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01. ハニーとあかり

 朝のうちに、母と自分の弁当を並べて撮影しておいた。林田あかりはその画像をフォルダから引き出すと、コメントを追記した。


82_shine:

 今日のランチでーす。

 ナツミちゃんとお弁当を交換する約束をしていたから自分で作ったの。

 さあ、どっちが私の作ったお弁当でしょうか?


 たった今撮影したばかりと思わせるようなコメントを入力し、その画像をSNSに投稿した。きちんと表示されたのを確認すると、あかりはわずかに微笑んだ。

(すぐに見てくれるかな)

 お目当ての“あの人”以外のフォロワーから、いくつかの反応が返って来る。


T-style:

 おいしそー。82_shineちゃんのキャラ的に左w まさかの素麺w

 相変わらず俺の萌えポイントを突いて来るwww


キッド参上!:

 左の素麺弁当が82_shineちゃんのお手製と見た! 当たってる?


もりやん:

 82_shineちゃんやナツミちゃんの写メはないのー? 手だけでもいいからUPプリーズ!


 主に男性らしきアカウントのフォロワーから届くコメントに一つずつ丁寧に、でも個人情報は出さないよう気を付けながら返事を投稿していく。

 新たな通知が一件入った。あかりは心の中で「今度こそ?」と期待しながら通知1のリンクをタップした。


ユウ:

 すごい偶然! 俺も今、学食で素麺を頼んだところ。弁当に素麺とは意外過ぎw


 そのコメントのあとに続いているのは、笑い過ぎて七転八倒しているかのようなアスキー・アート。

 お目当てのフォロワー、ユウから届いたそのコメントを見たあかりは破顔した。

(すごい顔文字。本当にスマホの向こうで笑っているんだろうなあ)

 そう考えると、意表を突く弁当を作ってみてよかった、と思った。きっと彼(彼女?)は今日も笑っている。もし本当にそうであれば、少しユウに恩返しができた気になれる。

 本名はもちろん、実際の性別すら知らないが、あかりにとってユウは単なるフォロワーではない特別な存在だった。


82_shine:

 ユウさん、ガチで笑っているでしょう(笑)絶対「伸びるだろw」ってツッコミが入ってるw


 そこまで入力して投稿ボタンをタップしようとしたところで、通知がもう数件加わった。


ユウ:

 でもこっちの素麺定食は可愛くないw

 ハニーの素麺弁当は錦糸卵とカニカマの色合いがキレイで超ウマそう。交換したい(嘆)

 ナツミちゃんが羨ましいなw いつか会ったとき、俺にも手作り弁当を作ってよw


 そんなコメントを見たら、きゅんと胸が痛くなる。少しだけ視界がぼやけ、あかりは慌てて目許を拭った。


82_shine:

 彩りを考えてトッピングしたの。気付いてくれて嬉しい。ありがとう(照)


 リアルな“林田あかり”を微塵も感じさせない明るいコメントを記して投稿する。すぐにお気に入りの通知が届いた。お気に入りしてくれたのはやっぱりユウで、それがまたあかりの涙腺をゆるませた。

 男性ユーザーから思いのほかたくさんフォローされてしまったのは想定外だが、バカバカしいことや能天気にさえ見えるポジティブなポストばかりするキャラ作りをしてよかったと思う。あかりはSNSで作り上げた虚構の自分を意外と気に入っていた。


「でさー」

 あかりのいる女子トイレに複数の生徒が入って来た。あかりは慌ててスマホを密封タイプのビニール袋に収め、スマホが壊れないよう、個室に持ち込んだバッグの一番底へ収め直した。上からスポーツタオルを数枚入れて保護し、それから音を立てずに静かに素麺弁当を食べ始めた。

(少しでもお腹に入れないと)

