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母への誓い

掲載日:2025/10/13

実は・・・情けないことに執筆中に涙を流していました。

人生で一番苦しかった当時のことを、必要以上に思い出してしまって。

そして亡くなった友人や先輩のことを思い出してしまって。

私は親不孝者なのだろうか、それとも孝行息子なのだろうか。


親不孝者になるのだろうか? 孝行息子に成れるのだろうか?


・・・その分岐点は一つの誓いにあると考えている。




母を本気で怒らせてしまった二つの出来事を、私は別段気にしていない。

それはただ母の見栄の問題だと思うし、私に非が無いと考えているから。


母を本気で嘆かせてしまった一つの出来事を、私はかなり気にしている。

それは親子関係の根源に関わる問題で、私に非が有ると考えているから。



・・・それ故にその誓いは生まれ、それを守ることを優先したから。





私は身体が弱い為気力に乏しいのか、他人との争いごとを避ける悪癖が治らない。

それは実の母親相手にもいえることで、余程のことが無い限り相手の主張を飲み

込んでいた。多少の不承知なんか争う労苦に値しないものだと自分を納得させて。



その私が母を怒らせたことが二つある。 他愛もない言い争い等でなく、本気で

怒らせてしまったことが二つ。 これが多いか少ないかは正直自分では判らない。


一つは大学に進学しなかった事、高校の担任が態々(わざわざ)自宅を訪れ『進学すべきだ』と

言ってくれているのに『興味ない』で済ませた事で酷く怒られた。私が黙っていた

学年首席ということを担任が伝えたようで、喜んで舞い上がったのかも知れない。


母の学歴コンプレックスは知っていたので、私も出来れば進学したかったが家の

経済状況がそれを許してくれるものではなかった。『なんとかなる』と言い張る母

にとても同意は出来なかった。勤労学生が出来ないなら進学は現実的では無いと

考えたし、ずっと我慢してきた弟や妹に人並の小遣いをやりたいとも思っていた。


弟や妹は私と違って健康で、楽しい青春を過ごせる可能性を持っていたのだ。


長男でありながら、寝込んでばかりの金喰い虫という事実をずっと引け目に

感じていたから、早く金喰い虫から黄金虫に進化したいと願っていたのだ。



だから私は躊躇(ためら)いなく我を押し通した。 母の言葉を無視して。



その結果、しばらく母から無視されていたように記憶する。・・・仕返しか?



