15. 田所和馬、という人
それから一週間と間を置かずに、そのときがやって来た。
屈辱でゆがんだ顔を隠せるからと、いつも束ねることなく下ろすために伸ばしていた無駄に長い髪。今日はサイドの髪を編み込んで後ろでしっかりと留めた。
休日だったが、制服に袖を通した。今のあかりにとって、制服は戦闘服だから。フリースクールへ逃げるのではなく、自分の在籍している学校へ戻りたい。堂々と生徒として通うことが目的だから。
心配そうに出勤していく紀代を満面の笑みで見送った。今日より数日前には、LINEの友達アカウントに名前が一人追加された。
田所和馬。
そのアカウントのメッセージ欄を開く。
――蔵木先生から林田の新しいアカウントを教えてもらった。ありがとう。
もちろん、まだ赦してもらえたんだ、なんて浮かれてないから。
ちゃんと、謝りたいと思います。
俺、今はサッカー部を辞めて暇してるから、林田の都合に合わせられます。
連絡を待ってます――。
あかりがクラスメートのグループから抜けるまで見て来た田所のメッセージの特徴は、スタンプや顔文字が乱舞する面白おかしいメッセージばかりだった。そんな彼がテキストだけで綴る様に、誠意のほどを痛いほど感じた。
そのときあかりが返したメッセージは、今日の日付と待ち合わせの喫茶店名だけを記した、ひどく簡素なものだった。過剰に媚びず、過剰に突き放しもせず、フラットにしなくては――と考えたら、本当に愛想のないものになってしまったのだ。心のどこかで、まだ八方美人な自分を感じて落ち込んだ数日前。
(でも、もう大丈夫)
鏡を見て、パンと思い切り頬を張る。
「よし、行く!」
ほどよい痛みがあかりの気を引き締めさせた。
地元で会うのは同じ高校の生徒に目撃される可能性があるので、田所とは都内のビジネス街にある喫茶店で待ち合わせた。テーブルごとにパーテーションで区切られた内装のその喫茶店は、柴田が紹介してくれた店だ。小会議室風を売り文句にしているらしく、よくビジネスマンが打ち合わせに使うらしい。その一方で、店主のいるカウンター席からはボックス席を一望できるので、オーダーの遅延はなく、話し合いの場として何かと使い勝手がいいらしい。あかりとユウは約束の時間よりも三十分ほど早くその喫茶店に到着し、二人で田所の訪れを待った。
約束の時間を待たずして、ビジネス街には不似合いな、黒のハーフパンツに白いパーカーを羽織った色黒の少年がおそるおそるといった表情で店内に入って来た。キョロキョロと見渡す少年――田所に向かい、あかりが席を立って手を振ると、彼はほっとした笑みを浮かべてまっすぐあかりたちのいるボックスのほうへ向かって来た。
「久し……あ」
少しぎこちない笑みに変わった田所がそう言い掛けたところで言葉を呑み込んだ。椅子に腰を落ち着け直したあかりの隣にいる存在にようやく気付いたためだ。
「よう、和馬っち。この間はお疲れさんでしたー」
あかりが内心でヒヤヒヤしてしまうほど、ユウが平坦で冷たい挨拶をが田所に投げ掛けた。
「あんた、この間のクリーン活動ンときにいた……えぇと」
「古川だよ。名前くらい覚えておいてやってよ」
「あ、すんません」
田所はユウに返しながら、驚きに満ちた目であかりとユウとを交互に見比べた。
「ど、どういうこと?」
という田所の眉間に不快の皺が寄る。やはり目の前にいて尚且つ不快をあらわにされると、あかりの肩がすくまった。ユウがすかさず
「毎度のボランティア。蔵木経由の知り合い、と言えば、和馬っちも納得でしょ?」
と、あかりがむっとする言葉を返し、早々に席を立った。
「ま、清廉なお嬢さんに強引な手を使った和馬っちの自業自得なんだから、監視付なのは妥協しろよ。俺はカウンター席に移動するから、言いたいことはいっぱいあるだろうけど、まずはあかりちゃんの話を聞いてあげて」
