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洋上の滴 その2  作者: 野馬知明
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土岐明調査報告書

七 現地第4日目


 翌日の午前中、土岐は年度別の運賃収入の予測数値をこぎれいな表にまとめた。それをもとにして、縦軸に金額をとり、横軸に年度を目盛って、折れ線グラフを描いた。3%成長だから、実数を縦軸にとると勾配が次第に急に反り上がる右上がりのグラフが描かれる。縦軸を対数目盛にすると、右上がりの直線になる。実質的にはまったく同一のグラフではあるが、見た目の印象は実数を縦軸にとったほうが急増しているように見える。

「増加していることを強調したい場合には実数をとるように、また対数を縦軸にとるのは、増加幅が大きくて、一枚の用紙に収まりきらない場合だ」

と3年前に扶桑総合研究所の鈴村から土岐は教わった。

午前十一時過ぎに、南田が前日と同じいで立ちで作業所にやってきた。作業所の雰囲気が何となく落ちつかなくなった。南田は東京の本社からメールに添付されて送信されてきた見積もりファイルをプリント・アウトして小脇に持っていた。最初に、電信グループ主任の松山に電信関係の見積もりのコピーを、ひと言ふた言添えて手渡した。次に副プロジェクト・マネージャーでステーション・エンジニアの吉川に車両関係の見積もりのコピーを短いコメントを付けて届けた。手渡す際に、なにやら符牒のようなことも申し添えていたが、土岐には聞き取れなかった。帰り際、土岐と丸山の机のところにやってきた。

「今夜、うちの事務所で簡単な打ち上げをやるんですが、お二人いかがですか?土岐さんはプレゼンの準備で大変かもしれないけど。六時ごろから始めようかと思ってるんですけどね」

 丸山が目を弓のように細めて嬉しそうに答えた。

「ぼくは必ず行きます。・・・土岐さんどうします?」

と土岐の顔を横目で捉えた。土岐が数秒のあいだ逡巡していると、

「大使館の白石さんと西原さんも呼んであるんです」

と南田がすこし苛立ったように返答を督促する。丸山も言い添えた。

「土岐さん、レポートの作成で大変だろうとは思うけど、挨拶だけでもしたほうがいいと思いますよ」

とこれまでの丸山にしてはすこし押し付けがましいような言い方だった。土岐は重苦しい気分で承服した。

「では、ご挨拶だけでも・・・」

それを聞くと、南田は作業所をあわただしく出て行った。それを見届けて、丸山が口を開いた。

「南田さんと白石さんと西原さんは同窓なんですよ。三人とも同じ国立大で、南田さんとコマーシャルアタッシェの西原さんは同じ経済学部の先輩と後輩、一等書記官の白石さんと西原さんは学部は違うが、同期で、白石さんは法学部出身です。その白石さんと、うちのプロジェクト・マネージャーの王谷さんは同じ外務省で、・・・王谷さんは大学が違うのでそうじゃないけれど、わたしみたいな二流私立大学出身の者には想像のつかないほど彼らの結束には堅いものがあります。彼らはそういうネットワークを張り巡らしていて、同省なら当然ですが、省が違っても、同窓ならすぐお互いに共通の利害を探るんですね。日本国内じゃ、西原さんの経産省と白石さんの外務省は省益をめぐって、財務省の頭越しに、丁々発止と渡り合っているようですが、ここでは、二人とも随分と仲がいいですよ。民間の南田さんは官僚の白石さんと西原さんにあからさまに媚びへつらっています。年が三人の中では一番若いということもあるんでしょうけど、彼は自分のポジションをわきまえているようです。実際、民と官の交流で、民の側が立ち位置を間違えると、ぼくたちや南田さんのような本国の税金を掠め取るような商売は成り立たないんですよ。いずれにしても、今回のプロジェクトはこの三人が仕掛けたもので、援助は現地の要請に基づくディマンド・ベースだとは言いながら、この国の政府が提出した必要書類はこの三人が全部代筆したものです」

 土岐は、白石と西原の名前を頭に刻んだ。忘れないうちにメモしたかったが、丸山の見ている前ではそうするのが憚られた。

 土岐には、一流国立大学出身の南田や白石や西原が二流私立大学出身で民間に身を置く自分たちに対してどういう意識を持っているのか知る由もない。今夜のパーティーで呑んだくれている寸暇は恐らくないとは思うが、顔だけでも出した方がいいだろうと判断した。

 昼食後、作業所に戻ってから、土岐は副プロジェクト・マネージャーの吉川と電信チーム主任の松山にそれぞれのチームに関する総額の提示を願い出た。理由は分からないが、二人とも金額データを出し渋っているので、

「おおまかで、構いませんので・・・明細もいりませんので・・・」

と言い添えて、出してもらうことにした。金額を出してもらわないと土岐の作業は始められない。

(言わなくったって、そんなことは、分かっている筈だ)

と土岐は不平を露わにしたかったが、思いとどまった。相手の感情や都合を考えないで、自分の悪感情をむき出しにする悪い癖を土岐は自覚している。

 金額データは、現地通貨部分と外貨部分に二分されていた。いずれも、現在の為替レートの銭の単位を四捨五入して、日本円に換算されていた。初期投資については、現地通貨部分が十九億八千百三十八万円で、外貨部分が五百四十七億四千四百八十一万円で、合計すると五千六百七十二億二千六百十九万円になっていた。以上が最初の五年間に発生する。六年目から電車が開通するが、それからは毎年維持費と運営費が発生する。プロジェクトの評価期間を三十五年間として、各年の維持費と運営費を年率3%の割引率で現在価値に直し、初期投資の金額と合計すると、九百四十八億円になった。これに対して、中井の乗客数予測に基づいてきのう計算した運賃収入の現在価値は三百六十七億円だった。したがって電化プロジェクトは差し引き、五百八十一億円の赤字となる。誤差の範囲を超えて、このプロジェクトが巨額の財政負担を現地政府に強いることは明らかだった。土岐は、このプロジェクトが頓挫することを確信した。同時に、成功報酬の残額の九十万円が現実味を帯びて、土岐の銀行口座に数歩近寄って来たことを実感した。


 一般的に公共事業は赤字になることが多い。かりに赤字になったとしても、電車を利用する人々が、心理的に運賃以上の価値評価を電車に与えていれば、社会全体のプロジェクト評価は運賃収入を上回る可能性がある。たとえば、乗客が心理的に運賃の二倍半を支払ってもいいと考えるのであれば、プロジェクト収入の評価は、運賃収入の現在価値の三百六十七億円を2・5倍して、九百十八億円となり、費用合計の九百四十八億円との差額をとれば赤字は三十億円程度となり、財政負担は単純平均で年間1億円程度となる。そうであれば最初から運賃を2・5倍に設定すれば話は分りやすくなるのだが、この2・5倍というのは乗客全体の平均値を意味している。一般的に、どうしても鉄道を必要としている乗客や金持ちの乗客はより高い運賃でも乗車する。逆に、それほど乗る必要のない乗客や貧乏な乗客は運賃次第で乗車するのをやめる。したがって、全車両を等級制にして、一等から十等位に分けて、金持ちからはより多くの運賃をとって、乗客が心理的に評価する運賃を徴収すれば、運賃収入は飛躍的に増加する。しかし、長距離の旅客を対象とする場合ならばともかく、首都近郊の通勤客を対象とする電車では、こうした差別料金を設定するのは困難となる。全ての乗客に一律の運賃を設定した場合、殆どの乗客は心理的には運賃よりも高い金額で乗車を評価していると考えられる。なぜならば、心理的な評価額よりも運賃の方が高ければ、そういう人は乗車しないからだ。しかし、乗客となるのはさまざまな乗車の必要度と様々な所得階層の人々だから、心理的な評価額は人それぞれ異なる。その差額を厳密に計算することは不可能に近いが、かなりの金額になることは間違いない。

こうした考え方が土岐が学んだ開発プロジェクトの評価である。先進国においても公共事業はこのような考え方で執行されることが多い。赤字部分は財政負担となるので、税収が十分でなければ、基本的に中央政府も地方自治体も赤字体質に陥る。しかし、発展途上国であるこの国が三十五年間で六百億円にも及ぶ財政負担に耐えられるとは土岐には考えられない。成功報酬の九十万円もさることながら、このプロジェクトをつぶすことが、この国のためになるという思いが、土岐を勇気づけた。


 作業所の窓外に白濁した細い飴のようなスコールが鳴り物入りで乱舞し始めた。すぐに止みそうだということは、太陽が透けて見えそうな雨空の明るさで予想できた。土岐以外のメンバーは報告書がほぼ完成したようで、よもやまの雑談をし出した。副プロジェクト・マネージャーの吉川の話は東海道新幹線についての昔話が多い。眼を青年のように輝かせ、手振り身振りを交えて得意げに話す。初老グループの山田と高橋は吉川に話を合わせるように、ときどき吉川にとってつけたようなお追従の質問をする。中年グループは松山と川野が電化について、浜田が電信について、畠山が信号について、それぞれ技術的なことをさみだれのように話題にしている。かれらはいずれも南田が持参した扶桑物産の見積もりの金額を報告書の空欄にしてあった箇所にそのまま埋め込んだだけのようだった。作業から解き放たれた明るい気分に声音のキーがすこし高くなっているように聞こえた。そうした中高年の技術者の高揚したざわめきの中で、土岐ひとりが重苦しい気分で、巨額赤字を打ち出したワークシートの金額を茫然と眺めていた。

 丸山が土岐の肩にしっとりと熱い肉厚の手を置いて聞いてきた。手のひらの湿り気が暑く土岐の肩にしみこんでくる。

「どうですか?財務分析の方は・・・」

とまるで旧知の友のようになれなれしい。

「プロジェクト・コストが約一千億円、それに対して運賃収入が約四百億円で、いまのところ約六百億円の赤字です」

と土岐は金額をすこしまるめて極力客観的に言うように努めた。

「その六百億円は財政負担になるということですか?」

と丸山は軽く腕を組み、考え込むように作業所の天井の隅に目線を向けている。

「そうです。・・・たぶん、この国の政府には負担しきれない金額でしょう」

と土岐は憐憫の思いをすこし込めて言った。

「そうですか・・・今夜のパーティーで西原さんに相談してみましょうか。あの人、ものすごく頭の切れる人ですから・・・わたしみたいな頭の悪い人間にはあの人がどのくらい頭がいいのか、はかりしれません。頭のいい人間と頭の悪い人間はお互いにお互いを分かり合えないんですよね。間に乗り越えられない、見えない壁があるんですよね」

と丸山はため息混じりに、悟りきったようなことを言う。

 静かになったと思ったら、スコールが止んでいた。同時に、中高年のメンバーが帰り支度を始めた。いつもと違って、机の上の文房具も整理している。土岐は、なんとなく不安に駆られた。誰に言うともなく、

「みなさんは金曜日のプレゼンテーションの資料はもう作られたんですか?」

と訊ねていた。答えてくれたのは、一番近くにいた中年組の最年少の畠山だった。

「いや、プレゼンは財務分析だけだと聞いてますけど・・・」

と言うその語尾を川野が自分の前の机の上を几帳面に整理しながら継いだ。

「だから、われわれは明日、観光ツアーに出かけます。土岐さんには悪いですけど・・・」

と言うその語尾をさらに、頭髪にも服装にもまったく乱れのない銀行マンのような浜田が受け継いだ。

「あすは大変ですね。だけど、われわれはあなたよりも一週間も前から作業をしているんで、その辺を斟酌してください」

 最後に中年グループのなかで一番小柄で童顔の松山がまとめた。

「いやあ、土岐さんには本当に申し訳ないと思っているんですよ。あんただけに仕事をさせて、われわれだけが物見遊山に出かけるなんて・・・」

それを隣のテーブルで帰り支度を終えた吉川が訂正した。

「物見遊山じゃないんですよ。実はまだわたしらは、プロジェクト対象の路線のすべてを踏破していないんですよ。南路線は松山さんたちが、北路線はわれわれのチームが一応、電化区間の始発から終点まで乗車したんですけど、東路線は丸山君が乗車しただけで、わたしらはまだなんです。そういうわけで、明日は東路線に乗車して、ついでに終点の世界遺産に指定された寺院を見学かたがたお参りしようというわけです」

と入れ歯の夾雑音が時々混じる吉川が言い終えたのを契機に、全員が五時前に作業所をあとにした。

 土岐は作業所からの帰りのタクシーの中で急に腹痛におそわれた。下腹部に鈍痛がトグロを巻いていた。時間的に昼食の何かが良くなかったのだろうが、見当がつかない。激しい便意が下腹部に耐え難い疼痛をもたらした。次第に脂汗が額に流れ、隣に座っていた丸山との会話も上の空だった。話し方の調子で相手の体調の変化に気がつくところが丸山のすぐれたところだった。

「土岐さん、どうかしましたか?」

と土岐の顔をのぞきこんでくる。

「ちょっと、おなかの調子が・・・」

と言うと、丸山はそれ以上、話しかけてこなかった。

 ホテルに到着すると小走りに自室に戻り、ショルダーバックをベッドの上に投げ置き、トイレに駆け込んだ。トイレから出ると血糖値が低下したように全身が脱力感におおわれた。しばらく、ベッドの上で大の字になっていたが、ふたたび下痢に襲われた。そのあと、気力を振り絞ってシャワーを浴びたが、上半身から血の気が引くような感覚にとらわれた。シャワーから出たあと、再びベッドの上に倒れこんだ。しばらくじっとしていると、すこしずつ気力が回復してくるような気がした。

八王子の家を出るとき、

「水が変わると腹の調子が悪くなるよ」

と母に下痢止めを持たされたのを思い出して、スーツケースから黒褐色の丸薬を取り出して冷蔵庫に常備されていた現地ビールで呑んでみた。

荒かった呼吸が徐々に落ち着いてきた頃、ドアをノックする音がした。あわてて、バスローブをまとい、裸足のままドアを開けると丸山が細い眼で立っていた。

「どうしました?もう、他の人はタクシーで出かけてしまいましたが・・・」

「あっ、扶桑物産のパーティーですか・・・」

 忘れていたわけではなかったが、頭の中は下痢でいっぱいだった。

「ここで、待っていますから、すぐ着替えてもらえますか?」

と丸山は視線を土岐の足元と顔の間で二往復させた。

「ちょっと、体調があまりよくないんで、できれば、ここにいたいんですが・・・」

「歩けませんか?」

と感情を押さえ込んだように言いながら、丸山は怪訝そうな顔をする。柔和な表情が消えていた。オブラートに包まれたむき出しの感情を垣間見たような気がした。

「なんとか、歩けないことはないんですが・・・」

「王谷さんが、是非連れてくるようにということなんですが・・・」

と自分の不快感の源が王谷にあることを察して欲しいような目つきをしている。

「業務命令ですか?」

「まあ、そんな大げさなことではないんでしょうけど・・・まあ、いろいろと注文の多い人なんで・・・それから、資料も持ってきてもらえますか」

 丸山の言い方にどことなく険があった。王谷となにかあったのかもしれない。

「分かりました。すぐ着替えます」

と土岐は言わざるを得なかった。土岐の知らないところで、丸山はさまざまな無理を強いられているだろうと推察された。土岐もこの程度の無理はせざるを得ないと考えた。


 南田が勤務する扶桑物産の事務所は、ホテルから小型タクシーで十分ほどの距離だった。首都近郊の旧宗主国が建設した官庁街のはずれに、瀟洒な高級住宅街があった。殆どが高床の平屋で、二階建ては数えるほどしかない。扶桑物産の建物は、高級住宅街の入口近くに位置し、建物も事務所らしくなく、普通の住宅のような佇まいだった。邸宅というほどではないが、ヨーロッパ風の建物で、庭に面して出窓があり、安普請でないことは素人目にも分かった。

土岐の母が持たせてくれた下痢止めが効いたのか、到着するころには下腹もなんとか落ち着いてきた。

「体調のほう、・・・大丈夫ですか?」

とタクシーを降りるとき丸山がそう声を掛けてきた。いつもの穏やかな表情に戻っていた。土岐は、ノートパソコンを小脇に抱えて彼のうしろに従った。玄関の前庭は五十坪ほどの広さがあった。中央に点灯された常夜灯が立っていた。隣家との境界に熱帯植物の生垣があり、芝生が綺麗に刈り込まれていて、スコールのしずくが夕暮れの薄明かりにきらめいていた。

タクシー停車の気配を察知したらしく、影法師のような南田が玄関のドアを開けて待っていた。顔は良く見えなかったが、バミューダ・パンツで南田と分かった。

 玄関右手に通された部屋はダイニングのようだった。背の高いいくつかの椅子が壁際に並べられ、大きな長い黒檀のテーブルの上に幾種類もの珍しそうな料理が山盛りになっていた。体調不良のせいで、土岐は料理には興味をそそられなかった。先着したメンバーがすでにそのテーブルを取り囲んで、談笑しながら、片手にグラスを持って飲食していた。年齢不詳の浅黒いメイドが、料理や飲み物を持って、奥のキッチンの間のドアから幾度も出入りしていた。ドアの奥に現地人のコックらしい人影が見えた。

歓談の輪の中に痩身のシュトゥーバが立っていた。丸山は土岐を部屋の奥に案内し、王谷と談話していた白石と西原を紹介してくれた。白石は小太りで、頭にポマードをこってりと塗りたくり、金縁眼鏡の下に薄っぺらい顎を突き出した男だった。口を開くたびに金歯がのぞいていた。けして頭を下げることのない、えらそうな男だった。西原は頭髪が五分刈りで、綿のカッター・シャツに巨躯を包んだ男だった。眉毛が太く、舌足らずな話し方をした。目線が土岐より5センチほど高いせいか、顎をすこし上げ、仏像のように半分閉じたような目で、土岐を見下げた。

