第2章:理を操る男
廃都の重苦しい静寂を切り裂き、アルスは周囲の空間を凝視した。その瞳は物質的な風景ではなく、世界に流れる魔力の奔流、あるいは誰かの「叫び」を捉えているかのようだった。
「……見つけた。ここから北西、半日もかからない距離だ」
アルスは無造作に右手を前方の空間へと突き出した。魔力操作を学んだばかりのマリアの目には、彼の指先から溢れ出す濃密な魔力が、幾何学的な紋様を空間に刻み込むのが見えた。
「『クリエイト・ゴーレム・トラック』」
低く、しかし断固とした詠唱。次の瞬間、大地が震え、石畳の下から土と岩が意思を持ったかのようにせり上がった。それはマリアの知るいかなる「ゴーレム」とも違っていた。四つの巨大な円盤状の脚を持ち、堅牢な鋼鉄のごとき岩肌で構成された、巨大な移動要塞――「トラック」と呼ばれる未知の造形物。
「なっ……何という、デタラメな……」
マリアは言葉を失った。土属性の最上位魔法であっても、これほど複雑で巨大な構造物を一瞬で構築するなど、宮廷魔導師団が総出で行っても数刻はかかるはずだ。だがアルスは、呼吸を乱すことすらなく、その鉄の獣の扉を開けた。
「助けを求める村がある。マリア、そこに行くぞ。乗れ」
「ま、待ちない! このような巨大な質量を動かすのに、どれほどの魔力を消費すると……」
「言っただろ、世界から吸い上げれば枯渇はしない。理屈だよ、マリア」
呆然と助手席に滑り込んだマリアを乗せ、ゴーレム・トラックは廃都の瓦礫を粉砕しながら爆走を開始した。窓の外を飛ぶように過ぎ去る景色。彼女が自慢とした駿馬の速度など、この鉄の獣の前では亀の歩みも同然だった。
到着した村は、死臭に似た淀んだ空気に包まれていた。
街道沿いの小さな集落。だが、そこに活気はない。家々の軒先には、黒ずんだ斑点を浮かべて苦しむ村人たちが折り重なるように倒れていた。
「疫病……。それも、ただの病ではないわ。魔力に汚染されている」
マリアは眉をひそめ、剣の柄に手をかけた。彼女の騎士としての経験が、この惨状の異常さを告げていた。従来の医術では太刀打ちできない、呪いにも似た広域汚染。聖職者が数十人で儀式を行わなければ、この村は数日のうちに地図から消えるだろう。
だが、アルスはトラックを降りるなり、村の中央で両腕を広げた。
「ひどいな。だが、間に合った」
彼は呪文を紡ぐのではない。ただ、己の中に渦巻く魔力を「設計図」に当てはめていく。
「『ヒール・バレット・レイン』――続いて、『ピュリフィケーション・バレット・レイン』」
刹那、村の全域を覆い尽くすほどの、眩いばかりの光の雨が降り注いだ。
マリアは、その光景に魂を射抜かれた。
空から降るのは、一発一発が先ほどのアンデッドを一撃で消し去った「ホーリーバレット」に匹敵する高密度の魔力弾。それが、数千、数万という雨粒となって、苦しむ人々の上に降り注ぐ。
光が触れるたび、村人たちの肌の斑点が消え、腐りかけていた肉が瞬時に再生していく。死の縁で喘いでいた老人が目を見開き、泣き叫んでいた子供が穏やかな眠りに落ちる。病魔という「悪意」だけを正確に撃ち抜き、生命力という「輝き」だけを増幅させる――神業を越えた、絶対的な調停の力。
「……信じられない」
マリアの手から、力が抜けた。
彼女がこれまで信じてきた「強さ」とは、剣で敵を倒し、武勇で民を守ることだった。しかし、目の前で行われているのは、数千の命を「一瞬」で、それも「一人」で救い出すという、慈悲の暴力とも呼べる事象だった。
(私の価値観は、間違っていたのか……?)
