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第二章 夏帆との出会い

 窓のカーテンが開けられ、俺は、というよりリンの視線は窓の外をさまよっている。今日もどんよりした日だ。こんな高い所から都会を見下ろしたことはなかった。生活の違いにも驚かされる。とにかく今は、この世にこんな状態でもいられるのがうれしい。

 リンはパジャマのまま部屋を出ていった。  

「おはよう」母親が朝食の用意をしながらいった。

「おはよう」リンの声は聞き取れないくらい小さい。

 不愛想なやつだな。俺なんて、朝は自分で作ったりしてたぜ。

 母親はいつものことなのか、気にしているようすもなかった。

「今日はお友達と出かけるの。リンより少し帰りが遅くなるかも。傘を忘れないで」

「わかった。私もアカネとどっかへ寄るかもしれない」

 リンは皿から顔も上げないで返事してる。

 トーストにオムレツ、ヨーグルトとコーヒー。おいしそうな食事だった。でも食欲を全然感じない。こんな俺は生きているっていえるのか?

 リンが部屋に戻り、あわただしく登校のしたくを始める。鏡の中のリンはおしゃれな制服に身を包んでいた。ブルーのジャケットに格子柄のスカート。

 ドキドキしてしまう。見てはいけないだろうに、視界にどうしても入ってくるんだ。昨日のお風呂だってほんと、困った。 

 今、リンは鏡の前に座って髪をとかしている。それからくちびるにリップを塗った。くっきりした眉に似合わない寂し気な瞳。そのまま鏡に映る自分の顔をしげしげと見つめ始めた。首をかしげ、額にしわを寄せて辺りを見回す。

 もしかして、俺を感じてる? 声をかけてみようか。

 けどリンはぷいと立ち上がり、そのまま部屋を出てしまった。

「行ってきまーす」 

 母親の返事も待たず、玄関から飛び出していく。飛び出したわりにリンの足取りは重い。学校までどの  くらいあるんだろう? 

 黙って歩くリンの中で、夏帆と初めて口を利いた日を思い始める。あの日は中学校生活が始まって少し経った頃だった。

               ★

 俺は十分程かかる中学校まで自転車をこいでいる。桜が散り、緑の木々があざやかな五月のある日だった。茨城県に住んでいた中一の俺には両親と小四の弟がひとり。小学生の時は毎日、春斗と一緒に通っていた。

 涼しい風は眠気を覚ましてくれるけど、不満だらけの心の中にまで沁みとおってはくれない。髪を校則ぎりぎりまでのばし、学ランの上のボタンを外してぺったんこのリュックを背負っている。今どき、学ランなのがそもそも気に入らない。校則も厳しすぎて息苦しいんだ。友だちも六年の時と一緒で全然、代わり映えしない。部活に興味はまったくないから、帰宅部で通すつもり。背はずいぶん高くなったけど、筋肉を鍛えたいとも思わないし、大食いでもなかったから、細い体つきは変わらない。 

 この頃は、自転車で気ままに出かけ、川べりでひとり本を読んだりしてる。小学生の時はあんなにはしゃぎまわっていたのに。今はただただ何もかもがつまらなくて、面倒くさいと思えてしまうんだ。

 チャイムぎりぎりに学校の自転車置き場に着く。数人の生徒たちがあわてている中に、同じクラスの夏帆が困った顔でそわそわしているのが目に留まった。話したこともないから無視して通り過ぎようとしたけど、夏帆のため息が耳をかすめた。そのせいかな、思わず声をかけてしまう。

「どうした?」 

 驚いた表情で俺を見つめ、か細い声で返事する。

「上履きがなくて……」

「またか。しょうこりもない奴らだな」

 いじめられているのは知ってた。でも女同士のいざこざなんて、どうでもいいことだった。それなのに夏帆のため息が耳に残り、上履きを探し始める。そんな自分にあきれた。

「せっかくだけど、探してくれなくていい。無理しないで」

 俺を置いたまま、夏帆は教室に走って行ってしまった。 

 授業が終わり、自転車のペダルを踏む。

 学校は駅に近く、駅までの道には大型のスーパーや銀行、洋品店、居酒屋などがポツンポツンと並んでいる田舎然とした景色が広がっているだけ。 

 駅の横の踏切を渡り、畑がつづく中を通っていつもの場所へ行くことにする。踏切の前で自転車を止めた時、チャリンと自転車のベルが後ろで鳴った。振り向くと夏帆だった。 何も言わずにいると、自転車から下りて遠慮がちにそばに寄ってくる。 