「大学はどちら?」

と聞かれたので、

「二流の私立大学です」

と土岐が答えたら、西原は大学名を聞こうとはしなかった。自分が卒業した大学か他の国立大学以外には興味がないように見えた。

 土岐の自己紹介と名刺交換が終わると、王谷は南田を手招きした。

「ちょっと、リビングを貸してもらえるかな」

「どうぞ」

と言いながら、南田が王谷を先導した。その後に西原と白石が続き、土岐も来るようにと丸山に目で合図された。

リビングは広い廊下を隔ててダイニングの隣にあった。ダイニングと同じくらいの広さで、部屋の中央に薄茶色のラウンドテーブルがあり、その周りをカラフルなプラスティックの椅子が六脚取り囲んでいた。南田がダイニングに戻り、残りの五人全員が腰掛けると王谷が土岐のほうを一瞥して言った。

「それでは、現在のところのプロジェクトの財務分析状況を説明してもらえるかな」

と下僕を詰問するような口調だった。ときどき、入れ歯がカチカチと噛み合う音がする。

「まだ、大雑把な計算しかしていませんが・・・」

と土岐は前置きした。

「そんなことは分かっている」

と王谷は不愉快そうに言う。土岐には、なにが不愉快なのか良く分からない。

「総費用の現在価値が現行の為替レートで約一千億円、総収入の現在価値が約四百億円、したがって、このプロジェクトの純現在価値は約六百億円の赤字です」

と土岐は、夕方、作業所で丸山に説明した内容を繰り返した。

「この国に六百億円の円借款は出せないよな」

と白石が薄い顎を突き出して薄ら笑いを浮かべて言う。

「出しても、償還できないでしょう」

と西原が黒目を左右させて何かを思案しながら言う。

「とりあえず、プロジェクトを推進するためには、赤字をなんとか圧縮しないと・・・」

と白石が、王谷に命ずるような口調で語りかける。

「まあ、それが財務分析の仕事ですから・・・」

と王谷がタバコに火をつけながら答える。その傍らで、西原がテーブルの上にあった何かの紙の裏に、パーカーのボールペンで縦軸と横軸を描き出した。縦軸に運賃、横軸に累積乗客距離と殴りつけるように書き込んだ。

「土岐さん、プロジェクト期間の累計の乗客輸送距離はどれくらいですか」

と目線をあわさずに、せかせるようにうつむいたままで聞いてきた。先の尖った大きな耳が土岐の顔に向けられていた。

「約四百億マイルです」

と土岐が記憶を辿るように手短に答えると、

「ということは、運賃は一マイルあたり一円ということですか?」

と詰問口調で確認するように西原は顎を突き出して、うろんな表情を土岐に向けた。

「現行の運賃だとそうなります。貨物も含めてということですが・・・」

と説明すると、西原は右下がりのグラフを書き込み、縦軸の切片に4円と記入し、縦軸に1円と記入したところから、横軸に点線で平行線を引き、右下がりのグラフと交わる点から下に点線を下ろし、横軸の目盛りを400億とした。そのグラフを全員に見せながら、西原はいきせききるように説明を始めた。

「この右下がりのグラフはプロジェクト期間累計の電車乗車の需要曲線です。まあ、健全な常識に従って、右下がりということでよろしいですね」

と言いながら一同を見回す。語尾に有無を言わせないような雰囲気がある。

「この国は形式的には社会主義ですが・・・」

と西原が言いかけたとき、王谷が質した。

「形式的には・・・というのはどういう意味?」

「この国の官僚は誰も資本論を読んでいないし、だいたい、社会主義と資本主義の違いも分かっていない」

「じゃあ、なんで、国の名前に社会主義が入っているの?」

と白石が聞く。

「建国の当初は、初代大統領も社会主義のなんたるかは分っていただろうとは思うけど・・・だいたい、社会主義を理想として建国したんではなくて、隣国の社会主義の大国と緊張関係にならないようにという政治的配慮と、その大国から援助を引き出したいという経済的な理由で・・・」

と言いながら、西原は目をグラフに落として、話を戻した。

「で、国の名前は社会主義ではあるが、経済的には自由主義であることを想定して、この需要曲線も自由主義を前提として描いてあります」

「自由主義と社会主義で需要曲線が違うのか?」

と王谷が呟くように言う。

西原はちらりと目線を王谷に向けて、小さく小馬鹿にしたような溜息を吐く。

「自由主義の需要曲線は人々の自由な意思を反映して描かれます。電車に乗るのも乗らないのも国民の自由ということです。乗るかのらないかの判断は、提示された運賃に乗客がどう反応するかに委ねられます。これが自由主義です。高くて乗らないのも自由、安いと思っても運賃以上の支払はする必要はない。金持ちに対しても、貧乏人に対しても、同一価格で販売する・・・これが市場経済です。・・・で、試算だと一マイルあたり一円の運賃だと、累計で四百億マイルの需要があるということです。この需要曲線の縦軸の切片を4円とすると、縦軸と需要曲線と補助的に引いた1円の点線の運賃線で囲まれる三角形の面積は消費者余剰になります。運賃が一円に設定されていても、心理的にはもっと払ってもよいと思っている利用者はいるはずで、いろいろな利用者がいるから、より多く支払ってもいいと考える金額はいろいろだが、一円は支払いたくないと思う利用者は乗らないのだから、乗車する利用者は間違いなく一円以上の評価をしていると考えられる。並走しているバス料金を考慮すると、最大限支払ってもよいと思う金額は、4円程度だ。つまり、この三角形の面積に該当する金額を利用者は払ってもいいのだが、たまたま運賃が一円に設定されているからそれ以上は払わない、いわば利用者の儲けのような金額だ。この三角形の面積は高さが四円マイナス一円で三円、底辺が四百億マイルなので、消費者余剰は六百億円になる。つまり、利用者の利益を六百億円とすれば、プロジェクトの現在価値が六百億円の赤字であるとしても、このプロジェクトは採算があっているということになる」

と言いながら西原は三角形の面積を青いボールペンで斜線を何本も引きながら塗り潰して行く。強く塗りつぶして、質のあまり良くない紙がすこし破れた。

公共プロジェクトの社会的評価ではよく行われる考え方を右の眉を吊り上げながら西原は得意げに解説した。しかし、丸山は理解していないようだった。腕を組んで、首をかしげている。西原は丸山の前に図をずらして、苛立たしそうに説明を繰り返した。

「・・・だって、定価が1円だというのに、自分はそれ以上の評価をしていても、それ以上払う人はいないでしょ。かりに丸山君が2円の評価をしているのに、実際には定価が1円で1円しか払わなかったとしたら、差額の1円は君の利益になるでしょ。一般的に定価販売であれば、定価以下の評価しかしない人は絶対に買わないわけだから、実際購入する人は、定価以上の評価をしているということになるでしょ。その評価の上回った金額を消費者余剰と言うんだよ。一般的に金持ちやその商品についてのマニアほど、消費者余剰は大きくなる」

 丸山は分かったような、まだ分かっていないような曖昧な表情で、唇をすこし尖らせて首を数回縦に振った。西原は丸山に怒ったようにして言う。

「君は、百円の評価しかしていない商品が、二百円で売られていたら買うか?」

「いいえ」

と丸山はどぎまぎして恐縮したように答える。

「それじゃ、二百円の評価をしている商品が、百円で売られていたら買うか」

「まあ、買うでしょうね」

「そのとき、二百円払うか?」

「いあや、百円しか払わないですよ。だって、定価が百円なんでしょ」

「そうだろ。そのときの差額の百円が消費者の利益で、消費者余剰と言うんだ。どんなものであれ、定価販売では買い手が何かを買う時には必ずこの余剰が発生している」

と西原は興奮して少し早口になる。西原はさらに別の紙に同じ縦軸と横軸を描き、先刻の需要曲線よりも傾きの急な右下がりの図形を示した。

「・・・かりに、並走しているバス路線がエネルギー効率が悪いというので、電車開通と同時に廃止されたとすると、電車乗車は必需品的な性格を持つので、需要曲線はそうでない場合と比較して立ってくる。つまり、価格に関して非弾力的になる」

といいながら、西原は丸山の顔を見る。丸山は西原の描いたグラフに眼を落したままゆっくりと首を左右に振る。                            

「つまり、運賃が多少上がっても、代替するバスが走っていなければ、電車乗車の需要は価格が1円以上に上昇しても、ほとんど減らないということだ。普通、価格が上がるとその商品に対する需要が減少するのは、人々がほかの商品を買うようになるからだ。輸送手段が電車しかないとなれば、多少運賃が上昇しても、乗客は減らない」

と言いながら西原は需要曲線が立っているということを強調するように何回もボールペンでなぞる。

「そうなれば、消費者余剰は限りなく大きくなる。建設コストなんか目じゃない。電化すべしという結論になる」

 土岐は焦りを感じた。西原の主張が通れば、成功報酬の九十万円がふいになる。

一般的に、消費者余剰の金額にしても需要曲線の形状にしても誰も正確には知らない。プロジェクトにゴーサインがでるときの最後の決め手になるが、誰も確証を持っていない。日本の多くの不効率な公共投資は需要予測をお手盛りにすることで実行に移されてきた。過剰な需要予測はプロジェクトをごり押しする際の官僚の常套手段だ。

(西原の話は、交通輸送手段を新規に立ち上げる場合には方向性としては正しい。しかし、ディーゼル機関車を電気機関車に代替するのが今回のプロジェクトだから、消費者余剰は既に存在している。電化によって大幅に増加するとは言えない。現在のディーゼル列車の運行においてもほぼ同額の消費者余剰は発生している)

と思いながら土岐は西原の誤りを指摘した。

「でも、現在のディーゼル列車でも、消費者余剰は発生しているので、電車による消費者余剰で評価すべき部分はディーゼルから電化への増加分になるんじゃないですか?そうであるとすると、電化による消費者余剰の増加は、それほど大きくないんじゃないですか。電化によって運行ダイヤが正確になるとか、スピードが上がって駅間の時間が短縮されるというようなことで、需要は多少増えるかもしれませんが、極端に言うと、乗客にとっては車両がディーゼル列車から電車に変わるだけのことで、鉄道で移動するという点では、ほとんど何も変わらないんじゃないですか」

と言いながら土岐は西原が意図的に現在のディーゼル列車の消費者余剰を除外したのではないかと思った。現在発生している消費者余剰を除外すれば、その分電化プロジェクトによる消費者余剰が大きくなる。それによってプロジェクトの採算性が高まる。しかし、西原の説明が意図的に現行の消費者余剰を無視したものでないことは、西原の態度で理解できた。西原は不快感のこもった視線を土岐に投げてきた。

丸山は一瞬、土岐の顔を、

(一体、なにを言いだすのだ)

というような目つきで睨んだ。それから、王谷と西原の両者をおろおろしたような目線で見比べている。

「でも、電化すればダイヤは正確になるし、ドアも完全に車掌が開閉できるようになるので、現在の無賃乗車が減って、・・・」

と言う丸山の言質の誤りを土岐は指摘しかけた。

(無賃乗車の人間は大きな消費者余剰を得ている。その人間が運賃を支払うようになっても、運賃収入と無賃乗車の時より少なくなった消費者余剰の合計は以前と同じ大きさになる。つまり、無賃乗車がなくなるということは電化によって社会的な余剰が増加することを意味しない。無賃乗車の人間が支払う運賃は、無賃乗車の人間にとってはマイナスだが、受取る国鉄にとってはプラスだから、社会全体では両者を合計すればプラスマイナスゼロになる)

土岐はここで怯んだら母の白内障の手術代が奪われるという思いだった。しかし、丸山の困り切ったような顔色を見て、出かけた言葉を飲み込んだ。

白石は土岐の話を無視して、西原にコメントを浴びせた。

「いずれにしても、だれが六百億円を払うかが問題だ。先進国であれば、政府が税金から工面して、赤字分を補助金という形で補填するということで、そのプロジェクトにゴーサインがでるが、この国のような最貧発展途上国にそんな担税能力があるかどうか。円借款のODAである以上、償還が前提となる。償還の可能性がまったくないプロジェクトにゴーサインは出しづらい」

 そこで王谷がタバコの煙を悠然と吐き出しながら口を挟んだ。

「ようは、フィージビリティ・スタディで採算があうという結論を出せばいいわけですね。あとは、プロジェクトが動き始めて、何年か後に、どうも計画通りに行かなくて、償還を繰り延べて、いずれ累積債務処理で、十年か二十年かのちに無償援助の債務免除の対象となればいいわけですね。そのころには、われわれはこのプロジェクトとはかかわりのない部署にいるわけだから、・・・わしなんかどうせ定年だし、なんの問題もない。だいたい、寿命があと十年もあるかどうか・・・」

と語る王谷の西原と白石を交互に見る目が、好意に綻んでいる。土岐や丸山に対しては一度も見せたことのない表情だった。

西原は不満げにボールペンの頭で左手の親指の爪をせわしなく叩いている。その所作を白石がいらだたしそうに注視している。

「まあ、そういうことですね。実際、計画通りに立ち行かないプロジェクトは山ほどある。われわれは公共の利益のためにことを運んでいるのであって、建前上、やっていること自体が善なんですから・・・」

と白石が結んだ。

そこで、丸山がじれたように立ち上がった。

「さっ、結論が出たところで、パアッと行きましょう、パアッと!」

 王谷もおもむろに立ち上がり、後ろに続く土岐に、ななめ目線で言い捨てた。

「まあ、そういうことだから・・・」

その言葉を丸山がすかさず明るくフォローした。

「土岐さん、そういうことで、よろしくお願いします」

そう言う丸山の所作に切ないものを感じた。かつて、土岐が大学四年生のとき、就職するかどうか迷った理由を丸山が体現していた。丸山の人間性がどうであれ、彼は組織の論理に従わざるを得ない。土岐も、このプロジェクトに参加した以上、参加している期間中は、プロジェクトの論理に従わざるを得ない状況にある。

 土岐はパーティールームに戻ってから、しくしくと痛む下腹をだましながら、飲食した。途中で、シュトゥーバが財務分析の様子を聞いてきたので、夕方、丸山に説明した内容だけを伝えた。彼は目を落とし、口をつけていないワイングラスを持ったまま、黙って幾度も首を左右に振った。

「予想していました。適正な報告がなされることを期待しています。真実こそが最高の善です」

と言っただけで、それ以上のことは話さなかった。

シュトゥーバと入れ替わるようにして、西原がワイングラス片手に近寄ってきた。

「おたくのところの、専務理事の萩本さん、お元気?」

と不自然なほど胸を張った姿勢で顎を突き出して聞いてきた。

「ええ、・・・うちの専務理事をご存知なんですか?」

「同じゼミなんで、・・・ゼミの同窓会でよく会うんで、・・・随分と優雅な生活をしているようですね」

と言いながら鼻の穴を剥き出しにして大声で笑った。その笑声に、

(おまえの給料は、おれの所属している経済産業省が出しているんだぞ)

という先刻の意趣返しの侮りがこめられているような気がした。そのとき、土岐の現在の職場をなぜ西原が知っているのか聞こうとしたが思いとどまった。おそらく、扶桑総合研究所に提出した土岐の履歴書がACI経由でこの大使館にも流れているのだろうと想像した。しかし、扶桑総合研究所の人間として行動することを求めていた砂田が、土岐の履歴情報をACIに流したとは思えないので、たぶん、鈴村が取締役という立場で土岐に関する情報をACIに提供したものだろうと推察した。

 丸山は飲食とともに人々の間を歓談しながらウエイターのように移動していた。土岐の近くに来たとき、彼を質問で捕まえた。

「なんで、シュトゥーバだけなんですか?他の国鉄省の人は最初から呼んでないんですか?」

「総裁と財務部長には声を掛けたらしいんですが、・・・ホテルならともかく、こういうところには、かれらは来ないですね。沽券にかかわると思っているようですね。シュトゥーバは業務命令できたようです。とにかく彼は、総裁と財務部長の信任が厚いんですよ。財務分析も、彼がOKと言えば、いいみたいですよ」

と言ってから、近くに西原のいないことを確認して、急に声をひそめた。

「でも、さっきの発言はまずかったですね。いずれ間違いなく何かがあるから、気をつけた方がいいですよ。公衆の面前というほどではないですが、われわれの目の前で、西原さんの誤りを公然と指摘してしまったんですから・・・あの場で言わなくても、よかったような気がしないでもないですがね。西原さんはわれわれの想像を超えた人なんですよ」

と咎めるように言う丸山との間に一筋の亀裂が走ったのを土岐は感じた。しかし、丸山を責める気にはならない。丸山は組織の意向に殉じようとしているだけのことだ。南田にもそのきらいがなくはない。しかし王谷や白石や西原は明らかに自分のキャリア・アップしか念頭にない。日本国民の税金が無駄に使われ、この発展途上国の国民が過剰な公共投資によって将来の債務返還に苦しむことはかれらの眼中にはない。

 ホテルに帰ってすぐ、土岐は報告メールを送信した。

@土岐明調査報告書・現地第4日目、終日現地作業所にて財務報告の作成にとりかかりました。現在の情報では電化プロジェクトのフィージビリティ・スタディでは、大幅な赤字が見込まれます。このままであれば、恐らく、プロジェクトにODAはつかないものと予想されます。西原、白石、南田は国立大学マフィアだとの丸山からの情報がありました。この三人に王谷を加えた四名は、このプロジェクトにODAが付くことにより、キャリアの上でそれなりの利益があるものと考えられます。夕方6時より、扶桑物産の現地事務所においてパーティーがありました。大使館の白石一等書記官と西原コマーシャルアタッシェとプロジェクトの黒字化について議論しました。西原の議論の誤りを指摘しました。以上@

 メールを送信した後、このプロジェクトをつぶすことに土岐はヒロイックな心情を抱いている自分に気付いた。

(九十万円は当然の報酬だ。西原にしても白石にしても王谷にしても、これまですでに十分な報酬を得ている。九十万円という金額は、彼らにとっては大した額ではないかも知れないが、母にとっては失明するかどうかという額だ)