彼女が二十三年かけて積み上げてきた、高貴な剣士としての自負。血を吐くような訓練。剣技の極致。それらすべてが、アルスの放つ一筋の光弾よりも「軽い」ものに思えてしまった。
どんなに速く斬っても、これほど多くの人は救えない。
どんなに強くあっても、病魔を斬り伏せることはできない。
マリアの内にあった「最強」という名の絶対王政が、音を立てて崩壊していく。その廃墟の中に、アルスが静かに歩み寄ってきた。
「マリア。顔色が悪いぜ。魔力酔いか?」
「……アルス。貴殿は、一体何者なの」
マリアは、震える声で問いかけた。その瞳には、救い主への感謝以上に、理解不能な存在への畏怖が混じっていた。
「私は……剣を極めることが、守ることだと思っていた。だが、貴殿のその力は何だ? 魔法ですらない、神の奇跡ですら生ぬるい。たった一人で、理を書き換えてしまうなんて」
「大げさだな。俺はただ、効率よく魔力を動かしただけだ。アンタの剣も、この『雨』の一部になれる。そう言ったはずだぜ」
アルスは、ひっくり返ったマリアの価値観を否定するのではなく、優しく拾い上げるように笑った。
「届かないなら、届く方法を学べばいい。アンタが今、自分の無力さを知ったのなら、それは『本当の強さ』を知るための準備が整ったってことだ」
マリアは、涙がこぼれそうになるのを堪えるように、強く、強く拳を握りしめた。
崩れた価値観の瓦礫の中から、彼女は新しい自分を掘り起こそうとしていた。それは、公爵家の令嬢としてのプライドではなく、純粋に「この男の隣に立てるほどの強さが欲しい」という、一人の女性としての、そして一人の戦士としての切実な願いだった。
「……教えなさい、アルス。そのデタラメな力の、一端でもいい。私は、貴殿の背中を見上げるだけの女で終わるつもりはないわ」
マリアンヌ、二十三歳。
彼女の第二の人生が、この奇跡の雨が降る村で、真に始まった。
病魔の霧が晴れた村に、柔らかな陽光が差し込み始めていた。だが、マリアンヌの心象風景は、いまだ激しい嵐の中にあった。
彼女の瞳には、先ほどまで死の淵で喘いでいた村人たちが、信じられないほどの速度で活力を取り戻していく様が映っている。彼女が二十三年かけて磨き上げた剣技。それは、悪を断ち、敵を屠るための最高純度の「暴力」だった。だが、目の前の惨状――目に見えぬ病、枯渇した生命力、そして絶望――に対して、彼女の白銀の剣は何の役にも立たなかった。
「……剣では、守れない。斬るべき実体のないものに対して、私はこれほどまでに無力だったのか」
誇り高き公爵令嬢としての自負が、音を立てて剥落していく。彼女がこれまで「弱さ」だと思っていた魔法という力が、実は世界の理を直接書き換える、真に「守る」ための術であるという現実。その圧倒的な差を突きつけられ、マリアの価値観は根底から覆されようとしていた。
そんな彼女の葛藤を余所に、アルスは次の行動に移っていた。
「さて、病が治っても腹が減ったままじゃ力は出ないな。マリア、手伝ってくれとは言わないが、見てろ。これも魔力操作の応用だ」
アルスが地面に掌をかざす。
「『クリエイト・ファーニチャー』」
地響きと共に、土と岩が脈動し、精巧な細工が施された巨大な長テーブルと、人数分の椅子が地面から「生えて」きた。さらに、大人が数人入れるほどの巨大な寸胴鍋、数千枚のスープ皿、そして銀細工のような輝きを放つカトラリーまでもが、ものの数秒で土から錬成される。
マリアはもはや、驚きを通り越して呆然とするしかなかった。物質の構造を理解し、魔力で再構築する――。それは錬金術の極致であり、常人ならば一生を捧げても届かぬ領域だ。
アルスは虚空に手を伸ばすと、自らの「アイテムボックス」から、新鮮な肉の塊や瑞々しい野菜、香草を次々と取り出し、巨大な寸胴鍋へと放り込んでいく。