「朝のこと、あやまろうと思って。ついてくる気はなかったんだけど……」

「やめてくれよ。そんな必要ないしさ。へんな噂、立てられたくないよな、お互いに」

 ムッとした顔して突っ立っている夏帆を、今度は俺が置いてきぼりにして、背中を丸め自転車をこぎ始める。一度も振り返らなかった。

 川に着くと、土手の狭い遊歩道に上り、自転車を引きながら歩き出す。川といっても向こう岸までは五メートルくらいの狭い川だ。遊歩道には桜が植わっていて、所々にベンチが置かれてある。満開の頃には花見客でけっこうにぎわうとこだけど、今は青々した葉が心地よい陰を作っているだけでだれもいない。

ベンチに腰を下ろし、リュックから本を取り出す。ページを開こうとしたのに、読む気はどこかへ消えてしまった。その代わり、どういうわけか夏帆の姿が浮かんできてしまう。

 夏帆は東京から転校してきたばかりの子で、みんなになじめないでいる。偉そうに見下しているってうわさは聞いたことがあって、それでいじめにあってるのかも。本を閉じたまま、俺は夕暮れがやってくるまで座り続けた。

 家では母さんが台所に立っていた。狭いところにガス台、食器棚や流しが並んでいる。

「おかえり」 

「ああ」

「『ああ』はないでしょ。きょうは伊蕗の好きなタコスにしたのに」

 最近なんだか母さんは俺の機嫌を取ろうとする。胡散臭い。

「ありがと」

 表情も変えず口先だけで返事した。

すると母さんの攻撃が始まった。 

「もういい加減に、髪切ったらどう?」

 知らんふりして二階に上がった。ベッドの上で春斗がゲームをしているのが見えた。素通りして自分の部屋に入る。足音に気付いたのか、ドタドタと春斗がやってきた。だれにでも平気で話しかける、無邪気な甘えん坊で俺とは性格がまったく違う。

「兄ちゃん、ゲームしよう」 

「やだね」 

 春斗の目の前でドアを閉めた。リュックを下ろし、机の前に座った。教科書を広げ、ノートを開ける。そうでもしないと母や春斗、さらに夏帆のことまでも気障りになってしまう。しばらくすると、階下から母さんの声がした。

「ご飯よ」

 春斗がドアをドンドン叩く。「兄ちゃん、ご飯!」

 わかってるよといいたくなるのを抑えた。ドアを開けた先に、年齢より幼げな丸い顔が何かを期待しているように笑っている。仕方なく小突いてやった。すると笑顔がさらに広がり向かってくる。階段で転びそうになった春斗の腕をつかんだ。

「もうじき、お父さんも帰ってくるわ。でも先にいただきましょ」 

「いただきまーす」明るい声で春斗がいった。

 しばらくして帰って来た父さんは春斗の頭をなでてから、タコスを一つとった。

俺だけが、家族が囲んでいるテーブルからずんずん離れていくさまが浮かんだ。あまりの鮮明さに、思わず息が詰まりせき込む。

「おい、おい、いくら大好物だって、ほおばりすぎだぞ」

 能天気な父さんに背中を叩かれた。

 夏帆の姿がまた思い出された。まっすぐな髪を長く伸ばしー学校では後ろで結んでいるー眼を逸らしたくなるくらい鋭い眼差しで、ほんのり紅いくちびるが微かにあいていた。今まで女子なんか眼中になかったのに。

 明日、学校へ行ったらどうしよう。あんな態度を取ったから、話しかけてくることはないよな。そう願う。女子なんてどうでもいい。

 そう思ってるのに、素通りしていく家族のしゃべり声を聞きながら俺は首をかしげた。本音かどうか疑っている自分に気付いたんだ。振り払うように「ごちそうさま」といって、椅子から立ち上がる。

「ゲーム、しようぜ」と、春斗に声をかけた。

              ★

 思い出していると、いたたまれない気持ちになってうなり声を上げたくなる。夏帆に会ってあやまるなんて、限りなく不可能に思えてしまう。

 リンは駅に着き、ホームで立っている。電車が入ってきて、前髪が額の上を跳ね上がったのか、手で何度も直していた。


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