と奮い立たせるように自分に言い聞かせた。


八 現地第5日目


 翌朝の7時ごろ、丸山からホテルの内線で南田が土岐を迎えに来るという連絡があった。8時ごろ、南田が真新しい乗用車でホテルに迎えに来た。

「国鉄の作業所に送り届ける途中で見せたいものがあります」

と言う。土岐は彼の運転する欧州車に同乗した。毎朝乗っている現地タクシーとはまったく別の乗り物だった。

 車は始発駅の近くの踏み切りの手前のアスファルトの途切れた路肩に駐車した。上半身裸のやせ細った少年たちが集まってきた。南田は下車するとポケットから小銭をつかみ出し、車の後方にばら撒いた。少年たちが一斉に地面にはいつくばった。

「かれら、学校はないんですかね」

と土岐が素朴な疑問を言うと、

「一応義務教育はあるんですけどね、教科書とか制服とか靴とか文房具の買えない連中がいて、・・・ほんとうは、この国の政府が無償でそういったものを支給すべきなんでしょうけどね・・・なんせ、税収がないから、財源がない。教科書と制服を無償にするために税金を徴収するとすれば、それらを有償にするのと同じことになる。・・・それに小学校に行かせるよりも小銭を稼がせた方がいいと思う親が多い。ちょっと、たとえは良くないけれど、日本の三流大学なんか、アルバイトばかりで、勉強なんかしていない学生が多いでしょ。もともと勉強が嫌いで、勉強なんかするつもりもないんだろうけど・・・あれは、

『大学に入ったら学費は払ってやるが、小遣いは自分で稼げ』

と言う親が多いからなんですよ。そういう学生たちが日本の最低賃金層を形成し、日本の経済構造に組み込まれている。うちの会社の食品関連の飲食の子会社なんか、損益計算の計画を立てる段階で、最低賃金の学生アルバイトを予算化していますからね。ここの子どもたちもそうで、ちょっとした雑用はみんな子どもたちの労働に依存している。それがこの国の最低賃金層を形成している。ここにたむろしている子どもたちはその最低賃金労働にありつけなかった連中で・・・善悪の問題じゃないんです。そういう最低賃金構造になっているんですよ」

 南田の話に土岐は自分自身が学生時代も大学院生時代もアルバイトに明け暮れていたことを思い出した。土岐の場合は小遣いを稼ぐのが目的ではなかった。しかし、学友たちのほとんどは遊ぶ金が目的でアルバイトをしていた。大教室で遊びの話に夢中になる学友たちを苦々しい思いでうとましく眺めていたときのことがよみがえってきた。そういう不平を母に漏らすと、母は、

「上見れば、星、星、星の星だらけ、下見て暮せ、星の気もなし」

と言って慰めてくれた。たしかに、土岐は大学に進学していることを感謝しなければならないと自分に言い聞かせた。それでも、日々接する学友の遊興と生活のためにアルバイトに追われる自分の身の上とをどうしても見比べて、鬱々としていた。

「ちょっと、こっちへ」

と南田は踏切の黒と黄色のツートンカラーの遮断機の下に立った。

「あっちが、始発駅。あそこから南路線と北路線と内陸路線が出ます」

と左手を指差した。線路の両側に屋根のないプラットフォームが三本あり、線路の中には紙やプラスティックなどの生活ゴミがゴミ捨て場のように散乱していた。こちら側の線路にえび茶色のディーゼル機関車が停車していた。十数メートルしか離れていない。やがて、警報機が鳴り始め、遮断機が水平に下りてきた。十名ほどの人々が線路の中に取り残されたが、誰も走り出そうとしない。錆びだらけの自転車で遮断機をかいくぐる者もいる。どこからともなく人々が遮断機の前に集まり、道の両側から次々と遮断機を潜る。しかし、遮断機を背にして、線路を渡らずにそこに立ち止まる。向こう側の遮断機からも踏み切りの中央に人々が出てきて、横並びの列ができた。若年と中年の男たちで、老人や女性はいない。警笛とともに、ディーゼル機関車がゆっくりとこちらに向かって走り出してきた。重い硬質の地響きが伝わってくる。線路を挟んで五十人ほどが横並びになって、身じろぎもしない。やがて、機関車がかれらの眼前を通り過ぎると、先頭の客車のドアステップに足をかけ、両手で手すりを掴んで、横並びの先頭から順に数人の男たちが飛び乗ってゆく。次の客車にも同じように二、三人の男が飛び乗ってゆく。最後の車両が通りすぎるとき、残された一人が列車と並走しながら踏み切りの先で飛び乗って行った。車掌がその光景を、車窓から半身を乗り出して何事もないかのように見守ったまま、列車は通り過ぎて行った。

 唖然として傍観していた土岐に南田が話しかけてきた。

「どの駅でもこんな調子です。まともに切符を買うのは荷物の多い行商や幼児連れの連中や足腰の悪い老人だけです。女性は着ているものの関係で、飛び乗るのは無理で、それにこの国の女性はほとんど外出しないんです。当局は取り締まるつもりはないようです。カネがあれば切符を買うはずだから、こういう連中はカネがない、カネのない連中からカネは取れないという論理です。まあ、ある種の貧民救済というか、実物給付というか、生活保護というか、日本でも敗戦直後はこういう情景があったんじゃないですかね。白黒のニュース映像で見かけたことがありますけど・・・この国のある鉄道マンは、

『彼らがカネを払おうと払うまいと、列車は走っている』

とも言ってました。

『乗っても乗らなくても列車は走るんだから、無賃乗車の何が悪い』

というのがフリーライダーたちの言い分です。しかし、これを電化すれば、出発時の加速は速くなるし、ドアは自動開閉になるんで、こういう光景はなくなり、並走しているバスよりも運賃が安く、時間が正確で、速いのであれば、彼らは運賃を払わざるを得なくなるし、むしろ喜んで払うでしょう。トランスポート・エコノミストの中井さんにも説明したんですが、公式統計がないということで、あなたが運賃収入予測の原データとしているものに、フリーライダーの乗車は含まれていないはずです。ぼくの推測では、フリーライダーの有料化で、運賃収入は倍近くになるはずです」

 土岐は、ゆっくりと遠ざかる列車が次第に小さくなるのを見送りながら、返答する言葉を捜していた。運賃収入が倍近くになるとすれば、収入は八百億円に跳ね上がり、赤字幅は一挙に二百億円に圧縮される。

「このこと、ご存知でしたか?」

と南田が両手をポケットに突っ込み、腰をすこしかがめて、ななめ下から土岐の顔をのぞき込んできた。

「いえ、知りませんでした」

と土岐はため息をつくようにして答えた。

「まあ、財務分析の守備範囲を超える話かも知れませんが、昨夜、王谷さんからあなたにこれを見せるようにと頼まれまして・・・これでプロジェクトの赤字が多少減額されれば、ぼくがあなたにこの情景をみせたということの証拠にもなりますんで、・・・うちの会社も王谷さんにはこのプロジェクトでこれからいろいろとお世話になるんで、よろしく・・・宮仕えはつらいもんです」

とすこしかがみ込んで、土岐の顔をななめ下からなめ上げるようにして言う。

「考慮します」

としか土岐は言いようがなかった。

「運賃収入は2倍でお願いできますかね」

と南田が押しつけるように言ってきた。土岐は、必ずしもそうはならない理由を言うことにした。

「たしかに、フリーライダーはいなくなるでしょうね。そうすると彼らはバスに乗り換えるかもしれないですね。バスと鉄道の運賃設定はだいたい同額になっているんですが、バス停の数の多いだけバスの方が便がいいんじゃないですかね。それに、この国だっていずれモータリゼーションに向かうでしょう。最初はバイク、つぎは自動車、・・・そうなれば、乗客数が2倍になるかどうか・・・多少は増えるとは思いますが・・・」

 南田は頬を膨らませて、路上の小石を蹴飛ばしている。土岐はそれ以上言うのをやめた。


 南田の車で国鉄の作業所に着いたのは九時前だった。作業所には丸山しかいなかった。丸山は膨大な領収書を整理し、電卓で集計している最中だった。しばらく、声を掛けるのをためらったが、集計のきりのいいところで彼の方から声を掛けてきた。

「どうでした、駅の様子は?やっぱり、一回ぐらいは見といた方がいいでしょうね。・・・ご覧の通り、他のメンバーは内陸線で観光ツアーに出かけました。あなたは明日の午後、プレゼンテーションをやって、夕方はうちが主催する打ち上げがあって、土曜日には帰国の予定なので、サイトシーイングの時間がとれないですね」

「それでいいんです。金銭的にもそんなゆとりはないんで・・・」

と丸山を労うようにして言ったが、彼には通じなかったようだった。丸山はすぐ話題を変えてきた。

「ところで朝、・・・ついさっきなんですけど、大使館に行く途中で西原さんがここに寄って来て、こんな資料を置いていきました」

と言いながら、英文に数字が羅列しているコピーを差し出した。最初の1枚はこの国のGDP統計だった。ここ十年分の金額が表になっていて、人口統計と一人当たりGDPも記載されていた。GDPの成長率は実質で3%程度で、人口増加率は2%前後だった。かなりのばらつきはあるが、一人当たりGDPの実質成長率は平均で1%程度だった。2枚目はインフレ率の統計資料だった。ここ十年の消費者物価上昇率は年率で10%近かった。ばらつきはあるものの、資源価格の上昇した年には10%を超えていた。統計表の下に金釘流の手書きで、

「運賃計算にインフレを考慮すべし」

と書き込まれていた。さらにその下に初年度を100としたときの物価指数が年率10%の上昇率で三十五年分打ち出されていた。三十五年後には物価指数は3000を超えていた。

 資料を読み終えるのを待っていたかのように丸山が話しかけてきた。

「西原さんが、インフレを考慮すれば、このプロジェクトは何の問題もないと言ってました。巨額投資は最初の5年間で、あとの年に運営費と維持費はコンスタントに掛かってくるが、知れている。インフレを運賃計算に組み込むようにとの要請でした」

と言う丸山の要請という文言が土岐の耳にひっかかった。

「要請?・・・よくわからないんですが、西原さんはこのフィージビリティ・スタディに対してどういう立場におられるんですか?わたしの理解では、わたしはACIのメンバーの一員として作業をしているつもりなんですが・・・ですから、王谷さんの要請ということであれば分かるんですが・・・」

「ああ、そういうことですか・・・それは、まあ、そうなんですけど・・・実質的に今回のプロジェクトの絵図を描いたのは西原さんで、それに扶桑物産の南田さんと一等書記官の白石さん、さらにはこの国の運輸大臣と国鉄総裁が乗っかったというかたちになっているんです。そもそも、この国の国鉄では誰も電化しようなんて考えていなかったんです。このプロジェクトが日本の政府系金融機関でODAの対象として採択されれば、西原さんも白石さんも南田さんもそれにうちの会社もみんな手柄になるんです。とくに、王谷さんは、このプロジェクトが採択されれば、うちの取締役就任の可能性が出てくるんで、必死です。このプロジェクトがおじゃんになれば、来年定年で、嘱託で残る道はあるけど、取締役と比べれば月とすっぽんで、・・・収入的にえらい違いですよ」

と語る丸山の話し方は、中年のおばさんのように、感情豊かで、言葉の端々に思いが込められている。言葉以上の情報が伝わってくるが、その信憑性については、なんとなく胡散臭さが感じられる。必要以上に誇張されているのではないかという疑惑が拭いきれない。そんなことを感じながら、土岐は漫然とデータの数値の上に目線を滑らせていた。

「それから・・・きのうのことですが、西原さんを批判したのはまずかったですね。あのひとには珍しく、反論しなかったので、たぶん土岐さんの言ったことが正しいんだろうとは思いますけど、・・・プライドの高い人みたいですからね。・・・けさも、土岐さんが南田さんと駅に行っていて、いないのを承知でここに寄ってますから、そうとうきのうの一件でカチンと来ていたんじゃないでしょうか。意趣返しがないといいんですけどね。ああいう、自尊心の高い人が自尊心を傷つけられたとき、どのくらいはらわたが煮えくりかえっているのか、ぼくみたいに自尊心のかけらもないような人間にはとても図り知ることができないです。・・・ぼくの会社でもあったことなんですが、部署の飲み会で部下が上司を酔った勢いでからかったら、その上司がそのことを根に持って、その部下を左遷した。その部下は、まさか飲み会で言ったことで自分が左遷されたとは思わないから、長い間どうして自分が左遷されたのか、配所の月を眺めながら、理由が分からなかったみたいです」

丸山に心配してもらったこともあって、土岐はとりあえず、インフレ率10%のケースと5%のケースを想定して、運賃収入を増加させてみた。5%の場合には、30年後でも、物価指数は4倍半の450程度にしかならない。インフレ率10%として、5年後から年率10%で運賃収入を増加させていくと、総額で約二千八百億円になった。これに対してコスト総額は、メンテナンス費用とオペレーティング費用が物価スライドで増加するため、約二千九百億円となり、プロジェクトの価値はマイナス百億円となる。土岐は、その収支尻を丸山に見せてみた。

「わずかの赤字ですか。万々歳ですね。これにしましょう、あしたのプレゼンは。みんなハッピーです」

と丸山は本当にうれしそうに小躍りした。彼が全身で嬉しさを表現しているのが分かった。彼も誰かから圧力を掛けられているのかもしれない。それは、王谷のみならず、東京本社の彼の直属の上司であるかもしれない。彼の喜びが土岐にも伝わり、彼の晴れやかな情感が伝染してきた。不覚にも口元が自然に綻んでくるのを土岐は抑え切れなかった。

 土岐はもう一度インフレの効果を確認した。5%のインフレ率では総収入は一千億円程度にしかならず、赤字基調は変わらない。このプロジェクトを黒字化させるためには10%程度のインフレ率が必要であることが確認できた。しかし、10%のインフレ率が30年以上にもわたって続く経済がどのようなものであるのか、土岐には想像もできなかった。

 午後から、報告書の清書にとりかかることにして、午前中はとりあえず図表の作成に専念した。インフレ率0%、5%、10%の三つのケースについて、図と表が完成したのは、十一時をかなり回った頃だった。一息ついていると、シュトゥーバが突然作業所に入ってきた。ほかのメンバーがいないのが意外のようで、部屋の中を尖った目で見回している。丸山はにこやかに挨拶したが、シュトゥーバはにこりともしなかった。いきなり土岐の隣に椅子を引き寄せて、

「財務分析の状況を説明してくれ」

と言う。土岐は、いまできたばかりの折れ線グラフを見せて、3つのケースについて簡単に訥々と説明した。シュトゥーバは半跏趺坐の弥勒菩薩のように細長い片足を組み、右手の人差し指を頬に当て、じっと聞き入っていた。土岐の英語が分からなくなると、土岐の目をじっと見る。そのつど、土岐は言い直した。

土岐の説明が終わると、首を左右に振りながら聞き取りやすい英語で話し始めた。

「年率10%のインフレが30年も続くという想定は、わが国の基本政策に反する。わが国が過去10数年間、年率平均10%のインフレを放置していたのは、財政赤字を中央銀行引き受けの国債発行で賄わざるを得なかったからだ。今年から、中央銀行総裁がシカゴ大学で博士号をとったマネタリストに代わり、赤字国債を中央銀行は引き受けないことを表明した。実際、10%のインフレ率はそれを支える貨幣増発で実現してきた。わが国の場合は、先進国のような中央銀行の政府からの独立性は必ずしも担保されていないが、それでも大統領は基本的に新中央銀行総裁のその表明を受け入れた。政府が赤字国債を増発すれば、市中金利が上昇し、クラウディング・アウトが起こる。あなたの国のように十分な家計貯蓄があれば別だが、わが国の国民はほとんど貯蓄をしない。いや、アメリカ国民のように借金をしてまで消費をするために貯蓄をしないのではなくて、貯蓄をできるほど所得がないのだ。したがって、わが国は緊縮財政を採らざるを得ない」

と土岐のヒアリングに大きな誤りがないとすれば、シュトゥーバはそんなようなことを話した。土岐は、彼に結論を確認した。

「ということは、今後30数年間、10%のインフレ率が持続するということはありえないということですか」

「そういうことだ」

 傍らで二人の会話を傍聴していた丸山が口を挟んだ。

「でも、資源価格も上昇しているし、3%程度の経済成長も見込めることだから、5%程度のインフレ率だったら、許容範囲内ではないですか?」

「資源価格の上昇はインフレとは違う。たしかに、物価を押し上げるが、コスト・プッシュは一過性のものだ。それに需給がゆるめば、資源価格は下落する局面も出てくる」

とシュトゥーバは丸山に説明するが、

(シビル・エンジニアのお前が何でそんな質問をするのか)

と訝しげな表情を見せる。土岐もたしなめるような目線を丸山に送ったが、それに気付いた素振りは見せなかった。

「とにかく、インフレは人心を荒廃させる。賃金はインフレに遅行してしか上昇しない。だから、インフレ率以上に価格の上昇する財貨を手に入れた者が、キャピタル・ゲインを手に入れて、額に汗して働く人よりも、優雅な生活を享受する。国民みんながキャピタル・ゲインの取得に走ったら、実体経済は崩壊する。日本の不動産でもアメリカの住宅でもオランダのチューリップでもそういうことがあったでしょ」

と言い切ると、シュトゥーバは別れの挨拶もせずに作業所を出て行った。ぴしゃりと閉じられた引き戸の音に彼の憤然とした思いが感じ取れた。

 丸山はシュトゥーバの見解をおおよそ理解したようだった。顔から先刻の喜色がすっかり剥げ落ちていた。しばらくのあいだ、机の上に目を落とし、何か思案を巡らせているようだった。

「あのぅ・・・シュトゥーバが最後に言ったことは、日本のバブル景気で踊った人のことを言ってたんですかね」

「さあ、彼がどの程度、日本のバブル経済とその崩壊のことを知っているのか?わたしだって、活字情報で知っている程度ですから・・・オランダのバブルの話はたぶん、チューチップの球根のことだと思うんですが、・・・それははるか昔のことだから、シュトゥーバだって、本か何かで得た情報だと思いますよ。彼が言おうとしたことはたぶん、

