1、実験台という生き方(前編)
玄関前で美しい解放軍隊長代理と別れ、間もなく。
「あそこがあなたの部屋です。洗面所と浴室は向かい側。部屋はくれぐれも清潔に。詳しい規則は同室の学生に質問してください」
真面目そうな金縁眼鏡の女性がジェストを玄関から案内した。並んで歩き、玄関近くのロビーから続く入口のうち馬の紋章が上に刻まれたものからの通路を抜け、一番端のドアを指さす。
「あ……ありがとうございます」
「どういたしまして。今日はもう遅いから、早めにお休みなさい」
事務的に言い、きびきびした動作で身をひるがえす。金髪を後頭部で団子状にまとめた後ろ姿に、ジェストは思い描く〈教師〉そのもののような印象を受ける。
――ここの先生がみんなああいう感じなら窮屈そうだ。
素直な感想を胸の奥に仕舞い、〈三三七〉のプレートが打ち付けられたドアを叩く。
「どうぞ」
小さく、くぐもった返事が聞こえた。ドアを隔てているためよくわからないが、予想していたよりも高く澄んだ声。
「失礼します」
ドアの取っ手を回すと鍵はかかっておらず、ガチャリ、と音がして押し開けられる。
壁掛けのカンテラに照らされた室内には、窓際に置かれた二段ベッドと机と椅子が二つ、本棚とクローゼット。
そして。
「いらっしゃい。初めまして」
椅子から立ち上がって出迎えた姿に、ジェストは愕然としていた。
ブラウスの襟もとにリボンのついた制服姿の、長い銀髪に水色の目の少女。年齢はジェストと変わりなさそうで顔立ちは可愛らしいが、眠たげな眼は急な訪問者にも少しの動揺もなく、やや面倒臭そうにも見える。
突然の美少女の姿。それも驚きの原因のひとつだが。
「ど、同居人って女の子……? オレはてっきり……」
まさか、男女で一部屋を使うとは。なに考えてんだイシェル――というのが驚きの大きな原因である。
しかし、少女の方は少しの不満もないようだ。
「わたしはかまわないよ。キミがわたしの邪魔をしたり、物を壊したり、規則に反することをしなければ」
そう言って椅子に座り、種類の違う小さな石が四つ転がっている机に向き直る。が、すぐに再び振り向いた。
「忘れていた。わたしの名はキプリス・ヴァレナード。解放軍の一員だ。それ以外は覚えていない」
「覚えてない……?」
個人的な情報を追及されないための方便、ではないらしかった。
「一年余り前、気がついたらこの学院の医務室にいた。記憶喪失、ってものらしい」
「なるほど……でも、ここのことに詳しいのは確かなんだよな。オレはジェストだ、よろしくな」
「イシェルに聞いている。元帝国兵なんだろう?」
尋ねた少女の目に、かすかに今までとは違う色の光がともる。周りの何事にも大した興味を抱いていないような眠そうな目に浮かぶは、一抹の好奇心。
「言いたくなければ答えなくていいけど……どうしてキミは、あんなことをしたんだ?」
あんなこと。
少年の脳裏に生々しくよぎる光景。そのうちの一部はつい昨日のことで、今も目の前で起きているかのように思い出せる。
三年間の士官学校を出て、少年兵が配属される歩兵団で一年以上。まだ本格的な戦場の前線に出たことはないものの、そこでの日常にも慣れてきたある日、街に侵入していた解放軍の少女が捕らえられた。まだ十代序盤の少女は大した情報も持っていなかったとされ、ただ処刑が決まっていた。
帝国は敵や裏切り者を許さない。それが幼い少女でも。解放軍をかくまったとある一家は、幼子やメイドらも含めて全員処刑され生き埋めにされたという。
死を明日に控えた少女を、囚人への食事係を担当したジェストはわざと鍵を掛けず牢を出ることで逃がした。
「キミはいい右腕になってくれると思っていたのに、残念だよ」
ことあるごとに嫌味を言ってくる同期の少年クリタスの、ひどく演技がかったことばが耳にこびりついている。
わざとじゃない、鍵を掛け忘れただけなんだ、という言い分はあっさり却下され、硬い石の板の上に座らされて首筋に刃が当てられる。