二つ目は就職先だ。地元の堅調な中堅メーカーという選択は私的には最良と判断

したのだが、メディアで取り上げられるような大企業を選べる立場にありながら

資本金が十億円にも満たない会社を選んだことが、母の逆鱗に触れてしまった。


まぁタイミングが悪かったのだろう。進学を諦めて怒らせてから僅か数ヶ月後だ。

私的には十二分に理の在る選択だったのだが、話を聞いて貰えなかった。ちなみに

大企業を避けた理由は、当時の大企業は酷い長時間労働が当たり前だったからだ。


中小企業も当然の様に長時間労働だったが、大企業よりはずっとマシだった。

なんといっても給与、福利厚生の両面揃って中小企業を遥かに凌駕する大企業の

離職率が、中小企業のそれを少しだが上回っていたという馬鹿げた時代の話だ。


離職理由の多くが身体を壊しての離職という恐ろしさ、私が大企業を避けたのは

当然のことだった。普通の人が身体を壊すような会社は私には無理だと判断した。



母が未だにこの二件を根に持っているか否かは不明だが、私は選択を間違ったとは

思っていない。何よりも私は無理をしない、身体に優しい選択を選ぶ理由があった

からだ。 その理由とは母への誓いを守ること。 母には伝えていないし、伝える気

もない誓いを守ることこそが、私には最優先課題であったからだ。




母への誓い・・・その発端は、熱に浮かされてぽろりと口に出した何気ない一言。

別に後悔はしていない。考え無しに自然と口に出た言葉を後悔しても時間の無駄。

第一、七つか八つの頃の話だから、そんなガキに責任を問うのも無理というもの。


確か「僕は死んだ方がいいから医者には行かない」と言ったように思う。母親に。

『死んだ方がいいから』の部分は間違いなく口にした。前後が少しあやふやだが。






私が働き出すまで我が家は常に貧乏だったが、当時の貧乏は生活保護以下、かなり

酷い状態だった。 理由は怠け者の父が真面(まとも)に働かなかったから。 それなのに体裁

を気にして母に働くことを禁じたうえ、生活保護を申請することさえしなかった。


父が母親(私の祖母)の許に遊びに行き、小遣いを貰い、昼食を頂いている時分に、

母は食事を抜き、私たちは前日のご飯を粥にして食べるという有様だ。酷いだろ?


まぁ、そんな貧しい状況にありながら、私はコンスタントに金を浪費させていた。

度々高熱を出しては医者に掛かるだけでなく、喘息治療の為に週3回の定期通院。

この通院は一人で行っていた為幾ら使っていたか判る。1回200円くらいだった。

通院初期は薬の量が少なく160円だったと記憶する。末期になると薬の量が増え

240円になっていた、だから平均して200円くらい。が3回で週600円、20日に

一度吸引薬が処方される日には2000円くらいだったと思う。だから月5570円。


それに臨時の医者代が頻繁に発生するから、月1万以上は使わせていただろう。

父が持ち帰る給料が10万を切っていたという状況での1万だ。無茶苦茶デカい。


そして1万円という額自体がデカかった。私は母の買い物に連れていかれること

で、1万円あればどの程度のものが買えるか見当が付くようになっていたのだ。


1万円あれば母も昼食にありつけるようになるだろう。夕食にも一品おかずが追加

されることだろう。 追加されるのは玉子焼きか?  一個30円のコロッケか?