 まったく手を付けていないまま持ち帰ったら、また母が心配をする。音を立てないよう意識しながら食べるせいで、思うように早く食べ進められなかった。

「ねえ、なんか醤油くさくない?」

 個室の外からそんな声がした。同じクラスの本田京子だ。虐めの主犯格で、あかりの“元”親友だ。

「82が便所飯してるんじゃない? 知らないけど」

「えー、それはただの噂でしょ? 臭いところでご飯を食べるなんてあり得ないじゃん、フツー」

「でもほら、82だし? フツーが当てはまるかどうか」

「ひっどーい。82は確かに変わってるけどさあ」

「あれはないよね。ほら」

「ああ、マネでもないのに、サッカー部の部室に黙って入り込んで、田所くんと、ってヤツ?」

「ないわー。誰が入って来るのか解らないのにねえ」

「……ちょっと」

「あ……ごめん、京子」

「勘違いしないでよ。田所くんとの件で文句を言っているんじゃないの。便所飯は言い過ぎ」

「そ、そうそう。久美、それは言い過ぎぃ、カワイソー」

「でも、毎日昼休みには教室から出て行ったきり、次の授業が始まるまで見掛けないじゃん。どこで何してるんだか」

「まあ、どこで何をしていようと本人の自由だし?」

 何人かの女子が洗面台の前で談笑しているようだ。あかりは素麺をすする音や嗚咽を堪えながら、残り少なくなってきた昼休みが終わるまでに食事を済ませてしまおうと、食べることだけに専念した。

(めんつゆ、ちょっと、しょっぱい)

 ストレートつゆを小さな密封タッパに詰めて来たのだが、家で食べるときは薄めなくても丁度よい味なのに、一人トイレの個室で隠れて食べる素麺のつゆは、やたら塩が利き過ぎて美味しくない。

「ていうか、マジもう何? この臭い。トイレの芳香剤のと混じって堪んない」

「水でも撒こうか。臭い消しになるんでしょ?」

 洗面台の方からそんな声がした。もうあかりはそんな仕打ちに慣れ切っている。今は夏だから却って涼しくくらいだ、丁度いい。びしょ濡れにされたところで、すぐ乾くだろうし。

 あかりは自分へそう言い聞かせながら、タッパの蓋を静かに閉じた。

 個室の扉の上辺と天井の隙間から大量の水が降って来る。あかりは悲鳴の一つも上げずにホースから放水された悪意の雨を甘んじて受けた。どうせこのあとすぐに掃除の時間が来る。あかりは万年トイレ掃除の当番だ。担任の前では「林田さんが買って出てくれるから」ということになっている。

「誰もいなくてよかったねえ。代わりに掃除しておいてあげたんだから、82に感謝される?」

 ゲラゲラと下品な笑い声に混じってそんな言葉がトイレ内に響く。

「ホント、誰もいなくてよかったあ。あとで82に何を買ってもらおうかなあ」

「あの人、律儀だもんねえ。必ずお礼をしてくれるんだもの。いい人だよねえ」

「ぎゃははは、いい人ねえ」

 そう言いながら出て行く彼女たちは、あかりが個室にこもっていることを知っている。あれは遠回しな「金を寄越せ」というメッセージだ。

 トイレは再びシン、と静まり返った。あかりは弁当の完食を諦め、ビニール袋に弁当箱を戻して鞄の一番上に片づけた。鞄の中のタオルはスマホのすぐ上に掛けた1枚だけがどうにか無事だった。それで念入りに髪や制服、手を拭ってから、一冊ずつ密封ビニール袋で保護した教科書やノートを確認する。

(よかった。どれも濡れてない)

 以前、水を掛けられることを予測して教室へ教科書を置いて個室にこもったら、教科書に落書きをされて買い直す破目になった。何度も買い直していたら母に虐めのことがばれてしまう。ただでさえ女手一つで育ててくれている母に余計な心配を掛けたくなかった。だから二度目に母が「また失くしたの? ねえ、何か隠し事をしていない?」と怪しんだとき、必死に考えて密封ビニール袋対策を思いついた。それ以来、持ち物はすべて密封タイプのビニール袋に入れている。

「あと一年半」

 誰もいない安心感から、想いが小さな音になってトイレの床に落ちた。

 虐めのターゲットになる前まで使っていたSNSのアカウントのように、人生もリセットできればいいのにと思った時期もある。だが、そんな都合のいい願望を言葉にしたところで非現実的過ぎるし、自己暗示で余計自分がみじめになり、落ち込んでしまう。だからもう今のあかりは泣き言も口にしない。