「火は使わないのか……?」
マリアが思わず声を漏らす。寸胴鍋は竈に乗っておらず、薪の一本も用意されていない。
「熱を直接、魔力で生み出す。摩擦や分子の振動を制御すればいいだけだ。火を通すのは数秒で済む」
アルスが鍋の側面に手を添えると、空気が微かに震え、鍋の中の水分が一瞬で沸騰した。魔力による超高効率の加熱。さらに彼は、氷の魔力を用いて透明なジョッキを次々と生成し、大人用には黄金色のエールを、子供用には清らかな水を満たしていく。
「……できた。さあ、皆、食え! 遠慮はいらないぞ!」
数秒前まで材料だったものが、今や芳醇な香りを漂わせる濃厚な具だくさんスープへと姿を変えていた。アルスの促しに従い、蘇生したばかりの村人たちが恐る恐る口に運ぶ。そして次の瞬間、村中に歓喜の声が上がった。
アルスはマリアの前にも、土から作ったとは思えないほど滑らかなスープ皿を差し出した。
「ほら、マリア。アンタも食え。思考が凝り固まってる時は、美味いもんを食うのが一番だ」
マリアは、震える手でカトラリーを取り、スープを一口口に含んだ。
刹那、彼女の全身を衝撃が駆け抜けた。
「……っ! 何、これ……」
野菜の甘み、肉の旨味が完璧に引き出され、スパイスの香りが鼻を抜ける。それは宮廷の専属料理人が数日かけて仕込む最高級のシチューを遥かに凌駕する、生命の輝きに満ちた味だった。しかも、このスープを飲んだ瞬間、先ほどの戦いで消耗していた彼女の「気」が、驚異的な速度で回復していくのが分かった。
「美味しい……。いや、それだけではないわ。魔力が、内側から満たされていく……」
マリアは悟った。アルスが行っているのは、単なる「炊き出し」ではない。食という行為を通じて、村人たちの衰弱した魔力回路を補完し、肉体と精神の双方を同時に治療しているのだ。
「……アルス。私は、あまりにも無知だった」
マリアは、スープ皿を見つめたまま、静かに、しかし決然と言葉を紡いだ。
「剣を極めれば、すべてを解決できると信じていた。だが、貴殿の見せる『魔法』は、破壊ではなく創造……。失われたものを埋め、明日へ繋ぐための力だわ。私の剣が『死』を運ぶものなら、貴殿の力は『生』そのもの」
彼女はゆっくりと顔を上げ、アルスを見据えた。その瞳からは、かつての傲慢な光は消え、代わりに未知の真理を求める修道者のような、清廉な輝きが宿っていた。
「認めるわ。私は、この力が欲しい。誰かを斬るための速さではなく、誰かを、この村を、守り抜くための理を知らなければならない。私は……魔法を、学びたい」
品性を保ちつつも、魂の底から絞り出した願い。マリアンヌにとって、それは二十三年の人生で最大の敗北であり、同時に最大の勝利への第一歩だった。
アルスはスープを飲み干すと、満足そうに口を拭い、彼女に不敵な笑みを向けた。
「いい返事だ、マリア。剣で守れないなら、魔法を足せばいい。魔法で足りないなら、また剣を振ればいい。正解なんて一つじゃない。……よし、食い終わったら、次はアンタの『魔力操作』の精度を一段階上げるぞ。このスープに溶かした魔力を、一滴も残さず自分の核に定着させてみせろ」
マリアは深く頷き、最後の一滴までスープを飲み干した。
廃都で感じた絶望は、もうない。彼女の目の前には、どこまでも広く、深遠な、魔法と剣が交差する真実の道が拓かれていた。
村を包んでいた死の気配は、アルスの奇跡的なスープと浄化の雨によって完全に拭い去られていた。だが、その平和な風景とは対照的に、村の外れにある広場では、空気を震わせる鋭い衝撃音が絶え間なく響いている。
マリアンヌ――マリアは、額に珠のような汗を浮かべ、荒い呼吸を繰り返していた。彼女の指先は微かに震え、全身の毛穴からは銀色の魔力が陽炎のように立ち上っている。