ユウがそう言い終えると同時に物静かな店主が新たに水を運んでやって来た。
「あ、俺だけカウンター席に移動させてもらいますね」
ユウは店主にそんな愛嬌を振り撒いてから、田所が何も言えないでいる間に去ってしまった。
田所はやむを得ないという顔で店主にコーラを頼み、渋々とあかりの向かいに身を落ち着けた。あかりからはユウの姿が間遠に見える。ただそれだけで田所を見た瞬間に湧いた緊張が和らいだ。
(大丈夫)
自分に言い聞かせ、取り敢えず笑みをかたどってみせる。
「ユウさんは監視だなんて嫌な言い方をしたけれど、本当はそうじゃないから聞き流してね」
田所へそう述べた言葉は震えなかった。そんな自分にほっとしたら、やっと自然な表情を思い出すことができた。
「最近蔵木先生から紹介された、っていう雰囲気じゃないよね。古川さん、だっけ。あの人の言っていた通り、林田が俺と会うのに一人でってのがムリなのは自業自得だし。だから気を遣わなくていいよ。監視されるのは当然だと思っているから」
田所はどこか自嘲めいた笑みを浮かべ、あかりと視線を合わせずに俯き加減でそう言った。
(こんな顔、する人だったかな)
田所はもっと自信ありげな得意顔で心の中にあるものをそのまま出す素直な人、という印象だった。こんな風に、左右非対称にゆがんだ笑みを浮かべる人ではなかったはずだ。
自分が田所にそんな笑い方をさせている。
そう思うと、彼に話す勇気と使命感が湧いた。
「本当に、監視じゃないの。あのね、私、今日は、田所くんに、お礼とお詫びと、それから相談をしたくて時間を作ってもらったの」
「お礼と、お詫び? 何それ」
あかりの言葉がよほど意外だったのだろう。素のままに驚く見慣れた表情が、田所の面を自然なものに戻す。
「うん。田所くんとああいうことがあったあと、始めは私のほうが田所くんを避けていたよね。ちゃんと返事もしないまま、それから気が付いたら京子が……という感じだった。私、あのころはまだ誰かを好きになるという経験がなかったから、自分の態度がどれだけ田所くんを傷つけるものだったのかを全然解っていなくて……ごめんなさい」
深く頭を下げながら、あかりは一週間前のことを思い出していた。
告げられたと同時に「依存でしかない」と切り捨てられた瞬間の気持ちを思い出す。それだけで身を切るような痛みが再燃する。一瞬すべての感覚が麻痺するほどの痛みを思い出すと息が詰まった。
思い切り息を吐き出して、それから酸素を取り入れる。潤み出した瞳のほどよい乾きを自覚すると、あかりはゆっくりと顔を上げた。そこにあるのは浅黒い肌をほんのり染めて引き攣った笑みらしき表情をかたどる田所の顔。
「よ、よかった。お、おまえが謝ることじゃ、ないし。顔上げろよ、って言おうと、したんだけど」
絶妙なタイミングで店主がコーラを運んで来る。田所はそれを救いとばかりにコーラへ手を伸ばし、ストローも挿さずに口を付けて飲む形で顔を隠した。
「でも私、これからもっとひどいことを田所くんに伝えるつもりだから、やっぱり謝るべきなのは私だと思う」
「ひどいこと? って?」
グラスから口を放し、きょとんとした顔をする田所は、やはり憎み切れない。久し振りに顔をまともに合わせたら、やはり彼は皆の言うとおり“いい人”だと思った。
少しだけ、ドキドキする。恥ずかしいのか怖いのか、それとも自覚のない何かのせいなのか。
あかりは自分の混沌とした感情を抑えようと膝の上で握り拳を作り、それらを握り潰してから告げた。
