6、〈魔剣ゲヘナ〉の代償(後編)
学院祭というのはすべては見切れないほどあちこちで同時に色々なことが起きる。学生だけでなく教授による研究発表もあり、学外からのなにかの専門分野の権威らしい姿もちらほらと見えて、非日常感を作り出していた。
最大の非日常はやはり、それも含め学外からの客の存在だ。早々に自分の番を終えてメイドカフェになっている教室を出たジェストとキプリスは、廊下を行き交う多くの人々を目の当たりにする。制服姿より、私服や魔術師らしいローブ姿、警備兵や役人らしい者たちなどの方が多い。
「親元を離れた学生さんには、家族に会えるから、という意味で今日を楽しみにしている子も多いらしいね」
少女の言う通り、廊下の端やホールの炭などでは学生と家族らしい姿の出会いがいくつも繰り広げられている。
それを眺める彼女の目が、ジェストは引っかかった。
「そういや……キミの家族っていうのは判明してるのか?」
きいてはいけない領域の質問かもしれないと思いながらのことばだが、相手はためらいなく答える。
「両親は帝国の襲撃に巻き込まれて死んだらしい。他にも生き残っている家族はいたらしいけど、わたしは思い出せないし、解放軍の他のみんなも知らないみたい」
そもそもなぜ、彼女は解放軍に参加したのか。その理由の一端は両親の死にあるのかもしれない、と想起される。
「それは……向こうから連絡が来たりはしないのか?」
「こちらの居場所は長期間滞在するときにそこの場所を知らせる、っていうくらいだったみたい。何枚か手紙が残っているけど、弟か妹じゃないかな。こちらは拠点を何度も変えて移動していたから、向こうは連絡の取りようがなくて心配しているかもね。解放軍にいるのは知っているだろうから死んだと思っているかも」
家族に関する記憶も無いせいか、あっさりした口ぶりだ。
しかし、突然相手が音信不通になった家族はどう思うだろうか。
――いくら、また魔剣を使う可能性があると言っても。
それでもやはり、彼女の記憶は取り戻すのがあるべき姿に感じてしまう。現状はそれを実現する方法がないだけで、解放軍の者たちもこのままにしておくつもりはないのかもしれないが。
「なにか見たいものとかあるかい?」
考えているうちにホールの壁の掲示板前に辿り着いていたらしく、ジェストは我に返る。ホールなど要所の壁に貼り付けられた掲示板には、学内で行われる出し物や展示の行程表や案内が掲示されていた。
食事の提供が休止されている食堂で行われるのは、『飛行魔法の可能性について』、『ゴーレム進化論』、『古代文明遺産から見る千年前の衣食住』といった講演。
ホールではいくつか演劇や歌唱の公演があり、中庭に仮設された舞台上では舞踏や剣術の試合が行われ、その少し離れたところでは珍しい魔法の実演が見学できるという。一方、魔法実験室は『最新魔法衣料披露会』に占拠され、道場は魔法の武具や名剣、図書館は普段は閉架書庫に仕舞われている古い魔導書を展示していた。
「魔法の実演、ってのが気になるな。魔導書も気になるけど、それは後で好きなときにも見られそうだし」
「魔法の実演は、次は一時からね。その前に昼食に行こう。ほら、忘れてないよね?」
「ティティアのパンケーキ、だろう?」
昨日も昼食時に一年生の少女が現われ、『ぜひ、明日の昼食はあたしの教室のパンケーキ屋に寄ってくださいね!』と売り込みに来ていた。
「さすがに忘れてないよ。豚の腸詰とチーズ入りのパンケーキってのが気になる」
「もうそれ、パンケーキというよりパンだよね」
踵を返して離れようとしたとき、となりの一団が目に入る。
「ついにシェゼレンまで来たか」
「共和国に侵攻されるまでも時間がないかもしれないな。すでに密偵が入り込んでいるという噂も聞くし」
「命には代えられん。平和条約を結ぶべきでは」
「そんなことをすれば帝国は際限なく要求してきます。周辺国と手を結びもっと戦力を強化すべきです」
話しているのは学生ではなく、貴族風の大人の男たちだ。彼らは持論を戦わせながら掲示板の前を離れ、別の通路へ去っていく。