・・・それ程の額を私の身体は、私一人の為に浪費させていた。 心苦しかった。


家族の誰もが貧しい食卓に不満を覚えていた。私はそのことに気付いていた。浪費

させている自覚が私を家計に敏感にさせていたのだと思う。だから気付いていた。


そして食卓の貧しさは、家族の不満は全て私のせいだと思い込んでしまっていた。


・・・今考えれば悪いのは全て怠け者の父なのだが、何故か子供は親を庇う習性が

あるので、親が悪いという発想にはなかなか及ばない。 だから当時の私は私こそ

が家族の中で一番の厄介者・・・完全な邪魔者だと思い込んでしまっていた。


・・・話を戻そう、貧しい食卓の件だ。


貧しい食卓ではあったが、私たち子どもはまだマシだった。 3食きちんと食べる

ことが出来ていたから。 母は当たり前のように昼食を抜き、空腹に耐えながらも

私たちに・・・特に身体の弱い私にしっかり食べさせようと腐心してくれていた。


それなのに私は、大切な食べものを頻繁に吐いていた。そのことも罪の意識を増幅

させていた。その上で、私だけが学校に行けば給食なんてものにありつけるのだ。


その給食もよく吐いていた。・・・単に量の問題なのか、別の理由があったのか。

その辺りはなんとも判らない。 まぁマンモス小学校の給食は不味いが定評だが。



給食の不味さはともかく、結局私が何を言いたいのかというと当時の私は家庭内

に於ける自己肯定感が限りなくゼロに近かったという事。 家に居るのが辛くて

少しばかり体調が悪くても、無理して学校に行っては保健室で目覚め、早退させ

られることが多かった。何故保健室で寝ていたのかはよく覚えていないが、多分

倒れたのだと思う。ベッドで横になっている時に聞こえて来た声から、私ともう

一人の誰かが生徒数3350人を超える学校での要注意生徒の双璧だったようだ。


学校では無理におちゃらけて、何とか居場所を作っているつもりではいたが。

・・・ひょっとしたら周りから保護対象の様に思われていたのかもしれない。


今思えば休みまくり、遅刻しまくり、早退しまくりの私が、クラスの中で特に

浮くこともなく、常に優しく扱われていたことは少し不思議に思える事である。

執筆中の今になって初めて気付いたのだから・・・我ながらかなり鈍いと思う。

それだけ家の事情でいっぱいいっぱいだったのかな? あと遅刻は通院が原因。



そんな状況下で(くだん)の事件は発生した。 といっても恒例である私の発病だが。



母から聞かされた話では、私は頻繁に40度近い高熱を発したという。

それなのに私の記憶に残っているのは、事件が起こったこの日だけだ。

それ程迄に私は自分の言葉が、母の心を深く傷付けたのだと自覚した。



大人になって体力が付くと、40度の発熱すら平気に思えるようになった私だが、

体力の無い子供の頃だと、好きなジュースすら飲めない程の苦しさを感じていた。

ただ喘息の発作よりは随分と楽なので、まだあれこれ考える程度の余裕はあった。



「ちょっと待っとき、5階のおばちゃんにお金借りて来るから、

 そしたらすぐに病院連れてったるさかいな、すぐ楽になるからな」



そう言って立ち上がろうとする母に私は手を伸ばした。 服を掴もうとしたのだが

手が届かずに、ただ手を伸ばしただけになってしまった。 それでも母は私の意図

を察してか座り直してくれた。 そして私に向かって顔を寄せて来た。


「どないしたん・・・しんどいんか? 何か欲しいもんあるんか? アイスか?」



ちなみに5階のおばちゃんとは親戚でも何でもない、近所のお婆さんのことだ。


いつも金欠だった我が家に非常用の現金が用意されている筈も無く、困った時に

五千円を貸してくれるのがそのお婆さんだった。私が発病する度に五千円の借金

を重ね、父の給料日の度に返済するということを繰り返していたと聞いている。


そのお婆さんは団地の5階に住んで居て、私たちは途中の3階に住んで居た。

年寄りの脚では5階まで一気に上がることは辛く、途中の私たちの部屋で休憩し

お茶とお菓子で30分程過ごしてから5階に上がることを日課としていたらしい。


我が家にお菓子など常備出来る余裕はなく、当然にお菓子はお婆さんの持ち込み。

そしてそのお菓子の殆どは、お零れとして私たちが口にすることになっていた。


何のことは無い、お菓子など口に出来ない私たちを憐れんで、毎日のようにお菓子

をプレゼントしてくれるサンタ婆さんだったのだ。 それが5階のおばちゃん。


お菓子だけでなく私が発病する度に医者代を貸してくれた、謂わば命とお菓子の

恩人とも言える人なのだが、薄情なことに私は名前も顔も覚えていない。会った

記憶すらないが、実際に会っていない可能性もある。大体昼頃に家に寄っていた

らしいが、その時間帯の私は学校か、外で遊んでるか寝込んでるかの三択だから。



・・・そのお婆さんにお金を借りに行くという母を押し止めて。



・・・私は、子が親に口にしてはいけない言葉を、口にしてしまった。



「・・・僕は・・・死んだ方がいいから・・・医者には行かない・・・」



・・・・・・・・・



私は熱の籠った煎餅布団の中で、目を瞑った状態で、荒い呼吸を繰り返しながら、

気丈な母が、声を押し殺して泣いている、その呻きにも声を、震えを感じていた。



・・・母を深く悲しませたことだけは・・・子供の私にも解かった。


・・・でもその理由までは・・・その時の私には解からなかった。



私は幼かったのだ。 だから自分の事しか、自分の苦しみしか考えられなかった。


私は逃げたかったのだ。 全てから。 今この時の、発熱の苦しみから。


喘息の発作の・・・一晩に何度も死を覚悟する程の、酷い苦しみから。


心から逃げ出したかったのだ。 貧しい暮らしから。 貧相な食卓から。


それら全ての苦しみを自分に強いて、貧しさを家族に強いる忌まわしい身体から。


本当に逃げたかった。 その為なら死んでもいいと本気で思っていた。



だって・・・生きていたって、ただ・ただ・ただ・ただ・苦しいだけだから!!!











