「児(ちご)のそら寝」宇治拾遺物語…僧たちが少年の狸寝入りに気づいたのはいつか?①
◇「本文」(口語訳)、解説
「今は昔、比叡の山に児ありけり。僧たち、宵のつれづれに、「いざ、かいもちひせん。」と言ひけるを、この児、心よせに聞きけり。さりとて、し出ださんを待ちて寝ざらんも、わろかりなんと思ひて、片方に寄りて、寝たるよしにて、出で来るを待ちけるに、すでにし出だしたるさまにて、ひしめきあひたり。」
(昔々、比叡山の延暦寺に仕える少年がいた。僧たちが、夜暇で、「さあ、ぼたもちを作ろう。」と相談したのを、この少年は期待して聞いた。しかし、出来上がるのを待って寝ないようなのも、よくないだろうと思って、部屋の片隅に寄りかかって、寝ているふりをして、出来上がるのを待ったところ、もう作り上げた様子で、僧たちが集まり騒いでいる。)
「宇治拾遺物語」は鎌倉時代前期の成立。この頃大規模寺院には、雑用係兼行儀作法見習いのために預けられた少年たちがいた。年齢は12歳から18歳くらいであり、この場面は、小さな子が、ぼたもちが食べたくてかわいらしくも寝たふりをしていたということではないことに注意。食べ盛りの中高生男子が、ぼたもちが食べたくて寝たふりをしているからこそ、子どもっぽく幼くて滑稽なのだ。
いくら暇だからといって、夜にぼたもちを作ろうと相談し、実際に作り始める僧たちもいかがなものかと思うし、少年もなぜ調理の手伝いをしないのだろうとも思う。
実際にぼたもちを作り上げるには、餅米の洗米から始まり、それを一定時間浸してから蒸す一方で、手間をかけて小豆を煮る必要がある、時間がかかる作業だ。「すでにし出だしたるさまにて」とあり、あっという間に完成させたように書かれているが、いくら手慣れているからといって、短時間で出来るものではない。従って僧たちはぼたもちを作る計画を事前に立てており、下準備をしておいたことが分かる。
だから、「さあ、ぼたもちを作ろう」という言葉は、他の僧たちにかけたぼたもち調理の開始の合図であるとともに、それをわざと言うことにより、「児」に期待させる意図があったとも考えられる。つまり、少年にカマをかけたのだ。
その言葉に素直に引っ掛かる少年の様子が面白い。「寝たるよしにて、出で来るを待ちけるに、すでにし出だしたるさまにて、ひしめきあひたり。」という状況説明が的確だ。
少年はそら寝をしている。当然その目は閉じられている。周囲の様子を、残された感覚である、聴覚、嗅覚をフルに発揮し推察するしかない。周りの雰囲気から、ぼたもち調理の様子をうかがうのだ。やがて食べ盛りの彼の鼻に、おいしそうな香りが漂ってくる。
しばらくすると、早くも出来上がったようで、僧たちがひしめき合っている様子が、音で伝わってくる。
少年はいま、ぼたもちが食べたいがために部屋の片隅でそら寝をしている。それが出来上がったらしい周囲の様子から、彼の口内には唾液が満ち始めているだろう。
この後少年は、無事、ぼたもちにありつけるのだろうか?
(つづく)