「私が田所くんにどれだけひどい態度をしたのか知るきっかけをくれたのは、田所くん自身だから。田所くんとのことがきっかけで京子とこんな風になっちゃって。でも、そのおかげで地域限定SNSのアプリサービスを見つけることができて、そこでユウさんと知り合えて、それで……人を好きになるということや、その相手に応えてもらえない辛さを知ることができたの。今の私は、前よりも自分のことが、ちょっとだけ、好き」
――だから、悪かったなんて、いつまでも気にしないで欲しいの。
「気に、するに、決まってるじゃん。だって、おまえ、泣いてたし」
田所があかりよりも傷付いた顔をしてそんなことを言うから。
「えっと、それも、もう、いいの。今、あなたの後ろにいる人に、すごい泣き付いて、上書きしてもらったから」
「……え、と……?」
「ユウさんを好きになって、一度振られて、でも、その理由が私のことを全然そういうふうに見れないというんじゃなくて、彼と付き合うことで私まで偏見や好奇の目で見られることを気にして私から逃げていた、というか。だから、本当に、ごめんなさい。それと、きっかけをくれて、ありがとう」
「……」
田所の顔から、表情が抜けた。彼の手に握られていたコーラのグラスが、つるりと一瞬宙に浮く。
「え――ッッッ!?」
という絶叫が店内に轟いた。
「あっ」
あかりは咄嗟に両手を伸ばし、落ち掛けたグラスの底を辛うじて田所の手の中に押し留めた。その向こうに、びくんと肩を上げてこちらを振り返るユウの姿が目に入る。剣呑に目を細めて立ち上がったユウを見て慌てたあかりは、首を横に何度も強く振って「大丈夫」とアピールした。
「お、あ、ご、ごめん。すみません」
田所は立ち上がって、見えもしないパーテーションの向こうにいるであろう客たちや、カウンター席の向こうにいる店主に頭を下げた。申し訳なさそうにまた座り直し、溜息をついてまた背を向けたユウとあかりを交互に見比べた。
「え、ちょ、待てよ。あの人って確か」
「うん。古川優子さん。女性名だし戸籍も女性になっているけれどね」
目を白黒させて理解不能とばかりに言葉を畳みかけようとする田所を制し、あかりは簡単に性同一性障害のこととユウがそれであることを伝えた。
「中身は、男……百合とは違うんだ?」
「そう。私もまだ不勉強もいいところだから、知らずにたくさん彼を傷つけていることもあるんだろうけれど」
「てか、おまえ、大丈夫?」
心底心配するその表情は、ユウとのことが知れたときに見せた紀代の表情と似ている。決してユウに対する差別意識から来る「大丈夫?」ではないと感じられた。
「その大丈夫か、というのは、ユウさんを気持ち悪いと思っての大丈夫か、ではないのよね?」
「まあ……言葉遣いが乱暴な割にはすっげえ繊細だな、っていう印象があの人にはあるから。自分でも林田のカムアウトを聞いて妙に納得している自分にビックリしてる」
田所は寧ろ世間の大多数を占めるであろう偏見の目に、これまでそういったことと無縁だったあかりが耐えられるのか、ということを心配したようだ。彼らしくもなくたどたどしく言葉を慎重に選びながら、
「今ですら学校に来れない状態なのに、それ以上に容赦ないぞ。おまえがへこんだら、自分が何か言われる以上にへこみそうじゃん、あの人」
と“大丈夫か”の内訳を口にした。たった一日時間を共有しただけでユウの人柄を察している田所に、あかりは少なからず驚いた。
「私も、そう思う。ユウさんは自分よりも自分の理解者が苦しむのを見ていられない人だから。というか、田所くんって第一印象でそんなに人を見抜ける人だったっけ?」
率直にそう尋ねたら、ひどく心外な顔をされた。
「おま、結構辛辣だな。開き直ったから言うけれど、俺、おまえには一目惚れだったし。中学のときだって、サッカーのスキルだけで主将をやっていたわけじゃないぞ」
「あ……すみません」
気が付けば中学時代のときと同じような気楽さで田所と話せていた。それが彼の配慮からだと気付いたのは、そのときだ。
