教室のぶんちゃん
「先生、この鳥、教室で飼って欲しい。僕、一生懸命育てるから」
そう言って、総一郎が鳥かごを持ってきた。
正美が、恐る恐る鳥かごの中を覗くと、まだ幼い雛鳥が一羽、底に敷かれた藁の上でうずくまっていた。
登校してきた子供たちが、次々に鳥かごのまわりに集まってくる。
「そうちゃん、この鳥、どうしたの?」
クラスでリーダー格の亜里沙が訊いた。
「昨日、裏山を探検していたら、道で見つけた。巣から落ちたみたい」
総一郎は、真剣なまなざしでそう答えた。
「でも、勝手に持ってきてはいけないんじゃないの。お母さん鳥が探しているかも知れないよ」
奈津が目を丸くして、責め立てるような口調で言った。
総一郎は、少し涙目になった。俯いて、籠の中の雛に目を遣りながらぽそぽそと呟く。
「僕、真っ暗になるまでこの子のまわりを探してみたけど、他の鳥はいなかった。それに、この子、どんどん弱っていくみたいだったから、家に連れて帰ってミルクをあげた。家で飼おうと思ったけど、僕のお母さんは動物が大嫌いだから、逃がしてきなさいって言われた」
このやりとりを聞いていて、このクラスの担任である、正美の気持ちは複雑だった。鳥を連れてきたのが総一郎でなかったなら、学校のルールを理由に、すぐに突っぱねることができただろう。でも、よりによって、連れてきたのが総一郎だった。正美は、なんとか総一郎の願いを叶えてあげたかった。
その日の放課後、正美は預かった鳥かごを持って、職員室に戻った。鳥かごを見て、同僚たちの反応は一貫していた。学校で動物を飼育してはいけないというルールが、正美の前に立ちはだかった。感染症を気にする意見もあり、正美はもはや教室での飼育を諦めざるを得ない状況だった。
次の日、不安げな表情を浮かべる総一郎に、正美は話し合った結果を正直に伝えた。予想していたことだが、総一郎は取り乱した。「先生なんて嫌い」と悪態をつくと、涙を流しながら教室を出ていった。
正美は取るものもとりあえず、総一郎の後を追った。総一郎は廊下で一旦追いついた正美を振り払うと、一階へと消えて行った。正美は廊下の真ん中で、途方に暮れていた。
しばらくして、総一郎が誰かに連れられて教室に戻ってきた。そのシルエットは、校長だった。校長は、総一郎の手を引っ張って正美の前まで行くと、その場にしゃがんで総一郎に諭した。
「きちんと、世話をするんだね」
総一郎は、涙声で「うん」と答えた。
「まぁ、総一郎君がこう言っていることだし、今回は大目に見てやりましょう」
校長は、正美を見上げながら穏やかな表情を浮かべた。そして今度は、総一郎の方を振り返って、柔らかい口調で続けた。
「ところで、総一郎君、この鳥は何という鳥か知っているかい」
総一郎は、首を何度も横に振った。
「この鳥は文鳥と呼ぶんだよ」
校長が物知り顔で言うと、
「だったら、『ぶんちゃん』がいい」
と、総一郎は目を輝かせた。
こうして三年二組は、二十八名の子供たちと、一羽の文鳥の賑やかなクラスになった。
総一郎は、手のかかる子供だった。新学期早々から落ち着きがなく、暴れまわって教室のガラスを割った。クラスの友達とケンカをして、友達の顔面を殴ってけがをさせた。授業が退屈になると、正美の目を盗んで教室を飛び出した。運動場に駆け出た総一郎は、学校のまわりのフェンスを乗り越えて、平気で外に出た。行く当てなくあたりを彷徨っていると、不審に思った近所の住人に捕まえられて、学校に連れ戻された。
大学を卒業して、教壇に立ってまだ二年目の正美にとっては、まさに冷や汗の連続だった。総一郎にかかりっきりになるあまり、正美は他の子供たちに意識がいかなくなった。だから、多感な時期の子供たちは、次第に落ち着きをなくしていった。子供たちは、ケンカが絶えなくなったし、授業にも集中できなくなった。六月のはじめには、クラスの雰囲気が殺伐としていた。いわゆる学級崩壊の一歩手前だった。
