幸運のマフラー
「ういっ」
「うわっ! ちょっとやめてくださいよぉー」
「はははははは!」
大声で笑う上司を前に、彼は苦い表情を浮かべたが、すぐに顔を綻ばせて一緒に笑った。危ない、危ない……。ここは薄暗く、上司は鈍感で無神経とはいえ、嫌な顔をしていることに気づかれると、さらに面倒な絡まれ方をされてしまう。彼はそう思った。
ここはとあるバー。彼は仕事終わりに上司に飲みに誘われ、二軒目にここに連れて来られた。彼は上司に聞こえないように小さくため息をつき、首筋を擦った。先ほど、そこにグラスを当てられたのだ。まだヒヤッとした感覚が残っている。
上司は機嫌良さそうに酒を飲み、喉を鳴らした。こんな風にいつまで経っても子供のような悪戯が好きな人間にはなりたくないものだ、と彼はそれを横目で見る。
「お、そろそろ来るってよ」
スマートフォンをチェックした上司が、彼に言った。
「え、誰がですか?」
「ああ、話してなかったな。昔からの知り合いでな、ふふっ、ふふふふっ」
「え、あはは、なんですか。そんなに面白い人なんですか?」
さして興味もないし、むしろ早く家に帰りたいが、彼はそう訊ねるしかなかった。
「ああ、ふふふっ、いやぁ、そいつはな、いくつか事業を成功させている奴でな」
「え、すごい人なんですか?」
お前なんかにそんな知り合いがいるんだな、と彼は思ったが、当然、顔には出さない。
「ああ、結構儲かってるみたいだぞ。それでな、そいつは自分の成功は幸運のマフラーのおかげだって言っているんだよ」
「幸運のマフラー?」
「そそ。まあ、そういう幸運のなんとかってのはよくある話っちゃあ、ある話だろう。本物かどうかは別にしてな」
「ああ、はい、まあ、幸運のお守りってことですよね。迷信だと思いますけど……でも、その人はうまく行ってるんですよね。本物なんですか?」
「まあ、そこはどうでもよくて、そいつ自身は完全に幸運のマフラーとやらが本物だと信じているんだよ。で、文字通り常に肌身離さずにいるわけ。風呂に入っている時も眠っている時もな」
「え、じゃあ、今もってことですか? でも今は夏ですよ」
「そーなんだよ。もう見苦しくて見苦しくて、イライラするんだよなぁ。しかも、もう何年も身につけたままだから、元は薄いピンクのマフラーが、もう汚れに汚れて、糸もほつれて、うええええ」
上司は嘔吐する真似をした。彼は『お前も不快だけどな』と思った。そしてそのマフラーを想像して、気分が悪くなった。
「で、その人が今からここに来るんですか? ご友人なんですよね? 僕、邪魔じゃないですか?」
「いや、お前さ、そいつのマフラーをちょっと取ってくれよ」
「え? いや、なんで僕が」
「そりゃお前、俺が正面から取ろうとしても、絶対失敗するだろ。そいつが店に入って来たら、お前は席から離れて、そいつの後ろに回り込んで、こう一気にさ」
「えええ、それやったら絶対怒られますよ。夏でも巻くくらい大事にしているんですよね? 正直ちょっとアレな人じゃ……」
「まあな。だからこそ面白いじゃないか」
「その感覚はちょっとわかりませんけど……」
「まあ、取ったまま走って逃げろとは言わんよ。すぐ返してやればいい。俺が手相かなんか見てやるとか言って、そいつの両手を押さえるから、その時にやってくれよ」
「でもなぁ……」
「あ、来たぞ! ほら、隠れろ!」
「えぇ! もーう」
上司の命令ゆえに逆らえず、彼は慌ただしく席を離れたが、どこか乗り気になっていた。
「おーっす、お待たせー」
「おお、よく来たな。久しぶり。相変わらず巻いてるなぁ」
「ははは、当然だろ。なんたって」
「幸運のマフラーな。もう耳にタコができるくらい聞いたよ」
「ははははは! そうだっけな! ははは!」
「たくっ、ほら、酒を頼んでおいたぞ。乾杯しよう」
「おう、乾杯! いやーでもそうか、そんなに言ってたかぁ。結構な長い付き合いだもんなぁ、おれら」
「あん? まあな」
「いやぁ、つくづく思うよ。成功してから寄ってくる連中よりも、その前からの友人を大事にするべきだなぁと」
「へっ、自慢にしか聞こえんね」
「はははは! 照れてるなって! はははは!」
「ふふん、まあ、そんな汚らしいマフラーを身につけているやつに近寄ってくる連中は、変わり者ばかりだろうからな。気をつけた方がいいぞ」
「いやぁ、はははは! 汚くないって! ははは!」
「いや、汚いのは認めろよ……まったく、いい加減、新しいものを買えばいいのに、ああ、できないんだよな。なんせ幸運の、だもんなぁ。ふふふ」
「ああ、そうなんだけどな……」
「ん? どうした? 急に暗い顔だな」
「いや、そうだな、うーん。ちょっと聞いてくれるか?」
「なんだよ、急に」
「いや、実はさ、おれも結構不安でさ……」
「はあ、成功者ゆえの悩みってやつか。『今の生活を失ったらと思うと……』ってやつだろ? 羨ましいことで」
「いや、そうじゃなくて……その、マフラーなんだけどさ」
「なんだよ、早く言えよ」
「ああ……ずっと前、道を歩いていた時のことなんだが……」
「おお」
「通りがかったビルの上の方で、窓ガラスの交換の作業をしてたみたいなんだ。で、手を滑らせたか何かは知らないけど、作業員がガラスを落としたみたいで」
「え、おいおい、いい加減な仕事だな」
「それで、『危ない!』って声がして、おれが上を向いたらそれが、ちょうど……その……首目掛けて落ちてきて」
「え、首って、お前の……?」
「うん。で、おれは、はははっ、マフラーが危ないって思って、ギュッと締めたんだよ。まあなんとか無事だったんだけど、でも、と、時々、ふ、不安になるんだよ、こ、このマフラーを外したら、お、おれ、おれさぁ……」
「お、おい、落ち着けよ」
「おれ、怖くて……だから外せなくて……」
「あ、おい、手を握るな、あっ――」
――ゴトッ