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 それからは昴生と顔を合わせられなかった。隣に住んでいると物音で在宅状況が分かるので、家を出る時間をずらせば案外会うことはない。大学構内で見かけても昴生は何か言いたげに視線を向けてくるだけで、話しかけてくることはなかった。

 俺は極力、昴生が遅刻していないかを気にかけないように努めた。同じ講義を取っている時はなるべく講義室内を視界に入れないようにするため、最前列の席に座って前だけを見ていた。これ以上失望したくなかった。

 そんな日々が二週間ほど続き、流石に伊藤と鈴木に心配された。

「拗れてるなぁ、大丈夫?」

「うーん……大丈夫、なのかな……」

「俺たちが過保護とかお節介とか言ったせいなんじゃ……」

「いや、二人のせいじゃないよ。俺とあいつの問題だから」

 最初は頭に来ていたけれど、日が経つにつれて徐々に冷静になってきた。

 昴生と出会って十八年、何度も喧嘩をした。でもここまで長引くのは初めてだ。

 思い返してみれば、いつも喧嘩の後は俺が折れて先に謝ることばかりだった。きっと今回もそうすれば今までのように仲直りできる。ただ、それでは悪い意味でも元通りになってしまう。今までと変わらずにいたい部分と、変わらなければならない部分、両方ある。

 昴生は大切な親友で、幼馴染だ。でもこれまでの関係が対等だったかというと、正直よく分からない。自分でも気づかないうちにバランスが崩れていたのかもしれなかった。

 友情は利害関係がなくても成立するものだと思う。それじゃあ、俺と昴生が一緒にいる理由って何なんだろう。

 考え込む俺を前に、二人は困ったように眉を下げて顔を見合わせた。

「やっぱり鷺森先輩と鴫野先輩が喧嘩してると調子狂いますね」

「そうだな……。それに最近の鷺森、ちょっとがんばってるよ。月曜の一限にちゃんと来てるし」

「……え?」

 月曜の一限は昴生が最も遅刻しやすい時間だ。俺とは講義が被っていない。伊藤が続けて言う。

「鴫野はここ最近ずっと前の方に座ってたから知らなかっただろうけど、他の講義も大体来てるよ。時々居眠りはしてるけど」

「それは……でも、偶然かもしれないし」

「そりゃそうだけど……。まあ、そのうち向こうから謝ってくるんじゃない?」

「俺は早く仲直りした方がいいと思います。鷺森先輩もきっかけを探してるんじゃないですか」

「……」

 二人の言葉には、簡単に頷けなかった。




 黒いランドセルを背負った小さな背中が、とぼとぼと通学路を歩いている。その足取りは重く、家に帰るまでに日が暮れてしまいそうだ。

「母さん、明日のあさまで帰ってこないんだ」

 ぽつりと呟かれた言葉。隣に目を向けるけれど、俯いた顔は長い前髪に隠れてよく見えない。

「そうなの……? さみしくない?」

「さみしくなんかねーよ。はじめてのことじゃない。それに弁当かってあるし、ふろも一人で入れる」

 前を向いたままそう告げる声は、どことなく震えているように聞こえた。俺は立ち止まり、彼の左手を握った。驚いたのか、その視線がやっとこっちを向く。

「じゃあ、おれんちに来なよ。おかーさんに聞いてみる! ダメって言われてもおねがいするから!」

「え……で、でも……おれは一人でへいきだ」

「一人じゃないよ、おれがいるじゃん!」

 笑いかけると、つるりとした頬が夕焼けに赤く染まった。

 二人の間を抜ける秋風と、キンモクセイの香り。町中に響き渡る夕焼け小焼けに重なるように、どこか遠くの方で電子音が聞こえる。

 ……ん? 電子音? 何の音だろう。ピピピ、ピピピ、と等間隔で鳴っているそれは徐々に大きくなっていく。なんだこれ、うるさいな。早く止めないと――。


 木曜日、朝七時。スマホが耳元でけたたましく鳴り響いていた。

 手を伸ばしてスヌーズをオフにして、ゆっくりと上半身を起こす。

 子どもの頃の夢を見たような気がする。起きた瞬間に忘れてしまったけれど、懐かしくて、あたたかくて、でもどこか切ない夢。

「……」

 思い出せない。諦めてベッドから降りた。

 今日の講義は午後からだけど、燃えるごみを出すために早起きした。燃えるごみの日は週二回しかないから逃したら大変なのだ。

 最低限外に出られる程度に着替え、アパートの敷地内にある集積所に向かう。

 昴生を起こしに行っていた時は、ついでにごみも出してやっていた。昴生は物を溜めてしまいがちなので、俺がたまに掃除を手伝っていたのだ。

 あれから何週間も昴生の部屋に行っていない。まさかごみ屋敷になっていないだろうかと不安になってくる。昴生は虫が嫌いだから、そこまでひどい状態にはしていないと信じたいけど……。