学生時代に陸上部で鍛え上げ、負けん気が強い正美は、子供たちに毎日怒鳴り声をあげて、落ち着きを取り戻そうとした。だけど不思議なもので、正美の声が大きくなればなるほど、子供たちの声も大きくなっていった。三年二組からは、授業中も子供たちの騒ぎ立てる声が沸き起こった。
それには、さすがの正美も参ってしまった。正美は次第に明るさを失い、落ち込むようになっていった。同僚たちはそんな正美の力になろうと、いろいろな面で協力してくれた。それでも、クラスの状況は好転しなかったし、それに比例して正美の気力も沸いてこなかった。
事件は、六月の雨の日に起こった。朝、虚ろな表情で正美が教室に行ってみると、総一郎の姿がなかった。欠席かと思い、正美は総一郎の家に電話を入れた。電話に出た総一郎の母は、総一郎はとっくに家を出たと答えた。遅れて来るのかとしばらく待ってみたが、総一郎は顔を見せなかった。
折しも、他の学校で、子供が事件に巻き込まれるというニュースを聞いたばかりだった。正美は、急激に不安に襲われた。授業をしていてもどこか上の空で、子供たちから体調が悪いのかと心配がられる始末。すぐさま職員室にいた同僚に事情を話して、授業を代わってもらった。
正美は横殴りの雨が降りしきる中を、総一郎の家に向かった。学校を出てほんの数分で、正美の服はシャワーを浴びたみたいにびしょ濡れになった。
総一郎の家は、アパートの二階だった。ここに来たのは、家庭訪問のときに母親と話したとき以来だった。ドアをノックしてみたが応答はなかった。母親は仕事に出てしまったのだろうか。
正美は、総一郎が行きそうなところを探した。ゲームセンターやスーパーなどを隈なく見てまわったが、平日の午前中に子供の姿はどこにもなかった。正美は、とぼとぼと学校に向かって歩き出した。歩きながら、正美は総一郎の姿を脳裏に浮かべた。彼の暗い顔しか思い浮かんでこなかった。総一郎は、何を考えているのだろうか。どうして欲しいと思っているのだろうか。正美は、総一郎のことを知りたくなった。思っていることを、包み隠さずに話して欲しいと思った。
学校の門が遠くに見えたとき、正美は何げなくあたりを見わたした。そこには、小高い丘があった。子供たちが『裏山』と呼んでいる山で、鬱蒼とした森が広がっていることから、中に入って遊ぶことを禁止している場所だった。
こんな強い雨の中、まさかとは思ったが、正美は森に分け入った。道らしきものはあったが、傘が枝に引っかかってビニールが破れてしまった。正美は、滴る雨に濡れながら、奥へと入っていく。地面に出た根っこに足を取られて、滑って転んだ。たちまち服が泥だらけになった。「総一郎くん」と大声で叫んでみたが、あたりは静まり返り、雨水が滴り落ちる音だけが聞こえてくるだけ。
どれだけ歩いただろうか、正美はようやく丘の上に立った。晴れていたら、さぞかしきれいな景色が望めることだろう。正美はまわりに目を遣った。何かが動いたような気がした。目を凝らすと、人が小さくうずくまっていた。「総一郎くんなの?」正美が言うと、その声に反応して動きを止めた。
総一郎だった。正美が近づくと、総一郎は丸くなって顔を隠した。服は泥で茶色に変色し、全身びしょ濡れだった。正美がそこから連れ出そうと腕を引っ張ると、石のように硬くなって動こうとしなかった。
総一郎が、泣きながら言った。
「先生なんて、嫌い」
正美は、あたりを見まわして、誰もいないことを確かめると、総一郎の近くにしゃがんだ。そして、総一郎に向かって今の自分の気持ちを打ち明けた。
「先生は、総一郎くんが心配で、ここまで探しに来たんだけどな……」
「……」
「総一郎くんは、先生のどんなところが嫌いなの?」
「先生は、いつも僕のことを怒ってばっかり。それにいつも怖い顔をしてる。僕なんて、いなきゃいいんだ。先生もそう思ってるでしょ」
総一郎の言葉を聞いて、正美の全身にショックが駆け巡った。自分では気づいていなかったが、必死にクラスを立て直そうとするあまり、正美はいつも険しい顔をしていた。言葉遣いも荒くなっていたし、子供たちを叱りつけてばかりいた。