『待ちぼうけ』

という童謡のことじゃないですかね」

 『待ちぼうけ』

という曲名を聞いて丸山は素っ頓狂な面差しを土岐に向けた。

「『待ちぼうけ』?って、あの童謡の・・・」

 土岐は、音痴ではあるが、適当な旋律で歌ってみせた。

「♪待ちぼうけー、待ちぼうけー、ある日、せっせと、野らかせぎー、

そこへうさぎが飛んで出てー、ころり、ころげた木のねっこ

♪待ちぼうけー、待ちぼうけー、しめた、これから寝て待とかー、

待てば獲物はかけてくるー うさぎぶつかれ、木のねっこ

♪待ちぼうけー、待ちぼうけー きのう、桑取り、畑仕事―、

きょうはほおづえ、日なたぼこー うまい切り株、木のねっこ

♪待ちぼうけー、待ちぼうけー きょうはきょうはで、待ちぼうけー

あすはあすはで森のそと、うさぎ待ち待ち、木のねっこ

♪待ちぼうけー、待ちぼうけー もとは涼しいきび畑―、

いまは荒野のほうき草、寒い北風、木のねっこ・・・、おそまつさまでした」

「それって、北原白秋ですよね。

『待ちぼうけ』

ってバブルの歌だったんですか」

と丸山は心の底から感心したように首をひねって言う。

「言いたいことは、人間は一度、楽をしていい思いをした成功体験をしてしまうと、それが忘れられなくって、それを繰り返して、結局身を滅ぼすということだろうと思うんです。競輪、競馬、競艇、パチンコ、パチスロなんかがそうじゃないですかね。ただ、白秋のすごいところは、そうした個人のバブル崩壊が社会全体に及ぶということを教訓として歌っている点です」

「へぇー、経済も世相も荒廃するということですか・・・」

「いえ、これはわたしの勝手な解釈です」

丸山は突然、何かを思い出したように立ち上がると、

「白石さんと、お昼を一緒にしようかと思うんですが、いいですか?・・・じつはきのう、パーティーの帰り際に白石さんからあなたと昼食をしたいという誘いを受けていたんです。・・・いま、思い出しました。・・・すいません」

といやもおうも言わせないような語勢で言う。白石とは昨夜のパーティーでふた言み言、言葉を交わしたが、他人の情感をまったく忖度せず、傍若無人な言動をとるような印象を抱いた。自分の考えを一方的に押し付けてくる白石のような人間を土岐は好きではないが、

「ええ、構いませんよ」

と答えざるを得なかった。

 白石が指定したインド料理店にタクシーで向かった。国鉄の作業所から十分程度のところだった。車の中で、丸山が先刻のシュトゥーバの話したことについて聞いてきた。

「さっき、新中央銀行総裁がシカゴ大学で博士号を取ったって言ってたでしょ。それとインフレとなにか関係があるんですか?」

 土岐にとって簡単に説明するのが難しい質問だった。完全に理解していない人間が経済学の素養のない人間にうまく説明できるわけがない。土岐は適当に答えた。

「金利を下げて貨幣供給量を増やせば、景気を良くするという考え方が一方にあるんです。シカゴ大学の連中は、景気の動向はあくまでも実体経済の潜在成長力に依存するから、貨幣供給量だけでは景気は良くならないと考えているんです。実体経済の潜在成長力以上の貨幣供給を増加させると、インフレーションになると主張するのがシカゴ大学を中心とするマネタリストの連中なんです」

「そうすると、新総裁はどうするんですか?」

「この国の潜在成長力以上には貨幣供給量を増やさないということでしょう。だから、インフレーションは起こらない」

「でも・・・先進国でも、不況になると中央銀行が金利を下げて、貨幣を増やすんじゃないんですか?」

「不況対策としては、貨幣は経済をさらに悪化させないという程度の効果しかもたないんです。貨幣を増発してもそれが実需に向かわずに、退蔵されるだけという流動性のワナに経済がはまるだけで・・・すいません。マクロの経済政策はわたしの専門じゃないんで、うまく説明できません。・・・でも、多くの国のインフレで実証されているように、貨幣が増発されると確かにインフレになるんです。かつてのメキシコやブラジルやロシアもそうでしたし、戦前のドイツの事例が有名で、最近の事例だと、確かベトナムがそうで、・・・日本の場合だと、第一次オイルショック直前の狂乱物価のことがどこかの教科書にのっていました」


首都の街中のどこをどう走ったのか、皆目見当がつかなかった。インド料理店は門構えはだけはタージマハルのようなイスラム調の佇まいだった。白い大理石がふんだんに用いられていた。ウエイターはシーク教徒のターバンを頭に巻いていた。白石が予約を入れていたようで、丸山が白石の名を告げると、

〈reserved〉

と書かれたカードが置かれたテーブルに案内された。

「よかった、白石さんはまだきていなかった」

と丸山はおちょぼ口で安堵に頬を緩める。

 テーブルは方形の紫檀で、床の白い大理石とのコントラストが鮮明だった。高い天井にはマリン・ブルーの地に白いアラベスクの紋様が稠密に描かれ、そこから吊るされた首の長い扇風機が鷹揚に回転していた。

 しばらくすると、半そでシャツに蝶ネクタイを締めた白石が現れた。言いようのないちぐはぐな格好に可笑しさがこみ上げてきたが、土岐はじっと堪えた。

 テーブルに着くなり、

「料理はもう注文してあるから・・・」

と白石は当然のように独善的に言う。

「お世話様です」

と丸山は媚へつらうように礼を言う。彼の本心なのか、それとも営業的なトークなのか、截然としない。

「タンドリチキンとナンとヨーグルの簡単なメニューだけど、・・・何か飲みものは?」

と言いながら白石はウエイターを手招きした。土岐は、

「今日の午後はあしたのプレゼンの資料を作成しなければならないんで・・・」

と暗にアルコールの注文を断った。

「いや、紅茶かコーヒーか、どちらか、とうことで・・・」

と白石は土岐の受取り方に非のあるような口調で言う。

「ぼくは、ミルクティー・・・チャイで・・・」

と丸山がなんの屈託もなく速答した。

「じゃあ、わたしもミルクティーで・・・」

と土岐は丸山にならった。

「ものすごく甘いけどいいかな?」

と白石が土岐の無知を懸念するように念を押す。土岐は曖昧に首を縦に振った。白石は飲み物の注文をウエイターに告げると土岐に聞いてきた。

「改正されたプロジェクトの現在価値はいくらぐらい?」

「10%のインフレが30年程度続くと想定すればかろうじて百億円の赤字に収まります」

と言うと、白石は顎をしゃくりあげるようにして、すこし頭をかしげた。

「オペレーティング・エンジニアの山田さんは、オペレーション・コストの算出で、ラーニング・バイ・ドゥーイングを斟酌したんだろうか?」

「斟酌しているのかどうか、分かりませんが、ラーニング・バイ・ドゥーイングについての注記はありませんでした」

 そこで、

「えっ?」

と言いたげに、片方の眉の端を鋭く吊り上げた丸山が質問した。

「ラーニング・バイ・ドゥーイングって何ですか?」

 土岐は目で白石の許可を取って丸山に説明した。

「OJT・・・オン・ザ・ジョブ・トレーニングみたいなもんで、作業をすることによって能率が向上するというようなことです」

 土岐の説明に白石は何の反応も示さなかった。興味がないのか、どうでもいいのか、彼はウエイターが運んでくるタンドリチキンに目を奪われていた。

 各自の目の前に銀の大皿に乗った半身の小ぶりのタンドリチキンが出された。白石が手をつけるのを合図に土岐と丸山も香辛料にまみれたチキンの丸焼きにフォークを突き立てた。

「メンテナンス・コストとオペレーティング・コストには、それなりの節約が期待できるので、反映させてください。たぶん、山田さんは日本の感覚で、そういったコストを算定していると思うんですが、技術の向上やコストの節約を考慮しないというのは、この国の人々に対して失礼でもあるし、そもそも、わが国の援助精神にも合致していない」

 援助精神と聞いて、丸山がタンドリチキンを毟り取る手を一瞬休め、白石の顔を見た。

「要請主義ということですか?」

「いや、無償援助よりは有償援助、低金利よりは市場金利で、という考え方です」

「グラント・エレメントをより少なくということですか?」

と土岐が言い終わらない前に、丸山が酔いから醒めたようなとろんとした目付きで説明を求めるように土岐の方に顔を向けてきた。土岐は白石が土岐の質問に答えないのを確認して丸山に説明した。

「国際資本市場で金利10%で資金調達した場合を0%として、援助による資金供給の条件・・・金利や据置期間や償還期間なんかの条件が緩くなるとエレメントが大きくなり、無償援助の場合は100%になる。つまり、贈与部分のことをグラント・エレメントというんです。DACが、しち面倒くさい換算式を定義していますけど・・・この条件が25%を超えないと援助として分類されないことになっているんです」

 土岐の言葉尻を奪うように白石が早口で話し出した。頭の回転に舌の回転が追いつかないようで、ときどき舌足らずな言い方になる。

「ご案内のように日本は、グラント・エレメントが少ない。それを指摘する欧米人がかなり多い。その受け売りで発言したり、文章にしたりして批判する日本の評論家も多い。しかし、国際機関では日本のODAの規模が評価されている。つまり、途上国に資金供与すること自体がリスクだから、そういう巨額のリスクをとっていることが評価されている。グラント・エレメントを少なくし、ODAの規模を大きくするというのが日本の方針だ。かつて明治維新以降、近代化の道を歩んだ日本がそうであったように、借りたお金を返済する過程で、鋭意努力するという国民性や国力が涵養される。グラント・エレメントの多い援助がいい援助だとする風潮は誤りだ。そういう援助はその国を援助依存症に追いやる。日本の援助は被援助国の自助努力を促すことに重点を置いている。自助努力の養成こそが最大の援助という認識だ。今回の国鉄電化プロジェクトも低利ではあるが、グラント・エレメントがかろうじて25%を上回る程度になるはずだ。そうであるからこそ、この国の国鉄のメンテナンス・コストとオペレーティング・コストにも自助努力のあかしとして生産性向上の目標を組み込んでもらいたい」

「天は自らを助ける者を助ける、ということですかね。・・・あっ、それじゃ日本が天ということになって、すこし傲慢になりますね。でも、累積債務が肥大化すると、努力して返済しようという意欲がかえってそがれるという側面もあるんじゃないですか?」

と丸山は一知半解の軽い調子で言う。からかわれたと思ったのか、一瞬、白石の表情のこわばるのが分かった。丸山もそれを察知したようだった。丸山に対する好意のつもりで、

「わかりました。維持費と運営費に生産性の向上を考慮してみます。それ以外にも、収支両面での経営努力も別項目で考えてみることにします」

と思わず言ってしまった。言った後で、土岐は自分の言ったことを修正した。

「でも、どうなんでしょう。これは、文献で得た知識ですが、日本の国鉄の失敗は全く考慮しなくていいんでしょうか?」

 丸山がすぐ反応した。

「国鉄って、いまのJR?」

「ええ、・・・国鉄は昨夜、西原さんが言ってた消費者余剰の概念を使って、事業自体は赤字であっても、それから国民が受ける便益が膨大だ、という根拠で、赤字を放置し、その赤字が返済不能になって、制度設計それ自体に誤りがあったということで、民営化されました」

と土岐は耳学問を披露した。

 白石は黙って聞いている。丸山は知らないことがあるとすぐ質問してくる。

「制度設計のあやまりって、なんですか?」

「西原さんの話は、乗客サイドだけの話でしたけど、日本の国鉄の制度上の誤りは、赤字が発生した場合、政府が自動的に補填したことです」

「でも、西原さんの議論では、乗客の利益がそれを上回ればいいということじゃなかったんじゃないですか?」

と聞く丸山は聴き上手だった。話し手の腰を折ることなく、適切な質問をしてくる。

「問題は輸送サービスを提供する側のモラルなんです。どんなに不効率なかたちで輸送サービスを提供しても、赤字分は政府が補填してくれるということであれば、効率を高めようというモチベーションがなくなるんじゃないですか。西原さんの議論が正論となるためには、たとえ、赤字分を政府が補填するとしても、またどんなに頑張ったとしても赤字にならざるを得ないとしても、精一杯効率的に働くという前提が必要なんです」

「JRの前身の国鉄にはそのモラルがなかった?」

「どうなんでしょう。国鉄の職員だからということではなくて、誰だってそうなりませんか?赤字をこしらえても、全く責任を問われない。しかも、どうやったって、安い運賃設定を政府に強要されていれば、黒字にはならない。だったら、手を抜こう・・・」

 白石が土岐と丸山のやりとりにくぎを刺した。

「モラルの問題は、やりはじめたら収拾がつかなくなる。性善説で考えるしかないでしょ」

 野菜とヨーグルトがテーブルに並べられた。土岐はすこし口に含んでみたが、うまいものではなかった。いずれにしても、タンドリチキンは土岐の口には合わなかった。香辛料の効きすぎが理由だと思われた。かえって食欲がそがれたような気がした。

 白石が話題を変えてきた。

「きのう土岐さんから扶桑総研の名刺をもらったけど、本当の所属は東亜クラブじゃないの?」

「現在は短期出向のような形で、扶桑総研の所属になっていますが、このプロジェクトが終われば、東亜クラブに復帰します」

と答えつつも、白石が土岐の所属を知ってる理由が分らなかった。

「そうすると、ACIと扶桑総研がこの種のODAの事前調査で財務分析について業務提携のようなものを結ぶという、話を聞いたんですが・・・そのたびに土岐さんが短期出向するということですか?」

と丸山が白石の顔色をうかがいながら聞いてきた。

「そのへんはまだ不確定です。じつはいま、大学の新設学科の設置申請で、専任教員の一人として文科省で審査を受けています・・・かりに、来年度から専任教員になってしまうと、あまり自由が利かなくなるので、この種の海外出張は難しくなるかもしれないんです。扶桑総研もODAがらみの財務分析のスタッフがいないようなんで、・・・いまのところわたしについては、なんとも言えない状況です」

「文科省で審査ね・・・知っている連中は結構いるけれど・・・」

と白石は何かを言いかけたが、見下したような含み笑いで語尾を濁した。

 食後、丸山が代金を支払った。白石はそれが当然であるかのように、先に帰って行った。


 作業所に戻ってから、白石に言われたとおり、維持費と運営費について経営努力を勘案し、定率で減少するように金額を修正した。その結果、プロジェクトの現在価値は五十億円の赤字に削減された。西原が主張した消費者余剰の増加を過剰に勘案すれば、社会的な純利益が発生する。しかし、白石のコストの低減にかんする想定は、西原のインフレの勘案と矛盾する。インフレは経済全体の現象だから、運賃のみに物価上昇を反映させて、維持費と運営費には経営努力を考慮して、ゆるやかに反映さるというのは片手落ちになる。インフレによる人件費の高騰とモラルの低下を考慮すれば、経営陣だけの経営努力による経費節減は吹き飛ぶ可能性がある。その結果、プロジェクトの赤字はあまり改善しないことになる。土岐が考えあぐねていると、丸山は心配そうに助言してきた。

「白石さんの意見と西原さんの意見は、わずかでもいいですから、入れてください。わが社は今回のフィージビリティ・スタディは赤字で、この後の本調査で利益を上げる予定なんです。コンサルタント会社を選定するのは、この国の国鉄総裁ですが、この人は日本大使館の言いなりなんで、西原さんと白石さんの心証を害すると、かりにODAが付くことになったとしても、本調査を他社に持って行かれることにもなりかねないんで・・・」

 土岐は悩んだ。白石と西原の横やりを財務分析に取り入れれば、プロジェクトの赤字が縮小されて、ODAのつく可能性が高まり、成功報酬の残金の九十万円が遠のく。逆に、かれらの提言を排除して、適正に財務分析を行えば、ACIが本調査の受注を逃し、ACIと扶桑総研の業務委託関係が破談になる可能性がある。その業務は土岐が引き受けることになるので、そうなれば土岐に逸失利益が生じる。金額的にはおそらく九十万円以上になるだろうが、時期的には将来のことであり、不確定性が高い。いずれにしても、時間がたてばたつほど、母の白内障は確実に進行する。

最終的に土岐は西原のインフレの勘案と白石の経営努力による経費節減を個別に財務分析に織り込むことにした。プレゼンテーションでその矛盾を指摘されれば、

「今後の検討課題とします」

と逃げざるを得ない。

土岐は、そこまでのデータをもとにして、プレゼンテーション用の資料の作成を始めた。丸山は傍らで、領収書の束を整理していた。

「プレゼンテーションは一時間ぐらいですか?」

と土岐は手を休めた丸山に確認した。

「報告が三十分程度で、あとは質疑応答です。いまのところ、三時ごろからの予定です。・・・あっ、言うのを忘れていましたが、王谷さんが、あすの午前中に一回、予行演習してもらいたいと言うんですが、いかがですか?」

「大丈夫です。資料は今日中にできると思います」

「大変ですね。プレゼンテーションするのはあなた一人ですから、われわれエンジニアの話は国鉄総裁には分らないと思うんで、・・・どっちにしても、金銭的な結論が最も重要なんで・・・まあ、頑張ってください」

と丸山は慰労のことばを忘れない。

「国鉄総裁に聞かせるんですよね。表敬訪問もしていないけど、大丈夫ですか」

「それなら、王谷さんが、ここに来たときに、プロジェクト・チームを代表して行っているからいいと思います」

 広い作業所で、丸山と土岐の二人だけの作業が続いた。プレゼンテーション用の資料は五時前にほぼ完成した。そのことを、土岐が丸山に告げると、

「じゃあ、帰りますか」

と国産の腕時計を見ながら言う。彼の作業もほぼ終わったようだった。

 帰りのタクシーの中で、

「明日は、ホテルの玄関に十時前にお願いします」

と丸山が疲れきったような声で思い出したようにぽつんと言う。

「ずいぶん、遅いんですね」

「電信関係の連中、・・・松山さん、浜田さん、畠山さん、川野さんたちが、一足先に、プレゼンテーション終了次第、その足で空港に向かうんで、荷造りやら、荷物の整理やら、チェックアウトやらで時間が欲しいそうです」

