へ落ちていく。
(やっぱり、やめておこうかな)
大好きな人に裏切られて傷つくのは、もうたくさんだ。そんな小心があかりを悩ませた。あかりの手にはトートバッグから取り出したスマホが入力されるのを待っている。開いたアプリはLINE、ユウのアカウントとのチャット画面を開いたまま手が止まっていた。
ドタキャンしたら結局は印象が悪くなる。
でも、こんな気分で“ハニー”を演じられる気がしない。
そんな迷いがいつまでもあかりに断る理由を入力させないでいた。
「こんな私じゃ、なかったはずなんだけどなあ……」
あかりが溜息交じり混じりに零した呟きは、辺りの商店街を行き交う花火客の喧騒の中へ吸い込まれていった。
あかりは改札を出てすぐの軒下のようなところで、通行人の邪魔にならないよう壁沿いに立っていたが、強い陽射しが射し込んであかりの顔を照らしていた。だがその陽射しが不意に遮られた。そっと影の元になった隣を盗み見る。
(……女の人、かな?)
小柄なあかりよりも頭一つ分背の高いその人は、あかりにそんな疑問を浮かばせるほど中性的な横顔を覗かせた。
長袖のシャツを肘より少し上までめくり上げている。その腕はそれほど汗ばんでいる感じではないが、日常生活の動きだけではつきそうにないほど筋肉がついていて、女性っぽくない。真っ赤なキャップが似合う横顔だった。青がメインの色になっている長袖のカジュアルシャツとの組み合わせは、メリハリが利いていてお洒落な雰囲気を醸し出している。黒のジーンズはストーンウォッシュ加工されているので、そんな色にも拘らず涼しげだ。トレッキングシューズもメッシュタイプなので、いかついイメージのあるデザインなのに暑苦しさを感じない。キャップからは、陽射しに透けてワインレッドにきらめく短い髪の毛先がツンツンと遊んでいる。シャツのポケットから取り出したスマホを操作する手指はしなやかで、それを見ると女性に見えるのだが、服装といい髪型といい、それにノーメイクの素肌というのも女性のそれとはまた違う気もするし。
いつの間にかあかりは、盗み見るという見方からまともに顔を上げて隣で壁に寄り掛かっていたその人を直視していた。その横顔が突然こちらを向いたかと思うと、あかりに向かってにこりと微笑んだ。
「キミ、一人? 結構長い時間ここで人待ちっぽい感じで立っているよね?」
ハスキーだけれど穏やかで優しい声。言葉遣いだけでは、やはり男性なのか女性なのか解らないアルトとテノールの間の声音だった。
「その浴衣、チョー可愛い。キミ、色白だから牡丹のピンクがものすごくよく映えているよね」
あかりが黙り込んでいたからか、その人は馴れ馴れしくベタな褒め言葉を並べ立てた。
(なんだ、やっぱ男の人か。これ、ナンパだよね?)
