第1章:廃都の絶望と救済
月明かりすら届かぬ厚い雲の下、かつて栄華を極めた廃都の石畳は、今や腐肉を啜る音と、乾いた骨がぶつかり合う不気味な旋律に支配されていた。その中心で、一人の女が孤高の光を放っている。マリアンヌ、二十三歳。公爵家の血を引き、その美貌と苛烈なまでの剣技で「戦場の白百合」と讃えられた高貴なる剣士である。
彼女の剣は速い。常人の目では捉えきれぬ踏み込みから放たれる一閃は、鋼をも易々と断ち切る。しかし、今彼女を取り囲む数千の死者たちにとって、その鋭さは無意味な儀式に過ぎなかった。
「……しつこい。下賤な骸が、この私の行く手を阻もうというのか」
マリアンヌは短く息を吐き、高圧的な、それでいてどこか清廉な響きを持つ声で言い放った。彼女の話し方には、生まれ持った気品と、己の研鑽に対する絶対の自負が宿っている。だが、その瞳の奥には、拭いきれない焦燥の色が影を落としていた。
右から躍り出た腐乱死体の首を、一瞬の澱みもなく跳ね飛ばす。左から迫るスケルトンの胸骨を、剣先の一突きで粉砕する。マリアンヌの動きは、舞踏のごとき優雅さと、嵐のような破壊力を兼ね備えていた。しかし、斬り捨て、打ち砕いたはずの敵は、数秒後には泥を捏ねるような音を立てて再び形を成し、何事もなかったかのように立ち上がってくる。
「切っても、切っても……。これでは際限がないではないか」
彼女が直面しているのは、物理的な限界だった。マリアンヌはこれまで、圧倒的な速度と洗練された技能で、あらゆる強敵を屈服させてきた。だが、最近の彼女は、かつて感じたことのない「壁」に突き当たっている。
それは、彼女の剣技が劣っているからではない。むしろ、あまりにも「正解」を求めすぎたがゆえの停滞だった。極限まで研ぎ澄まされた彼女の剣は、生身の人間や獣に対しては無敵の威力を発揮する。しかし、質量そのもので押し潰してくる巨漢や、こちらの速度を上回る異形の怪物、そして今目の前にいる、痛みも死も忘れたアンデッドの群れに対し、彼女の「技能」は決定打を欠いていた。
凄まじい筋力を持ち、人並み外れたパワーを誇るマリアンヌであっても、質量と数という物理法則の前には、その可憐な肩に疲労が蓄積していく。
(私の剣は、弱いのか……?)
脳裏をよぎった疑念を、即座に振り払う。だが、一度芽生えた不信は、毒のように彼女の精神を蝕んでいく。どう強くなればいいのか。この純粋な技能の先に、何があるというのか。
廃都の広場、四方を埋め尽くす死者の群れ。その数は三千、あるいはそれ以上か。マリアンヌの白い戦装束は、返り血と泥に汚れ、愛剣の柄を握る掌には重い痺れが走っている。
「……マリア、と。そう呼んでくれた者たちの期待を、ここで裏切るわけにはいかない」
彼女は独りごちる。親しい者だけが呼ぶことを許されたその名は、今の彼女にとって唯一の錨だった。しかし、現実は非情である。背後から迫る巨大な肉塊のゾンビが、その丸太のような腕を振り下ろした。マリアンヌは最小限の動きでそれを回避し、核と思われる心臓部を正確に貫く。だが、肉塊は止まらない。貫かれた穴を瞬時に塞ぎ、粘着質な腕で彼女の剣を絡め取ろうとする。
「くっ……離せ!」
力で引き剥がそうとするが、相手の質量がそれを許さない。パワーで押し負ける。速度が封じられる。技能が通じない。これまで彼女を支えてきた全ての要素が、この絶望的な状況下で一つずつ否定されていく。