「……はぁ、はぁ……っ!」
彼女の視線の先には、一本の巨大な大木が立っている。樹齢数百年はあろうかというその巨躯には、今、一つの穴が開いていた。それはアルスが指先を軽く弾いただけで放たれた、無造作な「魔力弾」の痕跡だ。音もなく、抵抗もなく、鋼鉄をも容易く貫くであろうその光の一撃は、大木の幹を寸分の狂いもなく貫通し、背後の岩山にまで深い爪痕を残していた。
対して、マリアが放った一撃はどうか。
彼女が全神経を集中させ、魔力回路を焼き切らんばかりの勢いで放った魔力の礫は、大木の表面を激しく叩き、樹皮を数センチほど抉り取ったに過ぎなかった。
「……弱い。あまりにも、弱すぎる……」
マリアは、自分の拳を凝視した。
剣を持てば、彼女は無敵だった。一振りで大木を薙ぎ倒し、一突きで岩を砕くこともできた。だが、この「魔力」という未知の力においては、彼女は生まれたての赤子も同然だった。二十三年間、物理的な破壊力と速度のみを信じてきた彼女の肉体は、魔力を純粋な「力」へと変換する効率があまりにも低かったのだ。
「何が違うというの、アルス! 私は貴殿に教わった通り、回路を繋ぎ、魔力を凝縮したわ。なのに、なぜ私の光はあんなにも細く、脆いの!」
高圧的な口調の中に、隠しきれない焦燥が混じる。彼女のプライドが、この圧倒的な「質の差」に悲鳴を上げていた。
アルスは、切り株に腰を下ろしてリンゴを齧りながら、退屈そうに彼女を振り返った。
「理屈は合ってる。だが、練り方が甘いんだよ、マリア。アンタは剣の重さを腕力で補おうとしているのと同じだ。魔力ってのは『筋力』じゃない。『密度』だ。針の先一点に、世界中の重みを詰め込むようなイメージでやってみろ」
アルスは立ち上がり、再び指を突き出した。
「見てろ」
言葉と同時に、彼の指先に極小の光点が生まれる。それはマリアのものよりずっと小さく、しかし直視できないほどに輝いていた。
「『マジックバレット』」
放たれた光は、もはや弾丸というよりは、空間を削り取る「線」だった。再び大木を貫き、その先の空間までをも熱量で歪ませる。
「……もう一度だ。魔力が底を突くまで、ひたすら繰り返せ。枯渇の淵に立って初めて、アンタの回路は『世界』と繋がる」
「枯渇……? そんなことをすれば、意識が……」
「死なせやしない。俺がついてるだろ。マリア、アンタは強くなりたいんだろ? だったら、そのお上品なリミッターを外せ。自分の内側にある魔力なんて、バケツ一杯の水みたいなもんだ。それを使い切って空にしなきゃ、外にある海の水は入ってこないんだぜ」
アルスの言葉は冷徹だったが、その裏にはマリアのポテンシャルに対する絶対的な信頼があった。
マリアは、深く息を吐いた。
公爵家の令嬢としての気品を、その荒い呼吸と共に吐き出す。彼女は再び大木に向き直り、魔力回路を全開にした。全身を走る熱い痛みが、彼女の神経を逆撫でする。視界が白く霞み、心臓が早鐘を打つ。
(使い切る……。空にする……。私が、空っぽになるまで!)
「ああああああっ!!」
叫びと共に、彼女は魔力弾を連射した。一発、二発、十発。
最初の一撃こそ樹皮を削る程度だったが、二十発を越える頃には、彼女の指先から放たれる光は徐々に鋭さを増していった。魔力回路が強制的に拡張され、肉体が悲鳴を上げるたびに、彼女の放つ「質」が変容していく。
五十発を数えた時、マリアの視界は真っ暗になった。
全身の力が抜け、膝がガクガクと震える。喉の奥からは血の味がした。これが、魔力枯渇の予兆。魔導師が最も恐れる、死の入り口。
だが、彼女の心は折れていなかった。
(まだ……。まだよ! マリアンヌの剣が、ここで止まるはずがない!)