――冷たい。
座らされたまま見上げた処刑人の顔は、黒い仮面に覆われていた。隙間からのぞく目は感情を殺し切ったように濁っている。
ここで死ぬんだ。
そう強く自覚するが、彼が感傷を味わったのは一瞬だ。
ズシン、と背後で爆発が起き、煙が辺りを包む。この空間に続くどこかの扉が破られたようだった。
怒号や金属音、誰かが倒れる音が飛び交い始めて間もなく、剣を片手に構えた黒尽くめが少年の前に現われる。ジェストは同年代の中では小柄だが、黒尽くめはそれより小さいくらいだ。しかしその人物は細腕に似合わず、軽々と片手で少年を抱え上げ、魔法と剣術を振るいながら素早く処刑場を抜け出した。
それが、彼がここへ来た経緯。
「どうして、と言われると説明が難しいが……」
帝国の圧政に多くの民が苦しみ、周辺の国々でも多くの人々が殺され、連れて来られた者は奴隷同然にされている。
帝都や戦場から遠い田舎に住んでいた頃も、帝国軍の内部にいた頃も知ってはいた。ただ、実際に目にしたことがないのでどこか遠くの話のような感覚もあった。
「あの女の子が、妹に似ていたからかもな」
その少女の存在が現実を突きつけた。
「生きていたらあの子と同じくらいの年頃に見えたから。オレの不注意で四つのときに死んじまったけどな」
ある日、彼は妹のエミルと、野イチゴを採りに行く約束をしていた。しかし途中でイチゴを入れる籠を忘れたことに気がつき取りに戻っている間に、妹は崖下に落ちて死んでしまったのだ。
「その頃は、キミもまだ小さかったんだろう?」
キプリスの質問にジェストはうなずく。
「もう六年前か……十歳くらいかな。でも、その日は両親とも留守で……」
母は鉱夫たちの食事を作る仕事に。父は酒場に出かけていた。
『お前がちゃんと見てないからだ!』
『飲んだくれてたあんたが言ってんじゃないよ!』
『なんだと!』
殴られる息子を見た母が父に物を投げつけ、大喧嘩になった。もともと喧嘩の多い両親だったが、この日は大荒れで父は数日後に家を出て行ってしまった。
ジェストも早く家を出たくて、この日を境に士官学校入りを目指すようになる。
「妹死なせただけじゃなく今もこうなって、またおふくろに迷惑かけてるし。生まれてきてごめん、って感じだ」
本来なら帝国は故郷を探し、罪人の家族も処刑するだろう。イシェルがジェストの母を逃がすように手を打ってくれると話していたが。
「……そう。ご愁傷さま」
初対面の彼女にも他人に気を遣うという機能はあるらしい。ことばを選ぶように間を置いて続ける。
「こうなって後悔してるの、キミは?」
この状況になって、ジェストは命を除くほとんどのものを失った。
順調に行けばさらに上へ行けたかもしれない地位、金、名誉。同期や行きつけの食堂などにいる友人たちも、故郷も名前も。
しかし清々しいくらい、答ははっきりしている。
「いや。後悔はしてない」
何度思い返しても、あの少女を見殺しにする選択はできない。それをやると、ジェストは自分を殺すのと同じことのように感じるのだ。
「……なら、いいんじゃない。自分に嘘を吐かなかったってことでしょ」
認めてもらえたようで、少年は内心嬉しくなる。他人の目には馬鹿なことをしたとしか映らないかもしれない行動が間違っていなかったと、たった一人にでも認めてもらえれば心は晴れやかになる。
「キミが助けた捕虜の少女……ティティアはわたしの友人でもあるんだ。一応礼を言うよ、ありがとう」
相変わらず淡々とした声と眠たげな無表情に近い顔だが、少しだけ、その頬が緩んだように見えた。ジェストの気のせいかもしれないが。
「お、おう……どういたしまして」
「なにかあったら、わたしが教えられることは教える。変わった人が多いから退屈しないよ、ここは。まあ、今日はもう遅いから諸々のことは明日にしよう」