「私、田所くんを見くびっていたのかもしれない。いつもハイテンションでお調子ばかり言っているから、あまり深く考えない人だと思ってた」
「おまえなあ……。まあ、いいや。なんか、さんきゅう。古川さんには、度合いの違いを思い知らされたって感じ。なんか、吹っ切れた」
「度合い?」
「うん。俺さ、なんであんなに焦ったかって、二宮に“おまえは腫れた惚れたの話には鈍いよな”って、京子のことをチラっと聞かされてさ」
二宮は、確か田所と中学時代から仲の良かった男子だ。今は別の高校に通っている。
「京子のことって?」
「あ~……自分の口から言うのもなんだけど、俺に……って」
田所にしてみれば京子は、物心付いたころから隣の豪邸に住んでいる幼馴染、同い年の妹のような感覚らしい。そしてあかりとは仲が良いので、京子の気持ちに気付いていないと思われているうちにあかりとどうにかなってしまえば、京子から告白されて気楽な関係を崩されることはない、と考えたそうだ。
「ほら、アイツってプライドの高いお嬢さまだからさ、振られるのが解ってコクって来るとか、あり得なさそうじゃん。サイテーだよな、俺。林田や古川さんみたいな覚悟なんか全然なくってさ、自分の心地よさ優先、っていうか、その程度の“好き”だったんだ、って、今改めて思い知った」
あかりに対する出来事だけでなく、彼は自分の計算高さへの自己嫌悪と京子に対する後ろめたさもあって、どう接していいのか解らなくなったと懺悔した。
「俺は部室を穢したヤツでもあるし、すぐに退部、とも考えたんだけど。でも、去年は三年のレギュラーがダメダメで、県大会出場を逃したじゃん? 二年の先輩たちの悔しさがすっげえこっちにも伝わってて。俺、一年で唯一のレギュラーだったじゃん。今の先輩たちのほうが去年の三年よりも実力者が多いから、絶対今年は県大会出場の自信はあったんだ。だから、先輩たちのためにもそれまでは、と思って辞められなかった」
でも、今年は県大会出場を勝ち取った。だからようやくけじめをつけられたのだと言う。
「林田に対してだけじゃなくて、京子に対しても、部員たちに対しても。俺の自己満足でしかないけれど、償いをして楽になりたかったんだと思う。だから……それは、気にすんな」
――これでイーブン、それでいい?
懐かしい、少年のようなニカっとした笑みを浮かべて田所が言う。
「……うん。ありがとう」
涙を堪えるのがやっとだった。彼に負けないくらいの笑みを浮かべ、あかりはやっと一年半近く前の出来事にエンドマークをつけることができた。
それから、次の本題を切り出した。互いの負い目を拭った上で、頼みごとがある、と。そこであかりは田所の了承を得て、ユウを自分たちの席へ呼んだ。
「俺抜きで、って話のほうは解決したの?」
少し気まずそうに問うユウへは、あかりが
「はい」
と簡潔明瞭に答えた。おそらくカウンター席から自分の紅茶を取りに行こうとしたのだろう。「んじゃ、ちょっと待ってて」と言ってカウンター席へ戻ろうとしたユウの背に向かって田所が
「予想の斜め上を行く理由できっちりケジメ付けられちゃいました。美味しいトコ持って行きやがりましたね」
と余計な一言を添えてユウの歩みを止めてしまった。
「ちょ、待って待って? あかりちゃん、どういう話し方したの?」
先ほどまでユウの顔を覆っていた仏頂面が見事に剥がれ、彼はニヤニヤと意味ありげに笑っている田所とあかりを交互に見ながら、引き攣った笑みを浮かべて縋る視線をあかりに向けて来た。
「ナイショです」
軽く、苛つく。
(なんでそんな顔するかな。嫌そうにしか見えないんですけど)
ユウがもたついていると、田所が彼にある意味でのトドメを刺した。