周囲のアンデッドが、一斉に距離を詰めてきた。数千の死者が発する腐臭が鼻を突き、冷たい骨の手が彼女の足首を掴む。
(ここまで、なのか。この私が、このような場所で、名もなき屍として朽ち果てるというのか)
視界が、死者の影に覆われていく。空を仰げば、雲の隙間から一筋の月光が差し込んでいた。その光はあまりにも冷たく、そして美しい。マリアンヌは、自分の死を覚悟した瞬間にさえ、その美しさに目を奪われる自分に、皮肉な笑みを浮かべた。
絶望が、冷たい水のように心を満たしていく。剣を握る指先から、力が失われていくのを感じる。数千の死者の咆哮が、彼女の意識を飲み込もうとしていた。
死の抱擁が、すぐそこまで迫っていた。マリアンヌの足首を掴む泥濘のような死者の手が、彼女の誇りさえも引き摺り下ろそうと執拗に絡みつく。三千を超える死の軍勢。その圧倒的な質量の前で、彼女の洗練された剣技は、暴風雨の中の灯火のようにか細く、今にも消え入ろうとしていた。
「……ここまで、か」
唇を噛み締め、悔恨が胸を焼く。二十三年の生涯。高貴なる血を継ぎ、誰よりも速く、誰よりも強く、誰よりも美しくあることを己に課してきた。だが、その結末がこの汚泥に塗れた廃都での最期だというのか。視界を埋め尽くす腐肉の壁が、彼女から月光さえも奪い去ろうとした、その時だった。
「――『ホーリーバレット』」
凛として、しかしどこか慈愛に満ちた声が、死者の呻きを切り裂いて響き渡った。
その直後、漆黒の帳に包まれていた廃都の空が、文字通り「爆発」した。
一条の、いや、数十、数百という光の礫が、夜空を貫いて降り注ぐ。それは雨のようでありながら、矢よりも速く、雷よりも苛烈な軌跡を描いていた。マリアンヌの眼前に迫っていた肉塊のゾンビ。その心臓部――彼女の剣が通用しなかった強固な質量――に、一発の光弾が吸い込まれる。
刹那、轟音と共に純白の閃光が弾けた。
「なっ……!?」
マリアンヌは思わず腕で顔を覆った。爆風ではない。それは温かく、同時に魂の根源を震わせるような浄化の波動だった。目を開けた彼女が目撃したのは、信じがたい光景だった。
先ほどまで彼女を絶望の淵に追いやっていた不死者たちが、光に貫かれた箇所から「塵」へと変わっていく。腐肉が剥がれ落ちるのではない。骨が砕けるのでもない。闇が光に触れて霧散するように、存在そのものが白銀の粒子となって、夜風に溶けていくのだ。
光弾は止まらない。正確無比な連射。それはまるで、意思を持った星々が地上へ舞い降り、悪意を摘み取っていくかのようだった。
「あ、ああ……」
マリアンヌの口から、感嘆とも溜息ともつかぬ声が漏れる。彼女の自慢だった速度を遥かに凌駕する弾道。彼女の腕力では抗えなかった巨体を、紙細工のように消し去る破壊力。そして、彼女が最も苦戦した「再生」という呪いを、根底から否定する聖なる理。
切っても切っても立ち上がってきた三千の軍勢が、今や瞬く間に「光の海」へと姿を変えていく。廃都を支配していた腐臭は、どこか懐かしい、雨上がりの草原のような清爽な香りに塗り替えられていった。
マリアンヌを拘束していた死者の手も、既に光の塵となって消えている。彼女はふらつく足取りで立ち上がり、重い剣を杖代わりに、その声が聞こえた方向を凝視した。
(助けられた……というのか。この私が?)