その会話がなにについてなのかはジェストも知っていた。
週に一度、ここの掲示板に最近の出来事や新しい技術の紹介などが掲載された新聞が貼り出される。今朝も新しい新聞が貼られ、彼もそれを朝のうちに見ていた。
『シェゼレンの町、無残に焼き払われる』
今朝見た新聞には、そんな見出しが大きく躍っていた。シェゼレンの町は隣国の、最もマグナレースに近い町であり、人と物の交流もそれなりにあったという。そのシェゼレンが十日ほど前に襲撃され焼き払われた、帝国としてはシェゼレンの商人たちが対立国に武器を手配していたのが気に入らなかったようだ、と書かれていた。
「ああいうことがあると……解放軍が忙しくなったりするのか?」
廊下を歩きながら、ジェストは周囲を気にして声をひそめる。
「学外にも仲間はいるし、わたしたちはそんなにだね。イシェルは様子見くらい行くかもしれないけど学院祭のすぐ後に四年生の研修旅行があって、今年はイシェルとホシガミ先生が引率だったはずで忙しいんじゃないかな」
旅行、というものを耳にして少年は驚く。学習のための旅行はまだ一般的ではなく、普通の旅行も金持ちの道楽として存在するようなものだ。
それより違和感はイシェルが引率、というところだが。四年生男子には、イシェルより年上に見える者が多数いるだろう。見慣れた学内の者はともかく、部外者たちにはどう見られるだろうか。
そんな大きなお世話とも言えることを考えているうちに階段を上り、目的の教室へと辿り着く。
「いらっしゃいませー!」
「あ、キプリス姉さん、ジェストさん、来てくれたんですね!」
ドアは開け放たれており、制服の上からエプロンを着た少女たちが二人を迎えた。案内されるがままに室内に入ると、出入口側に長テーブルを持ち込んだカウンターがあり机と椅子を四つずつ合わせて配置した席がいくつか並ぶ。机にはテーブルクロスがかけられた上に花瓶に花が飾られているなど、店らしく見えるように工夫されていた。
先客に若い女性の二人連れがいて、それぞれ違う果物ののったパンケーキを食べている。飲み物は水かハーブティーがつくらしい。
「メニューはこちらになっています!」
と、ティティアが渡したメニュー表に書かれたものは四種類。イチゴとクリームのパンケーキ、バナナとチョコレートのパンケーキ、それに豚の腸詰とチーズ入りパンケーキ、野菜とキノコたっぷりパンケーキ。
ジェストは未だ無一文である。心苦しく思いながらもキプリスに払ってもらう。
彼は気になっていた豚の腸詰とチーズ入り、キプリスは苺とクリームのパンケーキを頼む。彼女はどうやら、甘いものが好きなようだった。
「何か……学生でも稼げるものってないのかな」
「休みの日に街でちょっとした仕事をするとか? そういう学生もいるよ」
週に一度、すべての授業が休みとなる曜日がある。その曜日、太陽神の祝日や授業のない日に街で定期的に働く者もいた。学院への届け出は必要だが。
「でも、学院内で普通に暮らしているならあまりお金は使わないけどね。いざというときのために少し持っていた方がいいだろうけど……後でイシェルに用立ててもらおうか」
「イシェルさんなら、さっき廊下を歩いて行ったのを見ましたね」
パンケーキを運んできたティティアが口を挟んだ。
掲示板の案内を見る限りではイシェルは学院祭の出し物には関わっていないようだった。しかし、彼が一般の人々も大勢いる廊下など歩いていたら目立ちそうだ、とジェストはまた余計なお世話を考える。ある程度慣れているマグナレースの街中でも、かなり注目されていた印象が強い。
「まあ、後で探そう。たぶんすぐ見つかるよ」
「珍しもの好きのどこかの魔術師とかに捕まってないといいけど」
一年生の少女のことばに、切り分けたパンケーキを口に入れたところだったジェストは思わずむせて、水を慌てて流し込む。
向かいの席のキプリスもフォークを手に笑っていた。
「イシェルは強いから大丈夫。珍しいものをなんでも手に入れようとする富豪や少数民族を解剖して知識を手に入れようとする者はいるけど、そういう者はそもそもここには入れないからね」