「あ、林田の一番手を強奪してすいませんでした。寛大な彼氏さんでよかったッス」
「――ッ!?」
みるみる赤くなってゆく顔が、しれっとコーラに口を付ける田所からあかりのほうへ移って来る。
「あ、あかり、ちゃん? あの」
「さっさと紅茶を取りに行ったほうがいいと思いますよ。店主さんがこっち見ながら困った顔をしています」
「う、はい」
そう言ったあと、肩を落として一度立ち去るユウを一瞥した田所が、
「すげえな。あの人の前だと中坊ンときの林田に戻れちゃうんだ」
と冷やかすように笑った。どういう意味かと尋ねてみたら、「相手が誰だろうと顔色を気にせずハッキリ正論を言いのけちゃう気の強さがおまえの本質だろ?」と言って、また笑われた。言われてようやく思い出した。善し悪しはさておき、そう言えば昔の自分はそうだったな、と。
「ありがとう。褒め言葉だと思っておく」
京子とも、そういう関係だった。それを思い出せたら、これから先に起こることに対しても踏ん張れるような気がした。
田所には、協力を仰ぎたい意向をあかりから告げた。ユウがそれを補足する形で詳細の説明をした。
「どこかに口裏を合わせたり意思疎通を図る場があるはずなんだよ。そこを押さえれば物証になるらしいんだよな。和馬っちには君自身に被害が及ばない範囲で、そういう場がどこなのかを探って欲しいんだ」
「って、何をどこから探せばいいんッスか。俺、基本的に女子と絡む機会なんてないんだけど」
「この店を紹介してくれた柴田さんがあかりちゃんのお母さんの婚約者で取材記者、って話をさっきしただろ?」
「あ、はい」
「その柴田さんは以前、虐め被害者からの投書を受けて、それ以降その被害者家族の密着取材をしたことがあったらしいんだ。そのとき盲点だったらしいんだけど、裏チャットとか裏掲示板とか、在籍校関連は教師や親も血眼になって探すんだけど、卒業した中学まで調査を進めていなかったらしくって」
「ああ……LINE虐め、ってヤツ」
田所がそう呟いたあと、表情が一瞬翳った。
「なんか身に覚えあるの?」
鋭く追及するユウに、彼は手を振ってユウの疑念を否定した。
「違う違う、違うッス。ただ、今思うと、あれもLINE虐めだったのかな、と思うことがあって」
「なに?」
「去年の文化祭あとの打ち上げ、林田だけ参加しなかったんだ」
田所からそう言われて思い出す。福祉施設でのバイトを終えてから、LINEの通知を見てクラスのグループチャットを覗いて初めて打ち上げがあったのを知った。
「あのとき参加していなかったのって、私だけだったんだ」
添付されていた楽しげな画像や、これみよがしの楽しげなやり取りを思い出したら、笑顔を保つのに少しだけ苦心した。
「ごめん……あのとき京子たちに、なんでわざわざチャット入れてんだよ、とは言ったんだけど、林田はバイトがあるから声を掛けづらかったから、せめておすそ分け、とか、誰かほかの人が声を掛けていると思っていて声を掛けなかった、って言っていたヤツもいて、そう言われてみればそうかな、って、聞き流しちゃったんだ。気付けてなくて、ホントにゴメン」
それを機にあかりがクラスのグループから抜けたとき、初めて女子の小さな変化に気付いたと言う。
「ま、過ぎたことだし、蔵木も確証がなくてイガイガしていたところもあったみたいだし、気付いたところで一人では自分もタゲられて終わりだろ? あかりちゃんもそう思ったから誰にも相談できないでいたわけだし。悪人探しが目的じゃないんだから、これからのことに意識を集中させなー」
どんよりとした雰囲気を払うようにユウがそう言って、やんわりとその話題を締め括った。
「あ、でも、ってことは、やっぱ今のクラスでもグループを作ってるってことだな。そこでは変化なしか」
「あ、はい」