そう思ったら自然と表情が険しいものになっていくのが自分でも解った。
「ありがとうございます。友達を待っているんです」
あかりはそう答えながら、スマホの画面を閉じた。ドタキャンしようと思ったけれど、ここはユウを待ってこの人を巻いてから帰るほうが後を付けられなくていいかも知れないと判断したためだ。
「そうなんだ。でも、もう二十分くらい待ってるよ? 俺、十分ほど前にキミを見掛けたけれど、陽の当たるこんなところにこれ以上いたら熱中症で倒れると思って声を掛けたんだけど、よかったら向かいの喫茶店でお茶でも」
「せっかくですけれどお断りします。友達は車で来ると言っていたから、渋滞で少し遅れているだけだと思うので、ここから離れてすれ違うと迷惑を掛けてしまうから。そろそろ着くと思うので探しに行ってみます。お気遣い、ありがとうございました」
とにかく一旦この場を離れるほうがよさそうだ。あかりはそう思って、人混みで溢れ返る商店街の筋へ向かって一歩を踏み出した。
「あ、待って! 待ってってば。俺さ」
足早に歩いたつもりだったのに、慣れない草履と浴衣のせいで思っていた以上に立ち去るのが遅くなってしまった。腕を取られてビクリと肩が上がる。一瞬の間に脳裏を過っていく、一年以上前に起きた最悪の出来事。
『林田、待てよ』
あのときも腕を掴まれ、無理やり振り向かされた。恋愛感情ではなかったと思う。でも、少し憧れていた。一年にしてサッカー部のレギュラー入りした学年一のモテ男、田所は、とても努力家だと中学のころから知っていた。でも、田所自身にもそんな自覚もあった。だからあんな行為に出たのだろう。
『あれは京子が勝手に言いふらしているだけで、別に付き合ってなんかいない。俺が好きなのは』
言葉半ばで、彼は焦れて強引にあかりの唇を塞いだ。それはあかりにとって不本意で不快な行為でしかなかった。唇だけでなく、彼を好きだった京子との友情まで彼の欲望によって奪われた。
「は、なし、てッ!」
公道であることも忘れて大声で拒み、思い切り腕を振るって見知らぬナンパ男の腕を振りほどく。周囲の視線が一斉にこちらへ集まるのを感じた。あかりがはっとして顔を上げると、そこにはひどく戸惑った表情のキャップ男が慌てた様子であかりに再び手を伸ばして来るところだった。
「俺! ユウだってば! キミ、ハニーでしょ?」
「!」
キャップを慌てて外して素顔をまともに見せたその人の、特徴ある水蛇を模したピアスに気が付いた。それはユウのアップした画像で見覚えのあるものだった。ヘアスタイル全体を見れば、見慣れた後ろ姿の写真とおんなじだ。短くカットされた、毛先が少し遊んでいるゆるい癖毛を羨んだ記憶が意識の表に引っ張り出される。緊張の糸が緩んだ途端、みるみるあかりの視界がたゆたった。
「……ビックリ、した……ユウさん、だったんだ……よか、った……」
ほろりと目から零れた雫が頬を伝う。慌てて手の甲で拭き取り、できるだけ明るく見えるよう笑ってみせた。
「え……ちょ、な、泣かないで? ね? 驚かせたことは謝るから」
「ううん。私こそ、ごめんなさい。写メの送りっこで顔の確認をしようって言ってくれたのに、私がそれを断ったせいで勝手に勘違いをしたんです。本当に、ごめんなさい」
そんなやり取りを周囲も聞きとめたのか、好奇と怪訝の混じった視線があかりや相手から離れていくのが解った。
「いや、初めて会うまでは、いくら警戒してもし過ぎなんてことはないから。こっちのほうがやっぱ悪かった。言い訳にしかならないけれど、ハニーが塞いだ顔をして待っていたから、もしかして遅刻したのを怒ってるのかな、と思って。そしたら普通に声を掛けられなくて、ホント、ごめん」
それから改めて自己紹介された。
「なんかすっごい今更だけど、初めまして。ユウ、もとい、古川優子です」
差し出された手におずおずと手を伸ばせば、あかりの塞いだ心を引き上げるようにグッと力強く握り返して来てくれる。柔らかくて優しくて、それでいて力強い握手。それがあかりをやっと少しだけ浮上させてくれた。
「初めまして。ハニーこと、林田あかりです」
