第三章 一人ぽっちのサンクチュアリ
こんなに混雑した電車に乗ったのは初めてだった。リンは男女の背中に囲まれてじっとしている。目を動かすこともせず、ひたすら前の人の背広に視線を注いでいる。毎日これじゃつらいよな。
学校でもリンは家と同じように素っ気ないんだろうか? リンの思っていることはなんにも伝わってこない。
いくつか駅を通り過ぎ、空いてきた車内からようやく下りる。いつの間にか同じ制服の女子が増えていた。
「リン!」一人の女の子が駆け寄ってくる。
「髪を切ってた。さらにイケメンになっててね、じっと見てたら目が合っちゃった。わたし、すぐ目をそらしちゃったよ。心臓止まりそうになった。声かけてくれないかなあ」
会ったとたんにイケメンの話をする女子なんてうんざりだ。
「うーん、多分ね。明日、会ったら目をそらさないでにっこり笑う、なんてどう?」
「無理だよ! リンはできるの?」
何もかも聞こえてしまうのがなんとも居心地悪い。そう思いながら、リンがどんな返事をするのだろうと興味もわく。
「そりゃ、ほほえむくらいならがんばるかな。そんなすてきな男の子に会ったこと、まだないけどねぇ。熱くなってるアカネがうらやましい。だからアカネの青春を応援するよ」
「ずいぶん冷めてるね、リンは。小さい時からそうなの? 今みたいな言われ方されると、なんか自分がすっごく幼稚にみえちゃう。上から目線でいってない?」
アカネと呼ばれた子の声は意地悪い響きがしたけど、リンはどう感じたかな?
すると、言い訳するような声が聞こえた。
「ごめん。そんなつもりじゃないんだけど。小学生の時も白けてるっていわれたことあったな。人気アイドルに興味ないし、ジョークについていけなかったからかもね。みんなみたいにはじけないし、キュンキュンできなくて」
アカネは理解できないというような目でリンを見つめてる。その視線は痛い。
少し歩いてからアカネがいった。
「ごめん。余計なこといっちゃった。わたしの悪い癖なんだ。頼りにしているから、これからもよろしくね」
いったことをすっかり忘れたみたいに無邪気な顔でアカネが笑いかける。リンも大きくうなずいたようだ。リンはほんとに仲良くしたいのかな? 押しつけがましい友情なんかにしばられるなよ。
やがて学校が見えてきた。赤いレンガ造りの洋風な建物だ。校門から入ると、花壇があり、プランターも置かれている。何棟も建物が並んでいるので、中高一貫の私立校みたいだ。こんなにもたくさんの女子に囲まれたのは初めてだった。みんな気づいていないのになんだか恥ずかしい。女子の体を借りるのは大間違いだったんじゃないだろうか?
一年三組の教室に入るリン。そうか、同い年なんだ。
女子たちのにぎやかな笑い声がする。アカネは他の子のそばに行ってしまった。リンはそのまま椅子に座る。いくつも授業を受ける中、しっかり先生の方を向いてノートを取っていた。
通っていた学校を思い出さずにはいられない。そして、夏帆のことも。
★
俺の視線は教室にいる生徒たちの間を漂っている。夏帆の背中に視線がたどり着くと、そのままじっと見つめつづけた。踏切近くで会った時からずいぶん経つけど、それ以来しゃべったことはない。なのに、どうしてかいつも目で追ってしまうんだ。いつも、ほとんどだれとも口をきかない。昨日の夜、気になってSNSでいろいろ書かれているのを見た。
「うざい!」「死ね」から、パパ活しているっていう噂がささやかれていた。多分、女子の書き込みだと思う。女子は怖い。
夏帆はどうやって毎日をやり過ごしているんだろう。休みもしないで、せっせと学校に来るなんて。今の俺も陽気な方じゃないし、一人でいることが多い。けれどもいじめを受けたことはない。もし、いじめにあったら学校なんて来ない。家に引きこもって恨みつづけるだろうな。
突然、夏帆が背中を伸ばし、振り返った。目が合う。怖いくらい真っ直ぐな視線。ドキリとしてすぐうつむく。これって、まるでいたずらを見つかった幼児みたいじゃないか!