「柴田さんが保護者代理として蔵木に申請して、校長たちに内緒で提示されたクラスメートの住所一覧を見て気付いたらしいんだけど、本田京子とつるんでいる女子、全員中学も一緒だよな」
「あ、そう言えば、そうだ。林田が俺らの中学へ転入して来るまでは、アイツら京子に媚び売ってた。京子本人は“顔色を見て機嫌取りばかりなんて、友達じゃない”って付き合うのを面倒くさがっていたけれど、ほかの女子も似たり寄ったりだったしなあ」
「本田京子の父親が地元の議員なんだってな。本田京子の母方のじいさんの地盤を継いでいるみたいじゃん」
「そう言えば、うちのおふくろが“京子んちの親父さんは婿養子の癖になんだかんだ”って、親父に文句を言っていたっけ。それ、何か関係があるんッスか?」
「和馬っちがそうやって親の会話を聞いているように、どこの家庭も知らずに親の影響を受けているんじゃあないかな、って。取り巻きの女子たちの本田京子への反応も、彼女自身のカリスマもあるだろうけど、親という後ろ盾があるからみんなが顔色を見る、とか。そういうのって地元関係が続くもんじゃないか? 高校で分かれた面子も未だに繋がっている可能性もあるんじゃなかな、と思って。校外の人同士なら、うっかり担任にチクりました、なんて裏切りの心配も薄くなるし」
そこでユウは田所に「思い当たるそれに類似した何かがないか」と尋ねた。
「え……中学のときはガラケーの人が多かったからなあ。LINE繋がりってのも少なかったと思うし、俺はそういうのに加わってなかったから、どうだろう」
「その辺り、不自然にならない形で調べて潜り込めないかな。何らかの形で俺も潜り込みたいんだけど。例えば転校して誰とも連絡を取ってない元クラスメートなり同窓生なりに成りすます形とかで、ROM専しておけば内容は把握できるかなー、みたいな」
「それって、俺がやれば済むことじゃないッスか?」
「和馬っちに直接何かさせたら、足がついたとき君が今度はタゲられかねないから、それは却下」
ユウが口にしたその案は、あかりにとっては初耳だ。思わず口を差し挟んだ。
「待ってください。そんなことをしたらすぐにバレるじゃないですか。共通の話題なんて何も解らないのに」
自分の非力さに対する悔しさや情けなさが、二人への反駁に変換される。自分のことなのに、当事者である自分が何一つ関与せずに、何もせずに人任せなのは、あまりにも依存し過ぎている気がして自分に腹が立つ。
「それに、成りすましなら私が名前を変えてもう一度友達申請をするとか……それくらい、自分でします。そこまでの迷惑を二人に掛けられません」
「ダメ」
「却下」
あかりの反駁も虚しく、二人が同時にたった一つの単語で速攻拒否した。口惜しげな視線を二人に投げてみるが、二人とも剣呑に目を細め、真剣にあかりの弁に異論を唱えている。
「あのね、それができるなら、今ごろとっくに登校できているでしょ」
溜息交じりにユウがそう言えば、田所が援護するように
「林田、今は距離を取っているから、そうやって強気でいられるんだよ。古川さんだって二十四時間体制で林田のメンタル・サポートができるわけじゃないんだからさ、少しは人に頼るってことも覚えろよ」
と、いつだったか紀代にも愚痴零されたことと似たような苦言を口にした。
「でも」
その先が、続かない。
『でも、ほら。82だし? フツーが当てはまるかどうか』
『確かに82は変わってるけどさー』
本人がいると解っていて口にされたそれらさえ、思い出すと悔しさで涙腺がゆるむ。
ただ、派閥のようなグループに属するのが性に合わないだけなのに。
一人でトイレにも行けないような幼稚な自分じゃないと思っていただけなのに。
好きな人をグループ内で公言したり、親の文句を愚痴り合ったり、そんな陰口のようなことをするくらいなら、一人のほうがマシだ。
