1.
この世界は、いったい何のために、誰のために存在しているのだろう。
人は、生まれてから死ぬまで、およそ100年を生きるという。
何をしてもいいし、何をしなくてもいい。
選ぶ自由がある世界だ。
そんな自由の果てに、僕たちはここへ辿り着く。
では、この世界で、僕は何をすべきなのだろうか。
夢遷記録局の朝は、いつも同じ音から始まる。
紙を揃える乾いた音。
引き出しが静かに閉まる音。
少し離れたカウンターで、同じ説明を繰り返す職員の声。
人によっては騒がしく感じるかもしれない。
けれど、記録局職員である三浦透にとって、それはひどく心地よい雑音だった。
三浦はカウンターの内側で、申請書の束を手際よく整理していた。
転生申請、保留、記憶照合待ち。
色分けされた書類を、いつも通り、ぱらぱらと仕分けていく。
「三浦さんすみません」
背後から、新人職員の声がかかる。
「私の担当のお客様がいらっしゃる時間なので、こちらのお客様の案内をお願いしてもよろしいでしょうか」
三浦は振り返り、軽く笑った。
「オッケー。任せて」
「担当変わりました、三浦透と申します。よろしくお願いします」
「お、お願いします…あの、ここって、何なんですか?」
戸惑いと不安が入り混じった声だった。
「突然ですが、ここはいわゆる死後の世界です」
相手の反応を確かめるように、言葉を選ぶ。
「おそらく…いえ。あなたは、亡くなられています」
「…そ、そんな。…そうなんですか」
「はい。この世界には、現世、あなたが生きていた世界から来た人たちが暮らしています」
「へえ…」
三浦の前の女性は、どこか現実感のない表情で笑った。
「正直、実感がなくて。ドッキリかな、とか…」
「そう感じるのも無理はありません」
三浦は、柔らかく頷く。
「ここに来た人は、ほとんど全員、同じ反応をします。ですから、ひとつずつ説明しますね」
人は死を迎えると、この世界へと辿り着く。
その際、生前の記憶はすべて失われる。
それは罰でも事故でもない。
忘れたくない、まだ生きていたいという強い感情が、自らの記憶を奥深くへと封じてしまうためである。
その結果、多くの人は、自分が誰であったのか、なぜ命を落としたのかを思い出せない状態で、この世界での生活を始める。
この世界で選べる進路は、大きく分けて2つ存在する。
ひとつは、記憶を取り戻し、転生の手続きを行うこと。
夢遷記録局は、魂の管理および次の人生への移行、すなわち転生に関する手続きを担う機関である。
転生とは、新しい命として再び生を受けるための制度であり、その手続きには、本人の名前、死因、人間関係など、生前に関する正確な情報が必要となる。
そのため、転生を希望する者は、自身の記憶を回復させなければならない。
記憶の回復には、「記憶の象徴」と呼ばれる、自身の人生を呼び覚ますきっかけとなる存在を見つける必要がある。
もうひとつの選択肢は、この世界に留まり、生き続けることである。
転生は義務ではない。
記憶を取り戻した後も、生前の人生を抱えたまま、この世界での生活を選ぶ者も存在する。
しかし、この選択は推奨されていない。
この世界に希望や未来を見いだせず、結果として自ら消失を選ぶ者が少なくないためである。
業務の合間、三浦は駅前の広場へ向かった。
夢遷記録局から少し離れたその場所に、ぽつんとベンチが置かれている。
そこに、見慣れない男性が座っていた。
年は二十代後半だろうか。
背筋を伸ばして座っているが、視線が定まらず、何度も周囲を見回している。
通り過ぎる人の気配に、わずかに肩が揺れる。
三浦は少し距離を取って立ち止まり、穏やかな声で話しかけた。
「…大丈夫ですか?」
男性はびくりと肩を震わせ、勢いよくこちらを見た。
一瞬、逃げるか迷うような目。
「い、いえ、あの…大丈夫です」
「それは、大丈夫なのか大丈夫じゃないのかどっちですか…??」
「ああ、えっと…なんというか。説明が難しいんですけど」
三浦はベンチの端を指さした。
「お隣、座ってもいいですか?」
「…ああ、どうぞ」
男性は数秒黙ったあと、ためらいがちに頷いた。
2人の間に、静かな間が落ちる。
「もしかして、気づいたらここに座ってたとか?」
「…そうです。え、どうして分かったんですか?」
「ここはそういう世界なので」
「…?なんか、僕、記憶が全然なくて。ここがどこなのかも分からないし、変な人だと思われそうで、誰にも聞けなくて…」