すぐにその顔から淡い表情すら消え去り、目は一層眠たげに細められる。
「わたしもそろそろ、寝るところだったし……」
「ちょ、ちょっと!」
ジェストは慌てて後ろを向く。
少女は彼の方を向いたままでジャケットを脱ぎ、ブラウスのボタンを外し始めたのだ。はだけられた隙間からは色白な肌が見え、白い下着さえチラリと覗いている。
「人前で着替えるなよ! てか、せめて一声かけろよ」
「人前でやるなとはイシェルにも言われたことがあるが、こういう閉じた場所ならいいとも言われたよ?」
さすがにジェストは、イシェルが彼女に閉じた場所なら誰が目の前にいても服を脱いでもいいと言うような薄情な性格だとは思いたくない。
「それはたぶん、この部屋にキミ一人か女子だけだったんだろ? それに恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしい、ねえ……剣術の授業のときに失敗などしたら恥ずかしいとは思わないでもないけれど」
からかっているわけでもふざけているわけでもない。真剣に自分の感覚を思い出そうとしているようだ。
――記憶と一緒に羞恥心も吹っ飛んだんじゃ……。
そう思わざるを得ない。彼女が記憶を失う前からずっとこの調子というのは考えにくい。十年以上社会生活を送ってきたはずなのだから。もしかしたら、感情が薄そうなのも同じ原因かもしれない。
「まあ、キミがそう言うのなら以後は気をつけよう」
なぜなのかという部分は理解していない様子だが、彼女の素直なことばに、ジェストはとりあえず安心してほっと息を吐いた。
ゲネシス学院は主に魔術師を目指す者や国防軍入りを目指す者が入学する学院で、最大五年の課程を経る。そして、それぞれの学年の中でも三つの棟に分けられていた。最上の金龍棟、次に銀狼棟、最下級に白馬棟。
「金龍棟は貴族や富豪、高名な魔術師の血族とか幼い頃から剣術の天才だとか、そういう学生が多い。我々の白馬棟は……要するに余りものだ」
廊下を進む間、キプリスが説明してくれる。
向かう先は中庭だ。ジェストにとっての最初の授業、〈基礎剣術〉は外で行われる。
「普通、学年が上がるごとに査定があって入れ替えがあるけど、解放軍の者は基本的に白馬棟に所属されることになっている」
「なるほど……」
学院の運営側にも解放軍の者がいることは想像できるが、今のジェストは深入りする気にはならない。帝国軍に義理立てするつもりもなかったが。
廊下を抜けると一気に視界が開けた。青い空、白くそびえたつ塔と城に似た校舎、緑の木々に覆われた小高い山。
中庭にはすでに学生たちと、袖のないシャツに丈夫そうなズボンという格好の男が見えた。男の脇には木製の剣が並べて立てかけられた柵がある。
「レイエル先生だよ。授業のために訓練用の模擬刀を借りるんだ」
借りられると知ってジェストはほっとした。なにせ、彼の所有物は現在のところ、制服一着だけだ。
間もなく、模擬刀を借りた三年白馬棟組がレイエル教授の前に並ぶ。
「今日は転入生もいるからな。まずは基礎を中心にやろう」
剣の握り方、抜き方、収め方、手入れの方法。それから基本的な攻撃の仕方など。
教授は力量を測っているようで、見るからにジェストに目を光らせていた。これまでのところ、ジェストにとっては帝国士官学校でやったことのおさらいだ。すんなりこなす少年に、教授はやや感心した様子だ。
「なかなか堂に入ってるね。キミの体格だと剣に振り回されるかもしれないと予想したが、そうでもないし。鍛えてるのか?」
この教授はジェストが元帝国兵とは知らないらしい。
「ああ……昔、鉱山でツルハシを使って採掘する仕事をよくやっていて、腕力はまあまあ自信があります」
嘘ではない。故郷ではよく鉱夫の手伝いをして多少の賃金を得ていた。
彼の答に教授は黒い目を輝かせる。
「そうか! 素晴らしい。良かったらキミも放課後にオレが主催するサークル、筋肉愛好会に入らないか?」