その事実は、彼女の中に複雑な感情を呼び起こした。死の淵から救われた安堵。未知の力に対する畏怖。そして、何よりも――自分があれほど苦悩し、限界を感じていた絶望を、たった一言の詠唱で瓦解させた「誰か」に対する、言葉にできない衝撃。
自分の剣技は、一体何だったのか。
速さとは、力とは、強さとは何なのか。
降り注ぐ光の粒に照らされた彼女の横顔は、戦士としての険しさを失い、年相応の、迷える一人の女性のそれに戻っていた。光の塵が舞い散る幻想的な風景の中、マリアンヌの心には、新たな渇望が芽生え始めていた。この力の主は誰か。そして、自分に足りなかったものは、この光の中にあるのではないか。
「……マリア」
不意に、自分を呼ぶ親しい者たちの声が耳の奥で再生される。
絶望は去った。しかし、彼女の本当の戦いは、この眩い光の先から始まることを、彼女の魂は予感していた。
光の粒が、夜の帳を優しく撫でるように廃都へと降り積もっていく。数千のアンデッドが支配していた死の空間は、今や嘘のように静まり返っていた。マリアンヌは、自分の手首を掴んでいた冷たい感触が「無」へと変わった感覚を反芻しながら、ゆっくりと顔を上げた。
光弾が放たれたその先に、人影があった。
そこに立っていたのは、二十五歳前後とおぼしき一人の男だった。マリアンヌがその姿を認めた瞬間、彼女の脳裏を支配したのは「違和感」という言葉だった。
彼女が知る「魔法使い」という人種は、大抵が長い杖を携え、重厚な刺繍が施されたローブを纏い、古めかしい呪文を口ずさむ気難しい者たちだ。あるいは、宮廷に仕える魔導師たちのように、どこか浮世離れした、知識の重みに背を丸めた老人たちである。
しかし、目の前の男は違った。
彼は、戦場に馴染みすぎた実用本位の衣服に身を包んでいた。革製の軽装鎧に、動きやすさを重視した裁断のズボン。腰には幾つかのポーチが下がり、その立ち姿には魔導師特有の脆弱さなど微塵も感じられない。むしろ、荒野を渡り歩く傭兵か、あるいは凄腕の狩人のような、研ぎ澄まされた野生の気配を漂わせていた。
「……あなたが、今のを?」
マリアンヌは、剣を杖代わりに立ち上がりながら、震える声を絞り出した。彼女の言葉には、高貴な家柄ゆえの隠しきれない威圧感が混じっていたが、それは拒絶ではなく、あまりの状況の急変に対する自己防衛に近いものだった。
男は、彼女の視線を真っ向から受け止めた。その瞳には、彼女の美貌に惑わされるような卑俗な色はなく、ただ淡々と、戦場の事後処理を行う職人のような冷静さが宿っている。
「助けが必要なように見えたが、余計な世話だったか?」
男の声は低く、落ち着いていた。嫌味ではない。ただ、事実をそのまま口にしているだけのような、飾りのない言葉だ。マリアンヌはその「普通さ」に、かえって戦慄を覚えた。
あれは、間違いなく魔法だった。
三千の死者を瞬時に灰へと変え、理不尽なまでの再生能力を無効化した、圧倒的なまでの聖属性の光。彼女がこれまで見てきた、どんな大魔導師の儀式魔法よりも速く、的確で、そして凄まじい威力を秘めていた。それを、杖も持たず、詠唱すら最小限に留め、あのような軽装の男が成し遂げたという事実。
マリアンヌの胸中に、言いようのない焦燥が渦巻く。
彼女は二十三年の歳月を、自らの肉体を研ぎ澄ますことに費やしてきた。一秒を縮めるために、一撃の重さを増すために、血を吐くような訓練を積み、十六万を数える剣の型をその身に刻み込んできた。それが、彼女の誇りであり、美学であり、強さの証明だったはずだ。
だが、今、目の前の男が見せた「魔法」は、彼女が積み上げてきた努力という名の牙城を、あまりにも軽やかに飛び越えてしまった。
「私は……マリアンヌ。公爵家の名において、貴殿の加勢に感謝する」
彼女は、泥と返り血に汚れた戦装束を整えようと試み、自分の手がまだ細かく震えていることに気づいた。速度、パワー、質量。彼女が悩み、壁を感じていたそれら全てを、男は「合理性」という名の光で一掃したのだ。
