プロローグ
制服のジャケットに袖を通すと、少年は思わず顔をしかめる。
襟に飾り紐のついた新品の白シャツに、丈夫そうな青の上下。それがあまりに上質過ぎて、自分に合わない気がしてならなかったのだ。
「ほう、なかなか似合うじゃないか。馬子にも衣装、ってやつかもしれないけどな!」
少年の心境などまったく知らず、御者台で馬を操る姿が声をかける。黒いローブにフード付きの黒いコートを着込んだその人物は、一見、可愛らしい少女にも中性的な少年にも見える性別不明な若者だ。白銀の髪と目はこの辺りでもかなり珍しい。それに、その目には時折神秘的な紋章が見えていた。
「外見はそれでいいが、名前も変えないとな。ファルクト、といったか。じゃあ……ジェストだ。今日からジェストと名乗るといい」
「それは別にいいけど……あんたの名前は何なんだ?」
自分の新しい名前を『別にいい』で済ますのもどうかと思いながらも、少年は特に引っかかることはなかったのでそれを流し、茶色の目で相手を見返す。
「あれ、まだ名のってなかったか。わたしはイシェルだ。ビジュラ帝国に対抗する解放軍隊長、の、代理」
馬車の揺れと蹄の音に負けないよう、彼は大声ではっきり区切って話す。
ビジュラ帝国の圧政と侵略に対し、二〇年以上も前から解放軍が組織されて抵抗が続けられている――この大陸の人間なら誰でも知っていることだ。二年前にはかなり帝国軍を追い詰めたこともあったが、それ以降、特にに最近はたまに小競り合いを繰り返す程度の抵抗になっていた。
「見えてきたな。我々の本拠地だ」
馬車が山道を走り続けて数時間。行く手の山間に見えてきた街並みに、ジェストは少なからず衝撃を受けた。
帝国から離れていないパックス・ギュオン共和国の学術都市マグナレース。存在自体は知っていたが、中心部にある城にも砦にも似た白い建物は発光しているかのように見える。美しく神秘的な光景だ。そこだけがほかの世界にあるかのようで街並みの中でも異質に見えた。
それに、抵抗の規模からしてすでに解放軍は虫の息なのでは、と帝国内では噂されていた。その噂とその光景も剥離しているように感じられたのだ。
「ゲネシス学院が見えるだろ。あそこがキミの新しい家だ」
「あれが……家?」
今までの生活とは、あまりにかけ離れた場所。
田舎の故郷で暮らしていたときとも、帝国軍の寮で同期の少年たちとともに集団生活を送っていたときとも違う生活が待ちかまえているのはあきらかだった。
しかし、もう後戻りはできない。ほかに帰る家などない。
少年の逡巡を、唯一の同行者はどう受け取ったのか。次に口を開いたその声色は、今までより少し柔らかく思えた。
「あそこにいるからって、帝国の敵になる必要はないよ。でも、帝国は確実にキミの敵だからな」
――そりゃそうだろうな。幼い女の子も即座に死刑にするくらいだし。
帝国は敵を、裏切り者を許さない。痛いほどわかっている。ジェスト自身、つい昨日までは帝国軍の一員だったのだから。
「解放軍の中にも元帝国兵を良く思わない連中もいるだろうから気をつけろよ。ま、あの子ならキミにも普通に接してくれるだろうな……話は通しておくから、なにかあれば部屋の同居人に相談することだ」
そして、間もなく馬車がマグナレースの中心部にあるゲネシス学院の門をくぐり抜けたときもまだ、少年はそこが家になる実感を持てずにいた。