・・・それは子供だった私の、嘘偽りのない、魂のSOSだったのだろうと思う。



病弱な身体、死を覚悟する程苦しい喘息、貧しさ、健康な弟と妹への嫉妬と劣等感

喧嘩ばかりの両親、深い罪悪感と自己嫌悪、遠過ぎる病院、遅刻を叱るおばちゃん


・・・大人になった私でも、これだけ揃えば嫌にもなるし、逃げ出したくもなる。


自己弁護になるかも知れないが・・・いくら言ってはいけない言葉だったとはいえ

子供のしたことだから許されてもいいと思う。 本人もずっと気に病んでるし。


酷い事を言ってしまったと後になって気付いたし。 ・・・これは後述。



ちなみに、補足説明をすると


通院する病院は本当に遠かった。 自宅が校区の北端で病院は南端、子供の脚なら

30分以上掛かったと記憶にある。 元気な時ならいいがしんどい時は本当に大変。


で、病院から学校までの道程(みちのり)で・・・当時のおばちゃんはおせっかいが多いのか?

ヒステリックなのが多いのか? 遅刻中の子供を大声で叱るのだ。事情も知らずに。


それと病院では注射を打つのだけれど、打ってからしばらくすると少し怠くなる。

全員がそうなのか、私だけなのかは判らないけど。多分ワクチンだったのだろう。

そして怠くなるのもワクチンが原因なのか、病院で大勢の大人に揉まれた疲労が

原因なのかは判るものでないが、そんな状態で大声の追い打ち攻撃を受けるのだ。


・・・・・・理不尽過ぎて泣きたくなるぞ。


この経験がトラウマとなり、私は遅刻に神経質になった。 絶対に遅刻しないよう

最低でも30分以上の時間的余裕を見る癖が付き、それが貴重な時間を浪費させる

ことになったし、難波駅コンコース北側でよくナンパされることにも繋がった。



話を戻そう、私は母に「僕は死んだ方がいいから医者には行かない」と言ったが、

他にも色々言ったかも知れない。感情を爆発させて思っていたこと悩んでいたこと

その他、抱えていた諸々を母にぶつけた可能性がある。 私が覚えていないだけで。



というのも、件の事件のそのすぐ後に両親の大喧嘩が発生、父の反対を押し切って

母が働き始めたのだ。 その結果から推察するに私は医者代を苦にしていたことを

考え無しに吐露したのだと思う。 ・・・多分。 何で記憶に無いのか判らないが。


時給440円、近所の米屋のパート。それにより我が家の実収は8割増しとなった。

世間並には程遠いが、少なくとも生活保護並には豊かになった。 ・・・豊か?