名を名乗るつもりなどなかったのに、彼女の人柄を表す優しい垂れ目があかりに本名を告げさせた。
直感で覚った。ユウは悪い人じゃない、大丈夫。
「取り敢えずダチは先に会場へ場所取りに行ったからさ。ホント、顔が赤いし、熱中症の一歩手前だとヤバいから水分補給してから行こう? 怖がらせたお詫びをさせてよ」
「はい。あ、でも、お詫びとかいいです。怖かったわけじゃないですから」
「ん? あ、まあいっか。とにかくそこのサ店に入ってから話そ?」
「はい」
あかりは彼女のあけすけな人柄を肌で感じ、ドタキャンしなくてよかった、と心から思った。
喫茶店では少なからず不愉快な思いをした。この地域はユウにとっても地元ではないようで、客や喫茶店の従業員が性別不詳に見える彼女に好奇の目を向けて来る。あかりはその視線が非常に不快だった。
「あかりちゃん、俺と一緒にいるの、居心地が悪い?」
ウェイトレスがあかりの前にクリームソーダを、ユウの前にアイスコーヒーを運んで去ると、当分はこの席へ人が寄ってくることがないと踏んだからか、やっとユウが少し怯えた口調で会話らしい話題を口にした。だが、その内容があかりにとっては自分の感覚とは微妙にずれているので即答で訂正した。
「ユウさんと一緒にいることが、ではなくて、ユウさんを物珍しげに見る視線がかなり失礼に感じて不愉快ですね」
敢えて大きな声でそう述べると、何人かの客が慌てて視線を逸らし、雑誌や新聞に視線を落としたり、同伴の客同士で顔を寄せてひそひそと話をし始めた。ユウはそれを受けて一瞬ぽかりと口を開けて絶句していたが、やがて文字通り噴き出した。
「あっは、やっぱり裏でやり取りしているアッチがリアルのあかりちゃんなんだ」
そう言われて我に返る。しまったと思ったときにはもう口からそれが出ていた格好だ。思ったままの文句を口にした自分が子供じみているとしか思えない。夏の陽気とは別の理由で顔が火照って来た。あかりは「そんなに笑うことないじゃないですか」と小声で文句を言いながら、融け掛けているクリームソーダのアイスをスプーンでざくざくと崩し始めた。
「くふふ……いやでもバカにして笑ったんじゃないよ。見事なくらい完璧に俺の代弁してくれているから、なんか嬉しくなっちゃって」
ユウはそう言って一呼吸置いた。彼女の前に置かれたアイスコーヒーのグラスが、カランと氷の融け崩れる音を奏でる。ユウは笑い過ぎたとアピールするかのように、まなじりをしなやかな指先で軽く拭うと、少し表情を引き締めてあかりに向き直った。
「リアルの俺ってこんなヤツじゃん? 変な目で見られることが多いから、小心者になっちゃった。だから気心の知れた仲間以外の前では、そういう文句の一つも言えないんだよね。実際の俺を見たらあかりちゃんは幻滅するかなあ、なんて、ついさっきまでビクビクしていたし、渋滞した挙句に遅刻なんて大失敗かますし、最悪の初顔合わせになっちゃってゴメン、って思っていたんだけど、なんか、ほっとした。あかりちゃん、少なくても実際の俺を見て幻滅はしていなさそうだ」
言いたいことを言い切ったと言わんばかりに清々しい顔をされても、あかりの方が釈然としない。なぜなら。
「幻滅なんてするわけないじゃないですか。だってユウさんはユウさんでしょう? 私みたいに表裏がある人じゃないと解ったし、どうしてそこまで私の顔色を気にしたり、悪い方へ考えたりしちゃうのか解らないです」
あかりにしてみれば、それが例え本人であってもユウを悪く言うのは赦せなかった。彼女のおかげで今の自分が保てているのだ。自分が尊敬し憧れる対象を悪く言われるのは面白くない。
あかりがまくし立てるようにそこまでを一気に言い終えると、ユウははにかんだ笑みを浮かべた。そして彼女は照れ隠しのようにグラスへ直接口を付けて、アイスコーヒーを口に含んだ。
「……えへへ。ありがと」
長いと感じさせるほどの間が開いた後、彼女はコーヒーをこくりと飲み下してからそう言った。万感の思いをこめた一言のように感じられ、あかりは率直な言葉が少しだけでもユウの気持ちを明るくさせることができたのだと思うと、剣呑だった表情が自然と笑みに変わった。