言葉が途中で絡まり、男性は小さく息を吸った。
「そうですか」
三浦は短く頷き、少しだけ声を落とす。
「…ここは、あなたが思っているような場所じゃないです」
「…??」
「冗談を言っているように聞こえるかもしれませんが…。ここは、死後の世界。いわゆるあの世です」
「…は、はあ???」
「いやあ、すみません。冗談を言っているわけではないんですよ…」
三浦は、遠くを見るように言った。
「理由は分かりませんが、俺たちは死ぬとこの世界に来るらしいんです。俺もあなたと同じ、記憶を無くしてこの世界をさまよっているただの人間です」
「あー、えーっと…ちょっと待ってください」
「…はい」
男性が額に手を当て、言葉を探す横顔を見ながら、三浦はのんびりとジュースを一口飲んだ。
男性はしばらくベンチに座ったまま、足元を見つめていた。
行き交う人の影が何度も足元を横切る。
それから、ふと何かに気づいたように、自分の左手を持ち上げる。
「…これ」
指には、銀色の指輪がはまっていた。
使い込まれた跡があり、内側に細い傷がいくつも残っている。
「家族が、いるんです。たぶん。自分でもそんな気がする」
指でなぞっても、記憶は浮かばない。
「きっと、僕のことを探している。あっちの世界に、戻る方法は、ありますか…?」
三浦は何も言わなかった。
否定も、慰めもせず、ただ隣に座っていた。
しばらくして、三浦が低い声で言った。
「俺は、夢遷記録局というところで職員をしています。この世界に来た人たちを案内する仕事です」
一拍置いて、視線を向ける。
「よければ俺の話を聞いてもらえませんか」
男性は少し迷い、視線を落としたまま考え込む。
それから、ゆっくりと頷いた。
「今のあなたがすべきことは、記憶を取り戻すことです」
「記憶、取り戻せるんですか?」
「この世界では『記憶の象徴』と呼ばれている、あなたの人生に深く関わるものを探すんです」
「それって、すぐ見つかるんですか?」
「もちろん、記憶を無くしている以上、手がかりはありません。でも、生活を送っていくうちに、必ず心の変化や動きに気づくはずです」
「…分かりました。知りたいです。ちゃんと、この世界のことも、自分のことも、知りたい」
三浦は、その言葉を待っていたように微笑んだ。
「では、夢遷記録局へ一緒に来てください。もっと詳しい話を、そこでしましょう」
局内に入ると、直人は落ち着かない様子で周囲を見回した。
「…役所的なあれなんですね」
三浦は小さく笑った。
「まあ、そんな感じです。ただ、扱っているものは少し重たいですけど」
カウンターで最低限の手続きを進めながら、三浦は視線を上げた。
「自己紹介が遅れました。ここで職員をしている、三浦透です。お名前は覚えていますか?」
「なんとなく、岸本、直人、っていう名前だった気がします。でも、どうなんだろう」
「心当たりがあるのなら、それは本当のお名前ですね。記憶が無くなっても、名前は例外なんです」
「へえ…変な世界」
三浦は資料を閉じ、岸本の方を見る。
「あなたの『記憶の象徴』、これから一緒に探しましょう」
「一緒に?」
岸本が聞き返す。
「俺が最後まで、手伝います」
岸本は、少しだけ表情を緩めた。
「良いんですか。…じゃあ、お願いします」
こうして、岸本直人の記憶探しが始まった。
この世界には「これが象徴だ」と示してくれる印はない。
歩き、見て、触れて、引っかかったものがすべてだ。
三浦と岸本は、駅前から少し離れた通りを歩いていた。
夕方に近い時間帯で、人通りはまばら。
岸本が足を止めた。
道路脇に古い玩具屋があった。
子どもたちがわいわいと騒ぐ様子や、店主らしき老人が穏やかに子どもたちを見守っている雰囲気に、どこか懐かしさを感じた。
「懐かしい。昔こういう店ばっかりでしたよね。見てるだけでも楽しいんだよな」
吸い込まれるように2人は店に入っていった。
たくさんのおもちゃが並ぶ中で、岸本の視線がひとつの玩具に引き寄せられた。
赤いミニカー。
子ども向けにしてはやけにリアルで、細部まで丁寧に作り込まれた良質なミニチュアだった。
「これ…かっこいいな」
岸本は、無意識にそれに手を伸ばしていた。
岸本の指がミニカーに触れた。
その瞬間、心臓がどきんと高鳴った。
岸本直人。
仕事ばかりの毎日を送る、どこにでもいるサラリーマン。
