8、戦場への決意(中編)
狭い研究室に人の姿はなく、几帳面に本の並んだ机の上に一枚の紙切れが置かれていた。そこには達筆で、『用事の者は午後三時から五時までの間に再度訪ねること』と書きつけられていた。
「イシェル先生にご用事ですか?」
開け放たれたままの研究室の入口から覗き込んできたのは、見覚えのある黒目黒髪の東方出身の女教授だ。
「ええ、質問があって来たんですが……」
「今日は夜に出かけるので、今のうちに昼寝しておくとおっしゃってましたから、おそらくは塔の自室に戻ったのではないでしょうか。つい先ほどのことですから、すぐに追いかければ間に合うと思いますよ」
「そうなんだ……あ、ありがとうございます」
礼を言って部屋を出る。出入口から避けたホシガミ教授を前に、ジェストはつい足を止めて目を向けてしまう。
どこかの戦場で軍師をしていたらしいという教授は、もしかしたら解放軍の一員なのだろうか。帝国に勝つために誘われてきた、と考えても筋が通る。
「わたくしの顔にでも見惚れましたか?」
ややからかうような口調。覗き込む黒目もどこか楽しげだ。
得体のしれない部分がある相手に声をかけられ、ジェストは内心焦りを覚えるが、どう答えるべきかはすぐに思いつく。
「その……その服が前から気になってて。模様、凄く綺麗ですね」
スラスラと答えられたのは、それが嘘ではないからだ。ホシガミ教授は何種類か模様の違うその形の服を持っており、今日まとっているのはくすんだ空色に桃色の花と白い鳥が描かれたもの。それもまた絵画のように芸術的だ。
「あらまあ、キモノの良さがわかるなんてなかなか見所がありますね。イシェル先生が見込んだ学生さんだけありますね」
「え? イシェル……先生は、なんて?」
「ふふ……それは、ご本人におききしてはどうでしょう。さあ、早く行かないと眠ってしまうかもしれませんよ」
扇で口もとを隠しながら意地悪く笑う彼女にはぐらかされた気分になるものの、急がないといけないのは確かだ。ジェストは再び礼を言って立ち去った。
イシェルの部屋のある〈白樹の塔〉には何度も訪れている。魔装殻を増強する際には、やはり人目を遮断できる実験室を使うのが安全だ。それがキプリスの口癖にもなっていたし、ジェストも同意していた。
イシェルが自室として使っている部屋は実験室より上階にある。今まで訪れたことはなく、扉に住人が表記されたプレートが打ち付けられているわけでもない。ジェストはどうするか少し迷ってから、結局、トントンとドアを軽く叩いた。
「……開いてるぞ」
石造りの扉の厚さのためか少しこもっているが、聞き慣れた声に間違いない。
「邪魔するよ」
重めの扉を両手で引き開ける。
そして、視界に広がった光景に動きを止めた。
並ぶ本棚に棚、木箱と机に椅子、魔法の道具も混じっているであろう小物類。カップとクッキーののった木製の小皿が窓の縁に置かれている。
そして、正面にはベッド。毛布も掛けず、毛布の上に黒衣の姿が横たわっている――そこまではまったく違和感はない。
否、外見上は少しも違和感のない光景ではあった。ベッドの周りに転がる大小さまざまのぬいぐるみと、美少女らしき姿に抱きしめられた大きな猫のぬいぐるみも含めて。
「失礼しました」
「どういう意味だ、おい」
見てはいけないものを見てしまった気分で扉を閉めようとする少年に、いつもの口調のことばが飛ぶ。
再度眺めても、室内の光景はほぼ変わらない。
「……違和感がないのに、違和感が凄い」
「見た目に捕らわれていては、大事なものを見逃すことになるぞ?」
イシェルは身を起こすと、抱き枕代わりらしい大きな猫のぬいぐるみを膝の上に抱えて撫でる。
「この感触が好きなんだ……しかし、キミはわたしがオドロオドロしい怪物の剥製の毛皮でも抱えていた方が似合っていると言うんだろ」
「それはそれで合わないような」
「じゃあどうしろというんだ……それで、なにをしに来たんだ」
口を尖らせながら用件を促すそのことばで、ジェストはやっと本題を思い出してベッドの脇に歩み寄る。イシェルの周り、転がる様々なぬいぐるみについては存在を無視することにする。