ただ、そう在りたいという自分を貫いていただけだったのに、そんな価値観は女子の中では変わっているらしい。京子には理解されていると思っていた。それが彼女への反抗という解釈をされているとは思ってもいなかったのに。
「で、も……」
あかりの中にある負けず嫌いがしぶとく主張を繰り返そうとするが、正論を述べ尽くした二人が黙り込んだら、その続きが告げられなくて顔が下を向いていく。顔を上げて話すつもりで後ろへ留めた髪が、あかりの顔を隠してくれない。膝の上で固く握り拳を作って、溢れそうになる涙を必死で堪えた。
「あかりちゃん」
穏やかなハスキーボイスが名を呼んだ。また先急ぎ過ぎだと叱られるのか。そう思うと余計に自分がみじめだった。
「なまじっか俺が自分の経験を話しちゃったから、自分の状況を“この程度”と思ってしまってそんなふうに落ち込んじゃうのかもしれないけれど、程度の優劣や強弱なんて客観的に判断できるものじゃない、と思うんだ。だって、受ける側の個人差も考慮しないと、打たれ弱い人にとっては、ほんのちょっとしたからかいの言葉だけでもすごいダメージになるわけじゃん?」
――傷つきやすいことは弱さではなくて、それだけ繊細、ということなんだよ。
「だから、ほかの人の傷にも優しく触れられると思うんだ。痛いと感じやすい分、できるだけ痛まない触れ方を人にしてあげられる。医者の不養生、じゃないけどさ、自分のことももっといたわってあげようよ。ね?」
ユウの言葉が、乾いた土に吸い込まれていく水のように染みわたっていく。自分が彼にしたことは、自分勝手な独りよがりで、とても強引で、優しさの欠片もなかったはずなのに。
「林田が踏ん張らなくちゃいけないのは、今じゃないんじゃねえの? 京子とタイマン張るつもりなんだろ?」
田所が「そのときまで精神力や体力を温存しておけ」と諭す。そんな彼らのほうが、よほど自分よりも繊細で優しさを知っている人たちだ。
「古川さんにヘマされるのも困るしさ、二宮なら信用できるから、アイツに根回しする方向で考えてみる。まあ心配すんな」
思い出すだけで涙腺がゆるんで震え出すくせに、粋がり過ぎだ。
優しくそう叱る二人に、言葉では言い尽くせない気持ちが溢れ出す。
「……すみま、せん……」
自分には、こんなにたくさんの理解者がいる。だからやはり、まだマシだという気持ちは拭い切れないけれど。
「よろしく、おね、がい、します」
本人がいないと思っている場での罵詈雑言や赤裸々なあかりへの嫌悪を耐え忍んで他人に成りすませる自信がなかった。
あかりは自分と京子の間に立ちふさがる“京子を盾にしている加害者”と“傍観者”への対応を田所やユウに一任することにした。
打ち合わせが終わるころには、午後の四時を回っていた。ユウが「早めの飯でも食っていく?」と高校生二人に打診したが、田所があかりよりも先に「お二人でどぞー。俺は寄り道してから帰るんで」と早々に踵を返してしまった。
「田所くん、待って。私、まだ何もお礼ができていないし、せっかく東京まで出て来たのだから、あとで待ち合わせましょうよ」
あかりは深く考えることもなく彼を引き止めた。学校の友達と気兼ねなく話せたのは本当に久々だ。もう少しその時間を楽しみたいと思っての提案だったのだが。
「寄るところがあるなら、それが終わるまでどこかで時間を潰せる……し」
あかりの引き止める言葉が尻すぼみになったのは、次第に苦笑をかたどる田所の表情に翳りを感じてしまったせいだ。
寂しげに笑う醒めた瞳の色は、どこかで見覚えのあるものだった。だが、それは田所とのやり取りの中ではない。彼がそんな表情を浮かべたのに驚いたくらいには、初めて見る表情だ。
「古川さん、ちょっと、いい?」
