夕暮れのふたり
「別に僕はプロになりたいとかそういうのはないんだ」
期末の迫った9月中旬。
試験勉強期間の今は当然部活も禁止のはずだけど、うちの野球部はそんなの知らないと言いたげに練習に励む。
「行かなくていいの?」
そう聞いた私の前で教科書を持つ彼は、チラリと視線をこちらに寄越して冒頭のセリフを吐いた。
「ふぅん。でも今年はいいとこまで行ったから、練習も見逃されてるんでしょ」
「だから?僕は意味のないことはしたくない」
数年に一回は甲子園に行く、うちの野球部はきっと名門。今年だって、甲子園のベスト16にはなっていた。そこのレギュラーであるはずの彼は今、試験勉強真っ最中。
こう言っては失礼かもしれないけど、
「高校球児らしくない」
高校球児ってもっと野球に熱中して、青春を謳歌してるイメージ。それなのに彼ときたら、頭は今時の髪型だし、銀縁のメガネはインテリに見える。
どこか冷めた目線でいつも一歩離れて周りを見る彼は、野球部では重宝されるらしい。
こんなに付き合いが悪くても。
「なんだそれ。勝手なイメージをつけないでほしいんだけど。僕は野球で食べていくつもりはないし、大学に行きたい。だから進学コースを選んで、今君の前でこうして勉強してる。野球はあくまで趣味だからね、優先すべきは勉強だ」
嫌みったらしい口調も高校球児らしくない。今度は口にはしなかったけど、声にならない言葉を読み取ったらしい彼は器用に片眉を上げる。
でも結局何も言わずに教科書に視線を戻したから、私も机に広げたノートに向かう。
夕暮れ迫る朱色の教室。
二人しかいない空間は口を閉じれば、静かだ。
かすかに聞こえる電車の走る音。
開け放たれた窓から聞こえる野球部のかけ声。
チラリと視線を向ければ、教科書の一点に固定された彼の視線は微動だにしていない。
耳を澄ましているのだ。
大きなかけ声、バッドの快音、ミットが球をパシッととる音、笑い声。
少し前まで彼がいた空間は今、彼の外側に広がっている。
「意気地なし」
「……なんだって?」
私の言葉に反応が遅れたことをごまかすような咳払い。不機嫌そうなのはいつものこと。
「意気地なし。ほんとは行きたいくせに」
「……」
「行けばいいじゃん」
「……行かない」
一度口を開いて、何かの言葉を飲み込んでから彼は言った。
「僕には夢があって、それに野球は必要ない。楽しいことではあるし、部活としてやる分には何ともないが、それ以上はダメだ。優先順位は決まってる」
頑固な彼は、今度こそ意識を教科書に向けて、野球部の声も私の存在もシャットアウトした。
カキンッ、白球が夕暮れの空に飲み込まれた音がしたーー。