机のそばの椅子を引き寄せて座り、つい先ほどの自室での出来事を話す。キプリスが魔法の武具に興味を抱いたこと。それを阻止しようとして、つい解放軍に入ることになってしまったこと。
「つまりなにが言いたいかというと……まず、そういうことだから、解放軍に入る。以後よろしくな」
聞きながらイシェルは小さく笑っていた。
「そこまで言い切るなら迷いはないんだろ。かつての同僚と戦う可能性があるのもわかっているだろうな」
「ああ。べつに、解放軍は見つけた帝国兵は皆殺しにするのが義務だ、とかいうわけじゃないんだろう?」
「流す血は少ない方がいい。可能なら、相手には降伏を勧めるよ」
降伏を勧め、それでも戦うことになるのならそれは仕方がない。そう割り切ることにしていた。実際に級友を目の前にすれば別の感情も湧いてくるかもしれないが、なにも一人で戦うわけでもない。
「魔剣って、簡単に触れられるところに保管されているわけじゃないよな」
またキプリスが魔剣に関心を持ち近づこうとする可能性もなくはなかった。
「地下の宝物庫の奥に厳重に封じられている。辿り着くにはいくつも結界や謎かけを解く必要がある。記憶を失う前ならともかく、今の彼女には難しいだろう」
説明してから、思いついたように少年の目を見る。
「なんなら、一度見ておくか? 必要になる可能性もあるからな。使うんじゃなくて止めるにしても。できるだけ人目につかないようにしたいから、夜中に戻った後になるな」
「夜中に……って、どこに行くんだ?」
『今日は夜に出かける』というホシガミ教授のことばを思い出す。
「シェゼレンだよ。もっと早く行きたかったけど、こっちの仕事が忙しくてね。外にいる仲間たちの顔も久々に見ておきたいところだ」
解放軍の現在の拠点は学院だが、学生として入学できない年代の隊員も多い。そうでなくても大部分は外で活動していた。帝国を取り巻く国々を含めると、その規模は複数の国の軍隊の数に相当する。
彼らがこうして学院で過ごす間も、解放軍の仲間たちはどこかではなにかの形で帝国と戦っているはずだ。
「それって、一人で行くのか?」
「大勢で行けば目立つ。移動手段も限られているしな。今すぐ行けるのはせいぜい四人くらいだけど、何人も連れて誰かに見られたら何事かと思われるだろう」
「でも、もう一人くらい行っても大丈夫だよな?」
自分だけ安全な場所に暮らしているまま、解放軍の一員になったと言えるのか。それに戦いの現場を見てみたいというのもあった。現場そのものは帝国軍時代にも何度か見ているが、今回とは立場が違う。
それに、解放軍として戦場を見ることで自分の中での決意をさらに深くしようという意図もあった。
「そうだな……キミの顔を仲間に知ってもらうことも必要か。外出許可申請を出しておこう。外で家族と面会する、という表向きの理由にしておくから、なにかあったら話を合わせろよ」
イシェルが懐から紙を取り出して羽根ペンでなにかを書きつけ折りたたむと、それを宙へと放り投げる。すると白い紙は白い小鳥へと変化し、細く開いた窓の隙間から外へと飛び出していった。
「それで、他に用事は? 夜中に動くんだから、キミも寝ておいた方がいいぞ。出発は六時玄関前だ」
「わかった。でも、キプリスには……」
「そのまま伝えればいい。わたしが一緒ならべつについて来ようとも思わないだろう。彼女は今、自分の研究に夢中だろうしな」
抱き枕代わりのぬいぐるみを抱えなおして再びベッドに横たわる姿を一瞥し、ジェストは立ち上がる。イシェルと初めて会う者が見れば可愛らしいだけの光景だろうが、じっと見ているのはどこか気恥ずかしい。
「じゃあ、夜に」
少年は逃げるように部屋を出る。
自室に戻り事情を話したところキプリスは、『外出中に魔装殻を使ったら状態をよく覚えておいて教えてくれ』と、イシェルの言っていた通り研究に夢中らしかった。
早めの夕食を終え、ジェストは学院に来たときに乗っていた小型の幌付き馬車に乗り込む。ここへ来たときに車を牽いていたのは馬だが、今回はイシェルが魔法で召喚した一角の黒馬に似た獣が牽く。魔獣の一種であり脚力も馬の比ではないという。