「先生、確かに怒ってばかりいるよね。総一郎くんに辛い思いをさせてしまって、ごめんね……。先生は、今のままでいいなんて思っていないし、みんなと楽しいクラスにしたいと思っているよ」
正美がそう言うと、総一郎は少し落ち着きを取り戻したのか、顔をゆっくり上げて遠くの景色に視線を向けた。
「それなら、先生、怒ってばかりいないで、もっと笑ってよ」
「笑ってかぁ……。そうだね。先生が笑わないとね」
総一郎は、正美が声のトーンを和らげたことに安心したのか、涙交じりの笑顔で言った。
「それじゃ、先生、僕とにらめっこしよう。にらめっこしましょ わろうたら負けよ……」
正美の顔を見て、総一郎は一瞬で笑った。その姿が可愛らしくて、正美もつられて笑った。
雨はいつの間にか上がり、遠くの方から青空が広がり出していた。
後ろの方でガサッと音がした。雨が上がるのを待ちわびていたかのように、何かが頭上を横切る。一羽の鳥だった。鳥ははるか向こうの青空を目がけて、一直線に飛んでいった。
「総一郎くん、さぁ、学校に戻ろうよ。みんな、総一郎くんが教室に来るのを待っているよ」
正美が立ち上がってそう話すと、総一郎もゆっくりと立ち上がった。それから二人並んで、坂道を下り始める。
丘から下りる途中、総一郎は好きなテレビアニメの話をした。ヒーローが怪獣を次々に倒すストーリーだった。夢中で話す総一郎の話を、正美は穏やかな表情を浮かべながら聞いていた。
次の日、正美は子供たちの前で笑顔を振りまいた。「先生、どうしたの?」と、子供たちは皆、不思議そうに首を傾げている。だけど、今は何も言わない。とにかく笑顔、笑顔。
それから正美は、辛抱強く指示したことを子供たちができるのを待った。全員ができたら、思いっきり褒めてあげた。子供たちは褒められて、嫌な気はしなかった。嬉しい気持ちになった子供たちは、クラスのみんなのためになることを、すすんで行うようになった。
正美は、その日ごとに、クラスみんなで達成できる目標を考えた。決して難しいことではなかった。チャイムが鳴り終わるまでに座るとか、手を上げて意見を発表するとか……。全員で達成できたときは、子供たちと一緒に喜びを分かち合った。
さらに正美は、みんなでやってみたいことを、話し合って決めた。みんなで決めたことは、何があっても実行した。そうやってクラスの仲間意識を高めていった。
正美が次々と色々なことにチャレンジしていく中で、子供たちの変容はというとゆっくりだった。だけど、正美は焦らなかった。どんなに時間がかかっても、一度決めたことは最後まで貫こうと思った。そうすることが、子供たちからの信頼につながることを、校長から直々に教わったからだった。そうしてクラスは少しずつ、良い方向に動き出した。一度動き出すと、加速度的に子供たちの動きが活発になっていった。いつしか子供たちは、クラスのためになることを次々に考えて、行動するようになっていった。
そんなクラスの雰囲気を感じていた総一郎が、鳥を飼育したいと言い出したのは、ある意味、当然の成り行きだったのだ。
ぶんちゃんを飼うことになって、正美は子供たちと約束をした。それは、『自分たちで責任を持って世話をすること』……子供たちにぶんちゃんの世話を押しつけるのではなく、正美は子供たちが自分たちで考えて、行動して欲しいと願ったからだった。
正美との約束を、子供たちは忠実に守ろうとした。休み時間に、みんなでぶんちゃんを囲みながら、餌やり当番を決めた。餌は、誰かがインターネットで調べてきて、ミミズなどの虫がよいことがわかった。だから、校庭を歩きまわって餌を探す当番も決めた。鳥かごの中の掃除も、子供たちは嫌がらずに行った。
子供たちがヤキモキしたのは、週末やこれから始まる夏休みの間をどうするかだった。全員が持ちまわりで、ぶんちゃんを預かると言う意見が出て、クラス全員が賛成したが、家庭によっては、動物が苦手と言うところもあった。