「名乗るほどのものではない。ただの通りすがりだ」
男はそう言って、周囲の様子を窺うように視線を巡らせた。その動作一つをとっても、無駄がまったくない。マリアンヌは、彼が自分と同じ――あるいは自分以上の「武」の心得があることを、本能で察した。魔法を操りながら、その身のこなしは一流の戦士のそれである。
どうすれば、強くなれるのか。
自分の剣技は、本当に弱いのか。
その問いが、再びマリアンヌの心に突き刺さる。
彼女の剣は、速かった。しかし、この男の放った光弾の「速さ」には及ばない。
彼女の力は強かった。しかし、巨大なアンデッドの「質量」を消し飛ばす魔法の「力」には届かない。
「……待って。待ちなさい」
背を向けようとした男に、マリアンヌは思わず呼びかけていた。高圧的な口調は保っているものの、その内側には、溺れる者が藁を掴むような切実さが滲んでいた。
「その力……魔法を。どうやって、それほどまでに高めたというのだ。私の剣は、このままでは、届かない。何に、どこに届かないのかさえ、今の私にはわからないのだ」
品性を失わぬよう努めながらも、彼女は己の弱さを、初めて他人の前で露わにした。
男は足を止め、肩越しに彼女を振り返った。その月光を背負ったシルエットは、絶望の縁にいた彼女にとって、新たな世界の境界線に見えた。
魔法使いには見えない男。だが、彼は間違いなく、マリアンヌが今まで見てきた誰よりも「魔法」を、そして「戦い」を知っている。
廃都の静寂の中、光の塵がゆっくりと地上へと消えていく。それは、マリアンヌという一人の高貴な剣士が持っていた、古い「強さ」の概念が崩れ落ちていく音でもあった。
廃都を埋め尽くしていた数千の死骸が光の塵へと還り、静寂が戻った石畳の上。白銀の戦装束を汚し、剣を杖にして立つマリアンヌの前に、その男は平然と佇んでいた。
「強くなりたいのか?」
男の言葉は、飾りのない直球だった。マリアンヌは一瞬、言葉に詰まる。高貴なる身分、二十三歳という若さで辿り着いた剣技の極致。人々に「強い」と称賛され続けてきた彼女にとって、これほどまでに無遠慮に「強さ」を問われる経験は初めてだった。
男は彼女の返答を待たず、淡々と言葉を続けた。
「マリアンヌさん、と言ったか。俺は少し、陰からあんたの剣を見ていたが……あんたは強い。筋もいいし、踏み込みの速さは一級品だ。迷いがない」
「……お世辞なら、間に合っている。見ていたのなら、分かっているはずだ」
マリアンヌは、自嘲気味に口角を上げた。その話し方は依然として高圧的で品性があるが、今はその裏側に、隠しきれない疲弊と敗北感が滲んでいる。
「だが、ここでは届かなかった。私の剣は、この程度の死霊どもにすら届かず、私はただ無力に飲み込まれようとしていた。速さも、力も、この二腕に宿るすべてを出し切って……それでも、このザマだ」
彼女は、震える右手に力を込め、愛剣の柄を強く握りしめた。質量、パワー、速度。それらを兼ね備えた敵に通用しない今の自分。アンデッドに再生を許してしまう自分の剣。積み上げてきたものが砂の城のように崩れていく感覚に、彼女は耐えられなかった。
しかし、男――自らをアルスと名乗った旅人は、首を横に振った。
「あんたは勘違いをしている。剣技が足りなかったんじゃない。理屈が噛み合っていなかっただけだ」
「理屈……?」
「ああ。アンデッドってのはな、怨念や呪いで動く器だ。物理的に肉体を切り刻んだところで、動かす『核』が残っていればいくらでも再生する。あれに対処するには、聖属性の魔力……つまり、奴らの理を打ち消す光の力が必要なんだ。あんたは純粋に、普通の剣戟だけで斬っていた。それでは倒せない。相性が悪かっただけだ」
アルスの解説は、驚くほど簡潔で、合理的だった。
マリアンヌは呆然と彼を見つめる。彼女の教育において、剣は剣であり、魔法は魔法だった。剣を極めればあらゆる敵を断てると信じて疑わなかった。だが、今の言葉は、彼女が「技術の不足」だと嘆いていた壁が、実は「属性の欠落」という全く別の問題であったことを示唆していた。