それからお互いが喉を潤す一杯を飲み終えるまで、互いのことを話した。
ユウにはあかりと年の近い弟がいることや、父親とは不仲であることなどのプライベートを教えてもらった。今日集まっている仲間は高校大学時代の友人たちで、中には初めて顔合わせをする面子もいると言う。
「だから、あかりちゃんだけが初顔合わせというわけじゃないから、気楽にね?」
どこまでも相手の気掛かりを先回りして拭ってくれる優しい人だと嬉しくなった。教えてくれた本名どおり、“優しい”人だと尊敬を覚えた。
あかりの方はプライベートのチャットで、母子家庭であることや三年前に祖母を亡くしていることなどは話してあったので、正直なところ何を話せばいいのか戸惑った。質問をする形でユウからプライベートについて尋ねられることを回避していたが、とうとう当然の問いを口にされた。
「あかりちゃん、学校の話はあまりしないんだね。ほら、前に話していた、ええと、ナツミちゃん、だっけ? その子も一緒に来ればよかったのに。俺に気を遣って声を掛けなかったの?」
そう言われた瞬間、腹の底が冷えた。ナツミというのはあかりが取り急ぎ作り上げた架空のランチ友達で、楽しい学校生活を送っている“ハニー”を演じるための小道具に過ぎないからだ。
「え、ええと、ナツミは、今日は彼氏とデートで」
そのあとが続かない。作り笑顔が苦しくて、頬の筋肉が引き攣って痛んで来る。スマホの画面としか向き合わないソーシャルメディアを介してならいくらでも嘘がつけるのに、まっすぐあかりの瞳を見つめて来る優しい垂れ目がそれに続く嘘をつかせない。射抜くように見つめて来る細い垂れ目があかりの嘘など簡単に見抜いてしまう気がして、巧い返しを思い付けなかった。
「……あかりちゃん、本当はまだ“死にたい”と思うほどの何かが続いてるんだね」
ユウの垂れ目が一層まなじりを下げて、細い細い弧を描いた。そのくせ眉根に淡く縦皺が寄っている。それはあかりの嘘を見抜いていることの証でもあり、同時にその嘘を赦す問い掛けでもあると感じられた。そのくらい問われた声音は優しくて、そしてどこかいたわる響きを伴っていた。
あかりのまなじりから、また涙が一筋うっすらと伝っていく。慌ててそれをまた掌で拭って必死に笑ってみせた。
「そんなこと、ない……あれ? ごめ、ん、なさい」
巧く笑えない。勝手に眉根に皺が浮かぶ。堪えようと奥歯を噛み締めたら瞼まで固く閉じてしまい、困ったモノがまた目から溢れて、もうあかりの理性を以ってしても止めることができなかった。
「やだ……お、おかしいな……なんでだろ?」
笑いながら泣く姿など滑稽だ。それを恥ずかしく思うと同時に、一緒にいるユウにまで恥ずかしい想いをさせている現実が悲しくて、ますます涙が止まらなくなってしまった。
「やだ、もう……ごめんなさい。別に、えっと」
「あかりちゃん、周りの目なんか気にしなくていいよ。ナツミちゃんって、本当はいないんだろ? だって、時々“ハニー”は自分の弁当箱とナツミちゃんの弁当箱を言い間違えてポストしてたもん。本当は家でお母さんと自分の弁当を撮って昼にアップしてたのかな、って思ってた。気付かない振りをしてて、俺のほうこそごめんね」
そんなミスをしていたのか。そしてユウは全部解っていたのか。そう思うと余計に顔を上げられなくなった。
(髪、アップにするんじゃなかった)
そんな後悔があかりを襲う。せめて髪を下ろしていたら、顔を隠せたのに。泣き顔を見られるのが悔しくて恥ずかしくて、ただ黙って俯くばかりだった。
そんなあかりを見てどう思ったのか、ユウがとつとつと自分の過去を語った。
「俺ね、見た目と中身がこんなんじゃん? 中高とキモいって言われてハブられていたんだ。多分、あかりちゃんも俺と同じ昼休みを過ごしているんだろうな、って思ってる。あかりちゃんが俺と違ってスゴイところは、それでも明るく振る舞って自分を奮い立たせようとしてる頑張り屋さんなところ。俺は親父とは仲が悪いし、おふくろに随分心配掛けたんだよな。ネガティブな方向へ気持ちが傾いちゃっていたから」