世の中には色々な趣味嗜好を持つ者がいる。帝国軍の中にもいくつも事実であるか疑わしい話が流れていた。ただ、勝つ高揚感を得るために軍へ入る者、人間を殺傷する快感のために前線へ出たがる者がいることは事実のようだった。
「そうだね……美味しいね、これ」
今度こそフォークで口に運んだパンケーキをしっかり噛みしめて味わう。見た目は小さいが、具材は多く食べ応えがある。その分費用もかかるため、模擬店の食べ物屋の中では値も張るが。
「お店のデザートでも通用すると思うよ」
普段はあまり表情の変化が少ないキプリスの顔も、クリームと苺が飾られたパンケーキの一切れを口に運ぶと幸せそうな笑顔になる。
それにつられたようにティティアと彼女の同級生たちもほほ笑んだ。
「ありがとうございます。下のみんなにも伝えておきますね」
教室では火は使えず生の物の保存にも適していないため、食べ物屋は食堂の設備や三階にある調合室で調理と食器の片づけを行っている。
「ジェストさんに、ちょっと伝えておきたいことがあります」
ティティアがそう声をかけたのは、パンケーキをほぼ食べ終えたときだ。キプリスはやや不可解そうな顔をするが、ジェストを少しの間借りたいという少女の頼みを承諾して教室の端に向かう二人を無言で見送っていた。
「伝えておきたいこと、って?」
連れよりも、彼はカウンターの向こうの少女たちの視線が気になった。そこにはなにかを期待しているようなものも含まれている。
「それはその、ひとつ頼みがあって……できるだけ、キプリスさんと一緒にいてあげてほしいんです。これはあたしのわがままなのはわかってますが」
「いてあげて、って言っても、彼女はオレより強いしここのことも詳しいし、しっかりしてるけどな。それにオレが来るまでは一人で過ごしていたんだろ? なにか心配なことでもあるのか?」
まだ把握していない、同室の彼女に関する心配事があるというなら、それは当然知っておきたいところだ。
「心配、ということじゃないんですけど……ジェストさんがここに来てから、キプリスさんはかなり生き生きしているというか、表情も豊かになってますし」
「それは単に、実験が進んでいるからとかじゃあ」
「いえ、そうじゃないんです。記憶を失う前はもっと表情豊かな性格だったんですけど、記憶喪失になってからはそれ以前よりずっと無表情になって、感情も抜け落ちたように薄くなっていたみたいで」
言われてみれば初めて出会ったときに比べ、彼女はかなり感情表現が豊かになってきている気がする。少年は思い出してみる。
とはいえ、それも少年には『実験台としての』自分との出会いが切っ掛けでは、と思えてならなかったが。
「だから、きっとジェストさんと過ごしていたら、きっともっと感情が戻ってくると思うんです。勝手なお願いですけど」
昔と同じように感情を取り戻したら、昔と同じような行動をとりやすくなるんじゃないだろうか。
それは懸念材料だ。ただ、反対するのが正しいともわからない。それに真剣そのものの少女のお願いを撥ねつけることも。
「わかった、努力するよ。さすがに一日中常に、とはいかないだろうけど」
どうせ授業も一緒、自室に戻れば一緒なので、今とそれほど変わりない。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
ティティアは嬉しそうに笑い、勢いよく頭を下げた。
その少し後には、彼女だけでなくその友人たちもそれに倣うことになる。
「ありがとうございました!」
腹が膨れると、ジェストとキプリスはパンケーキ屋をあとにした、
「随分と、ナイショ話に熱中していたみたいだね」
店を出ると早速、横から少年への疑うような視線。
「わたしはべつに、かまわないんだよ。これからもキミとティティアがどこかで二人きりで会おうと」
ことばとは裏腹に、どこか拗ねたような態度。
今まで見たことのない感情表現だ。意識してみると、彼女が見せる表情はどんどん複雑になっているようにも思える。