たちまち全員が沈黙した。総一郎は思わぬ問題にぶつかって、自分が飼いたいと言い張った手前、今にも泣き出しそうだった。
そんな総一郎の姿を見ていた亜里沙が、思いついたように声を上げた。
「それなら、ぶんちゃんのことを新聞に書いて、家の人にぶんちゃんのことをもっと知ってもらったらどうかな。ぶんちゃんのことを知ってもらったら、協力してもいいって言ってくれる人が出てくるかも知れないでしょ」
「だけど、新聞って、一体どんなことを書くの?」
すかさず奈津が訊いた。
「そっ、それは……ぶんちゃんの写真とか、好きな食べ物のこととか……」
亜里沙は自信をなくしたように、小声になった。それから、またしばらく沈黙が流れた。
男子のリーダー格の諒太が、まわりの様子を伺うように、ゆっくりした口調で発言した。
「僕は亜里沙ちゃんの意見に賛成するよ。新聞にぶんちゃんがこの教室に来た理由を書いて、僕たちがどれだけぶんちゃんのことを大事にしているかを、みんなに知ってもらおうよ。そうしたら、協力してくれる人が増えるかも知れないよ」
諒太はそう言って、得意げな表情を浮かべる。
「私、新聞を作るのに賛成!」
「ぼっ、僕も賛成!」
まわりの子供たちから、続々と声が上がった。
「名前は、『ぶんちゃん新聞』がいいな」
総一郎がどこからともなくぽつりと言った。
総一郎の声を拾い上げるように、総一郎の隣にいた一樹が声を上げた。
「そうちゃん、それいいね。『ぶんちゃん新聞』で行こうよ。でも先生、完成した新聞を印刷してもらえるかなぁ……」
「それなら、みんなで先生にお願いしてみようよ。ぶんちゃんのことを大事に思って、みんなで話し合って決めたことだから、先生、絶対にオッケーしてくれると思うよ。出来上がった新聞は、教室の後ろに貼っておくの。そうしたら、いつだってぶんちゃんのことを振り返れるでしょ」
奈津がみんなの意見をとりまとめる。
その日の放課後、子供たちは教室の事務机に腰かける正美を取り囲んで、新聞作りを懇願した。
正美は、子供たち全員に詰め寄られて、最初は困惑した。それから、同僚たちの目を盗んで、せっせと新聞を印刷する自分の姿を想像した。同僚たちに知れたら、何を言われるかわからなかったから。でも、知られたときは、知れたときだった。子供たちのためと説明すれば、どうにかなると思った。
正美は、考えた挙句に、「うん、わかった。みんなの思いを新聞にしよう」と答えて、子供たち一人ひとりと目を合わせた。
「ただし、条件がある。新聞を作るのなら、作りっぱなしにしないで、長く続けること。それに、後で振り返ったときに、自分たちで頑張った姿が残っているような、そんな思い出になる新聞にすること」
とにもかくにも、先生から許しが出た訳で、子供たちは「やったぁ」と、互いにハイタッチをして喜んだ。
かくして、『ぶんちゃん新聞』記者団が結成された。有志で集まった記者団の子供たちは、すぐに役割分担に取りかかった。その中に、総一郎の姿があった。総一郎は、絵を担当することになった。
総一郎は、ノートのページを破り取ると、鳥かごの前に座ってスケッチを始めた。うまく描けないのか、少し描いては、描きかけの紙をくしゃくしゃと丸めた。そして行き詰まって、涙を浮かべながら固まった。
それを見ていた正美は、総一郎のそばに寄ってやさしく声をかけた。
「総一郎くんに先生のカメラを貸してあげる。このカメラで、ぶんちゃんが大きくなっていく姿を撮って、それを新聞に載せてみたらどう?」
総一郎は、悔しさのあまり固まっていたけど、渡りに舟とばかりに首を縦に振った。
その姿を見た正美は、さらに続けた。
「ただし、総一郎くんにお願いがあるの。このカメラで、ぶんちゃんの様子ばかり撮るのではなくて、ぶんちゃんのまわりにいるクラスのみんなを撮って欲しいの」