ユウはこの一年弱の間にあかりと交わした何気ないやり取りの中から、あかりの実情を察してくれていた。ナツミ以外に友達の名前が上がらない不自然さ、母に虐めの事実を知られたくないのだろうと容易に推測させる母への感謝の言葉、“ハニー”というキャラ設定の割に「同世代の男子は苦手」という、そこだけは真面目な口調で繰り返されるので、男性ユーザーを牽制していると感じられていたことなど。
「俺のせいかな、って思ったんだよね。何も事情を知らないくせに、フォローしてからまず送り付けたプライベートメッセージが、言霊に引きずられるな、みたいな説教だったから。せっかく吐き出す場所を作ったのに、その場所を俺が奪っちゃったのかな、なんて。だから、一度ちゃんと顔を見て話したいと思っていたんだ。その上で謝りたいな、とか、俺でよければ、頑張り屋さんの看板を外してぶっちゃけて、とか、まあ、なんていうか、巧く、言えないけど」
ユウの弁に終止符を打つかのように、グラスの氷がカランと涼しげな音を立てた。彼女のアイスコーヒーは少しも減っていない。薄くなって味が落ちてしまったであろうアイスコーヒーを、彼女はやはりグラスに直接口を付けてゆっくりと飲み下した。
あかりのソーダに乗っていたアイスクリームも、すっかり融けて濁った緑色のソーダに変えてしまっている。だが、その濁った緑色が、とても綺麗に見えた。人工的などぎつい透き通った緑よりも、甘ったるいクリームで柔らかな色にして適度に濁り、無駄に透かし見なくて済む色合いになっている。その色合いがあかりの目にはとても美味しそうに見えた。
「ユウさん」
そう呼びかけるあかりの声がか細く震えることはなかった。憑き物が取れたように心が軽くなった。もう嘘をつく必要は、ない。
「あ、はい」
怯えたような敬語の返事が、少し悲しい。あかりはユウの誤解を解きたくて、大袈裟なほど明るい口調で感謝の言葉を彼女に伝えた。
「私ね、ユウさんの“言霊”って言葉のおかげで、救われたんです。私はユウさんが思っているようないい子じゃないんです。いつか自殺したくなるほど思いつめてしまったとき、ただで死んでやるものか、あなたたちのせいで死ぬんだから、その証拠を残してやる、と思ってあのアカウントを取ったんです。82ってのは私を示すクラスメートたちのスラングなんです。shineは死ねって言葉をローマ字表記したつもりだったんです。まさかそれをあんな素敵な解釈をしてくれるとは思わなくて、ユウさんのそれにも私、すごく、すごく、救われたんです」
誰かを、自分を、悪い言葉で呪わなくて済んだ。それに心から感謝していることを彼女に伝えた。虐めの原因も触り程度だが正直に話した。とても不思議なことに、笑って話せている自分がいた。
「京子は京子なりに、本当に田所くんを好きなのだとは思うんです。男の子の趣味は悪いと思うけど。自信過剰で、自分が言い寄れば女子なら誰でも喜ぶと思っている人なんて、どんなにイケメンでも心が不細工だと思うもの。今の私はノーサンキューなんですけどね。ただ、当時の私は今より純粋だった、というか。母が父と本当に純愛結婚というか、好きな人じゃないとキスも嫌、っていう人で、なんか、そういう恋愛に憧れていたというか、恋愛に夢を見過ぎちゃっていた、というか。今どきあり得ないですよねえ」
そう語り終えたとき、あかりのまなじりから最後の一滴が伝い落ちた。袂から取り出したハンカチでそれを拭うと、もう涙は過去と一緒に完全に乾き切ったと感じられた。
「ユウさんが私の名付け親なんですよ? その名前に相応しい自分でありたいと強く思ったんです。だから、私から捌け口を奪ったなんて思わないでくれると嬉しいです。これ以上嫌な人間にならずに済んだから、本当に感謝しています」
あかりの話を咀嚼するに従いユウの表情が尖っていくのに不安を覚えながらも、最後まで伝え切った。
「あかりちゃんは強いね。俺、今キョーレツにむかついてるんだけど。ソイツ、田所ってヤツ? なんだそれ、その京子ってヤツのガセネタを否定しないであかりちゃんを避けまくっているってことは、自分の立場を守ってるだけで、本当にあかりちゃんのことが好きだったわけじゃない、ってことじゃん。あかりちゃんから言い寄るとか、どう見てもうそういうキャラじゃないだろ。なんで赦せるの? 嫌な人間はあかりちゃんじゃなくて、ソイツらじゃん」
