第二話〜奥州時代〜
更新遅れてすみませんでした。叱咤激励してくださった皆様に感謝します。
伊達藤次郎政宗、1567年8月3日生まれ。
父は伊達氏16代目当主・伊達輝宗。母は最上義光の妹・義姫。
その2人の間に伊達家の跡継ぎとして生まれたのが伊達藤次郎政宗。幼名・梵天丸。
1571年、疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する。それ以降、母親の最上義姫に姿が醜いと疎まれ、弟の伊達小次郎だけが母の愛情を注がれたとされる。
母の愛を受けられなかった政宗は臨済宗の虎哉宗乙禅師による厳しい教育が始められ、徐々に変わり始めた。
生涯の腹心とも呼べる片倉小十郎景綱や伊達成実とも心通わせ次第に明るくなった。
そして1577年に若干10歳で元服し、1579年(当時12歳)に生涯の伴侶と呼べる仙道の大名で三春城主田村清顕の娘愛姫を正室とした。
またその2年後に隣接する相馬氏との合戦で初陣を迎え、見事勝利を収めた。
だが、1584年に18歳で家督を相続したことから悲劇が始まった。
1585年に父が畠山義継に殺害されてしまったのである。
そして寝返るはずであった大内定綱が裏切り、政宗は苦境に立たされる。
だが政宗は諦めなかった。この心意気こそが伊達氏の天下統一の野望を捨てなかった漢の精神であった。
まず政宗を裏切った大内定綱討伐を敢行した。
この折に降伏を認めないなどの徹底した粛清(撫で切り)を行うなど、奥州の覇者たる非道な一面も見せた。
その後、父の初七日法要を済ますと早くも怨敵・畠山氏の二本松城を包囲。畠山氏救出のため集結した、佐竹氏・蘆名氏など反伊達連合軍と安達郡人取橋で戦った。
数の上で五分の一以下の戦力であった伊達軍は重臣・鬼庭左月斎を討たれ窮地に立つものの辛くも持ち堪え、辛勝を収めた。
そして1589年には会津の蘆名義広・佐竹氏の連合軍を摺上原の戦いで破り、黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配した。
さらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼして奥州南部の大部分を支配下に置き、150万石の領主になった。
こうして政宗は名実ともに奥州の覇者となったのである。