「いや。ティティアには、できるだけキプリスと一緒にいた方がいいと言われたよ」
どこまで話すか頭の中で探りながら、とりあえずそこは素直に言うことにした。
理由はいくらでも思いつく。まだ学院内の生活に慣れていないから心配だとか、元帝国兵だとばれると厄介だからだとか。
しかし、
「なんだ。ティティアもあのことを知っていたのか」
少女は少しも理由を追求せず、あっさりと納得してしまった。その様子にジェストの方が不可解な顔になる。
「あのこと?」
「学長に聞いたんだよ。キミが空き部屋に近づいていたからなんだと思ったら、泣き声に聞こえるように加工されたオルゴールが部屋に置いてあったと」
「ああ……」
すべて合点がいく。あの部屋のことはもう、忘れかけていた。
「学長は、キミはきっと泣き声の主を助けようと思ったんだろう、と言っていたよ。実際キミならそうするだろう。悪戯だったようだけど。ティティアもそれを聞いて、一緒にいた方が安全だと思ったんだな」
「なるほど……」
少女のことばに彼は内心、心の底からほっとしていたものの、それを面に出さないように自制した。気をまぎらわせようと廊下を歩きながら、周囲に視線をやる。
――うちも、店についてもっと宣伝すべきだったかな。
所定の掲示板に模擬店の一覧も掲示されるが、それとは別に廊下などに広告を貼りだしている模擬店もあった。『絶品・ギュオン豚の串焼き』、『最新の流行を取り入れたチーズソースのクレープです』、『美の専門家も唸らせた芸術作品を展示』などと絵とともに描かれていると、つい気になってしまう。実際のところ、広告をあちこちに張っている模擬店や展示などは他より訪れる者が多いようだ。
「来年はもっと宣伝を考えるべきかな」
歩きながら壁の広告を眺める同居人のことばに、キプリスは小首を傾げる。
「真面目に学生生活を送るつもりなんだね、キミは。頑張って模擬店が繁盛して表彰されたりしてもわたしたちはずっと白馬棟のままで、なにか得することはないよ」
どうやら、この点については彼女との間に大きな考え方の違いがあるようだ。ジェストは初めてそれに気がつく。彼女にとって学院は便利な生活の場兼本来の身分の隠れ蓑に過ぎないらしい。
「結果は変わらなくても、オレはどうせなら目の前のことは楽しみたいな。その楽しんでいる間の記憶は残るし。それに、解放軍でない学生には影響あるだろ? オレたちが足を引っ張るみたいになるのは嫌だな」
「人が好いね。わたしは他の学生のことはどうでもいいけど、結果はどうあれ楽しんでいる間の記憶は残る、というのはいいね」
彼女はそのことばが気に入ったようだ。
「毎日、ただ勉強や研究の記憶だけを積み重ねるのもなんだし、わたしも楽しめるように努力しよう。〈魔装填術〉の研究も落ち着いてきたところだし、そういうところに目を向けてもいい頃かもしれない」
もう、ジェストの右手に指輪ははめられていない。代わりに手首に親指くらいの幅の銀色の腕輪がはめられている。
その腕輪型にしている魔鋼石を、宿主は自在に動かせるようになっていた。腕輪を透明にすることも可能になっているが、まだ外観を透明にするだけだ。多少は魔力を消費するのと必要性がないため、普段は腕輪のままにしている。
「じゃあ、楽しみながら進むということで」
一時まで時間がある。歩きながら、二人は目に入る展示などを眺めて歩いた。魔力は薄いが見た目は美しい魔石を使った装身具の展示、異世界を描いたという絵や何種類もの妖精を象る像が並ぶ教室、模擬店などを覗きながら同時に見慣れた黒衣の姿を探すが、どこにもなかった。
模擬店の中に小さなドーナッツを五つ串に刺したものを売っている屋台があり、キプリスは二本購入して一本を同行者に渡す。
「イシェルはもうこの階にはいなそうだね」
どの階も出入りが激しいが、しばらく見回しても廊下を行き交う中にその姿はない。
そのついでに、ジェストは少し離れたところで談笑している女子たちの話し声を耳にする。