「わたしも含めて、残りの人はあさって帰国ですか?」

「そうです。王谷さん、吉川さん、山田さん、高橋さん・・・総勢6名ですか。飛行機の予約の方は、けさコンファームしておきましたから・・・」

「そうですか。なにからなにまで、お世話になりました」

「いあや、まだ、あしたが残ってます。国鉄総裁には、南田さんと一緒に、ずいぶんと鼻薬を嗅がせましたけど、・・・」

と言いかけて、丸山は口をつぐんだ。しばらく、土岐の反応をうかがっているようだった。土岐は何も言わずに黙っていた。丸山は黙っていられなくなって、

「うちと南田さんの扶桑物産との間で、ずいぶんと裏金のキャッチボールやロンダリングをやっているようです。一社で裏金をプールすると摘発されるおそれがあるけど、資本関係のない二社の間で取引があったように見せかけて、海外子会社経由でやれば絶対に国税庁に尻尾を捕まれないらしいです。ぼくは手口は良く知らないんですけど・・・」

と言って中途半端に笑いかけてきた。そのうちにホテルに到着した。

 シャワーを浴びてから、土岐は一階ロビーに降り、コンシェルジェのデスクのパソコンを使ってメールを送信した。

@土岐明調査報告書・現地第5日目、早朝、南田の案内で駅舎を見学しました。乗客予測の上積みを要請されました。作業所で西原からのメモを受け取りました。そのメモでインフレを考慮し、運賃収入を水増しするようにという要求を受けました。昼食を白石と共にし、白石から経費削減努力を盛り込むようにとの強い示唆を受けました。午後は、財務分析レポートを作成しました。なお、今回のプロジェクトの発案者は西原で、プロジェクトにODAが付けば、西原、白石、南田ともにその業績を評価されるようです。商社と大使館の画策したプロジェクトであり、純粋に現地政府が我が国に要請したものとは考えられません。また、プロジェクト・マネージャーの王谷はACIの重役のポストがかかっているようです。さらに、証拠はないがACIと扶桑物産の海外子会社間で脱税により、裏金作りをしている模様です。以上@


九 現地第6日目


 翌日の金曜日、午前10時すぎからプレゼンテーションの予行演習が始まった。南田がプロジェクターとスクリーンを扶桑物産の現地事務所から持って来た。先に帰国し、東欧に飛んだトランスポート・エコノミストの中井を除くコンサルティング・エンジニアリング・サービスのチーム全員と南田が土岐のプレゼンテーションに耳を傾けた。最初に、土岐は断った。

「午後からは英語でやりますが、ここは、日本語でいいですか?」

「いいでしょう。そのほうが間違いがない」

と王谷がスクリーンの一番前の席で腕を組みながら言った。

「それでは、はじめます」

 丸山が作業所の蛍光灯をすべて消した。スクリーンに、

〈THE ELECTRIFICATION OF THE SUBURBAN RAILWAY NETWORK〉

というタイトルが浮かび上がった。土岐は、咳払いをしてプレゼンテーションを始めた。

「このプロジェクトの主要な目的は、二つあります。一つはエネルギー効率の悪いディーゼル機関から電気機関に代えることにより、エネルギー消費を節約し、石油の輸入代金を削減すること。二つ目には、正確なダイヤと列車速度の向上による経済効果により、この国の首都近辺の経済成長を促すことです」

 スクリーンには英語でキーワードだけが、箇条書きになっている。最初の画面の説明を終えて、ノートパソコンの前にいる丸山に視線を送ると、彼の指がエンターキーを叩き、画面が次に進んだ。

「最初に、売上の予測です。準備期間が一年、その後の4年間は建設期間で、6年目からの乗客と貨物の自然増による需要増加は、実質ベースで年率3%成長を見込んでいます。さらに、一人当たりの所得増加による需要増加と諸物価の高騰の上積み分を年率10%として算定し、それらを割引率3%で現在価値に直すと、日本円換算で二千八百五十億円になります」

 そこで、王谷からとがめるような声がかかった。

「インフレのことは言う必要はないんじゃないの?」

 その意見に南田がすかさず同調した。

「インフレ率10%はちょっと問題ですね。あえて言わないほうがいいような気がしますが・・・」

 丸山はきのうの午後のシュトゥーバの話を思い出したように、激しく頷いている。シュトゥーバは新中央銀行総裁はインフレを抑制すると評していた。

 吉川が王谷の方を見て小さく手を上げた。

「ちょっと、よろしいですか?」王谷は鷹揚に斜めに許諾の首を振る。

「その・・・現在価値ってなんですか?こちとら、財務については素人なもんで・・・すいません。初歩的な質問で・・・」

 土岐は王谷の許可を得ずに勝手に説明を始めた。

「現在価値というのは将来の価値を現在の時点で評価した価値という意味です」

 王谷が不快そうに組んでいた腕を左右逆に組み直す。丸山がそれを察知して心配そうに土岐に目配せする。土岐は説明を続ける。

「要するに、将来の金額は現在の時点で現在の金額と比較すると金利分安くなるということで、その安くなる利率が割引率ということです」

と土岐は吉川の眼を見て解説するが、吉川は王谷の顔色をうかがっている。

王谷が念を押すように強圧的に言う。

「いい?・・・今日のプレゼンテーションはあくまでも国鉄総裁に対する説明で、青臭い学会での発表とは違うんだ。いまの国鉄総裁は、大統領の親戚というだけの理由で、総裁の椅子に座っているぼんくらで、このプロジェクトで、自分の懐にいくら金が転がり込んでくるかということ以外にはなんの興味もない人間なんだ。細かい説明は要らない。蛇足というもんだ」

 王谷のことばのひとつひとつが土岐の神経につき刺さった。腹蔵からむかむかと込み上げてくるものがあったが、じっと堪えた。こめかみをしめつけられるような感覚があった。

「それでは、結論だけでよろしいですか?」

と土岐は感情を抑えてはいたが、声がすこし震えているのが自分でもわかった。

「しろうとにも分かる程度で、・・・へんな質問をされたら、あんたも困るでしょ」

と言う王谷の意見に従うことにした。

「それでは、つづきから・・・」

と言いながら、土岐は丸山がスクリーンの画面を次に進めるのを待った。

「最初に、売上の予測についての説明です。プロジェクトの評価期間を35年として、6年目の電化工事完成年次からあとの30年間に発生する収入を割引率3%で計算すると、収入総額の現在価値は日本円で二千八百五十億円になります。一方、費用の方は、最初の5年間に集中して発生し、6年目からは運営費と維持費だけになり、これも3%の割引率で現在価値に直すと、日本円換算で二千九百億円となります。したがって、プロジェクトの現在価値は五十億円のマイナスとなりますが、消費者余剰を考慮すると、社会会計的にはかなりの黒字になることが期待されます」

 腕組みをして王谷の隣で聞いていた吉川が短い足を投げ出して、頓狂な声を出した。

「えっ?それだけ・・・五分も話していないんじゃないの」

「いえ、これはアブストラクトで、全体の要約です」

と土岐はなだめるようにして言った。松山は項垂れて、軽い鼾を洩らしている。他の連中も、丸山を除けば、目は開いてはいるものの抜け殻のようで、静聴はしているが、拝聴しているようには見えなかった。

「まあ、ここにある目次によると、最初に結論を提示して、あとから細部の説明をするわけね」

と王谷がチェーンのついた眼鏡をはずして、手元のレジュメを裸眼で確認している。

「ええ、そのつもりです」

「問題は2つある。一つは消費者余剰。あんたは熟知しているから簡単に説明できると思っているかもしれないが、国鉄総裁はたぶん理解できないと思う。自分が理解していることを自分が理解しているように説明すれば、誰でも分かると思っているかもしれないが、それは相手のレベルが自分と同じか自分より上の場合だけに限られる。あの国鉄総裁はどうみてもあんたよりレベルは下だ。したがって、社会会計的に消費者余剰を含めれば黒字だという説明はまずい」

と言いながら王谷はレジュメのその文字をボールペンの先で激しく叩いた。

「それでは・・・」

と言いながら、メンバーの顔を一人一人見渡してみたが、土岐の目線に答えようとするエンジニアは一人もいなかった。

王谷だけが答える。

「そのさ、・・・割引率3%の根拠だけど・・・」

「アメリカの財務省証券の長期国債の利回りです」

「そんなことはどうでもいい。それを引き下げれば、黒字になるでしょ」

 王谷の言う通りだった。巨額のコストは最初の5年間に集中している。複利計算で割引いても、それほど小さな金額にはならない。それにたいして、プロジェクト評価の最終年の35年目の売上は、3%で割引くと、名目金額の35%程度になる。つまり、65%割り引かれることになる。かりに、割引率を2%にすれば、35年目の金額は半分程度にしか割引かれない。割引率を1%引き下げれば、売り上げの現在価値は15%ほど増加する。

「たしかに、割引率を引き下げれば、このプロジェクトは消費者余剰を考慮しなくても黒字になります」

「そのほうが、国鉄総裁には分かりやすいんじゃないの。あんたも扶桑物産の事務所で西原さんに言ってたじゃない。消費者余剰の評価は、ディーゼルから電化への増加分でしかないって。そうだとすれば、消費者余剰の評価分なんてわずかなもんでしょ。・・・できれば、その割引率という言葉も、しろうとでも分かるように言い換えたらどう?」

「3%という割引率については、世界中の金融機関や投資家やディーラーやファンドマネージャーたちが市場で形成した値なので、これを恣意的に変えるというのはできない相談です」

と土岐はきっぱりと言った。心臓の鼓動が激しくなった。丸山が心配そうな顔色で王谷と土岐の表情を交互に見比べている。

「あんた、そんな市場で他人が決めたものをそのまま借用するなんて、それじゃ、何のための財務分析なの。あんたフィナンシャル・アナリシス・スペシャリストでしょ。プロジェクトを成功させるためにやりくりするのが財務分析じゃないの?長期金利なんか景気動向次第でいかようにでも変動するでしょ」

「それでは、世界中の金融関係者が膨大な情報を元にして出してきた割引率を無視して、ノートパソコン一台で、わたし独自の割引率を出すということですか?」

と言いながら、声が震え興奮してくるのが自分でも分かった。心臓の鼓動が下半身に伝わり、ひざがすこし震え始めた。

 土岐と王谷のやり取りで、松山が目を覚ましたようだった。両脇に座っている浜田と畠山の顔を見渡して、

(何事か?)

というような寝ぼけた顔をしている。

「あんた独自の割引率というような、偉そうなものではなくて、プロジェクト独自の割引率ということだ」

「と、いいますと・・・」

「あんたも鈍いね。黒字になる割引率ということだ」

 そこで吉川が副プロジェクト・マネージャーという立場で顎をくしゃくしゃさせながら、とりもつように口を挟んだ。

「土岐さん、米国の財務省証券の長期金利が下落する理由付けはいくらでもできるでしょ。たとえばアメリカの財政赤字がさらに拡大して、大量の財務省証券が発行されて、価格が下落して・・・」

と言いかけたところで、野武士のような風貌の山田が笑いながらかすれ声で言った。

「それじゃ、長期金利が逆に上昇しちゃうでしょ」

「あっそうか・・・もとい。アメリカの財政赤字が縮小して、長期債の発行が縮小して、財務省証券の価格が上昇して、長期金利が下落するとか・・・」

 王谷が鼻先で、小馬鹿にしたように、

「ふん」

と笑い、うんざりしたように苛立ち気味に決断を下した。

「そんなことはどうでもいい。土岐君、・・・わしはこのプロジェクト成功の全責任を負っている。だから、わしの指示に従って欲しい。割引率を下げて、このプロジェクトを費用と収入の金額だけで黒字にする・・・いいね。消費者余剰だなんて言ったって、国鉄総裁には分かりはしないんだよ」

 承知せざるを得なかった。王谷の不快さがこめかみの血管に浮き出ていた。

「わかりました。そうします」

と土岐が答えると、馬面の南田が追い討ちをかけるように話し始めた。

「ようするに初期投資の融資をその後の売上で返済するわけだけど、融資がODAであれば低利のわけだから、割引率もその利率でいい訳でしょ。国際市場金利である必要はないでしょ」

「すいません。資金返済計画も年次別にキャッシュ・フローの一覧表にしてあるんですが、ODAの低金利を最初から想定していないので、・・・」

と土岐は弁明した。そこで、口を挟んできたのは白蝋のような顔をした山田だった。

「それもそうだねぇ、最初からODAを当て込んで、財務分析するのもねぇ。どうなんだろうね、公的金融機関は、そういう財務分析を見てどう感じるんだろうか。自分たちがまだ、融資を決定していないのに、ODAを見込んでプロジェクトが見積もられているとすれば、権限を干犯されたと不快に思うんじゃ・・・」

 それに対して王谷が否定するように顔の前で手のひらを左右に振りながら答えた。

「そんなことはない。公的金融機関は政治的に融資している。確かに、審査はすることはするが、交換公文が取り交わされることが政治的に予定されていれば、審査は形式的なもので、なおざりだ」

 会話はそこでひとまず釘が刺された。電気関係のメンバーはこうしたやりとりをまったく理解していないようだった。いずれの表情もうつろだった。さすがに私語はしないが、

「早く終わればいい」

という思いがどの顔からも読み取れた。

 この一週間、ひとつひとつ積み上げてきた数字のピラミッドが、王谷が吹きかける風にあおられて崩壊して行くようだった。ひとつひとつに意味を持たせてきた金額のヒエログリフが意味のない絵文字に変換されて行く。その上に砂塵が舞い、砂粒の中に表計算のアルゴリズムが埋没して行く。

 しばらくの沈黙が作業所にあった。土岐は、その沈黙を破る義務があるような気がして、丸山に聞いてみた。

「シュトゥーバは出席するんですか?」

「もちろんです」

 王谷は金メッキのライターで火をつけてダンヒルを吸いはじめた。土岐は胸につかえるような憤懣のはけ口を求めて質問した。

「財務副部長のシュトゥーバに、割引率のことを聞かれたらどう答えましょうか。プロジェクトの現在価値が黒字になるように決めたとは言えないと思うんですが・・・」

 王谷はゆっくりと煙を吐き出し、少し考えているようだった。一同の視線が王谷の吐き出す紫煙の行方を追っている。やがて王谷はタバコの灰をゆっくりと灰皿に落としながら、

「『込み入った予測をしているので、速答はできないが、あとで個別にゆっくりと説明します』

とでも言っとけばいい。・・・いずれにしても、プロジェクトの黒字を疑うような質問に対してはその場で回答するする必要は一切ない」

と言い切った。

 土岐の腹の底で押さえ込んでも、押さえ込んでも沸々と沸きあがってくる熱いものがあった。そのあと、土木工事費、軌道工事費、建築工事費、駅舎工事費、電化工事費、信号工事費、電信工事費、車両基地建設費、予備費、車両費などの項目別にスライドを見せたが、説明の口上は上滑りしていた。それぞれについて、現地労務費、現地資材調達費、輸入代金、外国人技術者報酬などの明細を形式的に映写しているだけだった。

 最後に、収入予測の前提の一覧表を映し出したが、

「これは出さない方がいい」

と王谷に指摘される前に自分の方から割愛を申し出た。そういいながら、忸怩たる思いに苛まれた。プレゼンテーションを終えるに当たり、最後に王谷がダメを出した。

「ディーゼル機関を電気機関に変えることで、かなり石油が節約されるはずだ。その節約分が計算されていないね。そもそも、このプロジェクトの出発点は、省エネにあったんだから」

「確かに、石油が節約されるはずで、その分、現在のランニング・コストよりいくらかは安くなるはずです。わかりました。プロジェクト自体の採算とは直接関係はありませんが、ディーゼルをやめることによって節約される金額を注記しておきます」

「いや、注記じゃなくて、社会会計として、節約分をプラスでカウントしておけば、プロジェクトの採算が改善されるでしょ。どうせ、国鉄総裁には鉄道単体の財務会計と、それ以外の消費者余剰だとか機会費用だとかを含めた社会会計の違いなんか分かりゃしないんだから。いいね、くれぐれも責任者である私の指示に従ってほしい」

と言う王谷の話しぶりには有無を言わせない圧力感があった。土岐は反論することができなかった。財務分析が真実からどんどん遠ざかって行く思いがした。それと同時に、プロジェクトが頓挫した場合の成功報酬としての九十万円も遠のいてゆく喪失感があった。

土岐と丸山と南田の三人で、プロジェクターとスクリーンの片付けを終えると、昼近くになっていた。

 昼食後、割引率を2・5%に引き下げて、プロジェクトの現在価値を黒字に変えた。それに対応して、割引したすべての数表の金額も変更した。その金額を使ってプレゼンテーション資料を作成し終えると三時近くになっていた。丸山は傍らでスライド画面の資料をコピーする作業を手伝ってくれた。他の連中はゆっくりと昼食をとった後、作業所に戻ってきて、土岐と丸山の作業をときどき片目で追いながら、きのうの観光旅行の感想や思い出を語り合っていた。

「さあ、そろそろ行くか」

と王谷が号令をかけた。南田がプロジェクターとスクリーンを置いて、扶桑物産の事務所に帰ってしまったので、その荷物を中年グループの最年少の畠山と川野が持つことになった。プロジェクト・チーム内に暗黙の序列があるようで、畠山も川野も誰かに命じられたわけではなかった。土岐はノートパソコンを抱え、丸山はレジュメのコピーを脇にはさみ、プロジェクターのケーブルを輪に巻いて手にした。