その説明通り、魔獣は学院の玄関前を出発するとマグナレースの街中と山道を猛然と駆け抜けた。
一方、早い分揺れが激しいという弱点がある。道中崖の上の細い道を走る部分もあり、投げ出されれば崖下に真っ逆さまとなりかねない。ジェストは馬車の支柱をつい強く握りしめてしまい指が痛くなった。しかし途中、あることを思いつく。
魔装殻の腕輪を変化させて支柱と手首をくくり、馬車ごと落ちさえしなければ平気なほど固定される。改めて便利な術だ、と少年は内心感心していた。
「もうかなり使い慣れてるな。キプリスも安心しそうだ」
激しく揺れる御者台でも、イシェルは舌を噛むことはないらしい。
「そんなものを渡すと思ってなかったけどな」
彼のことばで、ジェストはそばに置いたままの包みの存在を思い出す。
部屋の同居人は彼が出ていくのを、『せいぜい気をつけてね』とあっさりと言った直後に、『ああ、これを持っていくといい』と机の上に置いてあった包みを手渡した。なにかを包んだ、両手で抱えられる程度の大きさの包みだ。
「そんなもの? きっと実験の記録用のなにかじゃないかと思ったんだけど……」
まさか、手作り弁当などが入っているわけでもあるまい――と、包みをほどいてみる。すると、想像とは異なった光景が広がった。
『これは身を守るときに』、『これは身を隠すときに』などと色々な注意書きがついた、手のひらに収まる大きさの木の札状の魔法の護符が五枚、なにかあったときのための保存食が少々、傷薬や包帯、そして『なにがあってもイシェルのそばを離れないように。それが安全だからね』という短い手紙。
手紙はあっさりしているが、この包みの中身ができる限りの脅威に対抗しようというものであることは理解できた。
「随分と大事にされてるじゃないか。その護符、たぶん話を聞いてから急いで作ったんだと思うよ」
そのことばに、不思議な感情が少年の中に残る。
――こんな風に思うのは生意気かもしれないけれど、なんだか『いじらしい』、っていう感情なのかな。
「大事に使うよ」
ほほが綻ぶのを隠し切れないまま、彼は包みを鞄に大切にしまい込んだ。
二時間もすると山々の間も抜け道は平地に入っていた。
「あれがシェゼレン?」
間もなく、草原を走る馬車の行く手にいくつかの光点が見えてくる。小型望遠鏡を向けて覗くと、いびつな黒い輪郭の間に点々と明かりが瞬いている。周囲はすっかり夜の闇に染まり、細い三日月と星々の光が頼りなく道を照らしていた。
「そうだろうな。最後に見たときはマグナレースほどじゃないが、前は明るい街並みが見えていたんだけどな……」
御者台で手綱を握るイシェルが溜め息を洩らした。
図書館で借りた周辺の風土記に、シェゼレンの町についても書かれていたのをジェストは思い出す。
シェゼレンは交通の拠点として栄えてきた町で、農耕も主産業のひとつだという。町がある程度発展すると、農業に関わりながらのんびり暮らしたい年配の富豪やそれに雇われた小作人たちも増えていった、と記述があった。
しかし現在は近づくと、建物らしい建物の輪郭がほとんどないことに気がつく。大部分が崩れ去り燃え尽きてしまったらしい。
道の両脇に瓦礫が積み上げられ、建物に見えなくもない輪郭を構成していた。しかし、実際に建物の体を成しているのはほんのいくつかの丈夫な公共施設くらいのようだ――そうとわかるまで近づくと、すえた臭いが漂ってくる。血と焦げた肉のような臭いがまだ完全には流されていないらしい。
「徹底的に焼かれたらしいな」
手綱を緩め、イシェルは馬車を街のそばにある半ば折れて黒くすすけた木へと誘導する。
魔獣が足を止め二人の乗員は馬車を下りるが、縄を木の枝に縛ろうと手を伸ばしかけイシェルは動きを止めた。
声をかけようとして口を閉じ、ジェストは白金の目が向く視線の先を追う。
木の向こうの暗がりでなにかが動く気配と、パキパキと草を踏みしめるような小さな音。さらにそれに、荒い息遣いが加わる。それもひとつではない。
「血の匂いにつられたか」
縄を簡単に結ぶと、イシェルの右手に黒い剣が現われる。