最後の一滴。魂を絞り出すようにして、彼女は右手を突き出した。
その瞬間、彼女の感覚が「外」へと溶け出した。アルスが言っていた「世界中にある魔力」の脈動が、指先を通じて流れ込んでくる。
「……いけっ!!」
放たれた最後の一撃は、それまでのものとは明らかに違った。
銀白の閃光が大木の中央を真っ直ぐに射抜き、乾いた音を立てて貫通したのだ。
「……あ……」
マリアはそのまま、崩れるように地面に倒れ込んだ。土の匂いと、心地よい疲労感。全身が空っぽになった感覚の中で、不思議と心は澄み渡っていた。
「……合格だ、マリア。初めて『世界』の端っこを掴んだな」
アルスの声が、遠くで聞こえた。
マリアは泥に汚れ、汗に濡れた顔で、微かに笑った。
剣では届かなかった場所へ。物理的な強さの先にある、真の理へと。彼女は今、一歩だけ踏み出したのだ。
魔力枯渇の極致から這い上がり、世界から流れ込む魔力の奔流を初めて肌で感じたマリア。彼女の銀髪は汗で頬に張り付き、その瞳は疲労の色を濃く滲ませていたが、奥底に宿る光だけは以前よりも鋭く、澄んでいた。
アルスは彼女の正面に立ち、夕闇に染まり始めた空を背負って静かに告げた。
「魔力操作の基礎は合格だ。次は、その無色透明な力に『意味』を与える。マリア、アンタには俺が整理した『水属性』の適性を与えることにした」
「……属性を、与える? 魔法の素養は生まれ持った才能ではないのか」
マリアは驚きを隠せなかった。彼女の常識では、火を操る者は火の、風を操る者は風の血筋や天命を背負っているものだった。だが、アルスの口ぶりは、まるで新しい剣を一本手渡すかのように軽い。
「理屈を知れば、属性なんてのは変換効率の差に過ぎない。アンタのしなやかな剣筋と、内側に秘めた強靭な粘り……。水は、そのどちらにも化ける。いいか、よく聞け。水属性ってのは、この世で最も汎用性が高く、かつ恐ろしい力だ」
アルスは指を一本立て、宙に水の一滴を生み出した。それは水晶のように美しく輝き、彼の言葉に合わせて形を変えていく。
変幻自在の蒼き武器
「まずは基本の『水』だ。ただの弾丸として放つ『弾』、一点を貫く『穿』。ここまでは先ほどと同じだが、これを薄く研ぎ澄ませば『刃』となり、鋼をも両断する『斬』へと昇華する。さらに相手を包み込めば『窒息』を誘い、長く伸ばせば『鞭』になる。獲物を『捕』らえ、『縛』り、『拘束』する。水は形を持たないからこそ、あらゆる束縛の形をとるんだ」
マリアはその説明を、一言も漏らさぬよう脳裏に刻み込む。彼女の剣技に、変幻自在の鞭や拘束の術が加われば、もはや「速度の速い敵」に翻弄されることはなくなる。
「そして、熱を奪えば『氷』に変わる。これはアンタにとって最高の盾だ」
アルスの周囲に、瞬時にして氷の結晶が舞い踊る。
「氷の『弾』や『刃』は物理的な重さを伴う。だが、真髄は防御と構築だ。『盾』『鎧』『壁』として身を守り、地面を『滑』らせて敵の体勢を崩し、氷の『圧』で押し潰す。それだけじゃない。魔力さえあれば、旅の先々で『建屋』も『寝台』も『机』や『椅子』、果ては『食器』や『鍋』まで即座に作り出せる。敵を逃がさぬ『牢』や『檻』にもな」
マリアは、先ほどアルスが土魔法で作った家具を思い出した。氷であれば、より鋭利に、より透明に、戦場を支配する城を築けるのだ。
破壊と生命の二面性
「さらに熱を加えれば『熱湯』となり、その熱量は『炸裂』する。気化させれば『蒸気』だ。蒸気の膨張率は凄まじい。これを狭い空間で解き放てば『爆』発的なエネルギーを生む。アンタが苦手だと言っていたパワーのある敵を、内側から吹き飛ばすための切り札だ」
アルスの解説は、マリアがこれまで抱いていた「お上品な魔法」のイメージを完膚なきまでに破壊していった。それは、物理法則を極限まで利用した、冷徹なまでの戦闘理論だった。