(ユウさんがせっかく教えてくれたことだもの)

 あかりは悲嘆する自分を鼓舞するつもりで、ユウと初めてコンタクトしたときの気持ちを振り返った。


 82_shineというアカウントは、あかりに向けられた「82死ね」の落書きから付けたアカウント。同学年生に八月二日生まれはあかりしかいない。直接名前や出席番号を出せば担任に虐めを気取られると思ったのか、中学までは親友としてつるんでいた京子が言い出したあかりへの蔑称、それが“82”だった。

 皆に知れ渡っているアカウントを削除して新たにアカウントを取ったとき、加害者たちへの恨み言をポストし続けて証拠にしてやろうとしていた。

 第三者に知れる方がいいと思い、無差別にいろんなアカウントをフォローした。その中の一人がユウだった。


ユウ:

 フォローありがとう。こっちもフォロバするね。

 表示名はそのままなの? なんて呼べばいいんだろう?


 ユウがそんなコメントを返してくれたので、少し嬉しくなって


82_shine:

 ありがとうございます。表示名は変える予定ないです。好きな風に呼んでもらえれば。


 とだけ返した。


ユウ:

 82_だから、じゃあ、ハニーって呼ぼw では、輝けるハニーちゃん、よろしく!


 あかりの誕生日を指しているだけのものだった82と、ただの区切りでしかないアンダーバー。それに語呂合わせという形で意味を持たせてくれるとは思ってもみなかった。「死ね」と言われた言葉なのに、英語という解釈をされるとも思わなかった。


82_shine:

 ハニーとか、照れますw 地味過ぎて輝いてない私ですが、よろしくお願いします。


 ユウをフォローする前にネガティブなコメントをポストしていたが、初めて明るい言葉をポストすることができた。

 ハニーと聞いてまず思い浮かんだのは、あかりの中では“のんびり屋さん”のイメージがある、とある有名なアニメのキャラクターだ。蜂蜜が大好きな熊、ということは周知の設定になっている。ハニーという仮想空間での呼び名は、あかりに「温和で優しそうな熊さんから愛されている、蜂蜜のような甘ったるくて人をほんわかとさせるキャラクターで通そう」と思わせた。それが今もあかりの中にある“82_shine”のキャラ設定だ。リアルな自分とかけ離れたそのキャラクターならば、仮に同級生たちにアカウントを発見されても自分だとバレることはないだろう。そんな打算も働いたのは否定できないが、ユウが好意的な受け止め方をしてくれたおかげで、あかりは自分から言葉の呪いを掛けずに済んだと思っている。

 ユウとはSNS上で知り合ってから半年ほど過ぎているが、それなりに人柄を知れたように思う。俺という自称名詞から始めのうちは男性だと思ったが、些細なことにも気付いてくれるきめ細やかさや、直接的な言葉ではない形であかりを励ましてくれる優しさは、女性特有の機微という気もする。初めてあかりを「ハニー」と名付けてくれたあとで非公開メッセージを送ってくれた。


ユウ:

 死にたいなんて言っちゃダメだ、なんて安易には言えないけどさ。

 匿名で吐き出すことでどうにか実生活での自分を保とうとしているのも解るつもりなんだけど。

 でも、せっかくステキな名前のアカウントなんだから、自分で自分の言霊に縛られないようにな?(苦笑)

 愚痴ならいつでも聞けるから、よかったらそういう意味でもよろしく!


 それを読み終えるころには泣いていた。高校へ入学してから半年も経たないうちに虐めのターゲットにされて以来、そんな優しい言葉を掛けてくれた人などあかりの周りにはいなかったから。そのときあかりが返したメッセージは


82_shine:

 ありがとうございます。

 ちょっとへこむ毎日にウンザリして作ったアカウントなのだけれど、ユウさんの言う通りですね。

 言霊という言葉の意味を調べました。

 せっかくユウさんが甘い名前を付けてくれたので、それにふさわしい甘々な可愛い子を目指します(笑)


 それからすぐにメッセージが返って来たのだが、それを見たあかりは久し振りに噴き出すほどの笑える気分になった。


ユウ:

 甘々な可愛い子! 舐めたくなるじゃんw

 PF見たよ。女子高生!