腕に力こぶを作り誘う。
同士を見つけたかもしれない――という、最上の笑顔で。
「あ、オレ、まだここのことを良く知らないし……そのうち、縁があれば」
「入る気になったらいつでも声をかけてくれ」
少年は焦って早口で応じるが、幸い、教授は強引に押し付けるようなつもりはないようだ。
授業は最後に、簡単な襲撃に対する防御をやって終わる。教授が決まった場所へ打ち込む三撃を打ち払うというものだが、どこに攻撃が来るのかわかっていても受けきれない者はそれなりにいる。
「対応はできたはできたけど、慎重派だな、って言われた。訓練だと、思い切りが足りない、ってよく言われてたのを思い出したわ」
腕を回して筋をほぐしながら、ジェストは歩き始めた少女のとなりに並ぶ。
「慎重なのは別に悪くはない。まだ発展途上だろうし」
「そう言うキミは、かなり手慣れてたな」
「記憶を失う前のわたしは、相当腕のいい剣士だったらしいよ」
彼女のことばに、思わず少年は相手の姿を上から下まで眺めてしまう。どちらかと言えば、運動より図書館で本でも読んでいる方が似合う外見だ。実際、短い付き合いだが部屋にいる間は机に座って本を読んでいる姿ばかり見ている。
「人は見かけによらない、ねえ」
中庭から通路に入る。途端、人にぶつかりそうになって足を止めた。
「あっ……」
「邪魔だよ、落ちこぼれ」
謝る前に投げつけられる、鋭い声。
金髪碧眼の少し年上らしい少年がにらみつけていた。襟につけられた小さなブローチは、彼が五年の金龍棟所属であることを示す。
そのとなりに同じブローチの、枯葉色の髪の少年。
「ああ、この娘、万年白馬棟のキプリスちゃんじゃない? キミ、ほんと才能ないんだね」
気軽な侮辱なことばに、ジェストは驚くと同時に苛ついた。しかしそれを表に出す前に少女が言う。
「わたし、無能力者ですから。次の授業が始まりますので失礼します」
こういうことは良くあるとわかる。慣れた対応だった。よどみなく言うと、上級生たちの横をすり抜け、速足で立ち去る。
すっかり離れると、ジェストは無意識に止めていたらしい息を吐いた。
「なにも知らずに、馬鹿なヤツら」
そのことばに少女は口もとだけで薄く笑う。
「ここにいればよくあることだ。貴族は平民と一緒に評価されるのは我慢できないって人たちもいるみたいだし。キミがいたところも似たようなものじゃないのかい?」
「それはまあ……」
帝国士官学校から同期だったクリタスなど、貴族の子どもたちの一部はなにかと難癖をつけてきた。ジェストが帝国兵だった間に仲良くなった相手は結局、同じ平民の出身者ばかりだ。
「人が多いと仕方がないのかな」
「次の授業はそんなことは許されないから、心配することはないよ」
次は〈基礎の魔法理論〉だ。
キプリスのことばの意味は、授業が始まる前にすぐにわかる。
「今日は基礎の復習から入るぞ。みんな覚えてるだろうな?」
フードをとった姿は同年代の美少女にも見える、黒いローブにコートの姿が教壇から学生たちを見渡していた。
チリンチリン、と鈴を鳴らしたようなチャイムが鳴る。
それは建物の外から聞こえていた。敷地内に時計塔があり、大昔からあるからくりを利用して定期的に音が鳴るようにしてある、と転校生は同居人から説明を受ける。もともとは定期的に大きな鐘が鳴るからくりだったらしいが、鐘が壊れて以降長く放置されていたのを再利用したらしい。
授業が終わり他の学生たちが教室を出ていくと、イシェルは二人に歩み寄る。ジェストの方もそれを待っていた。
「どうだ、ここの生活は。まだ慣れるには早いか?」
「それじゃいいんだけど……せめて、着替えくらいは欲しい」
なにしろ、今の持ち物は制服くらいだ。昨夜は制服のジャケットを脱いだだけの状態でベッドに入った。
それを聞いてイシェルは笑う。
「そうか、さすがに財布持って処刑場は行けないよなぁ。次の授業は午後だろう。ちょっと買い物にでも出かけるか」
