2.
颯太と、夢を見送ってから、少し時間が経った。
「次会うときは来世で会いましょう」
その言葉が、あの日からずっと心に残っている。
ふとした瞬間に思い出して、胸の奥が、ほんの少しだけ痛む。
夢遷記録局の朝は、相変わらず同じ音で始まる。
窓の外では、薄い朝日がビルの隙間から差し込んでいた。
光は白く、冷たくて、まるでこの世界の空気そのものみたいだった。
「そうだ。三浦、俺実は記憶戻ったんだ」
ふいに隣の席から声がした。
篠原はいつもの調子で、ペンを回しながら言う。
「…え!そうだったのか」
驚きはした。
でも、心のどこかで「いつかは」と思っていた。
「ああ。…それで、近々転生するつもりだ」
「そっか。寂しくなるな」
「三浦、1年前くらいか。あの件があってから、あんまり転生のこととか、記憶のこととか話さなくなっただろ?」
「はは、ばれてたか」
「…俺は、お前が心から元気に生きていてくれればそれでいいと思ってる。無理すんなよ」
「ありがとう。篠原も、良い人生送れな」
「おう」
その日の午後、新しい客が現れた。
「三浦さん、お客様への案内お願いします」
「はーい」
ソファに姿勢よく座る女性は、若々しい見た目で、綺麗な人だった。
髪は整っているのに、指先だけが落ち着かなくて、膝の上で小さく動いている。
きょろきょろと周りを見渡し、不安そうに唇を噛んだ。
三浦はいつものように資料を棚から取り出し、にっこりと笑って話しかけた。
「初めまして。ここの職員の三浦です」
「…え」
女性は三浦の顔を見るなり、目を限界まで見開いた。
息が止まったような顔だった。
「…どうしましたか、な、何か顔についてますか」
「あ、あの、お名前」
「俺の名前は、三浦透です」
「…ああ、そうですか、いや、すみません。人違いでした」
「…とりあえず、失礼しますね」
加納沙耶と名乗るその女性は、静かな表情で説明を聞いていた。
「妙に静かなので。現実じゃない感じはしてました」
沈黙が落ちる。
だが、彼女は焦って言葉を探さなかった。
「じゃあ、私はもう、死んでるんですね」
淡々とした口調。
三浦は、誤魔化さずに答える。
「そうなります」
「そっか」
それ以上の動揺は見せなかった。
「怖くないんですか」
思わず、三浦が聞いた。
自分でも、なぜ聞いたのか分からなかった。
加納は少し考えてから言う。
「怖いですけど、受け入れるしかないですから」
「強いですね。うらやましいです」
「…そうですか」
彼女は笑わなかった。
「これから、どうなるんですか」
加納が聞いた。
「選択肢は2つあります。記憶を取り戻して、転生するか。この世界で生き続けるか」
「取り戻す…」
「ええ。転生には必要です」
「…三浦さんは、もう記憶を取り戻してるんですか?」
その質問に、三浦は一瞬だけ言葉を失う。
「…いえ、まだです」
「ごめんなさい、あんまりこういう話はしない方が良いんですか…?」
「全然大丈夫ですよ。隠してないので」
加納は立ち上がり、三浦を見る。
「ちゃんと知りたいです。この世界のことも、自分のことも」
「分かりました」
「また来てもいいですか?三浦さん、私の知り合いにとっても似ている人がいる気がして、心地いいです」
「もちろん、いつでも来てください」
それから、加納は夢遷記録局に通うようになった。
転生の手続きを急ぐでもなく、かといって目的を失っているわけでもない。
ただ、ゆっくりと毎日を過ごしていた。
記録局での仕事の合間、三浦は彼女に簡単な作業を頼むことがあった。
書類を運ぶ、保管箱の整理を手伝う、来訪者にお茶を出す。
「三浦さんは冷たいお茶の方が好きですか?」
「はい、俺は冷たいのでお願いします。加納さんはどっちが好きですか」
「体が冷えちゃうので温かい方が好きです」
「じゃ、これどうぞ」
「え、良いんですか」
「さっき何回も背伸びしたりあくびしたり、少しくらい体休めてください」
「ああ、ありがとうございます。えへへ」
そんな、どうでもいいやり取りを繰り返していた。
昼休みには、局の外の小さな公園に寄ることもあった。
ベンチに並んで座り、缶飲料を飲みながら、空を見る。
「私、この前あそこの遊園地に行ったんですよ。観覧車に乗って、とっても街がきれいで楽しかったんですよ」
「良いですね」
「三浦さんは、高いところとか好きですか?」
「実は、この世界に来たころから高いところはめっぽう苦手で」
「そうなんですか」
三浦が、高い場所を避けること。
展望台や、局の上階に用事があっても、別の職員に任せること。
そして、記憶の話題になると、必ず話を切り替えること。
加納は、気づいていた。
「三浦さんって」
ある日、加納が言った。
「自分のこと、あんまり話さないですよね」
三浦は一瞬、言葉に詰まったあと、笑った。
「職員ですから」
「それだけ?」
「…それだけ、にしておいてください」
加納は、それ以上踏み込まなかった。
問い詰めるよりも、今の距離を大切にしたかった。