狼に似た獣が五匹、獲物を見つけたように目を金色に輝かせている。魔獣は澄ました顔でたたずんでいるが、見慣れない動物も獣たちには脅威とならないらしい。
自分の身くらい自分で守りたいが、武器がどこにもない――と思いかけて、ジェストは魔装殻の存在を思い出す。まだ、焦ったときには忘れてしまう存在のようだ。
何度も使っていればいずれは常にともにあり活用するのが当たり前に思えてくるはず。そう信じながら、腕輪を細長い短剣に変化させる。
獣たちは目の前の、あまり食いでのなさそうな二足歩行動物たちに襲い掛かった。それは獲物というより、狩りの邪魔者とみなしてかもしれない。
血を流すとさらに獣が集まる可能性もある。イシェルは相手を傷つけず、剣で牙を押し返し牽制した。彼が火球を宙に出現させて追い立てるように飛ばすと、獣たちは離れていく。ジェストもそれにならい、短剣の先に〈ランパス〉で火を灯して追い払った。
まだ暗がりに潜んでいるのかもしれないが、充分離れたとみるとイシェルは馬車を防御結界で包む。魔獣は異世界の住人であり野獣のエサになどならないだろうが、やはり襲った側の野獣の血が流れて獣が集まってくる可能性はある。
野獣を警戒し武器を手にしたまま、二人の訪問者は廃墟の街の中へ向かう。瓦礫の山、臭い、黒く塗り潰されたような光景のすべてが入ろうとする者を拒絶しているようにすら思えるが、イシェルが意に介さないのでジェストは続くしかなかった。
しかし間もなく、
「向こうも気がついたようだ」
闇に溶け込むような黒衣に目立つ白金の目の先に、近づいてくる火の光らしい点を見つけると安堵する。ここにも他に人間たちがいるのだ。そう思うと目の前の光景も違って見えた。
町のかなり中心部だったらしき辺りまで至ったところで、二人の人間と出会う。カンテラを手にした若い男たちだ。
「イシェルさま、よくぞここへ……そちらは?」
「ジェスト。学院の転入生だ。確か、伝わっているはずだけどね」
「ああ、帝国の少年兵だったとかいう……」
二人の若者は驚いたような、困惑を含む目で少年を見た。決して諸手をあげて歓迎しようという雰囲気ではない。
「ジェスト、こっちはシーク、そっちの髭のがバレン。ここじゃまた獣が来そうだし、どこかに落ち着いて話そう」
「それではこちらへ」
チラチラと少年を警戒しながらも、彼らは二人を中心部へと案内する。
シェゼレンは町の中央部が小高い岡になっており、そこに大聖堂と行政機関がいくつか並んでいたようだ。ほとんどの建物が崩れているが、壁に亀裂を走らせ黒くすすけながらも、大聖堂はかなり形を保っている。
解放軍は大聖堂をとりあえずの拠点にしているという。そこだけが、窓からいくらか明かりを洩らしている。近づくとジェストはギクリとした。庭に、木の棒を十字に組んだだけの墓がずらりと並んでいた。建物の裏の奥まで隙間ないほどに。
イシェルは悼むような目でそれを一瞥し、案内役二人に続いて大聖堂に入る。少年も遅れずそれを追う。
入ってすぐに、天井の高い広間がある。しかし使われているのは一部だけのようで、照らされた一部分の床の上の毛布に横たえられた姿が五人。その看病をしている者や、地図を広げてなにかを話し合う者たちが十人ほど。
歩ける者は皆、神語族の姿を見ると表情を明るくして近づき、その同行者を紹介されると微妙な顔をする。少年は居心地の悪さを感じる。
「生き残りはほぼいない、と聞いていたけれども」
「たまたま違う町に出かけていた者や橋の下に隠れていて助かった者が八人、負傷した状態の者が現在五人。もう二人怪我人がいたが回復して無事だった八人と一緒に近くの町に移動した」
現在も治療中の負傷者五人は、主に火傷を負っているようだった。片足を包帯で覆った者、手や頭を負傷した者などの大人たちの中、まだ幼い少女が顔の半分を包帯で覆って虚ろな目を天井に向けているのを見ると、ジェストは胸が詰まるような感覚を抱く。
「全員全快とはいかないだろうが……わたしが治療しよう」