建物内のあちこちに柱時計があり、時刻は午前一一時前を示していた。ジェストとキプリスの今日の授業は午後三時からの〈大陸の歴史〉を残すのみ。
十分後に玄関で落ち合おうと約束してイシェルと別れる。
――せめて、財布くらい常に持っときゃ良かったな。
帝国軍の端くれとはいえ、やはり少年兵の給金はそれなりだ。そのため平民の少年兵は故郷の家族に仕送りをする田舎出身者が多い。
次の送る予定だった仕送りを含むジェストの所持金は宿舎の部屋のベッドの下に置いた箱の中で、すでに没収されただろう。白馬棟の部屋へ戻る途中、少年は今更そんなことが気になってしまう自分に苦笑した。
白馬棟の端のドアが見えてくると、少女が一旦足を止める。
「ちょっと待ってて。着替えるから」
おお、と返事をしてジェストは見送る。とりあえず昨日のように、目の前で着替えるような真似はしなくなったようで安心しながら。
自室のドアが閉ざされて間もなく。
「……おい」
横からの声に、ジェストは驚いて振り向く。〈三三六〉のドアが少し開いており、隙間から黒目黒髪の、頭にバンダナを巻いた少年がじっと目を向けていた。
「ご、ごめん、すぐにどくよ」
「……お前が転入生だよな、元帝国兵とかいう。なんでお前がキプリスさんと」
その声には強い恨みが込められているが、キプリスの名を呼ぶときには敬愛すら込められているように聞こえ、ジェストはなんとなく相手の心境を察してしまった。
「いやその、オレは単にイシェルに言われてあの部屋に……ただの同居人だから」
「口ではなんとでも言えるし、今はそうでも、この先どうなるかわからないだろ。絶対、お前に先は越されないからな。ガーシュ・テッペルの名前、覚えてろ」
思い込みの強そうな隣人は言い捨てて、バン、とドアを閉じる。
――まあ、キプリスは美人だし、憧れてる人がいてもおかしくないが……。
上級生たちからは馬鹿にされていても、ここ白馬棟ではそれはないだろう。それにガーシュはジュストの出自も知っていた。ということは解放軍の一員であり、記憶を失う前のキプリスのことすら知っているかもしれない。
自分はやはり場違いな人間だと思うが、それも今さらだ。
「用事がないなら、このまま玄関に行こうか」
部屋を出てきたキプリスはゆったりしたワンピースのスカートにブーツ、長い髪を毛先に近いところで束ねて腰にポーチのついたベルトを巻くという、動きやすそうな出で立ちだ。
「オレはすることないし、もうけっこういい時間だな。もう行こう」
なにせ、着替えも持ち物もこれから買いに行くところなので制服姿のままの身ひとつで出かけるだけである。
玄関に向かうとすでにイシェルが待っていた。
「じゃ、行こうか。街まで少し歩くぞ」
山間にある学術都市マグナレースは緑の多い街だ。その上学院の敷地は城壁と川に囲まれており、門を出てから橋を渡り、脇に木々の茂った石畳の道をしばらく歩かなければ辿り着けない。
「馬車じゃわからなかったけど、なかなか遠い……」
来た道のりを振り返り、少年はある一点に目を留める。
白く壮麗な学院の建物群の背後に、中庭からも見えていた緑の山がある。そのふもとの近くに、大きな灰色の丸い岩がそびえている。
「なんだ、あの岩」
つられて振り返る同行者たちは、ああ、あれか、という顔。
「封印石だな。百年くらい前に山の洞窟から次々と妖魔が発生して退魔師が退治に向かったものの、数が多過ぎて結局、洞窟ごと封じるしかなかったという」
古代の遺物と言われる妖魔や魔獣などを退治するには、魔術師と呼ばれる使い手が操る魔法が有効とされていた。帝国軍にも魔術師兵団があり、ジェストも訓練で魔法を使っているところを見学したことがある。
魔術師の中でも、妖魔など怪物退治を専門にしているのが退魔師だ。
「言い伝えだけどな。当時を知っている学長も言っていたからそうなんだろ」