ある日、加納は一人で街を歩いていた。
ビルの谷間に灯りが入り始める時間帯。
会社帰りらしい人々の流れの中で、ふと足が止まった。
ガラスに映る、オフィスの内装。
白い蛍光灯。
整然と並んだデスク。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
残業中のある日。
誰もいなくなったフロアで、背中越しに見る、誰かの姿。
黙って書類をまとめている。
疲れているのに、誰にも何も言わずに抱え込んで。
5年前、加納の前から、突然姿を消した。
加納は、その場に立ち尽くした。
生前、彼は1人で抱え込む人だった。
責任を背負い、誰にも弱音を吐かず、守る側に立ち続けていた。
そして今も、同じことをしている。
自分の痛みには目を向けず、他人の選択を尊重し、自分だけを後回しにして。
(…また、同じことを)
加納は分かっていた。
三浦がなぜ高いところが苦手なのか。
それは、彼が亡くなった原因にあるのだろうと分かっていた。
生前大好きだった観覧車に、今は乗れない理由。
そんな彼を目の前にして、何をしてあげられるのか。
加納は小さく息を吐き、もう一度だけガラスの向こうを見た。
そして、また歩き出した。
その日は、いつもより少し風が強かった。
公園の木々がざわめき、落ち葉が足元を転がっていく。
ベンチに並んで座り、缶のふたを開ける音だけが響く。
加納が、先に口を開いた。
「三浦さん」
「はい」
「私、生前の記憶が戻りました」
「お!そうだったんですか」
「大事があるんですが、良いですか」
「はい、何でしょうか?」
「私と三浦さん、生前は知り合いでした」
三浦は、驚いた様子を見せなかった。
ただ、わずかに瞬きをして、視線を落とす。
「気づいてましたよね?私の様子に。初めて会った時、めちゃくちゃ分かりやすい反応してましたし、私」
加納は、淡々と語った。
同じ部署ではなかった。
けれど、残業の時間帯がよく重なっていた。
夜のフロア。
人の気配が薄くなったオフィス。
蛍光灯の白い光と、キーボードの音だけが残る時間。
言葉少なに仕事をする背中を、何度も見た。
疲れているのに、誰にも何も言わず、ただ黙って抱え込む背中を。
それでも、不思議と居心地がよかった。
同じ空間にいるだけで、落ち着いた。
「好きでした」
それは、告白というより事実の確認だった。
「たぶん…両思い、だったと思います」
三浦は何も言わず、最後まで聞いていた。
風に揺れる木の影を見つめたまま。
しばらくして、小さく息を吐く。
「…そっ、か」
それだけだった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、納得したような声。
「どうせ、自分に自信がなくって、自分がそんなに好きじゃないから、記憶を取り戻すのが不安なんですよね?」
「はい…そうです」
それから三浦は、今まで会った人たちのことを加納に話した。
岸本との出会いと別れ。
颯太との出会い。
颯太とこの世界を巡って、そこで出会った人たちのこと。
思い出を語るたび、三浦の表情が少しだけ柔らかくなる。
けれど、どこかで必ず、目が遠くなる。
「記憶を取り戻すのはまだ怖いです。でも、颯太君たちみたいに、自分に自信をもって、周りの人に恵まれて、またここに戻ってくる。そんな人生に憧れている」
「三浦さん」
呼ばれて、彼は顔を上げる。
風が吹き抜けて、前髪が少し乱れる。
加納はその一瞬の揺れを見て、言うべきか迷った。
迷って、それでも言う。
「…あなたの本当の名前、言ってもいい?」
三浦は、目を見開いた。
「…えっと、その、そうだな」
「それだけでも、あなたに伝えたい」
「……分かりました」
加納は、三浦の本当の名前を静かに名乗った。
三浦は、それを確かに受け取るように、胸の前で手を握る。
「忘れません」
「あなたが前を向いて、あなたらしく生きていられますように」
加納を見送ったあと、三浦は自分のデスクに戻った。
そこに、白い封筒が置かれていた。
転生申請書。
三浦は、それを丁寧に折りたたむ。
引き出しの奥ではなく、手を伸ばせばすぐ取れる場所にしまう。
逃げるためではない。
いつでも、選べるように。
自分を待つために。
業務の合間、三浦はドリンクを片手に公園を歩いていた。
「うわ、これめっちゃうまい。期間限定延長してって言わなきゃ」
いつもの道。
いつものベンチ。
そこに、見知らぬ少年が座っていた。
落ち着かない様子で、周囲を見回している。
三浦は、自然と足を止める。
「…こんにちは」
少年が、はっと顔を上げる。
少し前の自分と、少し前の誰かと、重なる表情。
三浦は、ゆっくりと笑った。
「はじめまして。俺、あそこで働いてる人なんだ」
指で局の方角を示す。
少年の視線がそちらに向く。
一拍置いて。
「黒川大地って言います」
名前をはっきりと名乗る。
それは、次に出会う誰かのため。