治療魔法を扱うのは白魔法を使う白魔術師だが、イシェルは神語族独自の魔法も使う。それは呪文や精神集中のようなそれなりの手順が必要な一般的な魔法とは違い、まるで話をするように自然な流れで発動する魔法だった。神語魔法という名がついていることは、ジェストも本で見かけていた。
魔法の力は偉大だ。改めて少年はそう思わせられる。片足を火傷して痛そうに呻いていた男はすっかり治って即座に立ち上がって歩けるようにすらなり、顔を火傷していた女は鏡ですっかり皮膚の綺麗になった顔を鏡に映し表情を明るくした。
内臓を傷めた者は完治まで行かないが、それでも全員が肉体的には歩けるくらいには回復していた。ただ一人、少女だけは包帯が取れても立ち上がろうとせず、呼びかけにも応じないまま天井を見つめ続けている。
原因はジェストにも想像できた。身体が治っても、魔法では心までは治せない。怪我は治っても、目の前で失った家族や友人知人、故郷は戻らない。
「あとは、他の町でゆっくり治すしかないな。時間はかかるだろうけど……」
イシェルも、何度も同じような者たちを見てきたのだろう。疲れた様子で溜め息まじりに言い、シークたちを振り返る。
「襲撃後は帝国軍は近づいてこないんだね」
「反撃を恐れているのか、今は全然接近はしないな。……あと二日で、ここにも傭兵が追加されるところだったんだ。ただ一日、ここだけが手薄になったところを突かれた。情報があちらに洩れているのかもしれない。皆、密偵がいるんじゃないかと噂している」
周りの目が元少年兵に向く。その圧力にジェストは少したじろいだ。
「ジェストを疑っているのか? そりゃあり得ない話だ」
イシェルは頭ごなしに否定した。
「時期がおかしいし、なにかあればわたしやキプリスが気がつく。それに、信用を得るためにティティアを逃がすのがわざとだとしても、その後わたしが助け出すのも学院に行くのも予想できることじゃないだろう。できたとして、シェゼレンの防衛状況を知る機会もない」
論理的に、ジェストがシェゼレンの防衛情報を得て帝国に伝えるというのは土台無理のある話だった。しかし当人はそう思っていても、周りからどう見えるのかはわからないものだ。
しかし幸い、解放軍の者たちはイシェルの話に納得したらしい。ジェストを疑うということはイシェルやキプリスを疑うようなものだからだ。
「しかしそうなると……ほかに潜入者がいることになりそうだが。たまたま、という賭けに出るとは思えない。解放軍ではなく、シェゼレンの警備隊の近くにでもいたのかもしれない」
「住人の記録も燃えてしまったし、追跡するのは困難だろうな。周辺の町へ移動した可能性が高いだろう。それぞれの町で警戒するくらいの対処しか取れないね」
と、解放軍の隊長代理は肩をすくめる。山に囲まれておりかなり外界から孤立しているマグナレースですら、学術知識を求める者や貿易商、観光客などが一日の間にも出入りしている。誰が帝国の手の者かを見つけ出すのは至難の業だろう。
「すでに警戒はしているが、改めて警告の伝令を出しておこう」
シークがうなずき、さらに彼らはしばらくいくつか防衛体制について打ち合わせを行う。それをとなりで口を挟むことなく聞く一方、ジェストは横目である一点を気にしていた。
ぼんやりと、表情を変えることなく天井を見つめる少女。それに比べればまだ、帝国の牢に捕らわれていたティティアの方が人間らしい感情の動きがあった。
――また、笑ったり泣いたりできるようになるんだろうか。
なにも縁のない少女だが、その魂が抜けた人形のような姿を見ると、その日が来ることを祈らずにいられなかった。
ふと思いついて、彼は自分のカバンの中を探り、ティティアにもらった護符の中から身を守るためのものを取り出した。いつまで効力が続くか、どういう効果があるのかもよくわからない。
それでもなにかしたくなって、それを少女に握らせる。多少でも〈お守り〉になってくれるといい、と。
相変わらず少女は虚ろな目をして天井をぼんやり眺めるだけだが、その手は確かにすがるように護符を握りしめた。そこに小さな希望を見出した気になったのは希望的観測かもしれないが、ジェストは希望を信じたかった。