昼休み、図書室に向かう。ゆっくり本棚の前を歩く。次の棚に向かうと、夏帆がしゃがんで本を選んでいるところに出くわした。
「本、好きなんだ」
小さな声で夏帆が話しかけてくる。
「別に」
そういったまま、じっと動かなかった。いや、動けなかったという方が当たっているかも。目をそらすのがやっとだった。すると、夏帆はがっかりしたように「フーン」と鼻息ともつぶやきともつかない音を残して去っていった。手に数冊の本を抱えている。どんな本を読んでいるのか聞きたくなった。それなのに声もかけず、夏帆の後ろ姿を見つめるしかない。大きくため息をついてしばらく図書室を意味もなく歩き回る。教室には戻りたくないし、校庭や体育館も生徒たちの大声でうるさそうだ。イライラしながら裏門に向かう。裏門近くには園芸部の小さな畑があり、サツマイモが植えられ、今は葉がきれいに並んでいた。
夏帆が裏門に寄りかかって本を読んでいるのが見えた。偶然なのか。それとも孤独な者は同じ場所をさまようものなのか。勇気を出して、今度こそ話してみようと決めた。夏帆の目はじっと本に注がれている。
「ついてきたんじゃないぜ。全然違う」
夏帆がビクッとして振り返る。
「………」
「怒って言い返せば? へんなうわさ立てられたくないとか」
夏帆が声は出さずにかすかに笑った。いつかの踏切での会話を思い出したんだろう。
「もう、いろんなうわさが立ってるから気にしない」
はっきりした声にドキッとしてしまう。
「いつも一人なんだな」
「お互いにね」
「俺はあえてそうしてる」
最初は好奇心旺盛な女子が夏帆に群がっていた。それがいつの間にか、いじめの対象になってしまった。言葉使いがていねいで、常に静かで無表情でいるのに男子に人気がある。それが女子には気に障るらしい。勉強もでき、英語が得意なのも、なんとなくしゃれた雰囲気をかもし出しているのも、腹立たしいんだ、きっと。
昇降口で口を利くことさえなかったら、無関心でいられたのにと一瞬思う。
夏帆の目がじっと俺に注がれている。心臓が弾け出そうだったが気づかれたくない。何かいわねばとあせり、本が目に留まった。
「何を借りたの?」
「『はてしない物語』と『クラバート』」
「翻訳ものが好きなんだ」
「そうとも限らない。上橋菜穂子も好き」
「『精霊の守り人』なら読んだ」
夏帆がうれしそうな顔をする。ほほえみ返す。だがすぐに真面目な顔に戻した。だれかに見られたらと思うと落ち着かない。
「土手のベンチが気に入ってるみたいね」
首をかしげて夏帆が聞いてくる。そのしぐさが大人っぽい。こいつ、あれからも俺の後、つけてきたんだ。そう思ったが腹は立たなかった。
「あそこは俺のサンクチュアリ」
咳をひとつして、かろうじて言葉を返した。
「ずいぶん、気取った言い方。でも、ひとりぼっちのサンクチュアリね」
風が吹いて、夏帆の黒髪が揺れる。心臓がさらに騒ぎ出す。サンクチュアリという言葉を知っているのもなんかうれしい。ひとりぼっちは余計だけど。
「私はひとりが好きってわけじゃない。だれにも聞かれないからいってないけど」
夏帆が自嘲気味の言葉を放ってククッと笑う。
「東京には友だちいた?」
「当たり前でしょ。たくさんじゃないけどね。私ってそんなに偉そうにしてる?」
「ごめん。わかんない。ええっと、そっちのこと全然、意識してなかったから」
「そう。じゃ、偶然ここに来たってわけ?」
「俺の昼休みの散歩コースなんだ」
夏帆は信じていない顔つきで、俺の心を探るように見つめた。その視線を避けるように、空を見上げる。雲ひとつない青空だった。
「もう行った方がいいんじゃない。散歩の途中なんでしょ?」
黙ったままうなずき歩き出す。けど背筋を伸ばし、振り向いていった。
「俺のサンクチュアリ、もうひとりくらいなら余裕あるんだ。来れば? 今日とかさ」