 作業所を出て、国鉄の庁舎に向かうとき、最初から負け戦にもかかわらず、敵地に乗り込むような高揚した気分を土岐は感じていた。プロジェクトのメンバーは土岐以外は発表する予定はないが、予想外の質問が出た場合には、担当者が返答することになっていた。メンバーは戦場に向かう武士団のようで、それなりに心強いものではあったが、土岐にとってはプロジェクトの採算が合うという結論を言わざるを得ない敗北感があった。

 国鉄総裁の部屋は最上階の3階の北隅にあった。二十畳ほどの広さで、中央に畳一枚ほどの大きさの総裁の机があり、書棚がないため、その周囲に赤い紐でくくったおびただしい数の書類の山がうずたかく林立していた。

 スクリーンは総裁の机の前に立て、机とスクリーンの中間にプロジェクターを設置した。パソコンはその左傍らの木製のスツールの上に置き、丸山がその前で床にしゃがみこんでエンターキーを操作することになった。メンバーはそれぞれのスツールに腰掛け、王谷だけ国鉄総裁の右隣の籐椅子に座った。総裁以外の国鉄側の出席者は、財務副部長のシュトゥーバとシュトゥーバよりも肌の黒い財務部長だけで、その他の国鉄職員は総裁室の外の廊下からスクリーンをのぞき込むことになった。丸山は廊下の観客のためにスクリーンの角度を少し調整した。一番前の職員はコンクリートの床に座り、その次の職員が中腰になり、最後列の職員が背伸びをするような形で、全部で十数名の職員が総裁室の出入り口に鈴なりに首を並べている。

 丸山が土岐に目配せをして、

「ぼくが進行役を務めますんで・・・」

と言いながら、総裁の机の傍らに立って英語でプロジェクトと土岐を紹介し、部屋の照明を消し、ノートパソコンのエンターキーを叩いた。

土岐は用意してきた英文の説明書を緊張で小刻みに震える左手に握り締めながら、プレゼンテーションを開始した。

「国鉄の電化には初期投資に莫大な資金が必要になります。現行のディーゼル機関の拡充と比較しても、かなりの追加投資を必要とします。しかし、運営費はディーゼル機関よりもかなり安くつくはずです。こうした調査はすでにEUのコンサルティング会社が報告しているところです。そこでは可能な限り早く電化プロジェクトを推進することが勧告されています。今回のわれわれの調査も同じ結論に達しました。さらに言うならば、最近の石油価格の高騰によって、早急な着手が望まれるところです」

と総論を述べながら、ポイントを箇条書きした英文のスライドを見せた。緊張のあまり、土岐は自分で自分の言っていることをフォローできなかった。ときどき、言い間違えたのではないかという不安におそわれた。

「最初に、収入面ですが、乗客一人・1マイルあたりの収入と予想総乗客数・総マイル数を掛け合わせることによって求めました。もとより、運賃は国鉄による政治的な判断で決定されることではありますが、われわれは現行の水準をもとにリーズナブルな金額を想定して計算しました。とりあえず、乗客一人・1マイルあたり1円を想定しました。現在の国鉄の収入は、乗客が7割、貨物が3割になっています。この傾向は今後とも続くものと考えます。需要の増加については経済成長や国鉄の経営努力に伴う自然増が年率3%、一人当たり所得の増加に伴う需要増が年率3%と予測し、それらに伴う物価上昇による運賃の引き上げも勘案しました。物価上昇については過去の消費者物価の趨勢を考慮しました」

と言いながら、運賃単価の表、予想総乗客数・総マイル数の暦年表、需要予測の表、過去の物価上昇の一覧表などを順に見せていった。心臓の激しい鼓動がこめかみに伝播しているのがわかった。

「次に、費用面ですが、おもな支出項目は、土木、軌道、建築、電化、信号、電信、機械、機器、車両基地、車両、予備、維持、運営、電気などです。これらの支出項目についても、将来の物価上昇によるコストアップと経営努力によるコスト削減を考慮しました」

 費用面については、とくにコメントすることなく、支出項目別に機械的に見積表を順送りした。丸山の画面送りのタイミングは絶妙だった。

「以上の結果、今回の電化プロジェクトの今後三十五年間の採算については、収入総額が日本円換算で、約三千億円、費用総額が約二千九百億円で、約百億円の黒字が見込めることになりました」

 そこまで説明したところで、感嘆の口笛が国鉄総裁の黒褐色の分厚い唇から漏れた。三十分も経っていないが、彼は聞き疲れしたようだった。瞼も頬も垂れ下がっている。彼にとって内容の難易度が高かったのか、集中力が持続しないのか、隣の王谷と声高に談笑を始めた。王谷は午前中あれほど国鉄総裁を愚弄していたのにもかかわらず、お追従を述べ、愛想良く相好を崩している。

「以上の結果、このプロジェクトは着手すべきであるとの結論に達しました」

と土岐はプレゼンテーションを終わらせた。同時に、丸山が部屋の照明を点け、

「それでは、質問をどうぞ」

と国鉄総裁に声を掛けた。国鉄総裁はシュトゥーバに質問をするように促した。シュトゥーバは、事前に配布したスライド画面をコピーしただけの説明資料に目を落としたままで、

「収入予測の前提条件を教えてくれ」

と言いながら、土岐の方に細面の顔をまっすぐに向けてきた。

「収入予測の詳細については、慎重に複雑な計算をして求めておりますので、言い間違えや誤解があるといけないので、後日文書にしてお渡しします」

と土岐はただでさえ英語でもつれる舌にどぎまぎしながら、王谷に言われたとおりに応えた。シュトゥーバの射すように澄んだ瞳を直視することはできなかった。スクリーンの傍らに立っている自分に自分ではない違和感を覚えていた。正直にすべてのことをシュトゥーバに言えないのは、自分の弱さなのか、ずるさなのか、判然としなかったが、心の中が王谷の業務命令で歪められているのを感じていた。

 突然、甲高い拍手が沸き起こった。ころあいを見計らったように最初に拝むように頭の上で拍手したのは王谷だった。拍手しながら誇らしげに立ち上がり、総裁の傍らに歩み寄り、握手を求めている。その光景を見守りながら、副プロジェクト・マネージャーの吉川、オペレーション・エンジニアの山田、トラック・エンジニアの高橋たちが、つられるように立ち上がって拍手する。やや遅れて、主任エレクトリフィケーション・エンジニアの松山、テレコミュニケーション・エンジニアの浜田、シグナル・エンジニアの畠山、エレクトリフィケーション・エンジニアの川野が半拍ずらして拍手している。丸山は喜色を満面に浮かべ、手のひらが赤くなりそうなほど力強く拍手している。最後に、土岐も拍手したが、形だけで、力が入らなかった。万雷の拍手がはるか遠くから聞こえてくるようで、錯覚に思えてならなかった。

 ひとしきり拍手が鳴り続け、それが潮が引くようにして止むと、王谷が国鉄総裁に英語で語りかけた。

「報告書は十日後に製本してこちらに届けます。これでこのプロジェクトが来年から着工されることは間違いありません」

 総裁室を出るとき、エンジニア一人一人が総裁と握手して別れを告げた。土岐は最後に握手したが、総裁の白髪混じりに垂れ下がった長い眉毛の下の象のような目を直視できなかった。白い綿布の袖から伸びる総裁の手は厚く、甲に毛が密生し、脂ぎっていた。シュトゥーバと一瞬目が合ったが、彼の笑顔はこわばっていた。土岐は心の中の動揺を見透かされているような気がした。総裁室から出て、コンクリートの階段を下りながら、体内から成田を飛び立ったときの生気が喪失して行くのを感じた。昨夜の下痢のせいかも知れなかった。体は軽いのに、足は重く感じられた。


 国鉄省の正門に出て、プロジェクターとスクリーンをトランクに入れ、タクシーに乗り込むとき、体中に粘り気のある汗をかいていることに土岐は気付いた。助手席の丸山が弾んだ声を掛けてきた。

「6時から大使館で打ち上げがあります。5時半過ぎにホテルの玄関にお願いします」

 土岐はアルコールを摂取する気力が失せていたので、

「今夜は失礼させてもらいます」

と丁重に断った。敗北感と不快感に土岐は打ちのめされていた。

「体調でも良くないんですか」

「まあ、それもありますが、どうも気分がすぐれないんです」

「まあ、顔つなぎの意味でやるんですが、・・・三橋大使にも会っといた方がいいと思うんですけどね。・・・エンジニア以外は、この国に来ることはないと思います。と言っても、トランスポート・エコノミストの中井さんと土岐さんだけですかね・・・王谷さんとぼくはまた来ることになると思います」

 扶桑物産の事務所に立ち寄り、プロジェクターとスクリーンを降ろし、ホテルに着いたのは4時半すぎだった。

 エレベーターで7階に登り、部屋の前で別れるときに、丸山が残念そうに言った。

「じゃあ、われわれはこれから大使館に行きますが、明日は十時にホテルの玄関に集合です。お預かりしているエアチケットはそのときお返しします」

 別れ際に丸山はもう一度誘ってきた。

「残念ですね。大使館の料理はこの国で一番おいしいんですけどね。大使がとってもいい人で・・・、三橋大使にはこの機会でないとお会いできないかもしれないですよ。外務省の権力闘争で、一時的にこんな国の大使をやっていますが、いまの外務次官が退任した後は、ひょっとしたら、いずれ次官になるかも知れないと言われている人なんですよ」

 ホテルに関係者が一人もいなくなってから、土岐は一階ロビーでメール報告を送信した。

@午前中、午後のプレゼンテーションの予行演習を行いました。プロジェクト・マネージャーの王谷から強い要請があり、プロジェクトの採算を強引に黒字化することを強要されました。午後、プレゼンテーションを行い、プロジェクトは実施すべきという結論を国鉄総裁に報告しました。財務副部長のシュトゥーバから売り上げ予測の前提を知りたいという質問があったが、これには後日、文書で回答すると答えました。このプロジェクトの破綻は財務副部長に期待する以外はないようです。以上@


十 現地第7日目


その夜は熟睡できた。かなり疲れが溜まっていたようで、翌朝、目が覚めたのは9時過ぎだった。体が重かった。あわてて、荷物を整理して、スーツケースを転がしながら、十時すこし前にホテルの一階に降りて行くと、フロントに丸山がいて、

「チェックアウトしてください」

と懇願するように言う。土岐は言われるままに、フロントの従業員に714の鍵を手渡し、チェックアウトを申し出ると、請求書が差し出された。傍らの丸山が請求書をのぞきこむようにして言う。

「朝食のとき出てこなかったんで、心配しました」

「すいません。疲れてて寝てました」

「ルームチャージはこちらで出しますので、・・・とりあえず、全額ぼくの方で支払います」

と言いながら、ボトムラインの合計金額にあわせて現地紙幣を出した。

「私的な国際電話とか、夜中のルームサービスとかはありませんか?」

「ないです」

と土岐が答えると、丸山はフロントが差し出した領収書を受取った。

「じゃあ、そろそろ空港へ向かいましょうか」

と丸山はレストランで紅茶を飲んでいた王谷に声を掛けた。王谷はベルボーイに指で合図をして、手元の荷物を車寄せまで運ばせた。片手に丸山の荷物を持った別のベルボーイが土岐のスーツケースを運ぼうとしたが、土岐は断った。車寄せでベルキャプテンがタクシーを指招きし、ベルボーイがトランクに王谷と丸山と土岐の荷物を押し込んだ。丸山はベルボーイとベルキャプテンにチップを手渡した。王谷はすでに後部座席に乗り込んでいた。土岐は王谷の隣に座り、丸山は助手席にすべりこんだ。

 昨夜の打ち上げをすっぽかしたので、王谷の隣にいて、土岐はなんとなく気まずい思いがした。黙っていると、はじめて王谷の方から話しかけてきた。

「来週の木曜日までに、メールの添付ファイルで丸山君あてに財務分析の報告書を送信してもらいたい。第1章がわしの担当で序章、第2章が中井君の担当で需要予測、第3章が山田君の担当で運行システム、第4章が松山君と川野君の担当で電化システム、第5章が浜田君と畠山君の担当で電信・信号システム、第6章がそこの丸山君の担当で土木作業、第7章が吉川君と高橋君の担当で維持運営システム、最後の第8章があんたの担当で財務分析、という構成になっている。内容的にはきのうのプレゼンでいいんだが、くれぐれも文中にプロジェクトの採算性に疑問を抱かせるような文言は入れないように・・・いいかな」

と王谷はメモ用紙に書き込まれた目次を見ながら言う。土岐にとっては、

「はい」

としか言いようのない押し付けがましい口調だった。

「あんたにとっては、ただの報告書かもしれんが、このプロジェクトには多くの人の生活が懸かっている。大使館の白石さんや西原さんにとって、このプロジェクトが昇進の糸口になる。かりに人事考課の対象とならないとしても、業界と太いパイプができる。こうした民間とのパイプは官僚の今後の人生にとってとてつもなく重要だ。扶桑物産の南田さんもこのプロジェクトを足がかりに、日の当たる国への転勤を計画している。そこの丸山君だってそうだ。何よりもこのプロジェクトで多くの国内業者が潤う。それが巡り巡って、納税者たるすべての国民の懐を潤す。わしらは戦後一貫してこういうやりかたで高度経済成長を支えて来た。援助額は国会の予算審議の対象だから、日本の国会もそれをずっと承認してきた。援助は援助される国のみでなく、援助する側の国にもそれなりの貢献をしてきたんだ」

 土岐は黙って聞いていた。援助する側に立った論理を展開する経済開発論文は読んだことがなかったので、王谷の話には違和感を覚えた。国際政治経済の分野ではよくされる議論ではあるが、それは土岐の専門ではない。

王谷は突然、長袖のワイシャツの左腕を捲り上げた。

「長袖のワイシャツを着ているのは、注射の跡を見せたくないからだ。こんなくそ暑い国に来ても長袖を着ざるを得ない」

と言いながら、土岐に注射の跡で変形しかけた左腕を見せた。

「わしはインスリンがないとすぐに死ぬ。足の指を切っているので、南田さんのように裸足でサンダルを履くこともできない。・・・このプロジェクトはおそらくわしの最後のプロジェクトになると思う。コンサルタント人生の総決算だ。あんたはまだ若い。まだまだ先がある。しかし、わしにはもう先がない。そのへんも考えてくれ」

と言いながら、王谷は捲り上げたワイシャツの袖を元に戻した。真偽はともかく、王谷の言いたいことは、腑に落ちないまでも、土岐にはある程度理解できた。

 空港に着くと、王谷だけまばらなファースト・クラスのカウンターに向かい、土岐と丸山はエコノミークラスの長蛇の最後尾に並んだ。列の先頭近くに、吉川と山田と高橋がいた。三人とも年甲斐もなく大声ではしゃいでいる。

しばらくすると、見覚えのある褐色の顔が子ども連れでこちらにやってきた。シュトゥーバだった。

「お子さんですか?」

と丸山がすかさず愛想良く聞いて子どもの前にしゃがみこんだ。

「小学校5年生だ」

とシュトゥーバが答える。小学校5年生にしては随分小さく見えたので、土岐は確認するように聞いてみた。

「十一歳ですか?」

「そうだ。来月が誕生日なので、もうすぐ十二歳になる。・・・ミスター・トキは昨夜のパーティーにいなかったようだけど・・・」

「ええ、ちょっと疲れ気味で欠席しました」

「もう、疲れは取れたか?」

「ええ、よく眠れたので・・・」

「プレゼンテーションでの質問の回答はレポートの中に書き込んでもらえるか?」

「・・・ええ・・・」

とすこし戸惑いながら答えた。その戸惑いにシュトゥーバは気付いたようだった。

「最初に言ったが、あることをあるがままに報告して欲しい。あなたの国にとっては数ある援助プログラムのうちの一つかもしれないが、わが国にとっては重要なプロジェクトだ。この子にとっても・・・」

と言いながら、シュトゥーバは男の子と繋いでいた手を高く上げる。子どもはシュトゥーバに引き上げられて、爪先立ちになる。骨に皮が張り付いているようで、手首と肘と膝の関節がやけに大きく見えた。はにかんだような笑顔で土岐と目を合わせて、すぐそらした。

 丸山と土岐はチェックインカウンターの前に立った。スーツケースを預け、出国窓口に向かった。セキュリティチェックのカウンターの前でシュトゥーバと別れた。別れ際にシュトゥーバは、

「この子のことを忘れないでくれ。債務を返すのはこの子なんだ」

と言いながら、中腰になって繋いでいた手で、子どもと一緒に手を振った。丸山と土岐も手を振ったが、すぐに背を向けた。その背中にシュトゥーバとその子どもがいつまでも手を振り続けているような気がした。突然土岐は、立ち止まると財布の中から現地通貨のうち紙幣だけを抜き出し、ティッシュペーパにくるんだ。日本円で数万円の金額だった。この金額は使用しても、帰国してからメールでの調査報告の経費として、

〈Kakusifile〉

に請求できるという考えが土岐にはあった。

丸山は土岐を置いて免税店に入ってゆく。土岐は踵を返すと、シュトゥーバを追った。シュトゥーバとその子供に追いつくと、土岐は男の子の手にティッシュペーパに包んだ現地通貨を握らせた。子供は小さな手でそれが何かすぐ開けようとしたので、土岐は両手で子供の手を包みこんで言った。

「これは、わたしからの置き土産です。なにか、おいしいものでも食べてください」

と言い残して、土岐は小走りに免税店に向かった。シュトゥーバが何か言おうとしていたが、土岐は一度だけ振り返って、一方的に別れを告げた。

 搭乗のコールがあるまで、土岐は丸山と一緒に免税店でおみやげを物色した。東亜クラブの金井と福原と中村には木彫りの人形の彫刻をおみやげにした。価格より高そうに見えたからだ。扶桑総合研究所の鈴村と砂田はロウケツ染めのランチョンマットにした。母には何がいいか、迷った。