「相性が……悪かった、だけ……?」
「そうだ。あんたの剣は、生身の相手なら容易く制していただろう。だが、相手が悪すぎた。俺が放った『ホーリーバレット』は、ただの光の弾じゃない。アンデッドの存在そのものを浄化する特効薬だ。あんたの剣に、その光が宿っていたら……結果は違っていたはずだぜ」
アルスは、腰のポーチから水筒を取り出し、喉を鳴らして水を飲んだ。魔法使いには見えない、むしろ野良仕事でもしてきたかのような奔放な仕草。だが、その瞳に宿る知識の深さは、並の魔導師を凌駕している。
「俺はアルス。ただの旅人だ。まあ、少しばかり世界の『仕組み』に詳しいだけのな」
マリアンヌは、目の前の「アルス」という男を凝視した。
彼は二十五歳前後。自分とそれほど変わらぬ年齢でありながら、自分が絶望した三千の軍勢を一人で、しかも事も無げに掃除してみせた。そして、自分の剣を「強い」と認めつつも、その限界を冷徹に見抜いてみせた。
「アルス……。貴殿は、私にそれを教えることで、何を望む?」
「別に。あんたみたいな綺麗な剣筋を持つやつが、ここで腐って消えるのは勿体ないと思っただけだ。高貴な女騎士様が泥にまみれて死ぬのは、あまり趣味じゃないんでね」
少しおどけたような、それでいてどこか優しさのある彼の物言いに、マリアンヌの頬がわずかに熱を帯びる。彼女は、親しい者――マリアと呼ぶ者たち――の前でしか見せないような、年相応の動揺を隠すように顔を背けた。
「……私は、強くなりたい。アンデッドに届かず、質量に屈し、パワーに押し負けるような、そんな不完全な剣はもう嫌なのだ。相性が悪かったという言い訳で、命を捨てるわけにはいかない」
彼女は意を決し、アルスの方へ向き直った。
「アルス。貴殿が言う『聖属性』。それを剣に宿す方法があるというのなら、私に教えなさい。これは公爵家としての命令ではなく、一人の剣士としての……願いだ」
高圧的な口調のまま、しかしそこには確かな敬意が込められていた。マリアンヌは、この「魔法使いには見えない男」が、自分の停滞した剣技を、さらなる高みへと引き上げる鍵であることを確信していた。
アルスは少しだけ驚いたように眉を上げたが、やがて不敵な笑みを浮かべた。
「……いいだろう。だが、俺の教え方は厳しいぜ。お貴族様のプライドをへし折るかもしれないが、それでもいいか?」
「望むところだ。私のプライドは、勝つためにある」
廃都に降り積もる光の塵が、二人の影を長く伸ばす。
マリアンヌの新しい旅、そして彼女が求めて止まなかった「真の強さ」への挑戦が、今、この場所から始まろうとしていた。
廃都の静寂を破ったのは、アルスのどこか飄々とした声だった。
「マリアンヌさん……長いな。マリアでいいか?」
その不躾な提案に、マリアンヌは一瞬、眉を跳ね上げた。公爵家の令嬢であり、一軍を率いる将でもある自分を、出会って間もない旅人が愛称で呼ぶなど、本来であれば不敬の極みである。しかし、数千の死地から自分を救い出し、己の限界を「相性の問題」と断じたこの男の前では、不思議と怒りは湧かなかった。むしろ、その距離の詰め方に、戦場を共にする者特有の信頼のようなものを感じていた。
「……勝手にしなさい。貴殿が私を死の淵から引き戻した事実は変わらない。マリアと呼ぶことを、特別に許しましょう」
彼女は汚れを払うように背筋を伸ばし、凛とした声で返した。アルスは満足げに頷くと、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「話が早くて助かる。さて、マリア。あんたの体を見せてもらったが……素質は十分だ。魔力はあるようだな。ただ、今は宝の持ち腐れだ」
アルスは彼女の周囲を歩きながら、まるで名剣を鑑定するかのような鋭い視線を送る。