後から母に聞いた話だが、働き出したその時に父と離婚することを決めたそうだ。

母が父にとことん愛想を尽かしたのは、私の発言が原因なのかもしれない。 そう

思うと最低の糞発言もそれなりには母の為に、家族の為になったのかも知れない。



尤も、実際に父と別れるのは私が働き出して、生活が安定してからの話になるが。




貧しさも、身体の弱さも変わらぬまま、弟と妹が就学した以外は大した変化も無く

時は過ぎ・・・私が中学生になって半年後に、母への誓いを立てることになった。



切っ掛けは、小学校以来の喘息友達であったO(オー)の死亡。



Oとは6年生の時に同じクラスになり、すぐに友達になった。 新しいクラスに

入った私の常で、何もせずにぼんやり座っていたらOが声を掛けてくれたのだ。


何事にも慎重で、よく見て、考えてから動くようになっていた私と真逆で、

Oは動いてから考える、少し無謀な行動派だった。真逆故に惹かれ合った。


・・・勘違いしないで欲しいがBL的な意味では無い。 そこは注意が必要。


そんなOと私の共通点はただひとつ、喘息持ちであることだった。 そのこと

を知った時、私は驚いた。 O程元気な喘息持ちを見たことが無かったからだ。


『 おう、みんなから云われる! 』 そう言ってOは、愉快そうに笑った。



運動会では1等の常連だったOは、中学に進学したら速攻で陸上部に入った。

私も体力を付ける必要は感じていたが、まだ無理だと思い帰宅部を選択した。


クラスは離れたが交友は続いていた。たまに覗く部活でOは苦戦していた。

元々少し小柄だったOと、2年生や3年生とでは体格差が圧倒的だったのだ。


『 今は仕方ない、でもいつかレギュラーになってやる 』 Oに笑顔は無かった。


負けず嫌いに火が付いたのか、Oはがむしゃらに頑張った。

・・・それでも、体格差という壁は残酷なまでに高かった。


だがその体格差が小さくなれば・・・それこそがOの勝機だろうと思っていた。




10月の月曜日・・・Oは登校せず、代わりに訃報が届いた。


Oは勝機を迎えることなく、喘息の発作で命を落としたのだ。


数多ある死因の中でも、最も苦しいものの一つが喘息の発作だ。

一晩中必死になり、酸素を求めてもがき苦しむ喘息の発作だが、

途中で力尽きて、体力が尽きて窒息死するのが喘息に因る死だ。


その夜を生き延びるか、力尽きるかは僅かな体力の差、そして運の差。


Oより体力が無かった私が、何十回もの夜を乗り越えることが出来て

私より体力のあったOは、その何十回目かで力尽きることとなった。


多分、本当に紙一重の差でOは力尽きたのだろう。


陸上部で頑張り過ぎたのか、別の病気を併発していたのかは判らない。


ただ喘息の発作で、苦しみ抜いた末に最後を迎えたとだけ聞かされた。




翌日、私は元クラスメイトとして、そして友人として、Oの葬儀に参列した。

参列と言っても家の中には入れず、Oの自宅前道路の端に並ぶ学生服の集団。

その中の一人として、玄関の正面という一番近い位置で葬儀を見守っていた。


周りが泣いている中、私は泣いていなかった。 ・・・あまり悲しくも無かった。

Oが死んだという実感が無かったのだ。 ただぼんやりとOの葬儀を眺めていた。

Oの葬儀に参列しているという実感すら無かった。やはり私は何かが鈍いのだ。


霊柩車が到着し、Oが眠る棺が家から出された時、その棺を目にした時、その棺の

中にOが眠っていると思った時になって、初めてOの死を実感した。 胸の奥で

眠っていた悲しみが一気に目覚め、思わず声を上げそうになったが上げなかった。


     「 あああああああああああああああっ!!! 」


と、突然聞こえて来た女性の絶叫に驚いて、感情が一時的に鎮静化されたのだ。

声の主はOの母親だった。 彼女が玄関の門を出たOの棺にいきなり縋り付き、

大声で泣き始めたのだ。『行ってきます』を言えなくなったOとの最後の別れだ。




その状態がしばらく続いたが、いつまでもそうしてはいられない。 当時は今の様

に棺台車を使うことが無く、Oの棺は大人4人で持ち、人力で運んでいたのだ。

その棺に小柄とはいえ成人女性が縋り付くのだから、持っている人には堪らない。