「ほら、どう見てもそうだって。単なる同級生の男女二人であんな風に食べ歩くなんて普通しないから」
「えー、でもあの二人って同室でしょ? 女子がお金払ってたのも転入生がここの生活に慣れてないからとかじゃないの?」
「慣れてなくったって、お金くらい持ってるんじゃないの? あれは絶対、女が惚れてるのよ。まあ、買ってあげたくなる気持ちはわかるけど。結構可愛いし」
「あんた、あの子みたいなのが好みなの?」
話しながら、チラリチラリとこちらに目を向けてくる。
ジェストはドーナッツの串を手にしたまま、少しの間唖然としていた。
――こりゃあ、自分で使える金を少しも持ってないってのは、思っていたよりも大問題なんじゃ。
買い物に出た際に買った財布は制服のジャケットの内ポケットに入っている。なぜ財布を購入していながらあのときに小銭くらい用意してもらわなかったのかと、今さら大きな後悔が胸に押し寄せている。
「キプリス、早めにイシェルと合流したいな。その……毎回こうやって奢ってもらうのはやっぱり気分的に落ち着かないし」
「そうかい? 早めに見回りながら中庭へ出ようか」
彼女の方は、噂話をする少女たちの視線にも気がつかない様子だ。
展示や飲食店など客が入ることのできる部分を見て回りながら中庭へ向かう。中庭にいなければ塔の上から見渡し、それで見つからなければ一度研究室に行こう、とジェストは手順を考えていたが。
通路を抜けて中庭に出るなり、見覚えのある姿が視界に入る。壁際にある深めの花壇の縁に腰かけているその人物は顔見知りなのか、学外の者らしい一団と別れるところだった。一団は笑顔で手を振って離れていく。
相手が人混みにまぎれていくと、白金の目はこちらを向いた。
「今の人たち、お仲間だね」
歩み寄ると、キプリスが小声で確かめる。
そのことばにジェストは少し驚いた。上品そうな、しかし珍しくもない紳士と婦人にしか見えない一団だったからだ。
「ああ、シェゼレンのことで少しな。近々、視察が必要だろう。今のところ廃墟に帝国軍が拠点を築いているような情報などはないけど」
学院内で日常を過ごしているだけでは実感がないものの、外界では毎日のようにどこかで争いが起き、血生臭い戦場で多くの命が失われている。
「その町の人たちどうなったんだ?」
事前に避難していれば犠牲者の数は抑えられる。ジェストが帝国にいた頃は大半が避難済みの場所を帝国軍が占拠して侵攻は終了していた。市街地ではない場所では何度も血で血を洗う戦いが繰り広げられたが。
「予兆をつかめず不意打ちだったからな……。生存者はほとんどいないと聞いている」
「そうか……」
誰もが学院祭を楽しむここでは相応しくない話題だ。仮設舞台の試合を応援する歓声が、逆に場違いにすら思われる。
「それはわたしの仕事だから、難しく考えるなよ。それより、なにか用事かい?」
尋ねられてジェストは思い出す。それはそれで、彼にとっては深刻な話なのだ。
「一応、同級生の女の子に色々と代金を払ってもらうというのはさまざまな誤解を呼ぶという事情があって……ほら、貧乏だと思われるだろう。実際に貧乏だし、これも見た目は変わらない気もするけど」
イシェルは苦笑したがなにも言わないまま、懐から取り出した紙の切れ端に貨幣を挟んで渡す。
「ここでわたしが教員だと知らない者など二度と会わないような赤の他人なんだから、気にすることもないだろうに。そういえば、あの試合に勝ちあがって優勝すると賞金がもらえるらしいぞ」
と、彼が示した方には人だかりができていた。
中庭の丁度真ん中辺りに造られた、正方形の仮設舞台。その上には模擬刀を手にした男子学生と、その学生と同年くらいの赤毛の少年が立っていた。
「挑戦者のかた、お名前は?」
進行役のレイエル教授が、上着を脱いで模擬刀をかまえる少年に質問する。
「エイル・リターです」
「では、間もなく試合を開始します。二人とも、中央へ」
模擬刀を手にして二人が向かい合ってかまえる。試合は一本勝負。危険行為は失格、他に判定か場外押し出しか降参で負けとなるようだ。