営業部のエースを目指し、朝早くから夜遅くまで必死に働いていた。
子どもの行事には、ほとんど顔を出せなかった。
自分がもっと稼げるようになれば、いずれ時間も取れるし、金銭的にも余裕ができるだろう。
娘の日常を見るよりも、今はやるべきことがある。
そう考え、深く疑問を持つことはなかった。
とある日。
子どもの誕生日が、珍しく日曜日と重なった。
前日の夜、娘が何度も何度もゴルフバッグを引っ張った。
「遊園地行きたい!」
「お母さんと行ってらっしゃい」
「お父さんも行こうよ」
「お父さんは明日、忙しいんだよ」
「私の誕生日くらいいいじゃん!」
「直人、明日くらいどうにかならない…?」
「うん、難しい」
ベッドに入ろうとすると、娘の泣き声が耳に残った。
苛立って怒鳴ったものの、珍しく引き下がらない娘の様子を見て、これは駄目かもしれない、と諦めた。
(…めんどくせ)
高速道路に乗った頃、強い眠気に襲われた。
前日の睡眠不足と、早起きのせいだろう。
ラジオの音も、隣の会話も、次第に遠のいていく。
(まあいいや、少しだけ…)
そう思った瞬間、意識が沈んだ。
次に覚えているのは、異常な音だった。
「きゃあああああああ!!!!!!」
金属が擦れる音。
何かが弾けるような衝撃。
前を走っていた車から、部品が外れるのが見えた。
避ける間もなかった。
黒い影が、一直線にこちらへ飛んでくる。
視界が、裏返る。
岸本は、よろめくように後ずさった。
膝が震え、店を後にすると、歩道の縁石に腰を落とした。
「…う」
声がかすれる。
ひどい吐き気が襲う。
「はあ、はあ、気持ちわるい」
三浦は、黙って岸本の背中を軽く撫でた。
街の音が、やけに遠い。
やがて、岸本は顔を上げた。
「…」
「1人にしてもらってもいいですか」
岸本はゆっくりと立ち上がる。
「分かりました」
「少し、時間をください」
それだけ言って、通りの向こうへ歩いていった。
夕暮れの光が、彼の背中をゆっくり飲み込んでいく。
三浦は、その場に立ち尽くした。
その報告は、特別なものではなかった。
朝の定例連絡。
端末に流れてくる、いつもと同じ形式の通知。
「1人の消失が確認されました」
短い文章と、顔写真。
三浦は、画面を見たまま動かなかった。
数日前。
穏やかな顔で「時間をください」と言った岸本の姿が、脳裏に浮かぶ。
喉の奥が、わずかに詰まる。
…俺の、せい
声に出すほどの勇気はなかった。
思い出させなければ、あの人は消えなかった?
記憶を取り戻さなければ。
自分の人生と向き合わなければ。
記憶を取り戻すことは、本当に救いなんだろうか。
考えれば考えるほど、答えは出なかった。
「…大丈夫か、顔真っ白だぞ」
隣のデスクから、同僚の篠崎が声をかけてくる。
手元の書類から目を離さないままの、いつもの調子。
「連絡の人、三浦が担当した人だったか」
三浦は、うなずいた。
「仕方ない」
篠崎は、淡々と言う。
「選んだのは本人だ。俺が関わった人にも、自らこの世界を去った人がいただろ?」
「…少し前にいたな」
「だから気持ちはすごく分かる。俺たちがやってることは、間違っているわけではないよ」
正論だった。
この世界では、何度も確認されている事象。
その言葉に、三浦は何も返せなかった。
「冷たいことを言うけど、死んで忘れたくなるような人生を送っていたっていうのは、俺たちは何も関係ない。本人の責任だ」
間違いだったと言われたほうが、ずっと楽だった。
業務を終え、夢遷記録局の廊下を歩く。
だめだ。
はっきりと、そう思った。
思い出してしまったら。
自分も、同じことを選ぶのだろうか。
『普通の人間』とは自分は違う。
自ら命を絶ってこの世界にやってきた。
自分の本当の名前を思い出せないことが、何よりの証拠で。
肝心な時に臆病で、勝手に自分で責任を背負って。
そんな自分が、いつも大嫌いだった。
もし記憶を取り戻したとして、果たして自分は。
もう一度、命を絶たずにいられるのだろうか。
だからまだ、この役割を演じたい。
自分の覚悟ができるまで。
朝日を浴びながら、夢遷記録局の奥へ向かう。
いつものデスクに座り、書類を整える。
申請書を整え、相談に応じ、誰かの記憶を手助けするために。
自分自身の記憶から目を逸らしたまま、今日もこの世界で生きていく。
それが今の、俺の最善だ。