母には土日に国内の学会が関東以外であると、出席したついでに、地元のおみやげを買うことにしていたが、何を買って行っても喜ばなかった。

「そういうお金があるのなら、お前のために使え」

といつも言われた。

 デューティー・フリー・ショップで土岐があれこれ物色していると、歩きタバコで王谷が近づいてきた。

「あ、それから、さっき、言い忘れたけど、あんた、オーバー・ドクターでしょ」

「ええ」

「だから言うんだけど、書いてもらうのはレポートなんで、・・・学術論文じゃないんで、脚注は極力つけないように・・・いいかな」

「わかりました」

と答えると、王谷は床にタバコの灰を指先で落としながらファースト・クラスの搭乗口に歩いて行った。おみやげ品に目移りがして迷っているうちに搭乗のコールが流れた。エコノミークラスの搭乗口に丸山と並びながら、東亜クラブの専務理事の萩本へのおみやげを買っていないことに気付いたが、面倒になった。専務理事が出勤してくる前の朝の時間帯に、金井と福原にお土産を配ればいいと考えた。夕方出勤してくる中村には専務理事が帰宅したあとでおみやげを渡すことにした。これで宅配便で受け取った十万円はほぼ使い果たした。

飛行機は正午過ぎに離陸した。丸山が窓際の席を譲ってくれたので、窓外の風景を見ることができた。海外旅行は初めてだということを言ったことがあったので、そうしてくれたのだと思う。丸山はそういう気配りのある男だった。

昼過ぎの上空は雲が多く、下界を見ても、白銀の雲海が見えるだけだった。しかし、3時過ぎに雲間が切れ、眼下に金糸と銀糸のつづら折りのような縮緬絵の大洋が見下ろせた。不意に機体に小さな衝突音がして、欠き氷のようにきらめく塊が散華して行くのが見えた。その氷片のようなものが大海のしずくとなって瞬く間に群青の海原に消えて行く様子をエンジン音にまどろみながら土岐は脳裡に描いた。

半日近くかかって香港に着陸した。香港を経由して、成田に到着したのは夜の八時過ぎだった。税関を出てすぐ、鈴村と母に無事帰国の電話をした。到着ロビーで初老のメンバーと別れの挨拶をした。丸山には余った現地通貨のコインを、

「立て替えてもらったチップです」

と言い添えて手渡した。チップにしてはすこし多かったが、丸山に対する感謝の気持ちがあった。土岐が現地にふたたび行くことがないのを丸山は知っているので、受取った瞬間、とまどう素振りを見せたが、そのコインを素直に受取った。


十一 熱い国からの帰国


八王子駅から自宅にタクシーで着いたのは夜の十二時近くだった。母は起きて待っていたが、みやげ話もせず、沸かしておいてくれた風呂にも入らず、くずおれるようにして床についた。肉体だけでなく精神も疲労困憊していた。

 翌日の昼近くに、

「岩槻先生からの電話よ」

と言う母の声に起こされた。電話に出ると、新設学科の申請の審査は順調に進んでいるとの情報だった。岩槻が頻繁に情報を提供してくれる裏には、専門科目の講義の始まる3年目までの新設学科の内部情報提供について土岐に対する期待があるものと認識している。岩槻はいまの大学を2年後に定年になり、3年後に新設学部に着任する予定になっている。

「鈴村君に聞いたけど、昨夜、帰国したんだって?」

と受話器から聞きなれた、甲高いしわがれた声が流れてくる。土岐は布団に横たわったまま返答した。

「ええ、S国の首都の国鉄電化計画のフィージビリティ・スタディです」

「その話、半年前にあればよかったのにね。・・・まあ、文科省の審査は大丈夫だとは思うけど、・・・君の場合、論文業績がちょっと少ないからね」

「申し訳ありません」

「いや、べつに誤るようなことではないけれど・・・誰だって若い頃は業績が少ないもんだよ。ただ、大学設置審議会の連中が、けちをつけようと思えは、つける材料にはなるな」

「文科省に提出した業績調書の再提出はできないんですか?」

「できないこともないが・・・提出の締め切り時点までの業績履歴だからね」

「いつごろ、はっきりするんでしょうか?」

「内示は十一月ごろあると思うけど・・・設置審議会の内部では再来週あたりに原案が提出されるんじゃないかな。・・・まあ、ほぼ大丈夫だとは思うけど・・・まあ、就職の斡旋は、指導教員の暗黙の義務と言えないこともないからね」

「今回も、いろいろとありがとうございました。感謝しております」

「まっ、そういうことで・・・」

「お電話、わざわざ有り難うございました」

と言いながら、受話器が置かれるのを待った。そのやり取りを台所で母が聞いていた。

「岩槻先生、なんだって?」

とマナ板で何かを刻みながら言う。

「勉強の話だ」

と誤魔化した。母には大学教員の内定が得られてから伝えることにしている。現在の状況を話せば、それなりに喜んでくれることは予想できたが、万が一、不調に終わった場合に母のぬか喜びが深い落胆に変わることを土岐は恐れた。

 蒲団のなかで母の料理する音を聞きながら、鈴村が昨夜、岩槻に電話した用件を考えた。成田で鈴村に電話したのは夜の8時過ぎだった。それから鈴村が岩槻に電話して、岩槻が土岐の帰国を知ることになった。そのことだけで、鈴村が夜分遅く、岩槻に電話することは考えられないので、別件があったはずだと思う。どういう別件があったのか、想像がつかなかった。このことに限らず、さまざまなことが、土岐の知らないところで進展しているような、いやな気がしてならなかった。


 翌日の月曜日、出勤する前に、前日分の報告をメール送信した。

@無事帰国しました。財務分析のレポートは木曜日までに作成する予定です。フィージビリティ・スタディは、プロジェクト・マネージャーの王谷によって、フィージブルであるという結論をプレゼンテーションするように強要されましたが、財務副部長のシュトゥーバからは、その結論に至らしめた諸前提をレポートに盛り込むように求められました。今回のプレゼンテーションでは、立場上、プロジェクトが破綻することを報告できませんでしたが、提出したレポートを読んだシュトゥーバがプロジェクトに反対するアクションを起こしてくれるものと考えています。現地国鉄に提出する報告書は、シュトゥーバが読めば必ずプロジェクトに反対するように書く予定です。ただし、シュトゥーバにどの程度の権限があるのかは不明です。彼に殆ど権限がなければ、プロジェクトを不調に終わらせることはできないかも知れません。現地で使用した経費の請求を含め、これからの報告に関する指示をお願いします。以上@

メールを送信した後、成功報酬の90万円はシュトゥーバ次第で諦めることになるかも知れないという思いが土岐の脳裏に漂った。


土岐は財務分析資料の入ったUSBメモリスティックを持って、東亜クラブに赴いた。金井に簡単に帰朝報告して、専務理事が来る前に同じおみやげを福原に配った。電話で扶桑総合研究所の砂田に帰国の挨拶をした。それから自席のデスクトップ・パソコンで英文の財務報告書の作成に取り掛かった。

十時過ぎに専務理事が出勤してきたので、作業をひとまず中断して、帰国の挨拶をした。自席に戻り、再び作業を始めると、昼前になって、専務理事が土岐の机の前にやってきて、

「私には、お土産はないんですか?」

といやみともつかない、しらっとした表情で言う。土岐はあわてて、

「すいません。忘れていました」

と言いながら、東亜サロンの中村に買ってきた分を気まずい思いで手渡した。その一件がなんとなく胸に引っかかったが、作業自体は東亜クラブとは直接関係がないものの、普段こそこそと研究論文を読むのとは異なり、扶桑総合研究所との契約に基づくものなので、正々堂々と作業を進めた。英語は得意ではないが、英文学とは違って、凝った形容詞や微に入り細をうがつような表現は必要ないので、臆面もない直訳ばかりの作業ははかどった。ときどき英作文が難渋するとネットのフリー翻訳サイトを利用した。

 土岐に割り当てられたのはファイナル・レポートのチャプター8のフィナンシャル・アナリシスだった。セクション1をイントロダクションとし、電化による経済利益を記述した。セクション2を収入にあて、セクション3を費用とし、セクション4で財務分析を行い、最後のセクション5で債務返済計画をまとめた。第一次草稿はその日の夕方までになんとか完成した。

 翌火曜日の午前中は表計算ソフトのグラフツールを使って暦年ベースの収入と費用、それに基づくキャッシュ・フロー表および債務返済のこぎれいな一覧表の作成に時間を費やした。午後はそれらの数表を多色刷りのわかりやすい棒グラフと折れ線グラフに描き分けて、グラフごとに本文とは別に解説の短いキャプションを付けた。一通り終わってから、目盛りを変えたり、フォントを拡大させたり、縮小させたり、カラーリングを変えたり、さまざまなグラフの表示を試したりして、最適と思われる図表を選択した。

 夕方、帰宅する間際になって、シュトゥーバの質問に対する回答を書いていないことに気づいたが、どう盛り込めばいいのか、アイディアが浮かばなかった。

 翌水曜日の午前中は、原稿をもう一度ブラッシュ・アップする作業にあてた。シュトゥーバの質問に対する回答を除き、午後になると原稿はほぼ完成し、手持ち無沙汰になった。金井も土岐の作業に気を遣ってくれているようで、雑用を言いつけてこない。作業が終わったと言えば、雑用を押し付けられることが予想されたので、もう一度報告書を通読することにした。読みながら、収支結果を導く際に使用したさまざまな前提をどう書きこむか考えた。結論は、王谷に強要されたように書きながら、しかし、良く読めばプロジェクトが大赤字であることをどのように表現するか、土岐は迷った。

作業に集中しているときは気付かなかったが、自分のつたない英文を読みながら、福原が少女のような甲高い咳払いをしたり、金井が間歇的に鼻水をすすったりする音が気になった。一通り読んでみて、何かが欠けている気がしてならなかった。

〈画竜点睛を欠く〉

という言葉が頭の中を徘徊していた。ぼんやりとはめ殺しの分厚い窓の外の曇天を眺めていると、空港まで見送りに来たシュトゥーバとその子どもの顔が思い出された。生活環境の変化のせいか、数日前のことが数週間前のことのように思われた。

昼過ぎに、

〈Kakusifile〉

からメールを受信した。

@現地調査、ご苦労様でした。当方で事前調査した通りの状況のようです。今回のフィージビリティ・スタディは、日本からのODAの正当性を説明する資料として使われる予定です。国会の予算委員会で審議の対象となることはないとは思われますが、償還されるあてのない援助を供与することは国民の血税を詐取することになります。このまま、プロジェクトの黒字を擬装した報告書を提出することは、その詐取に加担することになります。日本の納税者のためにも、被援助国の国民のためにも、このプロジェクトは破綻させなければなりません。あなたが正義を貫徹することによって失う利益は、成功報酬の90万円では少ないかもしれませんが、正確な報告書を作成し、このプロジェクトが巨額の赤字を生み出すことを明記してください。残額の90万円と現地経費の10万円はお約束通り、間違いなくお支払いすることを確約いたします。なお、完成した報告書はこのアドレスに添付ファイルとして送信してください@

 土岐はもう一度問題を整理した。国鉄省の作業所で最初にシュトゥーバに説明したキャッシュ・フローは大幅の赤字だった。次に、国鉄総裁室でプレゼンテーションしたときには大幅の赤字が小幅の黒字に化けていた。その根拠をシュトゥーバに質問されて、後日報告書の中で答えると言ってお茶を濁した。

(シュトゥーバはそのことをおそらく忘れてはいないだろう。見送りに来た空港で念を押したくらいだから)

と記憶を反芻した。しかし、赤字を黒字に転化させた詳細については、報告書に盛り込まないことを王谷から言い渡されている。シュトゥーバへの回答を報告書に何らかの形で書くべきかどうか、決断がつかなかった。

「書くな」

という王谷の指示は業務命令であるから、扶桑総合研究所から報酬を受取る以上従わざるを得ない。

(しかし、そういう組織の論理を厭うからこそ、営利企業への就職を回避し、モラトリアム人間として大学院に進学したのではなかったのか。だが、そういう自分の来歴は王谷の指示に反旗を翻すほど自分にとって重要なものなのかどうか。大学院の博士課程後期課程を修了してオーバー・ドクターの身分にある自分にとってどれほどの意味を持っているのか。王谷の指示に従わなければ、残金の90万円が成功報酬として入ってくる。王谷の指示に従えば、これからも扶桑総合研究所からのアルバイト収入を期待できる)

という思いが頭の中を幾度も駆け巡った。

1時間ばかり、とつおいつ思案してみたが、結論は出なかった。思考の焦点の合わないまま、茫然としていると、福原が脇を通り過ぎながら声を掛けてきた。

「どうしたの?アイディアが浮かばないの?」

「いえ・・・あることを書こうか、書くまいか、迷っているんです」

と答えたが、言い終えないうちに通り過ぎて行った。そのとき、

「やるべきか、やらざるべきか、迷ったときはやるべきだ」

という母の言葉を思い出した。そこで、シュトゥーバへの回答を報告書のどこかに、何らかの形で書き込むことを考えた。しかし注については、王谷から、

「学術論文じゃないんだから、脚注は極力つけないように」

と申し渡されていた。脚注以外に書き込むとすると、チャプター8の章末にアペンディクスとして添付するほかにない。土岐はプロジェクトの現在価値が黒字となるために想定した数々の前提だけを簡単に列挙することに決めた。こじつけのようだが、注とアペンディクスは違う。そう土岐は自分に言い聞かせた。

 慎重にアペンディクスを書き加えると、5時近くになっていた。そこで、扶桑総合研究所の鈴村に電話を入れた。

「土岐です。たったいま、報告書が完成したところです」

「あっ、そう。どんな具合?」

と鈴村は電話口で口元を綻ばせていることを推察させるような声音で言う。

「なんとかなりました。それで、あすの木曜日中にACIにメールの添付ファイルで送信するんですが、その前にちょっと見てもらえますか、確認までに・・・」

「まあ、体裁だけなら・・・内容はコメントできないと思うけど・・・」

「それから、同じファイルを砂田さんにも送信しておいた方がいいですか?」

「ああ、そうしてくれる。それじゃ・・・」

 電話を切ってから、鈴村と砂田の名刺にあるアドレスにできたばかりのファイルを添付して送信した。ついでに、

〈Kakusifile〉

のアドレスにも調査報告として送信した。現地で、シュトゥーパの息子に渡した数万円相当の金額を、現地経費として請求することにした。


十二 最終報告書


 土岐は事務所から木曜日の午前中に再び鈴村に電話を入れた。

「おはようございます。土岐です」

「あっ、おはよう」

「どうでしたか、報告書の方は・・・」

「まだ、パラパラと見ただけだけど、砂田君に聞いたら、

『いいんじゃないか』

って言ってたよ。

『たいしたもんだ』

ってさ。

『さすが、岩槻ゼミのドクターだ』

って感心していたよ。まあ、お世辞だと思うけど・・・」

「そうですか、ありがとうございます。それじゃ、このファイルをこれから、ACIに送信します」

と言って電話を切った。それから、添付ファイルで丸山のアドレスに送信してからコピーを1部プリント・アウトして、金井に提出した。

「とりあえず、こんな報告書を提出しました」

 金井はコピーを指をなめながら一枚ずつめくる。

「へーっ、たった3日で書き上げたの。全部で四十ページもあるんだね」

「それで、事後承諾で申し訳ないんですが、わたしの肩書きは扶桑総研の嘱託ということでよろしいでしょうか」

 そう言うと、金井は眉根をすこし寄せて、しばらく考えて、

「それは、扶桑総研の要望なの?」

と聞いてきた。

「いえ、ACIの要望です。扶桑総研が財務分析をしていることに意味があるとかで・・・」

「まあ、うちとしては、契約書通りお金が入ってくるのなら、とくに差し支えないですが・・・」

と言いながらも、右の眉毛をすこし吊り上げて、なんとなく釈然としない面持ちだった。

 翌週の月曜日、土岐の東亜クラブのアドレス宛に丸山から報告書全体の添付ファイルが送信されてきた。

〈土岐明様、出張ならびに報告書執筆ご苦労様でした。おかげさまで、予定通りに報告書が完成し、さきほど現地の扶桑物産の南田さんに送信したところです。ハードコピーは南田さんが製本して、国鉄省に提出することになっています。なお、同じものを添付ファイルとして送信しましたのでご確認ください。丸山憲一〉

 さっそく、添付ファイルを開いてみた。タイトルは、

〈Final Report for Consulting Engineering Services for Electrification of the Suburban Railway Network〉

となっていた。執筆責任者は、

〈Asian Consultants International in Association with Electric Consulting Co. Ltd. and Fuso Research Institute Co. Ltd.〉

となっていた。

プリンターのインク切れと紙切れもあって、全部プリント・アウトするのに三十分以上もかかった。A4で四百ページを超える大部だった。とりあえず第8章の仕上がり具合をチェックしてみた。印刷はページが通し番号になり、フォントが変わっている以外は、土岐の草稿そのままだった。念のため、一ページずつ確認した。本文が終わり、最後のページをめくると、

〈Station Abbreviations〉

の一覧表になっていた。世界のエアポート名と同じ要領で、百近い駅名が3文字のアルファベットの略称になっていて、その正式駅名がアルファベット順に並んでいた。その次のページは裏表紙で、ACIのロゴがプリント・アウトされていた。土岐はもう一度、目次を確認した。土岐が草稿で最後のセクションの資金返済計画の後ろに付論としてつけた、

〈Appendix〉

が消えていた。もう一度、本文の末尾を見てみたが、矢張りアペンディクスは存在しなかった。ACIが意図的に削除したことは明らかだった。そのことに気付いたとき、胸の中をかきむしられるような疾風が渦巻いた。鼓動が早くなり、手首の脈動が隆起と陥没を繰り返しているのが目視できた。事務椅子の上で、上半身が椅子の軋みとともに上下左右に揺れ動くのが自覚できた。やがて、荒くなった呼吸音が耳に聞こえてきた。こめかみの血管が膨張するたびに耳の奥で頭蓋を締め付けた。心臓の鼓動が胸板を叩いている。事務室の明るさが空々しく感じられた。静かな空調音の流れる空気の中をゆっくりと浮揚しているような感覚に囚われた。

(これで九十万円の成功報酬はなくなった。この冬のボーナスが40万円足らずだから、母の白内障の手術は来年の夏のボーナスを待ってからとなる。しかし、来年の4月からは、年俸制になるから、ボーナスはなくなる。母は借金を頑固なまでに嫌がっている。月々の給与を少しずつ貯めれば、夏あたりに手術できるかもしれない。しかし、その間にも白内障は悪化する)

と思いながら、空港に見送りに来たシュトゥーバとその子どもの顔が脈絡もなく脳裏に浮かんだ。

(このままでは、プレゼンテーションの席でシュトゥーバに約束したことを破ったことになる。空港でも念を押された)

しかし、約束を守らないことがどういう意味を持ち、どういう結果をもたらすのか、土岐には想像できなかった。

(おそらく、シュトゥーバはぼくを非難するだろう。非難して、その後、どうするか?約束を果たすようにと、メールでも送信してくるか?それとも、黙ったままぼくに対して恨みを抱き続けるか?あるいは、抗議のメールをACI宛に送信してくるか?そうしたとしても、ACIはそのメールを握りつぶすか、適当な返信メールでお茶を濁すだろう。それよりも何よりも、このままでは実質的にぼくのレポートは組織の論理に押しつぶされたことになる。それは単にACIという一企業だけではない、官僚組織に牛耳られている国家の論理とODAに群がる産業界の論理でもある。それらに単年度契約の芥子粒のような財団法人の一研究員が、徒手空拳で逆らうことに何の意味があるのか?・・・しかし、営利企業に就職しなかったのは、そうした組織の論理に真理に基づく信念を曲げられるのを忌避したかったからではなかったのか?そのために母と共にあえてぎりぎりの生活をしてきたのではなかったのか?母はそれを知っていて、これまでぼくを支えてくれたのではなかったか?このままでいることは母の支援にも背くことになるのではないか?)