 落ち着いた言葉遣いだから、てっきりタメくらいだと思ったw

 俺も大学生ってPFに書いてあるから年上扱いで敬語なのかな。気にせずタメ口でOK!

 あ、ヤバいセクハラエロ学生と勘違いされるw

 舐めるは冗談だからw 警戒しないでねw

 リアルの俺はめちゃくちゃ小心者なんで、出会い系とかガチでムリ系な人だからw


 そんなメッセージに混じる顔文字の多さに笑った。こういう連投コメントや顔文字の多さなどは、本当に女性か、あるいは女性に扮したおじさんが多い。ユウのタイムラインを遡ってみれば、リアルな学生生活をポストしているので、あかりにはユウが女性だと思えた。

 ユウについて知っていることは、あかりより三つ年上の大学生ということ。筋トレが趣味で、時々鍛え上げた上腕二頭筋をメインにした後ろ姿の写真をSNSに投稿している。それを見た限り、惚れ惚れするほど綺麗な筋肉の隆起をかたどっているものの、肩から肘までの方が肘から手首までよりも長い。ユウのその骨格も女性であることを示すものだ。だからあかりはユウを“頼もしい先輩”と捉えて憧れも抱いている。

(いつか会ったときは、か……会ってみたいな)

 快活で明るくて相互フォローしている相手が多くて、リアル知人のフォロワーも多い様子のユウは、実生活でも人気者に見えた。ユウはあかりにとって「いつか自分もそんな風になりたい」と思う相手だった。


 気付けばもう昼休みは終わって、トイレの入り口の向こうからは清掃開始の音楽が漏れ聞こえて来ている。

「さて、今日はこれで下校だし。もうひと頑張りしますか」

 あかりは便座の蓋をしてその上に鞄を置くと、気に病む素振りを態度に出すこともなく独りぼっちのトイレ掃除に取り掛かった。




 あかりのそんな憂鬱な毎日に、つかの間の平穏期間が訪れた。いわゆる夏休みというやつだ。

 一学期の終わりが近づいたころになると、クラスメートたちはあかりをいたぶっている余裕がなくなった。これから来る一ヶ月以上の休日をどう過ごすかで沸き立つ心が、彼女たちの中からあかりの存在を掻き消してくれるからだ。来年は大学受験を控えているので、皆は「今年のうちに遊ぶ」だとか「今年こそ彼氏を作る」だとか、そんな浮ついた話題でもちきりになっていた。もちろん、その輪にあかりが入ることはない。ボス的存在の京子があかりをターゲットにした理由が男関連だったから、京子の顔色を窺う意味もあって余計に存在の無視を徹底する。

(勝手にやっていればいいわ。私には関係ない)

 呼び出されて執拗に金を無心されるより無視される方が楽だった。それに何より、あかりの方にもグジグジとそんなことを憂いでいる暇がなくなっていた。

(ユウさんの喜びそうなお弁当を考えなくちゃ)

 アカウントの数字の意味が誕生日からだと知ったユウが、初めて「会ってみない?」と、花火大会に誘ってくれた。それが三日前のこと。そのとき初めてもう一つ彼女の方から教えてくれたことがある。


ユウ:

 安心して。俺、これでも戸籍上は女だからw


 プライベートを共有させてくれた気がして、それが信用の証に思えて嬉しかった。


ユウ:

 あ、それとも彼氏とデートの予定が入っているかな。誕生日だもんね。


 と続いた言葉に意外なほどショックを受けて、あかりは即答で


82_shine:

 そんな人いませんよ!

 男子なんてイヤラシイことを考えてばかりいるから苦手です(怯)


 と返していた。


82_shine:

 私も言い出すきっかけがなかったから、すごく嬉しいです。

 お弁当、楽しみにしててくださいね!


 嬉しそうな顔文字をふんだんに添えて、そんな返信をポストした。


ユウ:

 わ、弁当の話、覚えててくれたんだ?w

 食い物の好み、意外と一緒だよね。楽しみにしておく!


