第三話〜豊臣政権時代〜
次回より異説たる所以が明らかになります。
政宗が奥州に覇を唱えた頃中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承しており、1590年の秀吉の奥州仕置では政宗は小田原へ参陣して秀吉に臣従を誓い、本領を安堵される(ただし、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされ、会津領などは没収)。
この時に小田原攻めに遅参したという理由で秀吉が政宗に切腹を命じようとし事実上監禁するも、政宗は千利休の茶の指導を受けたいと、詰問に来た豊臣家の重臣・前田利家らに申し出、更に政宗は全軍に白装束を着せ、街を練り歩き、秀吉への忠誠を誓ったように見せた。
これらの行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられている。
また参陣前には自身の身を転覆させようとしている母を止めるため弟の伊達小次郎に対し自害を命じた。
それに連座し、生母・義姫も実家の兄・最上義光をのもとへと(現在の山形)追放した。
翌1591年には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が葛西大崎一揆を策略していた嫌疑をかけられる。
これは蒲生氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を幾つか入手した事に端を発した。
政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許される。
この時、証拠の文書を突きつけられた際証拠文書の花押に針の穴がない事を理由に言い逃れを行い、それまで送られた他の文書との比較で証拠文書のみに穴がなかったため、やり過ごす事が出来た。
しかし米沢城から玉造郡岩出山城に転封となり58万石、後に加増されて60万石となる。
1592年には秀吉の朝鮮出兵にも従軍して朝鮮半島へ渡る。また、普請事業なども行い豊臣政権下で名を轟かせた。
また豊臣政権下では五大老である徳川家康に接近し、1599年には嫡女・五郎八姫を家康の6男である松平忠輝と婚約させる。
またこんな逸話がある。
朝鮮出兵時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は大変に華美なもので、上洛の道中において盛んに巷間の噂となり、これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者」と呼ぶようになったと伝えられる。
これは、派手好みの秀吉が気に入るような戦装束を自分の部隊に着させることで本陣に近い配置を狙い、損害を受けやすい最前線への配置を避けるよう計算したものと言われている。
こうした優れた才覚で豊臣政権下を生き延びた政宗はいよいよ天へ昇る龍になる為に運命の分岐点に立つ事となる。