第四章 約束の日
うじうじと悩み続けるだけで、俺はいまだにだれにも気づかれてない同居人のままでいる。体を借りているんだから同居人だろ?
梅雨もそろそろ終わりに近づいて、夏の空が時折、顔を見せるようになった。毎日つづくアカネのしょうもない話に飽き飽きしてるのは、リンも同じだと思う。それなのにアカネに媚びを売っている。朝、駅からの道でリンの方から話題に乗せるんだからな。
「一目ぼれした彼と進展あった?」
アカネは声をひそめて、うれしさに満ちた笑顔で答える。
「それがね、ちょこっとだけど、目が合うようになったんだ。話しかけてくれるのを待ってるんだけど、それが中々ね」
「すごいじゃない。毎日、楽しみでしょ。いいなあ」
調子を合わせるようにリンがいう。
「リンと私だけの秘密よ。親友だもの。なんでも話そうね。リンにもボーイフレンドができたらいいな。ダブルデートなんて、素敵じゃない?」
「いつか、そんな日が来たらいいね」
アカネはおざなりに返事したリンに気づかず、大きくうなずいている。
だいたいさ、親友ってそんなに簡単になれるもんじゃないよ。秘密を共有してるからって親友とはいわないぜ。なんでアカネと一緒にいるのか、俺にはまったくわかんない。他に友だちいそうもないから我慢してるのかも。ま、ひとりぽっちはリンにはつらすぎるって感じだな。
夏帆は違った。ひとりで立ち向かってた。夏帆に会いたい。
学校にいる間中、夏帆を思い、なんとかのろい時間をやり過ごす。
★
梅雨がじくじくと続いている頃だった。だれにも知られていない土手のベンチで、夏帆とおしゃべりするのが気に入っていたけど、しばらくはできそうにない。
俺は濡れたまま、自転車を駐輪場に預けた。二駅先にある図書館で、学校帰りに夏帆と待ち合わせが日課になっている。同級生に会わないか、何時もひやひやしているのが俺。静かな図書館のあちこちに目をやりながら、足音を立てずに奥へ進む。夏帆は一番奥の椅子に腰かけ、俺が歩いて来るのを眺めていた。
「会っているのを見られるのがいやなんだ。伊蕗の知ってる人はいないから安心して」
からかうような目つきで夏帆はつぶやく。
「あのさ、同じクラスの奴がここに偶然いたら、夏帆は面倒とか思わない?」
「私は平気。もういろいろいわれているから」
お互いを名前で呼び合うようになったのはいつからだろう。思い出せない。
学校ではほとんど話をしない。相変わらず夏帆は友だちもできず、クラスではひとりでいることが多い。時折目が合うと、かすかに口の端で笑う。
いじめを止めさせることは難しいけど話を聞くことはできる。そんな対処法もあると思う。みんなの目の届かない所でと、付け加えたくなるのは俺の弱さだろう。目立たず寄り添いたい。けど、それは逃げなのかも。自分までいじめの対象になるのが怖いんだよ。いくら振り払おうとしても、その考えはなかなか消えなかった。
雨が窓に水滴を滴らせている。静かな図書館がさらに静けさを増し、数えきれない本や人を包み込む。思い切っていってみた。
「今度の土曜日、原宿に行かないか? 案内してくれる?」
夏帆がまじまじと俺を見つめる。
「もし……よかったら……だけどさ」口の中はカラカラに乾いている。
「土曜日ね」夏帆はそういって立ち上がり本棚に向かった。
俺は小さく安堵の息を吐く。
原宿行きがいよいよ明日に迫ってきた日の朝、夏帆はラインで放課後は会えないといってきた。急な用事ができたらしい。残念だけど、明日も会えるからと思い直す。
昼休み、図書室に行き夏帆を探す。話しかけるわけじゃない。本を読んでいる姿を見つけると安心するんだ。本を探す振りをして歩き回る。すると突然現れた夏帆が近寄ってきた。びっくりしたけど、なるべく平静を装う。
「今日はごめんね」
それだけささやくと夏帆は離れていく。背中を思わず見つめてしまった。
「伊蕗、だれを見てんだよ! ひょっとして倉橋夏帆? 今なんかいってたよな。目つきが違うけど、もしかして、あり?」
どこから現れたのか、クラスの山田がわざと驚いたように大きな声で聞いてきた。夏帆も振り返る。
「はあ? 何いってんだよ! 『あり?』ってどういう意味?」
いつもの辛辣な返しができないくらい慌ててしまう。
「俺にいわせる気? いつからだよ」
「お前って、妄想癖はんぱないな。ついてけないよ」
「伊蕗はおとなしいだけかと思ったら、けっこうやるじゃん」
山田はあきらめない。さらに好奇の目で俺をベタベタと眺めまわす。
「いい加減にしろよ! お前の方だろ、あいつに興味があるのは。だいたいこういうこと言い出す奴に限ってそうなんだよ。知らなかった?」
山田はにやりと笑った。
「そうなの? じゃ、誘っちゃおうかなあ」
「勝手にどうぞ。俺には関係ない」
そういった時、目の端に夏帆が走って行くのが見えた。そのまま、山田をにらみ続けた。
「怖い顔すんなよ。ちょっとからかっただけじゃん。でもさ、否定するほどほんとだったりするんだよね」
「知るか!」
わざと山田の肩にぶつかり、図書室を出た。裏門にいるだろうか。あやまらないといけない。でも追いかける勇気がなかった。教室に戻り、やりきれない気持ちで席についた。夏帆は怒ってるに違いない。それに情けない俺にがっかりしてるだろう。握った手をじっと見つめる。頭がガンガンしてきて、じっとしているのが難しい。
山田も教室に戻ってきて、遠くからにやけた顔で俺を見ながら男子たちに話しかけている。無視して教科書を取り出す。男子たちの大きな笑い声がした。むかついたが耐えて教科書を読むふりをする。
チャイムがなった。生徒たちが席に着き始める。夏帆がやっと現れた。山田はチラッと夏帆に目をやったが何もいわなかった。
放課後、遊歩道へ行き、スマホの電源を入れ夏帆にラインする。
雨は降っていなかったけど、どんよりした灰色の空がベンチの上に広がっていた。湿ったベンチに腰掛け、どうして心にもないことをいってしまったのだろうと後悔する。はっきり友だちだと伝えるべきだった。
唯一の味方でいようと思っていた気持ちはどこに行ってしまったんだよ!