 飛び交う嬉しそうな顔文字が、そのままあかりの心情を表している気がした。ユウとコンタクトを交わしたあとは、気付けばいつも口角が自然と上を向いている。そんな自分にほっとすると同時に、気分を浮上させてくれるユウの存在に感謝の念を禁じ得なかった。


「あかり、このところ上機嫌ね。何かいいことでもあったの?」

 夜勤明けで日中に帰宅した母の紀代に遅めの昼食を用意して食卓に並べていると、着替えを済ませた彼女が自分まで機嫌がよいと言いたげな笑顔であかりに問い掛けて来た。

「そうかな。特別に何かあった、ということはないと思うけれど」

 少しだけドキドキしながら、嘘ではないのでそう答えた。

「本当? わ、和食だ、美味しそう。いただきます」

「どうぞ」

 紀代はあかりの配膳した食事の中から一番に味噌汁の椀へ手を伸ばすと、一口こくりと汁を含んで目を細めた。

「んー、相変わらずあかりの味噌汁は逸品ね。おばあちゃんの味を思い出すわ」

 今は亡き祖母の話題を振られ、あかりの表情も遠いものになる。あかりも紀代の正面の席につき、ほどよくほぐしたブリの照り焼きの身を炊きたてのご飯に載せて口に頬張った。

「おばあちゃんが亡くなってからのこの三年、お母さんね、つくづく仕事ばかりであかりのことを何も知らないなあ、と思うことが多くって。ずっとおばあちゃんに任せ切りだったものね」

 紀代は何を思ったのか、突然そんなことを言い出した。

「急にどうしたの? 仕事で何か嫌なことでもあった?」

「ほら、そんな風に心配してくれちゃう大人びたところとかね。おばあちゃんがいたときには気付かなかった」

「もう、茶化さないでよ。私と同じ年ごろの患者さんを受け持ったと言っていたわよね。よくない病気で色々考えちゃったとか? 前にもそんなことがあったでしょう?」

 紀代はあかりのその言葉を聞くと、一瞬きょとんとした顔をしたあと、居心地の悪そうな苦笑を浮かべた。

「五年も前の話を覚えているの? しかもそれ、おばあちゃんに愚痴っていたことよ? あかりったら、やっぱり立ち聞きしていたんだ」

「あ……ごめんなさい。だってあのとき、お母さんったら目を腫らして帰って来たから、なんだか心配になっちゃって」

 行儀の悪い過去の行いを恥じたあかりは、ばつの悪さから食卓へ視線を落とした。

「そうだったわねえ。でも、今はそんなヤワじゃないわよ。仕事で何かあったわけじゃなくて、あかりが頑張り過ぎているんじゃないかなあ、なんてね。去年の夏休み明けくらいのときからかな。ずっと気になっていたの」

 紀代は言いづらそうに語りながら、いつまでもブリの照り焼きをつついて言葉を探していた。それはまるで、あかりからの告白を待っているかのように見えた。

 あかりはしばらく逡巡したが、結局本当のところは打ち明けなかった。逆に問い返すことで、紀代が突然そんな話をし出した理由を探る。

「確かに悩みがあったけれど、それは前にお母さんと話し合ったことよ。私も看護師を目指したいと思って専門学校を調べたら学費がすごくって、諦めた方がいいのか、とか、でもやっぱりお母さんみたいになりたいとも思っていたから。だけどそれについてはお母さんが応援するって言ってくれたでしょう? そのおかげで今は勉強に専念できているわ。どうして今になって急に心配になっちゃったの?」

 さらりと軽い口調で述べつつ、二口目のブリを口に含む。味付けが及第点と思っていたのに、今はその味さえ解らなかった。虐めの件が紀代に知れたら、もう今の自分を保てない。母に心配を掛けたくない、なんて殊勝な気持ちからだけではない。自分の中にある何かが壊れてしまいそうな気がして、紀代にはどうしても知られたくなかった。

「う……ん。なんとなく、あかりはお母さんと距離を取っているというか、気を遣っているというか、おばあちゃんに育ててもらって来ているところがあるから、母親失格だなあ、なんてね、プチ自己嫌悪があるせいで気になっちゃっているのかな」