「魔力操作をしてくれ。それがすべての魔法の基本だ。あんたの剣技がどれほど凄まじくても、そこに魔力が乗っていなければ、さっきみたいなアンデッドには通用しない。まずは己の中にある力を、指先一つ、髪の毛一本に至るまでコントロールするんだ」
マリアンヌは戸惑いながらも、言われた通りに目を閉じた。剣士として気を練る感覚には慣れている。だが、それを「魔力」として意識し、操作するというのは未知の領域だった。
「魔力はな、自分の中にだけあるもんじゃない。この空気、土、壊れた石畳……世界中どこにでもある。呼吸と同じだ。取り込み、巡らせ、放つ。魔力操作を極めれば、魔力が枯渇した時でも世界から直接吸収できるようになる。これを習得すれば、魔力枯渇なんてのは起きない。永久機関みたいなもんだ」
「世界から、吸収する……? そんなことが可能なのか」
「ああ。あんたがこれまで『体力』や『気力』と呼んでいた限界も、魔力操作を覚えれば書き換えられる。いいか、目を閉じて、自分の心臓の鼓動よりも深い場所を探れ。そこにある熱い塊を、血管に沿って流すイメージだ」
アルスの声は、暗闇の中で唯一の道標だった。マリアンヌは全神経を内側に向けた。二十三年間、ただひたすらに「速く、鋭く」と鍛え上げてきた肉体。その奥底に、確かに眠っていた。熱く、脈動し、出口を求めている膨大なエネルギーが。
(これが、魔力……)
彼女がその熱を意識した瞬間、全身の毛穴が開くような感覚に襲われた。制御を失った魔力が、彼女の白い肌から淡い銀色の光となって漏れ出す。
「くっ……! 制御が、難しい。溢れ出していくわ」
「焦るな。力で押さえつけるんじゃない。それはあんたの一部だ。手足と同じように、優しく、だが断固として導け。腕へ、そしてその剣へと流し込め」
マリアンヌは歯を食いしばった。彼女の持ち味である高い集中力が、ここで真価を発揮する。荒れ狂う奔流を、一本の細い糸に束ねるように。彼女は己の意志という名の器で、魔力を成形していく。
徐々に、銀色の光が彼女の右腕に集まり、愛剣の刀身へと伝わっていった。ただの鉄の塊だった剣が、月光を吸い込んだかのように青白く発光し始める。
「いいぞ。その感覚を忘れるな」
アルスの賞賛が聞こえる。マリアンヌは目を開けた。そこには、自分の意志で光を纏わせた、新しい己の武器があった。まだ不安定で、呼吸を乱せば消えてしまいそうな儚い光。だが、これは間違いなく、先ほど彼女を救った「聖なる光」と同質の輝きだった。
「これが、私の新しい力……」
「そうだ。だが、それはまだ入り口に過ぎない。世界から魔力を引き込み、循環させる。それを戦闘中に無意識で行えるようになって、初めてあんたの剣は『完成』する。質量に負けるなら魔力で補強し、速さに負けるなら魔力で神経を加速させろ。アンデッドが相手なら、その光を刃に焼き付ければいい」
マリアンヌは、自分の手に宿る光を見つめた。
今まで感じていた「限界」という壁が、音を立てて崩れていくのを感じていた。剣技の技能が低いのではない。ただ、広い世界の理を知らなかっただけなのだ。
「アルス。貴殿の教えは、合理的で、かつ……美しいわね」
彼女は、少しだけ誇らしげに微笑んだ。その表情には、絶望を乗り越えた者だけが持つ強さと、新しい世界への知的好奇心が混ざり合っていた。
「さあ、続けましょう。私はまだ、止まるわけにはいかない。この廃都の闇をすべて払い除けるまで、貴殿の指導を受けるわ」
高貴な女剣士は、今、魔導の深淵へとその一歩を踏み出した。アルスという不思議な旅人を導き手として。
廃都を包んでいた光の塵が完全に消え去り、再び厚い雲が月を隠した。銀色に輝き始めていたマリアンヌの剣先も、彼女が集中を解くと同時に静かな鉄の色へと戻っていく。魔力操作の第一歩を刻んだ高揚感が、冷え切った夜気にさらされて、しだいに落ち着きを取り戻していった。
その静寂の中で、アルスがふと足を止め、背中で語りかけるように口を開いた。
「マリア。一つ、確認しておきたいことがある」