返事も聞かずに、また歩き出す。早く立ち去りたかった。でも、走り出すのは見られたくない。速足で畑を通り過ぎ、体育館の角を曲がった。曲がったとたん、体育館の壁に背中をつき、大きく息を吐く。冷や汗が顔に吹き出してくる。夏帆がどう受け取ったか不安になる。顔を手でぬぐい呼吸を整えてから教室に向かう。
授業はまったく身に入らなかった。
放課後、まっすぐ土手まで自転車を走らせる。。先に行って、心を落ち着かせないと。
いつものベンチに腰かける。本も読まず、夏帆を待つ。向こう岸の土手には小さな畑があり、腰を曲げておじいさんが手入れをしている。大きく深呼吸して、目を閉じる。
すぐに来てくれると思っていたのに中々現れない。返事を待たずに歩き出したのはまずかったかも。約束もしていないのだから、来るとは限らない。そのまましばらくじっとしていると、チャリンと音がした。
「ごめん。担任に呼ばれて遅くなったの」
息を弾ませた夏帆が俺の前に立った。それからベンチの端に腰掛ける。何を話そうかと迷っている俺をよそに話し出す。
「『学校はどう? つらいことがあったら相談してほしい』なんていわれた。先生ってなんにも見えてないのね。だから『大丈夫です』って返事した。いいつけたなんて思われたくない。そんなこともわからないのかな。東京に戻りたい。お父さんの仕事で引っ越してきたんだけど、単身赴任してもらえばよかったかも。お母さんも私も後悔してる」
一気にしゃべるのに驚き、思わず顔を見つめてしまう。すると夏帆は顔を赤くしてうつむいた。
「案外おしゃべりなんだ。イメージ、変わっちゃったな」
「勝手に決めつけないで。おしゃべりは好き。でも目立ちたいなんて、これっぽっちも思っていない。だれも見下してなんかいない。それにね、パパ活なんてしてないから」
「信じるよ」
「なぜ、信じられるの? 私のこと、何も知らないくせに」
額にしわが寄っている夏帆はフッと息を吐いて俺に目をやった。
「時間はいっぱいあるよ」
夏帆の強張った顔が次第に溶けていくアイスクリームみたいに滑らかになる。そして、笑顔が広がっていった。夏帆がささやくようにいった。
「いい所ね。気に入った」
★
やがて下校時になった。騒がしい女子の声がびんびん響く毎日が続くかと思うとうんざりしてくる。リンとアカネは帰りも一緒だった。
「ねえ、お願い。ちょっとだけ付き合って。駅で待ってたいのよ」
アカネの言葉にリンはすぐには返事しなかった。
やめろよ。来るわけないじゃん。無理だって。
「いいよ」
ばかなリン。断る勇気がないんだな。
星川台駅でアカネと一緒にリンは電車を降りる。リンの家は確か逆方向だったんじゃないか? 三十分程やることもなく、改札口のあたりをふたりでぶらぶらしてる。
「やっぱり無理だね。もう帰ろう」
アカネががっかりした顔つきで言った。リンはホッとしたはずだけど、残念そうに小さくうなずいた。
電車に乗るとシートに座り、スマホを見るでもなく視線はずっと前の窓に注がれている。
やがて駅に降り立ち、歩き出す。
家にはだれもいなかった。マンションの上階にある3LDKがリンの家だ。そのリビングは南側が広いベランダへつづく大きなガラス窓になっていて、遠くにスカイツリーが見える。ソファやテーブルなどの家具、観葉植物がゆったりと置かれ、備え付けの本棚にはガラス製の置物と家族の写真、それに本が詰まっている。
部屋に行き、制服からジーパンに着替える。鏡にちらちらとリンの姿が映った。リンのプライバシーの為にも、カミングアウトするべきなんじゃないか。そう思った。
リンは部屋を出て、冷蔵庫を開けジュースを取り出す。そのまま居間のソファに寝転んだ。テレビをつける。チャンネルを何度も変え、結局消してしまった。部屋は静まり返り、リンのため息が聞こえる。どうやって話しかけようか迷う。リンは気難しそうで、快活とはいえない。そんな子が俺の存在を知ったらどう反応するだろう。喜んでくれるとは全然思えないよ。