棺を落としたりなんか絶対に出来ないから、周りの大人が彼女を剝がしにかかる。


Oの母親には何度か挨拶をしたことがあるが、静かで控えめな印象の女性だった。


その彼女が鬼のような形相で、自分より大きな何人もの男たちに必死に抵抗する。

だが、結局は力及ばず棺から引き剝がされ、男たちに囲まれたまま棺を見送ること

になった。 その状態でも彼女は必死に足掻いては、囲みから逃れようとしていた。


そして全力で足掻きながら、悲痛な声で叫んだ。


「 嫌ぁぁ!! 止めろぉ!! 連れて行くなぁぁぁ!!! 」


その言葉で誰もが理解した。


彼女は最後の別れを告げていたのではなくて、

Oを・・・可愛い我が子をまだ手放したくなかったのだ。


いや・・・守りたかったのかもしれない。


火葬場の熱い炎から。 炎で焼かれる苦しみから。


Oをそんな目に遭わせる刑場へと送る霊柩車から。




例え物言わぬ亡骸(なきがら)になったとしても、彼女にとってOはOのままだったのだ。


今はただ話をしないだけで、ただ動かないだけで、ただ身体が冷たいだけで・・・

ただそれだけの違いがあるだけで、愛する我が子であることに違いなかったのだ。


その愛する我が子が、熱い炎で焼かれるという事が、どうしても我慢出来なくて、

Oを霊柩車に乗せることに激しい抵抗をみせたのだと・・・私はそう考えている。




霊柩車が走り去り、その姿が見えなくなるとOの母親も静かになった。 男たちも

彼女を開放し、口々に何かを語り掛けては近くに停めてあるマイクロバスの方に

足を進める。 本来なら霊柩車のすぐ後を追わねばならないのだが、Oの母が落ち

着くのを待つ必要があった。 だから霊柩車が見えなくなるまで待ったのだ。


マイクロバスは発車を急いでいたのだが・・・そこでまたトラブルが発生した。

Oの母親が、Oを見送った場所から動き出そうとせず、その場に(うずくま)って、大声で

泣き出したのだ 『うああああぁぁ・うあああああああぁぁぁ・・・』 と。


また何人かの男たちがやって来て、彼女を抱き起そうとするがそれにも抵抗する。

・・・しかし今度の抵抗はそうは長くは続かず、彼女はOの父親らしき男に抱き

抱えられるようにして、大泣きしながらマイクロバスに乗り込むことになった。



私はその一部始終を間近で見ていた・・・Oの母親の悲しみを間近で感じていた。


そして知った・・・子を想う母の愛の深さを。 子を失った母の悲しみの深さを。


そして知らされた・・・私の言葉の罪深さを。 母をどれ程深く悲しませたかを。



マイクロバスを見送った後に予定されていた解散は、大きく遅れることになった。

・・・誰もが泣き止まなかったから。 Oが死んだ悲しみに加え、母親の悲しみの

深さを目の当たりにして・・・その心情を慮れば涙が止まらなくなったのだろう。


皆と一緒に私も泣いていたが、私だけは自分の母親の悲しみを想っての涙だ。

心の中が、母への申し訳なさでいっぱいになって、Oを後回しにしてしまった。


後回しにしたOへの悲しみで少し塞ぎ込んだのは、陸上部の練習風景からOの姿

が消えていることを確認した後の事。 実は棺はただの予告編で、本当にOの死を

実感させられたのはOのいない練習風景だった。 ・・・本当に私は色々と鈍い。



さて、自分の発した言葉の意味を正しく理解してしまった私だが、今更謝っても

意味は無いと思い、罪滅ぼしとして誓いを立てることにした。 Oの母親の様な

思いは決してさせまいと《 絶対に母よりは先に死なない 》という誓いを立てた。




・・・というのは大嘘だ。 そこまで大それた誓いは流石に無理が有り過ぎる。



何事にも慎重で、考えてから動く私は、実現性を考慮した現実的な誓いを立てた。


《 母より長生きを目標に、決して生きることを諦めない、限界まで足掻く 》


というものだ。 我ながらしっかりと逃げ道を用意した弱気な誓いだと思う。

でも中学生当時の私にはこれが限界に思えたのだ。 母よりも長生きなんて、

母が事故死か病死でもしない限りは、絶対に無理だと考えていたのだ。


ちなみに中学生当時の目標寿命は30歳だった。 既にクリア済み。 やったね。


何故30歳を目標にしたかというと、中学入学時に母から聞かされた話が原因だ。