始まった試合に、ジェストは妙な既視感を覚える。おそらく、少年兵時代に同じような訓練を何度もしたのが原因か。
「優勝まで何試合するのか知らないけど、オレの剣術の腕ってそこまでじゃないからな。勝つだけならキプリスとかイシェルが出た方がずっと勝てるだろう」
「面白そうだけど、優勝したら白馬棟にはいられないよね」
キプリスの口調は少し残念そうだった。もちろんそのことばの内容は明白なことで、イシェルが仮設舞台を示したのもジェストのことばも冗談に過ぎない。
「確かに、面白そうだな」
しかし不意に、イシェルが立ち上がる。その手にはコートの裏に隠されていたらしい、黒塗りの木刀が握られている。
「えっ、まさか」
「本気かい、イシェル?」
イシェルが試合に出て賞金を手にしたところで特に意味はないだろうし、顔と名前が今より売れることも、動きにくくなるだけでしかない。
一方で、ジェストは面白いとも思ってしまった。
イシェルの腕前は処刑場から脱出する際に目にしている。一見、小柄で相手よりも若く見えることも多いであろう、華奢な美少女――それが、次々と剣術自慢を倒していく。おそらく観客たちも盛り上がるに違いない。
だが、イシェルが軽く右手を振るとそこから木刀は消える。
「ふふっ、冗談だ。そんなことをしたら剣術の授業まで頼まれかねないしな」
笑う彼に呆れた顔をしながら、少年は内心がっかりする。しかしこの学院内ではイシェルは魔法が得意な魔術師兼教授としてだけ通っており、今まで剣術の腕を披露したことはないのだろう。
「そろそろ時間だからな。魔法の実演が始まる」
そのことばにつられたように懐中時計を見ると、時計の針は一時まであと五分ほど前をさし示している。
「珍しい魔法の実演って、イシェルがやるんだったの?」
「実演はその魔法が得意な魔術師が呼ばれるから、全部じゃないけどね。わたしは召喚魔法をいくつか使うだけだ」
「なんだ……それなら見るのやめようかな」
「なんだとはなんだ。観客が少ないと寂しいし来年から無くなるかもしれないんだ。それに、わたし以外の魔術師も出るぞ。わたしでも見たことがない魔法がいくつかはある」
観客が少なく不人気というのはやはり嫌らしい。
歩き出したイシェルにジェストとキプリスも続く。盛り上がっている仮設舞台の周囲を取り巻く観客たちを避けるように、その後ろを進む。周りの盛り上がりを見ると、そちらから観客を奪うのは難しそうだ。
それでも行く手の〈魔法実演会場〉と看板が柵に打ち付けられた現場には、すでに何人かの観客は集まっている。それが目に入ると、イシェルは思い出したように口を開いた。
「珍しい魔法と言えば〈魔装填術〉もだな。いつか将来、キミたちも出ることになるかもな」
「〈魔装填術〉はわたしだけじゃ実演できないし、ジェスト以外に適格者が現われない可能性も高いけどね」
キプリスは冷静に言う。
「まあ、たぶん、オレは近くにいるでしょ」
実際には先のことなどわからないが、つい少年は安請け合いしてしまう。
「何十年後かもわからないよ」
「早く戦争が終わると実現できるかもしれないな」
そんな簡単な話ではないことは理解していた。
そもそも、戦争が終わるとはどのような形を言うのか。生まれた国とはいえ帝国自体に思い入れはそれほどないが、解放軍の勝利とは、故郷の人々やかつての友人たちの死の上に成り立つかもしれない。
学院に来てから何度も考えている。
「まあ、できるだけ早く終わるように努力しよう。わたしもずっとここにはいられないし、若い子たちも卒業してしまう」
イシェルはハッパだと受け取ったようだった。
「さて、武術と魔法の勝負といこうか」
幸い武術大会と魔法の実演は少し時間がずれている。それに、武術よりも魔法に興味がある者たちもそれなりにいるようで、徐々に見物に集まってきているようだ。
「勝負ありです! 優勝は、エイルさんに決まりました!」
最後の試合が終わったらしく、歓声がどっと上がるのを背後にしながら、ジェストとキプリスは適当な椅子代わりの物を見つけ、腰を下ろしてイシェルを見送った。