転入生でも、百年前を知る学長とは、と疑問に思うのは一瞬だ。強大な力を持つ魔術師は自らの肉体も操作し、人間の寿命を超えて生きることが多い。それは少し前での授業で教わったばかり。
街に入ると、さらに別の授業内容も思い出される。なぜ、学術都市と呼ばれる街中には塔が多いのか。それは、学術研究や魔術研究にとって星の配置や移動を見る〈星見〉が重要だからだ。
しかし当面は塔に用事はない。三人は商店街に向かい、衣料品店でジェスト用の着替え何組かと上着と帽子、それに鞄を購入する。
「あとは、カップや食器にペンにインクとか……なかなか思いつかないね。ジェストはなにか欲しい物はないか? 趣味の物とか」
衣料品店を出たところでそう尋ねられ、買った物の包みを脇に抱えたまま、ジェストは考えた。
「本は学院にも図書館があるって聞いたし……ナイフとかは共有のがあるんだよな。小物入れとか財布とか? でもさ、その代金ってイシェルのだろう?」
当人は無一文なのだから、当然、他の誰かが払うことになる。ここではイシェルだ。教授として高い給料をもらっているのかもしれないが、他人に出してもらうとなると悪い気になってしまう。
「なんだ、なにを遠慮しているんだ。他人の金だって言うけど、キミが着ていた帝国軍の武装はどこへ行ったと思ってるんだ」
言われて、ジェストはやっと気がついた。学院に来るまで着ていたものの行方など、今の今まで気にしたこともない。しかし考えてみれば特に上等でなくても高価なものに違いないし、解放軍にとっては帝国の技術や武装の種類を知る情報価値もあるかもしれない。
「なんだ……じゃあ遠慮なく。と言ってもあまり思いつかないけど」
趣味と呼べるものは、せいぜい散歩と読書くらいなものだ。歩いて並ぶ店を眺めながら考える。
その間、何人もの住民とすれ違う。視線を感じることも少なくない。制服姿も目立つし、可愛らしい少女も目を惹きつけるし、美少女なだけでなく珍しい髪と目の色をした黒尽くめはさらに道行く人の注目の的だ。
ただ、さすがにその姿を見慣れた住人も多く、すれ違う者の何人かは顔見知りで軽く挨拶を交わしていた。
「相変わらず綺麗な人だわ」
「いいな、あたしも十年若かったら学院に入れたのに」
「十年若くて、十倍頭が良かったらでしょ。それにお金も必要よ。最近転入目指して街に来た子も、凄い貴族の息子さんみたいだし」
そんな会話が背後に遠ざかっていく。
同行者たちは注目されることに慣れきっているのかもしれないが、ジェストはいたたまれない気持ちになり早く帰りたかった。そのためなんとなく、趣味の物として気になった懐中時計と小型の望遠鏡を最後の買い物として買う。
「なんか、結構高くついたんじゃないか……?」
鎖のついた鈍い金色の懐中時計と、持ち歩ける小型の物としては最新式だという筒状の望遠鏡は、あまり深く考えて選んだわけではないが、手にしてみると高価な宝物のように感じる。これまで自分のためにそんな高価な道具を持ったことはない。
「いや、気にするな。正直、金の使い道に困ってたくらいだから」
「か、金持ちめ……」
「魔法は自由に使えるようになった後はあまり生活費がかからなくなるからね」
キプリスのことばの内容は、ジェストもどこかで小耳に挟んだことがあった。
「道具を持つより、魔法の方が便利、か」
懐中時計も望遠鏡も、魔法でその機能を代替できるのかもしれない。いや、その他のさまざまな道具の機能でさえも。
「どうした、魔法に興味を持ったか?」
イシェルの、白銀に輝く紋様のようなものが浮かぶ目が光る。それは少しだけ、中庭でレイエル教授が見せた光に似ていた。
「いや、昔から使えたら便利だなと思ってたけど、ウチ、貧乏だったし」
生まれつきの魔力という才能や勉強という努力もさることながら、身近に弟子にしてくれるような魔術師がいるという幸運にあずかれなかった貧乏人が魔法を使えるようになるのは難しい。自由に使えるようなると生活費がかからなくなるというが、まず使えるようになるまでに大金が必要だ。