総一郎は、正美が言った意味がよくわからなかったが、カメラを貸してもらえると聞いて、気を取り直した。その日から、総一郎はカメラマンとしての仕事が始まった。
『ぶんちゃん新聞』は、家の人たちから好評だった。毎号楽しみにしているという声が寄せられるようになったし、中には家で使わなくなった大きな鳥かごを貸してくれる人もいた。そうして、ぶんちゃんの引っ越しの様子は、特大スクープとして、新聞に大きく載せられた。
心配していた夏休み中も、ぶんちゃんは元気に、子供たちの家々を旅行してまわった。旅先で撮られた写真は、家の人たちがスマホのアプリを通じて、正美やクラスの子供たちと共有してくれた。
そして、長い夏休みが明けて、子供たちが学校に戻ってきた。もちろん、ぶんちゃんも一緒だった。正美は、しばらく会わないだけで、子供たちがずいぶん大きく成長したような気がした。それは、ぶんちゃんも同じで、体が大きくなると同時に、羽もしっかりついてきたように感じられた。
二学期が始まって、早々に運動会があった。運動会の練習は、連日のように続いた。厳しい残暑の中で練習を繰り返して、子供たちは少し疲れた様子だったが、ぶんちゃんの世話や新聞作りは、手を抜かなかった。餌やりを忘れそうなときは、誰からともなく当番の子供に声をかけていたし、世話ができないときは、手の空いている子供が代わりにやってくれた。
カメラマンを任された総一郎は、カメラの操作にすっかり慣れて、毎日写真を撮り続けていた。その写真のほとんどは、クラスの仲間の姿を撮ったものだった。ぶんちゃんに恐る恐る餌を与えているシーンもあれば、ぶんちゃんと一緒に満面の笑みを浮かべる子供たちの写真もあった。
やがて季節はすすみ、クリスマスの足音が聞こえてきた。亜里沙の提案で、クリスマス会をすることになった。子供たちはそれまでに二度、この学校でクリスマス会を経験してきていたが、今回はぶんちゃんを取り囲んでの、特別なクリスマス会だった。だから、クリスマス会の出し物は、ぶんちゃんに因んだものに決まった。
亜里沙は、ぶんちゃんが教室に来てからのことを、紙芝居にして発表したいと言った。音楽が得意な諒太は、ぶんちゃんの歌を作って、みんなで歌いたいと願った。奈津は、ぶんちゃんに手紙のプレゼントを贈りたいと提案したし、生き物博士の一樹は、文鳥クイズを出してみたいと言った。
クラスのみんなが次々に提案するのを聞いていて、総一郎は何かを言いたげに、口をもごもごとさせていた。
「そうちゃん、言いたいことがあるんじゃないの?」
総一郎に向かって、奈津が問いかけた。
「僕、カメラ係でいいから、ぶんちゃんとクラス全員で、記念写真を撮ってみたい」
総一郎が声を詰まらせる。
「そうちゃん、自分でシャッターを押すなんて言わないで、そんなの隣のクラスの先生にお願いしてみようよ」
亜里沙だった。亜里沙は、これまでぶんちゃんと一緒に、記念写真を撮ったことがなかったことを思い出して、「私も写真を撮ってみたい」と、総一郎が出した意見に声を上げて賛成した。
こうして特別なクリスマス会は、二十八名の子供たちと先生、そして一羽の文鳥とで、賑やかに行われた。楽しい時間が過ぎるのは、あっという間だった。子供たちは名残惜しそうに、最後のプログラムである記念写真に写った。白い歯を見せながら笑う子供たちの中で、総一郎だけは何故か、寂しそうな表情を浮かべていた。
年が明けて、三学期が始まった。正美は、ちょうど一年前のことを思い浮かべていた。初めて教壇に立って迎えた一年間のまとめの季節、正美は慌ただしく過ごしているうちに、月日はあっという間に過ぎ去った。満足な言葉をかけることなく、受け持った子供たちを次の学年に送り出してしまった。だからこそ、今の三年二組の子供たちとは、後々に残る思い出を作りたかった。
寒い日が続いた。窓の外が暗くなったかと思うと、白いものが舞った。子供たちは、「雪だ。雪が降っているよ」と、声に出して喜んだ。総一郎は、座ったまま窓の外をぼんやりと見つめていた。その顔は、歓喜の声を上げる子供たちとは裏腹に、どんよりと曇っていた。