あかりが戸惑ったまま言葉途中で固まっていると、田所はユウを呼んであかりから少し距離を取った。
二人が何かを話しているが、幹線道路を行き交う自動車の騒音が会話の内容を曖昧にさせる。ユウが田所と同じような苦笑を浮かべたかと思うと、ぺこりと年下の彼に頭を下げた。
田所はあかりに背を向けて駅方面へ去っていく。ユウはあかりの傍らに戻ると、
「理解のあるダチでいるの、そろそろ限界突破だって。男心を察してあげて」
と言われた。
「男心、ですか?」
今一つ解らなくてユウを見上げれば、彼はまだ寂しげな笑みを浮かべたままだった。
(あ……)
思い出した。どこか既視感を覚える田所の寂しげな醒めた微笑。
『簡単に“好き”とか言うなよ』
ユウと初めて喧嘩をした夜に見た、彼の瞳だ。中途半端な好意の言葉が、却って彼を傷つけたあのときに彼が浮かべた諦めと絶望の瞳の色――。
あかりのそれを正解と答えるかのように、ユウが
「アイツなりにガチでハニーのことが好きなんだろうな。そう簡単に友達になんて戻れないだろうから、今は独りにさせてあげよ?」
と、なだめるようにあかりの頭をくしゃりと撫でた。それがあかりの中の何かをふつりと切った。
「私……また、やっちゃった、んです、か」
自分の鈍さを呪う言葉が、震える。教科書上の学習は二度同じ失敗をしない自信があるのに、それよりも大事な人間関係で学習能力が働かないなんて。
ユウはそんな愚痴を零すあかりの背をそっと押しながら、駐車場まで歩く間、ただ黙ってあかりの無意味な後悔の言葉を聞き続けていた。
帰路に向かう車の中では、ずっと子供のように泣いていた。言葉もなく、ただ音だけを漏らしているうちに、何か憑き物が取れたような疲れがあかりを包み、いつの間にか助手席で眠っていた。
ユウに起こされて目が覚めたときには、公団住宅のゲストパーキングに停車している状態だった。
「う、わ……ご、ごめんなさい。私、いつの間にか寝ちゃってた」
「別にいいよ。ハニーの寝顔、初めて見れたから」
「!」
しれっと言われたユウの言葉に、両の手が勝手にあかりの頬を隠す。寝言を言っていなかっただろうか? いびきは? 自分の寝ている状態など意識したことがないので解らない。
「うん、今はそうやってよそごとを考えていていいんだよ」
不意に隣からそんな声がした。はっとしてユウのほうへ視線を向けたら、どきりとするほどの距離に彼がいた。
「ユ」
「おまじない」
そんな言葉がユウの吐息とともに、あかりの額に掛かる。柔らかな感触と淡い熱が額に一瞬だけ宿った。
「ハニーのモヤモヤは、今俺が食っちゃった。だからもう深く考えることはなくなるよ。次に会う日までは楽しいことを考えながら過ごしてな」
ユウは照れ臭そうな笑みを浮かべてそう言うと、運転席から下りて助手席側へ回り、あかりに降りるよう促した。
「帰ったら柴田さんに連絡をして、田所を引き合わせる調整を付けるから。お母さんにもそう伝えておいて。アイツは信用できそうだ。あと、ダチのほう、二宮だっけ。ソイツともコンタクトを取ってみる。どうしても考えちゃうんだろうからさ、そのときは京子に何から文句言ってやろうかな、ってことでも考えておきな。必ずハニーが物怖じしないで話せる場を作るから」
そう説得するユウの表情は、恋人としての心配というよりも、似た経験をして来た先輩としての、自分の後悔やよかったと思う経験から感じたことを伝えようとしている必死さが感じられた。
それならば。
「はい。できるだけポジティブに、どうしても無理なときは寝ちゃうようにしてみます」
あかりがそう言って笑うと、ユウはやっとほっとした顔をして愛車に乗り込んだ。
「……がんばる」
ユウの愛車を見送りながら、あかりは自分へ言い含めるように呟いた。