「そうか……なら、今夜を楽しみにしとくんだな」
今夜になにがあるのか。
気にはなったものの、ジェストが口を開く前にイシェルが顔をそむける。
「つけられてるな」
雑談の延長のような声。
三人はカップやフォークなど必要そうな物を一通りそろえ、学院から来た道を逆に辿っているところだ。商店街を離れ、周囲は静かな住宅街の家々が建ち並んでいる。
「それで……どうすんだ?」
慣れない状況に立ち止まりそうになって、ジェストは思い出したようにとなりに歩調を合わせる。解放軍の者たちはこういった状況も何度も経験しているらしい。
「相手が何者かを確かめたいけど、その後の処理が大変じゃない相手だと嬉しい。あまり慣れた追跡には思えないけどな。ちょっとあの木の横で止まってみるか。振り返らないようにな」
どうやら、イシェルは相手の出方をうかがうつもりのようだ。丁度家の並びが切れて道の両脇に木が植えられている辺りを見ながら言う。
つけられていることに気がついたから止まった、と思われないためだろう。木が近づくと、わざとキプリスが手拭き用の布を落とす。となりで見ていればわざとだとわかるが、少し離れていれば気がつかないだろう。
「あっ、大丈夫?」
落とし物を落として立ち止まった同行者を気遣う。自然な動きのつもりでジェストも足を止める。
――さて、相手はどう出るか。
歩きながら頭の中で、いくつかの可能性を考えていた。相手は監視あるいは情報収集が目的で、このまま仕掛けてこないかもしれない。その場合が長期的には厄介そうに思われる。
だがイシェルの見立てが正しければ相手は追跡に慣れていない。監視や情報収集を仕事とする者ならそれなりの訓練は積んでいるだろう。となれば、今つけている相手はもっと刹那的な衝動で行動しているのではないだろうか。
少年の予想は的中する。
「死にたくなければ金を出しな」
建物の向こうから回り込んだのだろう。行く手を塞ぐように飛び出してきたのは武装した一人の男。武装と言えど軍隊の鎧などではなく、使い込まれた木と革の鎧に錆がところどころ浮いた両刃の剣といういで立ちだ。
「盗賊か。わたしに剣を向けるとは、外からの流れ者だろうな」
「運のない強盗だね」
キプリスが立ち上がると、その手には木刀が握られていた。スカートの中から手品のようにスルリと取り出したのだ。
唯一武器のないジェストは両手を見下ろし、少し心もとなく感じる。しかし彼の両手は荷物で塞がっていた。それに一応、空手でも護身術くらい使えるように帝国兵時代に訓練してきたが。
いつの間にかイシェルの手にも黒い剣が握られていた。こちらは魔法で出現させたものだろう。
どう見ても腕っぷしが強そうに見えない子ども二人と、綺麗な少女にも見える黒尽くめ一人。初対面の者はそう認識するのかもしれない。ゲネシス学院がどういうものが知っていれば多少は警戒しそうなものだが、行先の下調べをする流れ者ばかりではない。
軟弱そうな姿の相手でも、剣先ふたつを向けられてはあきらかに怯んだようだ。それでも、腕力でねじ伏せられると考えたか。
「そんな剣、へし折ってやる!」
確かに体格はよく、その腕は太い。盗賊の剣は振り上げられ勢いと腕力をのせたままイシェルの剣めがけて打ち下ろそうとする。
届く前に剣先から柄の端まで漆黒の剣が動く。相手の刃の腹を軽く滑らせるように叩いて軌道を変え、向かってきた一撃は石畳に落下して傷をつける。
二撃目はキプリスが許さなかった。木刀で盗賊の手首を叩きつけ、さすがに耐えられずに落とされた剣を蹴飛ばす。非常に手慣れた、流れるような動き。
「人を見た目で判断するとこうなる」
逃げる余裕などない。イシェルが懐から取り出した縄が蛇のように動き、自ら巻き付いて唖然とする盗賊を縛り上げた。