「あんたも本当に健康になったわねぇ、昔はいつ死ぬか判らない子供だったから

 いつも心配ばっかりさせられたのに・・・医者にだって二十歳まで生きられない

 なんて云われてた子が、すっかり私より大きくなっちゃって・・・以下略」


御覧の様に少し危険ワードが入っている。《いつ死ぬか判らない》は全くその

通りだったから問題無いとして、問題は《二十歳まで生きられない》の処だ。


普通は二十歳を過ぎてから聞かせる内容だと思うが、聞いてしまったものは

仕方ない。 寧ろ『うっかりぽろりは遺伝だったか』と妙に納得したものだ。


貴方は医者に『君、二十歳まで生きられないよ』と云われて『はいそうですか』と

素直に納得出来ますか? 私は出来ません。素直に二十歳までに死ぬのは癪だから

30歳まで生きてやる! と特に深い考えも綿密な計画も無く設定した目標が30歳。


多少のツッコミどころはあるでしょうが、御納得頂けたものと思います。



で、実際問題中学生当時の健康状態はというと毎学期10日前後は休んでました。

年間にして30日くらい、一般的には休み過ぎと判断されるでしょうが、例えば

小学校低学年の時は毎学期30日くらいは欠席。 登校後直ぐに保健室行きレベル

の無理迄しながらも、年間90日の休み。 それに比べたら遥かに健康ですよね。



ここまで読んで頂けたら、


《 母より長生きを目標に、決して生きることを諦めない、限界まで足掻く 》


の妥当性を御理解頂けるものと思います。



今現在幸いにも生きております、誓いは厳守されてます。


全然楽勝では無いです。 結構大変でしたし、これからも大変でしょう。


本当に何度ももう駄目かな? と思ったことがあります。


嘘だと思われるでしょうし、思われても構いませんが、

ぐったりと横たわる自分自身を天井から見下ろした経験は何度もあります。

片手の指の数以上で、多分両手の指の数以下くらい。


それでも誓ってしまった以上は後に引けないので、限界まで頑張るしかない。


まぁ誰だって同じでしょうが。 何処で頑張るか、何を頑張るかの違いだけで。


誰だってそう、やれるとこまでやる、頑張れるとこまで頑張る。


そうやって生きていくしかないんですよ。

本編に書いた事情で、私には全くと言っていい程に冒険心が有りません。

常に安心安全+健康志向一直線、酒も煙草も嗜まず夜遊びはせず(というか無理)

食事は栄養価優先で常に適量、動ける時は出来るだけ動いて身体を鍛える。


そんな健康的な生活を『何処が面白いんだ?』と言ってくる先輩が居ました。

最初の会社の最初の部署の先輩で、偶然にも高校の大先輩。とにかく元気で

人の好い先輩で随分と可愛がって貰いましたが、少しうざいと感じることも。


『若者がとんかつを嫌いでどうする? 食え! きっと好きになるから!』と

御馳走して貰ったとんかつを、本当に美味しいと感じたことには驚きました。

お店によってこれ程までに味の違いが出来るとは⁉・・・秘訣は衣とのこと。


それにしても何でとんかつ嫌いは認められないのでしょう?  謎ですね。


話は逸れましたが、『人生は生きることが目的じゃない。楽しむことが目的だ!』

と言っていた元気一杯な先輩でしたが、心臓にウィルスが入り込む難病に罹り、

入院してから一月も経たずに他界されました。 まだ二十代という若さでした。


葬儀に参列した際の、先輩の母親の慟哭が今も忘れられません。


Oの葬儀と先輩の葬儀・・・何故元気者が先に逝くのだろうか?


そんな矛盾さえ感じる現実に、人の命の儚さを再認識しました。



   ◇ ◇ ◇



実は現在手慰み&リハビリで小説を執筆しているのですが、体調が悪いと主人公

がネガティブ思考に走り過ぎて困っています。 話が迷走して冗長になるのです。

でも書く手は停めない方がいいと、何かで読んだことが有るのでこんなエッセイ

を書くことにしました。 エッセイなら記憶を書き連ねるだけなので、体調に関係

なく書くことが出来ると思ったからです。体調が回復したら小説に戻る予定です。

というか、体調次第で小説を書いたりエッセイを書いたりになるかも知れません。


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