遺伝子虐待
世の中には、親から受け継いだ負の遺産のせいで苦しむ子どもたちが大勢います。 病気、障害、体質、その他諸々の要素が、彼らの人生を彩り形作る決定的な要素となっているのです。
しかし、その子たちの親の中には、短絡的で自分勝手な理由で子作りしてしまうし者たちもいます。 これは見方によれば、当人である子どもたちにとって、一種の虐待になるのかもしれません。
今回はこの問題について、筆者の経験を元にエピソードを書かせていただきました。 それではどうぞ。
とある国に聾者(耳の聞こえない人)の親子がいました。 父親はおらず、母親と息子と娘の三人が暮らしていました。 母親は子どもたちを養うために、せっせと休みの日も切り詰めて働いていました。 一方、二人の子どもは幼く、ものをあまり知りませんでした。 身の上話は別として、驚くことに、家族全員が遺伝性の聴覚障害を患っているそうで、三人とも耳が聞こえず、互いに手話で意志疎通を図っていました。
ある日のこと、三人は少し離れた町へ遊びに出かけました。 朝一番にカフェに寄ったり、地元の名産品を買ったり、ありとあらゆる所に行きました。 しかし、三人にとってそれは、あまり楽しいものではありませんでした。 もちろん不慣れな町並みや土地勘の無さもありますが、それ以上にコミュニケーションの壁があったのです。 食事で言うならば、タブレットやサイトから注文するならまだしも、メニュー表を指差して店員に説明するのでは伝えづらくなってしまうでしょう。 そのようなコミュニケーションの壁を親子は感じていたのです。 もちろん注文できない訳ではありませんが、礼儀に欠けて無愛想な印象も少なからずもたらすでしょう。
そのような苦難も過ぎ去り、親子はショッピングモールに着きました。 すると、息子がゲーセンで遊びたいと言い出しました。 母親は仕方なくゲーセンへ連れて行くことに。 娘はあまり気乗りしなかったものの、渋々ついていきました。 息子は早速クレーンゲームコーナーに行き、山積みになった景品のソフビが取りたいと言いました。 母親は息子にお金を渡し、その様子を見守っていました。 しかし、ソフビのフィギュアは機体のアームの届かない所に溜まっており、中々取ることができませんでした。 そんな中、息子はゲーセンの店員を呼んで景品の積み直しをさせようと手話で示して来ました。 コールを鳴らし、店員の一人が来ました。 息子は店員にソフビの積み直しを要求しましたが、手話はもちろん、身振り手振りでも通じませんでした。 やっとの思いで店員に積み直しをしてもらいましたが、その顔はどこか暗く冴えないものでした。 母親は息子のあまりの不憫さに、思わず涙が込み上げてきました。
帰り際、息子は母親にこんなことを示しました。
「どうしてお母さんは僕を産んだの? 耳が聞こえないなんて嫌だよ」
母親は戸惑いました。 しばらく考えましたが、やがてかける言葉を見失い黙り込んでしまいました。 母親は自分を責めました。 自分のせいで子どもたちが苦しんでいることを改めて痛感しました。
三人はただ、薄暗くて肌寒い道のりを、消えた蝋燭の煙のようにゆらゆらと歩いて行きました。 命の灯火はまだ輝いているというのに。
ところで、この一家の成り立ちについて疑問を持った人もいるでしょう。 なぜ自身の負の遺伝子が引き継がれるのにも関わらず、子どもを二人も作ったのかと。 心無い考えが浮かんで来るとは思いますが、世の中には自分の負の遺伝子を残す人たちもいます。 レイプをされたにしても、互いの愛の間に生まれたとしても、資産目的で作ったにしても、生まれてきた子どもの中には、死ぬまで消えることのない苦しみを負うものも少なくありません。
実はこのエピソードは、筆者がゲーセンで遊びに行ったときの記憶を元に書いたものであります。 とある日のこと、口の聞けない親子が店員の方と話が通じず揉み合いになったのを、偶然見たことがありました。 この事については、ふとした瞬間に思い出したので、今回のエピソードのプロットに使わせてもらいました。
話は戻りますが、たとえそれらが「病気」や「障害」と言えるものではなかったとしても、極度の低身長や醜悪な顔貌、度重なる虚弱体質など、その人の人生において決定的なハンデをもたらすものも多くあります。 しかし、無責任な親たちは、それでもなお自分の欲求や目的の為に「子ども」という名の他者を苦しめてしまいます。
もし国が一個人の健康と生活を保証するとであれば、劣った遺伝子や病気や障害をもたらす形質を排除するために努力をするはず。 しかし、現実的には、それらは決して叶う話ではないのです。 個人の尊厳を守り人間らしい生活を促進するのであれば、上記の行動は個人の自由としてまかり通ってしまうからなのです。 加えて、障害者や病人の保護、ハンデを越えたチャレンジ企画の発信、感動ポルノといった人々の関心を惹くものがあるために、世論で病人や障害者は守るべき尊い命だと捉えられています。 しかしこれらは、少数の弱者に哀れむだけの、大多数の善人になりたい民衆の思い違いに過ぎないかもしれません。 助けたくもない社会的弱者への労り、当事者の痛み止めにしかならない募金、仰々しい記事と広告。 これらは自分たちが気持ちよくなるための、覚醒剤の様な違法性を秘めているのかもしれない。
能力の低さ、虚弱な性質、不安定な精神、醜悪な容姿、不要な遺伝子を遺すことはなぜ許されているのか。 自分の自由か、他人の人生か。 どちらか一方を選ばなければならないとして、果たしてどちらが優先されるべきなのでしょうか。
いかがでした系のサイトのノリは置いておき、皆さんは何を感じたのでしょうか。
これはあくまでも筆者の憶測の話でしかない訳なのですが、仮にこのような事実が読者の皆様に当てはまるものだったとして、少なくとも自身の運命を呪う気持ちは湧いてくるでしょう。 たとえそれが非倫理的で無礼なものだったとしても、どうしようもない事実に葛藤や行き場のない怒りや悲しみを抱くこともあるでしょう。
後半の解説や余談が長々としてしまいましたが、最後まで読み終えていただきありがとうございました。