その声は、先ほどまでの指導者のものとは異なり、どこか突き放すような、それでいて試すような響きを含んでいた。マリアンヌは乱れた呼吸を整え、公爵家当主としての威厳を纏い直して彼を見つめる。
「俺はただの旅人だ。道すがら、こうして困っている奴がいれば手を貸すこともある。だが、勘違いしないでくれ。俺は正義の味方じゃない。誰かのために命を懸ける高潔な志なんて持ち合わせちゃいないんだ。自分の目的のために歩き、そのついでに首を突っ込んでいるに過ぎない」
アルスはゆっくりと振り返り、マリアンヌの瞳を射抜くような視線を向けた。
「アンタはどうなんだ? 公爵家の重鎮であり、騎士団を象徴する立場だろう。俺と一緒に旅をするってことは、その肩書きや、アンタが守るべき『正義』の枠から踏み出すってことだぜ。綺麗な道ばかりじゃない。泥を啜り、理不尽な選択を迫られることもある。それでもいいのか?」
マリアンヌは沈黙した。
彼女の背負っているものは重い。公爵家という血脈、部下たちの信頼、そして国を守るという騎士としての誓い。彼女がこれまで振るってきた剣は、常に明確な「正義」と「秩序」のためのものだった。もしアルスに同行し、旅を続けるならば、それは平穏な宮廷生活や、約束された栄光を捨てることに等しい。
「……正義の味方ではない、か」
マリアンヌは自嘲気味に呟き、手袋を嵌め直した。彼女の動作には、二十三歳という若さに似合わぬ、確固たる覚悟が宿っている。
「アルス、貴殿は一つ、私のことを見誤っているわ。私は、自分の剣が届かなかったあの瞬間、死を覚悟した。その時、私が最も悔やんだのは、公爵家の名が途絶えることでも、騎士団の面汚しになることでもなかった」
彼女は一歩、アルスの方へ踏み出した。
「私が悔いたのは、自分の剣が未完成のまま終わること。そして、この世界の真理――貴殿が見せたあの光のような理を知らぬまま、井の中の蛙として朽ち果てることだった。私は強くなりたい。それは、誰かを守るためという以上に、私自身が『完成』されたいという、剥き出しの渇望なのよ」
マリアンヌの言葉には、高圧的なまでの自負と、それを支える純粋な探究心が混在していた。彼女はもはや、型に嵌まった「高貴な女騎士」ではない。自らの限界を突きつけられ、それを超えるための鍵を見つけた一人の修羅であった。
「騎士団も、公爵家も、私が私であるための飾りに過ぎない。私が真に私であるためには、この剣が最強でなければならないの。貴殿が正義でなかろうと、目的が何であろうと構わない。私は貴殿の知識を、技術を、その理を盗み、自分のものにしてみせる」
マリアンヌは不敵に微笑んだ。その美貌には、戦場を駆ける猛獣のような、獰猛で気高い輝きが宿っていた。
「それに、マリアと呼ぶことを許した相手を、みすみす一人で行かせるほど、私はお人好しではないわ。貴殿が旅人なら、私はその旅の『連れ』となって、世界をこの目に焼き付けるまでよ。不満かしら?」
アルスは呆れたように肩をすくめたが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
「……ははっ、不満なもんか。公爵家のお嬢様が泥まみれになる覚悟があるってんなら、止める理由はないな。ただし、途中で泣き言を言っても、俺は背負ってはやらないぜ」
「誰に向かって言っているの。泣き言は、私の辞書にはないわ」
マリアンヌは剣を鞘に納め、カチリと硬質な音を響かせた。
廃都の出口へと続く道。その先には、彼女が知るはずもなかった未知の世界が広がっている。魔力操作、世界の理、そして隣を歩く謎めいた旅人。
「さあ、行きなさい、アルス。私の新しい『師』として、あるいは『旅の仲間』として。貴殿の行く先が奈落であろうと、私の剣が道を切り拓いてみせるわ」
こうして、高貴なる女剣士マリアンヌは、自らを縛っていた地位と過去を、この廃都の残骸と共に捨て去った。彼女が選んだのは、光り輝く玉座ではなく、泥に塗れた、しかしどこまでも自由な「強さ」への道だった。