「そして、最も重要なのが『体内』への干渉だ。人間の体の大半は水でできている。この水を操ることで、『身体強化』や『筋肉強化』の効率を跳ね上げる。さらに傷ついた組織を流し、繋ぐ『癒』の力……。そして、大気中の水分を媒介にした『索敵』と『探索』。この村の病を見抜いたのも、この応用だ」
「……水だけで、それほどのことが……」
マリアは、自分の両手を見つめた。
剣を振るうことしか知らなかったその掌。もし、この「水」の理をすべて体得したならば。彼女の剣は、もはやただの鉄の棒ではない。
時に激流のごとく敵を押し流し、時に万年雪の冷徹さで防御を固め、時に蒸気の爆発力で天を突く。それは、彼女が求めて止まなかった「すべてに対処できる強さ」そのものだった。
「これ以外にも応用はあるだろうが、まずはこのリストを叩き込め。水属性を極めたマリアの剣は、もはや誰にも止められない」
アルスは満足げに腕を組んだ。
「さあ、理屈は理解したな。次は実践だ。マリア、まずはアンタの剣の周りにある『湿気』を集めてみろ。それを氷の薄刃に変え、アンタの剣をさらに一回り長く、鋭く補強するんだ」
マリアは、震える手で愛剣を抜いた。
泥を噛むような屈辱と、空っぽになるまで魔力を使い果たした疲労。その先に見えた、蒼く深い真理の海。
「……承知したわ、アルス。私は水の如く、あらゆる器に従い、そしてあらゆる障害を穿つ存在になってみせる」
高貴なる女剣士の背後に、微かな水の衣が纏わりつく。
それは、彼女の第二の人生を象徴する、冷たくも美しい覚醒の予兆であった。
村の喧騒から離れた北の広場。そこは今、一人の旅人と、一人の高貴な女騎士による、常軌を逸した「教室」へと変貌していた。
アルスは、自身の指先を指揮者のタクトのように軽く動かし、空間に漂う湿気を一瞬で「形」へと変えていく。
「見てろ。まずは基本だ。『ウォーターバレット』」
パチン、と指が鳴る。空中に生じた拳大の水球が、大気を切り裂く鋭い音と共に背後の岩壁を穿った。水とはいえ、超高圧で撃ち出されたそれは、鉄礫に等しい破壊力を持つ。
「次は温度を奪う。『アイスバレット』」
水球が放たれた瞬間に凍りつき、結晶の棘を纏った魔弾となって岩に突き刺さる。冷気が岩の亀裂を広げ、ピキリと不気味な音を立てた。
「さらに熱を加える。『ボイルバレット』。そして、一気に気化させ、膨張のエネルギーを収束させるのが『スチームバレット』だ」
放たれた弾丸は、着弾と同時に爆発的な熱量を解放し、岩の表面を熱で変質させ、立ち昇る白煙で視界を奪う。物理的な衝撃に「熱」と「圧力」という理不尽な破壊が加わった光景に、マリアの喉が鳴った。
だが、アルスの演武は止まらない。
「弾丸だけじゃない。形を研ぎ澄ませ。『ウォーターカッター』」
指先から放たれた極細の水線が、大木をバターのように滑らかに両断した。切断面は鏡のように滑らかだ。
「そして、形状を固定せず、流動性を残したまま操るのが『ウォーターウィップ』。これで敵の足を掬い、武器を奪い、首を絞めろ」
アルスの手から伸びた水の鞭が、しなやかに空を舞い、地面に転がっていた重い石を軽々と粉砕して見せた。
魔法使いには見えないその男が、息一つ乱さずに見せる「水の理」。マリアは、その美しくも恐ろしい連撃を、一瞬たりとも見逃すまいと見開いた瞳に焼き付けた。
「……さあ、マリア。次はアンタの番だ。今見せた六つの術を、順番に、かつ正確に放て。……魔力が完全に枯渇し、一歩も動けなくなるまで、一秒も休まずにな」
「……っ。当然よ、誰に言っていると思っているの」
マリアは、愛剣を鞘に納め、両手を開いて前方に突き出した。