 紀代に言わせると、あかりはこの半年ほどで気になっていた寡黙な態度が和らいだそうだ。一時期はぎこちない笑い方しかできなくなっていたので、学校で何か問題があるのを隠しているのではないかと担任にこっそり問い合わせたこともあるらしい。

「知らなかった。先生、ちっともそんなこと私に言わなかったし」

「そりゃそうよ。お母さんが先生に強く口止めをお願いしたもの。結局先生からは特に変わった様子はない、という言葉で終わってしまってモヤモヤが続いていたのだけれどね。でも、ここ一年弱くらいかなあ。あかりの表情が明るくなったから、お母さんよりも信用できるいいお友達ができたのかしら、なんてね。ほっとした反面、これって、ちょっとした妬きもちなのかも」

 紀代はそう言って少女のように無邪気な笑みを浮かべた。釣られてあかりの面にも笑みが浮かぶ。紀代が幸せそうに無邪気な笑みを浮かべてくれると、自分が紀代のお荷物になっていないと感じられてなんとも言えない安堵感で満たされる。

(きっとお父さんや柴田さんも、お母さんのこの笑顔に参っちゃったんだろうなあ)

 ふと、そんな風に思った。

 あかりはよい機会だと思い、普段なら敢えて避けて来た話題を紀代に振ってみた。

「私、あと五日で十七歳になるのよ? いつまでもお母さんが一番だなんて、そっちの方が親離れできていないみたいで心配にならない? その妬きもちを柴田さんに向けたらいいのに」

 親子逆転現象とも思える紀代へのお説教を口にしながら、最後にはあかり自身が堪え切れず、説教に笑い声が混じった。途端に頬をうっすらと染める紀代がなんとも可愛らしい。

「ま、またそうやって冷やかす! もう、柴田さんも柴田さんだわ。私は再婚する気なんてない、って言っているのに、勝手にあかりと会うなんて」

 文句を言いながらも紀代の手がほぐし過ぎたブリを掻き集め出す。彼女の心配事は幾分か軽くなったようだ。あかりはここぞとばかりに自分の意見を紀代に伝えた。

「それだけお母さんのことを本気で考えているってことよ。普通なら連れ子なんて邪魔だと思うでしょうに、お母さんに即答で振られたあと私を訪ねてくれるなんて、よくお母さんのことを解ってくれている証拠じゃないの。交際を断った理由に私を利用したわけじゃなかったんでしょう?」

 豪快にご飯とフレーク状になったブリを掻き込む紀代を少し羨みながらもからかい続けた。

「そうよ、だって実際にあかりの存在が断った理由じゃないもの。私はお父さん一筋に生きていくのッ」

「そんなの、お父さんが喜ぶわけないでしょ。お母さんだって柴田さんのこと、まんざらでもないくせに」

「子供がそんなませたことを言うものじゃないわ」

「あら、柴田さんの入院中、ずっと彼のことばかり話していたのは誰だったかしら?」

「――ッ! そ、それは」

「柴田さん、いい人よ? 年頃の娘さんがいるから何かと心配や不安もあるんだろうと思う、って言ってた。自分が男性であるからこそ危惧される部分をちゃんと認識していたわ。その上で、私がお母さんの親というわけでもないのに“お母さんと結婚を前提にお付き合いする許可をいただけませんか”って、子供に対して敬語で頭を下げてくれちゃうような真面目な人よ? お母さんをデートに誘うときも、いつだって私を一緒に誘ってくれるでしょう? 柴田さんはバツイチだから、今度こそ温かい家庭を築きたいと思っているんじゃないかなあ。私の反抗期は終わっているんだから、お母さんは私に遠慮なんかしないで再婚すればいいのよ」