失格だ。何度も心の中でそうつぶやいた。
ラインの返事はないどころか、既読もついていなかった。
雨が降り出してくる。重い心を引きずったまま自転車に乗った。
家にはだれもいなかった。部屋に入ってリュックを床に投げつけ、ベッドに倒れ込んだ。
しばらくして玄関の開いた音がした。ドタドタと階段を上がってくるのは春斗に決まっている。
「あれ、早いね。具合悪いの?」
勝手に俺の部屋のドアを開けて春斗が聞いてくる。
「うるせい! あっちへ行け。ドア閉めろ!」
大声で返事すると、春斗はあっという間に姿を消した。
夕食になり、何度も母に呼ばれてからやっと部屋を出た。
母さんがぐちり出す。父さんは黙ってる。
「伊蕗、今日も明日もお皿洗いしなさいよ」
「明日は友だちと出かける。帰りは何時になるかわかんない」
「どこへ行くの? 友だちってだれ?」
「うるさいな。もう中学生なんだ。いちいち親にいえるかって!」
イライラした声がだんだん大きくなる。
「中学生だから心配なんじゃない。お父さん、黙ってないでなんか、いってやって!」
母さんも負けずに言い返す。
「親としてはだれと、どこへ行くくらいは聞いておかないとな」
俺は知らん振りする。うそをついてもよかったのにと、今更、後悔しても始まらない。
母の顔が不服そうに渋い表情を浮かべている。その顔を見てたら余計に腹が立った。
「ほんと、ムカつく!」
箸をテーブルに投げつけ、席を立った。皿をガチャガチャいわせながら文句をいってる母の声を追い払う。今夜は部屋を出る気がしない。風呂は明日の朝に入ろう。怒りで強張った心の中で、他愛も無いことを考えてもいる自分がいる。部屋のドアを閉め、つっかえ棒でだれも入れないようにした。
ラインを確かめてみる。だが夏帆はやはり無視を決め込んでいる。ちゃんとあやまりたい。そしてできるなら、原宿にふたりで行きたい。何度も何度もラインを送った。
――明日、十時に駅で待ってる。遅れてもいい。ずっと待ってるから――
★
否応なしに眼に映る景色がうっとうしい。何も見たくないし、聞きたくもない。なのに、同居人でしかない俺は選択権も与えられずリンの思うままだ。夏帆はどうしているだろう? 俺のことなんか忘れちゃったかな?
ようやく授業が終わり、傘をさしてアカネとおしゃべりしながら駅へ向かっている。
アカネとは席がたまたま隣り合わせで話すようになったらしい。ダンス好きのだれとでも話せる明るいタイプ。でもゴシップ好きで唇がいつもテカテカ光ってる。勉強はリンの方ができるみたいで、よく宿題やノートを見せてあげてる。それで仲良くしてくれているのかって、リンは思ってるんじゃないかな?
「ねえ、今度、リンの家に遊びに行きたいな。きっと素敵なおうちでしょ? 会社経営してるんだもんね。うちなんて、ただのサラリーマンだからさ」
「う、うん。わかった」
強引なアカネにリンはいやとはいえないんだ、きっと。
家に帰りつくと、母親はどこかに出かけていてだれもいなかった。料理、フラワーアレンジメント、ヨガなど趣味が多くて、俺の母さんはうらやましいっていうだろうな。父親が設計事務所を経営しているって知った。この暮らしぶりに納得。でも帰りはいつも遅い。俺の父さんはいつも定時に帰って来たっけ。
ココアとクッキーを持ち、リンは自分の部屋に行き着替えた。
どうか、鏡にカバーをかけて下さいって頼みたくなる。本心かどうかは怪しいけど。
声をかけようと「リ……」までいった時、玄関の方から聞こえる母親の声と重なってしまった。
「ただいまー」スリッパの音がして、リンの部屋のドアがノックされる。
「お帰りなさい」リンの返事に部屋が開き、母親がにっこりして入って来た。
「遅くなってごめんね。夕飯ちょっと待ってて」
「急がなくていい。それより、あの……なんだかへんだけどタコスが食べたくなったの。作ってくれる?」
「タコス? 好きだったっけ? 明日でいいかしらね。リンが食べたい物、いってくれるなんてうれしいわ。」
「うん、明日でいい」 笑顔も見せないリンだけど、母親は満足そうに部屋を出て行く。
あっけにとられた。俺の好物を食べたいなんて驚きだ。好みがリンに伝わったんだろうか? けどさ、俺は食べられないんだぜ。悲劇だよ。
リンが何か異変に気付いたのか、胸に手をあてたり、髪の毛をぐしゃぐしゃいじり始めた。立ち上がり、部屋を歩き回ってる。俺の驚きをキャッチしたのかな?
今がチャンスだ。リンは鏡の前に立ってのぞき込んでる。
「こんちは!」
ぎょっとしたようすでリンは身をすくめ、恐る恐る部屋を見回す。
「そこじゃないんだ。ってか、どっから説明したらいいのかなあ」
俺の声に腰を抜かしたリンは、眼を丸くして何もいえずに震えていた。