ユウの口汚い言葉など、初めて聞いた。田所や京子の仕打ちに対する憤りよりも、こんなつまらない話をしたせいで彼女にそんな険しい表情をさせた罪悪感のほうがはるかに勝っていた。
「今の私は、もう割り切れていますから。それに、ユウさんが今、私よりもいっぱい怒ってくれているから、ますますどうでもよくなりました」
本当にそう思った。メンタル・デトックスというのだろうか。吐き出し、それを涙で流し切ったら、本当になぜそんなくだらないことに拘っていたのかと思う。
「ユウさんにまで不愉快な想いをさせたくせに、私一人でスッキリしてしまってごめんなさい。でもやっぱり、ありがとう、と思います。おかげで完全に吹っ切れちゃいました」
「俺が吹っ切れてない。これからどうするのさ」
「どうもしません。だって、あと一年半の辛抱だし、ユウさんのおかげでこの一年近くもやり過ごせて来たんですもの。実質はあと一年、AO入試を突破できるようあと一年だけ頑張って学校へ行けば、それ以降は最低限の単位を修得すればいいですし、バイトに励みます。少しでも自分で学費をどうにかしたいんですよね。本当に、ユウさんのおかげで、こんな風に前向きに考えることができているんです」
とにかくユウを笑顔に戻したかった。だからあかりはことさらに大したことではないと強調し、彼女に精いっぱいの笑顔を向けて意向を主張した。
「うー……ん、あかりちゃんがそう言うなら、俺だけぷんすかしていても、却って嫌な事を思い出させるだけだよな……。うん、それなら、俺も割り切る努力する」
「はい、そうしてください。あと、一つだけお願いをしてもいいですか?」
「うん、何?」
「ユウさんに“ハニー”って呼ばれると、元気が出るんです。別に自分の名前が嫌いなわけじゃないけれど、ユウさんには顔を合わせて話すときにもそう呼んで欲しいかな、って」
変なことを願い出たのだろうか。あかりが少し自信を失くしてそう考えてしまうほどには、ユウに唖然とした顔をされた。だが、ほどなく彼女はあかりが驚いてしまうほどに相好を崩し、
「わかった! よし、じゃあハニーの元気印が戻ったところで、行きますか」
と、ようやく快活な笑顔に戻ってくれた。
「はい」
残っていたクリームソーダをズズっと一気にストローで吸い上げる。甘ったるい濁った緑色の液体が心地よく喉に染みわたっていく。子供のころに飲んだきりだったクリームソーダが、今でもこんなに美味しく飲めるとは思いもしなかった。
会計でおばさんよろしく支払い合戦を軽く交わし、結局「誕生日の人は財布を開かない!」と言われ渋々財布をトートバッグに戻す、という失態を演じる破目になった。だが、それもまた楽しい。
「えへへー、なんか嬉しいー」
駐車しているワンコインパーキングへ向かう道中で、ユウが突然ニヤニヤしながら呟いた。
「何がですか?」
摺り足で彼女の隣に並んで歩きながら、見当もつかないので尋ねてみると
「ハニーが本当に俺の前では素の自分でいてくれてたんだなあ、って。ネット上でのキミと今のキミに差がないからさ」
と言ってはにかんだ笑みを投げて来た。なぜかその笑顔にドキリとした。弱った心をいたわるように頭を軽く撫でてくれる。その手はとても優しくて、シニョンが崩れないよう配慮してくれている心遣いが伝わって来る。そういうところは女性ならではだと思う。
「私、一人っ子だから。お姉さんが欲しかったんです。ユウさんのいい妹分になれますか?」
おずおずと問い掛けながら、頭一つ分背の高い彼女を見上げた。
(……え?)
見間違いかも知れない。キャップのつばが彼女の顔に影を作ってそう見えたのかも知れない。
「じゃあ、俺は両親違いの姉貴ってことかあ。弟しかいないし、妹ちゃんってのもいいよね」
ユウはそう言って笑ったが、その声音もまた一瞬垣間見せた表情のように、どこか残念そうな響きをしている気がした。