 あかりは全寮制の専門学校を志望している旨をようやく紀代に伝えることができた。だから自分の精神的な独立になるそのときを区切りに、自分の人生を生きて欲しい、と。

「あかり……もしかして、好きな人でもできた?」

 突拍子もない紀代の発想が、味噌汁を口にし掛けたあかりの喉を詰まらせた。

「な、何よ突然。どうしてそんな発想が浮かぶわけ?」

「だって……今までこんなに思っていることをはっきり伝えてくれたことがなかったから。その内容が恋愛だなんて、何となく、そういう人ができたのかなー、って」

 今度は紀代がニヤニヤとする番だ。思い当たる人がいるわけでもないのに、妙に顔中が熱く火照り出す。

「ち、違うよ! ただでも、すごく素敵な姉貴分、というのかしら。憧れの人は、いるよ。そういうステキな女性になれたら、もうちょっとそれなりの男の人とも縁があるかなあ、と思うことはあるけれど、同世代の男の子は、なんか嫌い。イヤラシイことしか考えていなさそうで」

「あら、思春期なんてそんなものなのに。それより、その憧れの姉貴分って、もしかしてユウさんのこと? 女性だってはっきり解ったの?」

「うん、実は――」

 あかりは結局、ユウと約束した当初は紀代に内緒で出掛けようとしていた花火大会のことを報告した。

「会うって……でも、口では何とでも言えるじゃない。女性だと言われて鵜呑みにするのもどうなのかしら」

 案の定、紀代には渋い顔をされた。だがもう約束をしているし、何よりもあかりがそれを楽しみにしているのだ。滅多に言わないわがままを許して欲しくて、あかりは慌ててスマホを手に取った。

「でもね、彼女は普段から筋トレが趣味で、よく後ろ姿の自撮り写真をアップしているのだけど、骨格的に女性だと思うのよね。ほら、見て。お母さんはどう思う?」

 あかりはそう言ってSNSのアプリを開き、ユウの写真を見せた。紀代はしばらく唸っていたが、

「うん、まあ確かに、男性の割に骨格が細身だわね。筋肉で随分逞しく見えるけれど、プロテインを使っているみたいだし」

「でしょ? それに、ユウさんも大学の仲間にも声を掛けるから、よかったらお母さんも一緒に、と言っていたし、悪いことを考える人なら、自分からそんな提案なんてしないと思うの」

「そうねえ。でも、友達同士の中にお母さんだけ保護者というのは、あかりが居心地悪いでしょう? 今年はあかりの誕生日に休暇を取れたから一緒にプレゼントを選びに行こうかと思っていたけれど、お友達を大切にする方がいいわね」

 紀代がまだ少し心配そうな翳りを残しているものの、苦笑を浮かべて首を縦に振ってくれた。途端にあかりの表情が華やぐ。紀代の瞳に映った本音駄々漏れの自分の顔を見たあかりは、少し気恥ずかしくなった。

「ありがとう。お母さんは空いたその時間に柴田さんとデートでもどう? 彼も取材記者っていう職業柄お互いさまだと思ってくれるだろうし、もしデート中に仕事の連絡が入っても笑って赦してくれるわよ」

「だからっ! 親をからかうんじゃないの!」

「うふふ。はーい。ほら、早く食べちゃって。洗い物を済ませたらユウさんにお母さんの許可もらったって連絡入れなくちゃ。夜遅くなるからちゃんとお母さんの許可をもらってから詳しい打ち合わせをしようって何度も念を押されているの」

「はいはい。まったく、あかりはユウさん信者ね。元気が戻ったのも、進路をしっかり固められたのも、全部彼女のおかげかしら」

 どこか寂しそうな笑みを交えながらも、紀代が食事を平らげていく。心配事があると食欲の失せてしまう彼女の食が進んでいる様を確認すると、あかりの気分は雲一つない今日の天気のように澄み渡った。

「そうかも。ユウさんやお母さんみたいに、私も誰かを元気にしてあげられる人になりたい、と思っているの。全寮制の学校だけど、進路調査にこの専門学校を書いてもいいかな」

「もちろん。お母さん、ますます働く張り合いができるわ。頑張らなくちゃ!」

「張り切り過ぎて倒れないでね? 私もバイトを続けて少しでも自力で学費を払うから」

「もうー、あかりは学業に専念すればいいの。お父さんがちゃんと遺してくれているんだから」

「でもこんなご時世だもの。お母さんは今から老後の蓄えを考えなくちゃ」

「ちょっと! 私はまだ五十路前よ。若いつもりなんだから老後とか言わないで」

「はいはい」

 穏やかで優しい時間がいつもと変わらず過ぎていった。

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