「総一郎くん、元気がなさそうだけど、どうかしたの?」
正美が声をかける。
総一郎は、窓の外を見続けていた。雪は、ますます強くなっていくばかり。
「先生、僕……」
総一郎が、何かを言おうとした。
正美は、総一郎の前の席に、ゆっくりと腰かけた。そして、わざと総一郎から視線を外して、窓の外を眺めた。
「先生、僕、ぶんちゃんを逃がしてあげた方がいいと思う」
総一郎が、か細い声で呟いた。
「総一郎くん、急にどうしたの。あれほど、ぶんちゃんを大事に飼っていたじゃない?」
正美は、戸惑いの顔を見せる。
「だって、ぶんちゃんは、空を飛びたいと思っているよ。最近、ぶんちゃんは窓の外をずっと見ているから……」
そう言いながら、総一郎は何かに必死に耐えていた。しきりに訴えかけるその澄んだ瞳は、ぶんちゃんと過ごした日々を、懸命に思い出しているようだった。
「先生、僕の願いを聞いてくれてありがとう。僕、ぶんちゃんと一緒に過ごして、楽しかった。いつもみんなが笑っていて、僕、このクラスにいて、嬉しかった。だから……」
「だから、何?」
総一郎は目にうっすらと涙を浮かべていた。自分に言い聞かせるように、「うん」と大きく頷くと、力を込めて言った。
「ぶんちゃんが、ぶんちゃんが、自分の力で飛んでいく姿を見たいんだ。そしたら僕も季……」
「そっ、総一郎くん……」
正美はそれ以上、訊かなかった。総一郎が言おうとしていることが、なんとなくわかったから。
それから何げなく、正美は教室のうしろの鳥かごに視線を向けた。ぶんちゃんが、立派になった羽をバタバタと広げていた。
終業式の日がやってきた。あたりはすっかり暖かくなり、校庭の桜の木は、満開に咲き誇る日を、今か今かと待ちわびているかのようだった。子供たちが、慣れ親しんだ三年二組の教室で過ごすのも、その日で最後だった。
この日、正美は早々と通知表を子供たちに手渡して、時間を作った。ぶんちゃんとお別れをするためだった。
子供たちは、ぶんちゃんのまわりに集まって、クリスマス会のときに歌った『ぶんちゃんの歌』を歌った。ぶんちゃんに感謝の気持ちを込めて、ぶんちゃんに表彰状を贈った。
そして、亜里沙と奈津、亮太や一樹が協力して、教室の窓を開けた。ぶんちゃんの鳥かごを開けるのは、総一郎がやることに決めていた。
総一郎は、鳥かごの中のぶんちゃんに、何かを言った。そして、鳥かごを窓の近くに持って行くと、一気にかごを開いた。
ぶんちゃんは、いつものように首を左右に振って、不思議そうな目で子供たちを見ていた。それから、バタバタと羽音を立てると、窓の外を目がけて一気に羽ばたいた。窓から出たぶんちゃんは、すぐに青い空に消えていった。
泣き崩れる子供がいた。「ぶんちゃん」と、いつまでも大声で呼び続ける子供もいた。その中で総一郎は、一人窓の外を見続けていた。その真剣な眼差しは、これから続く未来をじっと見つめているかのようだった。
やがて子供たちは一人、またひとりと、教室を出ていった。
「先生、僕、四年生になっても頑張るよ。だって、ぶんちゃんが見ていてくれるから……」
教室の扉に立って、子供たちを見送る正美に、総一郎がぽそりと呟いた。
正美は涙ながらに笑顔をつくると、「うん」と、首を大きく縦に振った。そして、総一郎が廊下の奥に消えていくのを、じっと見続けていた。
教室の窓の方で、何かが動いたような気がした。ぶんちゃんだった。ぶんちゃんは、慣れ親しんだ教室に別れを告げに来ているかのように、窓の外で大きく弧を描いて飛んでいた。
やがて、ぶんちゃんは大空に向かって、巣立っていった。
誰もいなくなった教室に、春の穏やかな風が、やさしく吹き込んでいる。そして、教室のうしろに貼ってある紙の束を、いつまでもパタパタとはためかせていた。
注) 本作品はフィクションですが、野生の鳥を捕獲することは、法令で禁じられている場合があります。