「……はあ」

 ついため息が漏れた。やっぱりどうしても気になってしまう。

 伊藤の話を聞いてから、それとなく昴生の様子を窺ってみた。話の通り、昴生は講義が始まるギリギリではあったけれど遅刻せずに出席していた。


 ……本当に変わったんだろうか、あの昴生が。あんなに遅刻ばかりしていたのに。

 そもそもあいつはどうして朝が弱かったんだっけ――。


 ごみを出して部屋に戻ろうと踵を返したら、ちょうどこちらに歩いてくる昴生と鉢合わせした。俺に気づいた昴生は一瞬気まずそうに目を逸らした。

「お……おはよう」

「……はよ」

 挨拶を交わすことすら久しぶりだ。返ってきたことに少し安堵しつつ、しかしそれ以上何を言えばいいのか分からなくて言葉が続かない。

 昴生は両手に大きなごみ袋を二つ持ち、俺の横を通りすぎた。随分ごみが多いなと思ったが、雑談をする雰囲気でもないので俺は一人で部屋に戻る。

 すると昴生の部屋の玄関前にはいくつもごみ袋が出されていた。

 ……さすがに多すぎないか? 年末でもないのに大掃除? あの面倒くさがりの昴生が……?

 よく見てみると、袋の中には普段使っているクッションや洋服がぎゅうぎゅうに詰められていた。

 昴生は部屋と集積所を往復しながら黙々と袋を運んでいく。

「ちょ……昴生、これ全部捨てるのか?」

 動揺して声をかけると、何の迷いもなく頷かれた。

「片付けたからな」

「片付けた、って……」

 まさかと思い、断りを入れてから玄関を開ける。

 俺の部屋より多少散らかっていたはずの室内は、すっかり片付いていた。

 というより、片付きすぎていた。クッションもラグもない剥き出しのフローリングに、辛うじてベッドとローテーブルはあり、床に教科書やバッグが直置きされていた。クローゼットの中には上下三着ずつの服しかない。

 そして部屋の四隅には盛り塩の如くひとつずつ目覚まし時計が置かれていた。

「……どういうこと?」

「すぐ散らかるから物を減らしたんだよ」

「極端すぎるだろ……」

 日頃からもっと片付けた方がいいとは思っていたけれど、ミニマリストを目指せとまでは言っていない。

「この時計は?」

「時間差でセットした。順番に止めてくうちに目が覚める」

「な、なるほど……」

 確かに四つもあればどうにかなりそうだ。きっと色々な方法を模索したんだろう。

 すっきりを通り越して殺風景になった部屋を見回すと、ふとキッチンに目が止まった。

「これ……」

 ほとんど物がなくなったステンレスの流し台の上に残っていたのは、俺が以前持ち込んだシナモンシュガーの小さな瓶だった。思わず手に取ってみる。最後に来た時から中身が減っていない。

「捨てなかったのか?」

「……」

 昴生は無言のまま、ばつが悪そうな表情を浮かべた。

 シナモンが苦手な昴生がこれを使うことはないはずだ。それなのに、捨てずに取っておいたのか。

 昴生の瞳をじっと見つめても問いかけへの答えはなく、ただ沈黙が流れる。

 他人からすれば些細なことだと思われるのだろう。でもずっと昴生と一緒にいた俺には、これが彼なりに考えて出した答えなのだと分かった。

「昴生、変わったんだな。ちゃんと講義に出るようになったし、部屋も綺麗になった」

 薄く開いた窓から吹き込む風が、登校中の小学生の笑い声と、キンモクセイの香りを部屋に運ぶ。

 記憶の隅に残るいつかの帰り道、俯きながら歩く黒いランドセル。


 ――ああ、そうか。そうだった。どうして忘れていたんだろう。


 もう十年以上前、昴生を泊めたあの夜に、並べた布団の中で俺だけが聞いた、朝が苦手な理由。

「朝起きた時に一人だと寂しかったんだよな。なのに、がんばったんだな」

 一人きりで眠り、迎える朝はどれだけ心細かったのだろう。ストレートな物言いをするくせに素直じゃなくて、捻くれ者で不器用な幼馴染の、心の奥に触れた瞬間だった。

 昴生は目を見開いて俺を見つめていた。鳶色の瞳に張った膜が揺らぎ、整った顔が何かを堪えるように歪む。

「……迷惑かけて……悪かったと、思ってる」

 かき消えそうな声は、けれどしっかり俺の耳に届いた。

「陽向が来ないと、シナモンが余って困るんだよ。だから、その……」

 目を逸らして言葉を探している様子に、思わず頬が緩む。こういうところは相変わらずだ。

 俺は手のひらの中にあった瓶に目を向け、それを握り込んだ。

「昴生、俺もごめん。あの時はカッとなっちゃったんだ。迷惑なんて思ったことないよ」

「……そう、か」

「多分、俺たちもっといい関係になれると思う。だからさ、また一緒に飯食おうよ」

 顔を見上げれば、昴生はうっすらと頬を赤くしながらそっぽを向いた。

「お、お前が食いたいって言うなら食ってやってもいい」

「ほんと、素直じゃないなぁ」

 思わず笑ってしまった。こんな憎まれ口こそ、まさに昴生って感じだ。

「昴生、朝メシは?」

「まだ」

「じゃあ早速これ使おう」

 シナモンシュガーを振ってみせ、冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中まで物がほとんどなく、いくつかの調味料とともに何故か卵が大量に入っていた。

「あれ、こんなに卵好きだったっけ」

 振り返ってみると、昴生はきまりが悪そうに背を向けた。

「……目玉焼きの練習中だ」

 どうやら料理はまだ苦手なままらしい。まあ、伸び代があるということにしておこう。

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