剣士としての「構え」を捨て、純粋な魔力の器として世界に向き合う。それは、二十三年間の人生で最も「無防備」で、かつ「攻撃的」な姿勢だった。
「『ウォーターバレット』……っ!」
放たれた水弾は、アルスのものに比べれば、まだ揺らぎがあり、速度も遅い。だが、彼女は止まらない。一つ放てば、すぐさま次のイメージを脳内に構築する。
「『アイスバレット』……『ボイル……バレット』!」
熱と冷気の変換。それは脳を焼くような激しい情報処理を要求する。魔力回路が、慣れない高熱と極低温の往復に悲鳴を上げる。血管が脈打ち、視界の端が火花を散らしたように明滅する。
「まだだ! 指先の感覚を研ぎ澄ませ。水はアンタの意志だ。アンタが『斬る』と思えば、水は剣より鋭くなる!」
アルスの叱咤が飛ぶ。
マリアは、乱れる銀髪を振り乱し、歯を食いしばって「ウォーターカッター」を放った。水の線が空を切り、大木の表面を浅く抉る。
「……くっ、まだ、足りない……!」
百発、二百発。
広場には、水の弾ける音と、蒸気の爆音、そして氷の砕ける乾いた音が鳴り響き続ける。マリアの全身からは、汗だけでなく、制御しきれぬ魔力が霧となって立ち上っていた。
心臓の鼓動が耳の奥で太鼓のように響く。手足の先から感覚が消え、自分が地面に立っているのか、宙に浮いているのかすら分からなくなってくる。これが、アルスの言っていた「底を突く」瞬間の前兆。
(……私は、マリアンヌ。公爵家の誇りにかけて、この程度で、膝をつくわけには……いかない!)
彼女の誇りは、今や身分を誇示するためのものではなく、己の限界を突破するための唯一の燃料へと変容していた。
「『ウォーター……ウィップ』!!」
泥濘のような疲労の中から、必死に水の鞭を生成する。形が崩れそうになるのを、精神の力だけで繋ぎ止める。振り下ろされた鞭が、かろうじて大木の枝を叩き落とした瞬間、マリアの視界から色が消えた。
全身を走る電撃のような痛み。そして、その後に訪れる、恐ろしいほどの虚脱感。
体内の魔力タンクが、最後の一滴まで絞り出され、一滴の潤いも残っていない乾いた荒野のように。
「……あ……」
マリアの膝が折れた。
指先から魔力が完全に消え、彼女の体は糸の切れた人形のように地面へと崩れ落ちる。冷たい土の感触。重力という名の巨人が、彼女の肩を地面に押し付けているかのように重い。
指一本、動かすことができない。呼吸をすることすら、肺が焼け付くような重労働に感じられる。
だが、その深い闇の底で。
彼女は確かに感じた。
自分の体の中にできた「空白」を埋めようと、大気中から、土から、そしてアルスの放つ穏やかな気配の中から、未知のエネルギーが、染み込むように流れ込んでくるのを。
「……よくやった。枯渇の向こう側だ」
頭上で、アルスの落ち着いた声がした。
彼は倒れ伏すマリアの隣にしゃがみ込み、その銀髪を優しく撫でるように、魔力を込めた指先を彼女の首筋に当てた。
「……アル、ス……」
「喋るな。今は、その『入ってくる感覚』を体中に覚え込ませろ。それが、アンタが世界と繋がった証拠だ。アンタの器は、今、一回り大きくなった」
マリアは、泥に汚れた顔で、薄く目を開けた。
かつては「剣こそがすべて」だと思っていた。だが今、この動けぬほどの疲労の中で、彼女はかつてない全能感に包まれていた。
水の理を知り、魔力の底を叩いたことで、彼女の剣は、もはや過去のそれとは別次元のものへと進化しようとしている。
「……次、は……」
「まずは寝ろ。明日は、その水を『剣』に纏わせるぞ。アンタの本領発揮だ」
アルスの言葉に、マリアは安堵したように意識を手放した。
廃都の絶望から始まった旅は、今、一人の女剣士を「水の魔剣士」へと作り変えようとしていた。