 土岐の想念はざらついた胸の中を堂々巡りした。土岐は早速、

〈Kakusifile〉

宛てにメールを送信した。

@本日、最終報告書の全文がACIから送信されてきました。草稿段階では、プロジェクトを意図的に黒字にするために設定した前提を付録として章末に添付しましたが、ACIによってすべて削除されました。この前提を報告書に盛り込むことは、現地国鉄の財務副部長の要請でもあったのですが、ACIはそのことを承知で削除したようです。現時点では、プロジェクトを破綻の方向に誘導することは困難な状況です。御指示があれば、返信をお願いします。念のためACI~送信されてきた最終報告書を添付します@

 メールを送信してから土岐は考えた。

(これでかりに残額の90万円が入ってこないとしても、別のプロジェクトの財務分析のアルバイトが扶桑総研経由で来年以降期待できるかもしれない。しかし、アペンディクスを削除されたまま、それを甘受することは、自分の現在ある状況を否定することになるのではないか?大学のゼミで2年間、大学院で5年間、客観的で正確なプロジェクト評価を追及することを研究してきたのではなかったか?)

という思いと、毎日テレビをしがみつくようにして見ている母の姿を哀れと感じる思いと、

(その思いを晴らすために何らかの行動を起こすことにどれほどの意味があるのか?)

という思いの間で、やじろべえのように揺れ動いていた。その意味付けに確固たる判断がつきかねていた。

(かりに行動を起こすとして何ができるか?丸山にアペンディクスの復活を申し入れるか?それによって丸山の立場を悪化させることになるかも知れない。扶桑総研とACIの今後の取引がなくなり、鈴村に迷惑をかけることになるかもしれない)

土岐がアペンディックスの復活を申し入れたとしても、丸山には何もできないであろうことが想像できた。決定権を持っているのはおそらく王谷だろう。王谷が編者としての責任でアペンディクスを削除したのであれば、王谷の考えが変わらない限り、アペンディクスの復活はありえない。王谷は現地にいるときから、プロジェクトの推進にマイナスとなるような情報は記述しないようにとの指示を土岐に出していた。報告書はすでに扶桑物産の南田の手によって現地の国鉄省に提出されているであろうことが予想された。

 何をどうすればよいのか、思いつかない状態がその日の午後ずっと続いた。国鉄省の作業所で出会ったエンジニアの人々の顔が走馬灯に照らし出されて、頭の中を回転していた。これで仕方ないのではないかと思う次の瞬間、何かをしなければならないという思いが腹の底から沸き立った。

終業時刻間際に、ウエッブ・メールを開けると、

〈Kakusifile〉

から作業報告に関する次の指示が入っていた。

@財務分析、ご苦労様でした。残りの九十万円については、もうしばらくお待ちください。これは、最後の依頼ですが、当方でもこのプロジェクトについて検討したところ、ODAの対象とすべきではないという結論に至りました。とくに、ACIについては、従来から外国政府に賄賂を渡して、海外プロジェクトを受注するなど、不明朗な情報が錯綜しており、今回のプロジェクトは金額的にかなり巨額になることが予想されるので、野党や国税庁や会計検査院の追及の対象になることを事前に防ぐという観点から、現地での大使館やプロジェクト・マネージャーの容喙を排除した正しい財務分析を現地国鉄側に開示してください。方法は問いません。その結果報告をまって、残金と現地での経費をお支払いいたします。以上@


シュトゥーバの粗末な模造紙のような名刺を見ながら、土岐は当初の財務分析内容をどうやって開示できるか、考えた。現地国鉄への報告書にその内容を訂正したうえで盛り込むことは、王谷の手前、不可能であるように思えた。財務分析の内容が誤りであったという手紙を、国鉄総裁あてに書いた場合、それが理由でプロジェクトが頓挫したとなれば、扶桑物産の南田や現地大使館の白石や西原がその原因を突き止め、ACIから扶桑総合研究所を通して、激しいクレームの付くことが予想される。扶桑総合研究所が契約書の忠実義務違反だとして、土岐の人件費を支払わないと言って来る可能性もある。ACIが扶桑総合研究所への支払いを拒めば、扶桑総合研究所も東亜クラブへの支払いを拒まざるを得なくなるだろう。そうなれば、その原因は土岐が国鉄総裁宛てに書いた手紙の内容にあるという理由で、東亜クラブを1週間不在とした間の給与返済を求められるかもしれない。

しかし、何もしないで手を拱いていれば、残金の九十万円が受け取れず、シュトゥーパの息子にあげた数万円も経費として請求できなくなる。


勤務時間が終わり、帰宅時間となっても、土岐は妙案を思いつかなかった。

土岐は窓の外の真っ暗な東京湾をぼんやりと眺めていた。思案が極まって、何も手に着けることができなかった。金井の後ろのはめ殺しの分厚い窓の外に広がる空が漆黒に塗りこめられていることに気付いた。不意に体がなんとなく重くなると同時に、脱力感と空腹を覚えた。

帰宅の電車に揺られながら、シュトゥーバが電化計画が財務的に破綻していることを見抜き、計画の頓挫を主張してくれることを願った。今になって、シュトゥーバの息子に、現地の物価水準からすれば、高額の現金を渡してきたことをあらためて幸いと感じた。ただ、現地の風俗習慣として、現金を直接渡すことは礼を失することになるのではないかという一抹の不安が土岐の脳裏をかすめた。国によっては、現金を直接渡すことは失礼となることもある。土岐は、車窓を流れる東京の風景に眼をやりながら、そうでないことをひたすら願った。土岐には願うこと以外にできることは何もなかった。


十三 内定取り消し


 十月も半ばの翌週末、東亜サロンで土岐が春学期だけ非常勤講師を務めている大学の理事長の講演があった。土岐が日本を離れている間に企画されたようで、急なイベントだった。その週の初めに会員企業にメールで案内を出し、その週末までにメールで出欠を取るという慌ただしさだった。その理事長とは土岐は面識がない。履歴書を見ると、専務理事と同窓で、年齢も近かった。しかし、その専務理事は先約があるとのことで出席せず、事務局長の金井が司会をすることになっていた。その理事長は東南アジアの新興大学との協定に熱心な人物で、学長と二人三脚で交換留学生制度を拡充し、日本における少子化を見越して、人口豊富なアジアの学生を取り込もうとしているという噂だった。

 金曜日の夕方、6時過ぎ受付開始で、食事をしながら、7時から講演開始だった。土岐は、いつもの講演のときのように残業を覚悟したが、

「土岐君は海外出張で大変だったので、今回の講演は私の方でやりますので」

と金井が言ってくれた。しかし土岐は、新設学科の新任の件もあり、一度挨拶をしようと考えていたので、有難いようでもあったが、残念でもあった。文科省への申請は学長の業務ではあるが、採用の辞令を出すのは理事長だったからだ。それに、着任以来、講演の記録は土岐の仕事で、不定期ではあったが、年数回、土岐は講演会に出席し、後日、講演のテープを原稿に起こし、講演録を会員企業に配付していた。

金曜日の午後5時になって土岐が、東亜サロンの慌ただしさを横目に帰宅しようとしていると、福原が講師料を茶封筒に詰めていた。

「随分と、多いわね」

と呟く。講師料に規定はないが、多少名の知れた講師の場合は、通常の講師料の数倍になることはある。しかし、その大学の理事長はそれほど高名というわけではない。講演のテーマも、

「大学のアジア戦略」

で、東亜クラブの会員企業が食指を動かすようなものでもなかった。実際、出席のメールを送って来たのは十数社で、通常の講演会の半分もなかった。

その翌週の月曜日の朝、東亜クラブの事務所に出勤すると、金井に手招きされた。金井はそわそわとして、なんとなく落ち着きがない。深刻そうな、しかし、いまにも笑い出しそうな、言いようのない複雑な表情をしていた。窓際の応接セットに腰掛けようとすると、理事長室のドアを指差した。福原に聞かれたくない話だと直感した。土岐はドアを閉めた。

いつもの朝のように理事長室には誰もいなかった。寒いというほどではないが、まだエアコンの暖房を入れてないのでひんやりとする。専務理事はあと一時間もしないと出勤してこない。

理事長室の応接セットに相対で腰掛けると、金井が短い手を腹の前で組んで話し出した。

「けさ、銀行の方に扶桑総合研究所から入金がありました。とりあえず、現地滞在分だけで、報告書作成費は後日ということで、半額だけですけど、・・・まあ、報告書の作成、ご苦労様でした。全部英文だから大変だったでしょ」

と言葉では土岐の労をねぎらっていたが、表情はまったく違うことを語ろうとしていた。とりあえず、土岐は謙遜した。

「いえ、小説とは違いますから、凝った表現も必要ないし・・・むしろ、平明な英文でないと誤解のもとになりますので・・・それに財務分析の場合、数字自身にものを言わせるということで、使うボキャブラリーはそれほど多くないので・・・実際、中学生程度の文法と単語で書きました」

「そう・・・話は違うけど、いま君にお願いしている春学期だけの非常勤講師の講座だけど、・・・大学の学長から急な話があって、・・・来年度から、国際協力論を通年で私にまた担当して欲しいということなんですが、・・・よろしいですか?」

 土岐はまったく想定していなかった話なので、どう返答していいか一瞬分からなかった。どういう話が学長から金井にあったのか、まったく想像がつかなかった。とりあえず、

「もともと、金井さんが担当されていた講座ですから、・・・でも、・・・申し遅れましたが、いまその大学の国際経済学部に学科を新設する計画がありまして、文科省に申請している新学科でのわたしの担当予定科目に国際協力論が組み込まれているので、現在の学科と新学科とで、同一科目名で担当されるということですか?」

「あれっ、・・・岩槻先生から聞いていなかったのかな?・・・この件については・・・詳しいことは岩槻先生がご存知だと思うんで・・・まだ、内定なんだけど、私は来年から専任教員として、その科目を担当することになっています」

 嫌な予感がした。突然、目の前から理事長室のすべての色彩と音声が消えた。金井の顔も濃紺の背広も新聞の白黒写真のように脱色して見えた。急に視界が狭まり、金井の口元しか見えなくなっていた。耳の奥で軋むような金属音がした。クッションの効いたソファーの上で上体が重心を失って、回転速度を失った停止寸前のコマのように螺旋運動しているような気がした。激しい脱力感とともに、心から遠く離れたところから、やっと出てきた土岐の言葉は、

「・・・それは、・・・おめでとうございます。金井さんなら実務家としての業績が豊富ですから、新学科のメンバーとして最適だと思います」

という金井の大学就職を祝う言辞だった。

「いやあ、そう言ってくれるのはありがたい。君のことは今後ともケアしていくので、とにかく業績を増やしてください。こう言っちゃなんだが、うちの仕事はそれほど忙しくないので、これからもおおっぴらに内職して構いませんから・・・福原さんの目は多少気になるかもしれないけど、私が公認しますから・・・」

と金井は言うが、言葉の意味と声音の情感が一致していなかった。

「ありがとうございます。いつも後ろめたい気持ちで論文を読んでいました」

と言うと、金井はばつが悪そうに伏し目がちに立ち上がった。そのとき、福原がめずらしく、コーヒーを淹れて理事長室に入ってきた。外来の客がいないときに、コーヒーを淹れてくれることは滅多になかった。

「どうもありがとう。そっちで飲むから・・・」

と金井は福原の入室を制した。福原は様子をうかがうためにコーヒーを淹れてきたようで、

(なんだ、つまらない)

というような落胆の色が顔に出ていた。

 理事長室を出るときに金井がついでのように土岐に声をかけた。

「それから、これは今週いっぱいでいいんだけど、先週の金曜日の講演録を原稿に起こしてもらえるかな」

「はい。分りました」

と土岐は力なく答えた。土岐は、なにも考えることができずに、自分の机に悄然と戻った。すぐ外線があって、福原が電話を取り次いでくれた。

「岩槻です。いま、いいかな」

といつものように挨拶も前置きもない岩槻の声だった。

「おはようございます。いま、だいじょうぶです」

と心の動揺を推し量られないように土岐は感情を殺して言った。

「きのうの夜、新学科主任予定者の村角先生から電話があって、・・・君の文科省の審査だけど、委員の一人から、言いがかりがついてね、業績が不足しているという理由で、差し替えを要求されたようだ」

「さっき、聞きました」

「金井事務局長からかな?」

「ええ」

「まあ、急を要するんで、君が持っている講座を以前担当していた金井事務局長で間に合わせようということで学長が本人に打診したら、二つ返事でOKが出たそうだ。わたしゃ、君に講座を譲ったくらいだから金井事務局長にその気はないかもしれないと思っていたが、・・・そうじゃなかったようだ。ようするに、非常勤は講師料も安いし、時間も食うし、ということで君に譲ったが、専任教員なら話は別ということのようだ。教授で申請するか、准教授で申請するか、学長の判断次第だが、そうすると教員構成上、ただでさえ少ない専任講師がさらに少なくなるわけで・・・平均年齢もあがるし、・・・君をリジェクトした理由がよう分からん」

「いろいろお世話いただき有り難うございました。業績の少ないのはわたしの責任ですから・・・自業自得だと思います」

と感情を押し殺すように話しながらも、体中の血管は激しく拡張と収縮を繰り返していた。

「いやあ、クレームをつけた審議委員は、国立大の先生らしいんだが、・・・そういう場合は、自分の弟子をねじ込むのが一般的だが、・・・ちょっと調べたところでは、金井事務局長とその審議委員の先生とは同窓ではあるが、直接関係はなさそうだ。金井さんとは学部も違うしね・・・まあ、同窓だからどこかで繋がっているのかもしれないが・・・そのうち、新学科主任予定の村角先生から君に正式に断りの連絡があるかも知れないけど・・・」

「また来年どこかの大学にアプライします。今回は本当にいろいろと、ありがとうございました」

「それに,聞くところによると東亜クラブの存続は危ないらしいね。沈みかけた船からは最初に鼠が逃げ出すというけど,金井さんは鼠ということかな。そういう情報は君より早くキャッチしているだろうし・・・これは、仄聞だけど、金井さんの子供は難病らしいね。保険がきかないんで、大変らしい。・・・じゃ」

「そうですか」

と言い終えないうちに電話は切れていた。いつものように別れの挨拶のないのは岩槻の流儀だった。話を持って来てくれたのは岩槻だったので、不首尾であったことが岩槻自身で面白くないのかもしれない。土岐がいなくなれば、新設学科に赴任してきたとき、顎で使える子分がいなくなる。専任教員としての土岐の存在は、岩槻にとってなにかと便利なはずだった。金井の子供が大変らしいということは、いつだったか福原から小耳にはさんでいた。そのときは、

「金井さんのお子さんって、問題みたいよ」

というような話だったので、土岐は不良か、不登校か、勉強嫌いかぐらいに思っていた。


 1時間ぐらい、なにも手につかない放心状態が続いた。スカスカの空白が脳裏に広がっていた。徐々にではあるが、新設学科の専任教員の就職口がご破算になった現実を受け止めようとする心理状態になろうとしてきた。専任教員のメンバーからはずされた理由は考えても仕方のないことだし、愉快なことではないので忘れようと努めた。忘れるために、金井のあとの事務局長ポストのことを考え始めた。

(金井さんがいなくなると事務局長をだれがするのか?専務理事が息の掛かった天下りを呼び込みそうだが、それができなければ、ぼくに声の掛かる可能性もあるかもしれない。現時点ではほかに人材はいない) 

大学就職を母に伝えることを楽しみにしていたが、その可能性がなくなった以上、東亜クラブの事務局長就任に希望を繋ぐことにせざるを得なかった。事務局長になれば月給も倍近くになるので、生活にかなりゆとりが生まれる。一日中、節約のため外出することなく、白内障の眼で朝から晩までテレビを見ている母に白内障の手術を受けさせ、温泉旅行のような、テレビ以外の楽しみを提供することができるかもしれない。お金をあげても使おうとはしないだろうが、嬉しそうな顔をするであろうことは想像できた。親孝行を何一つしていないという強く、後ろめたい思いが土岐にはあった。

 土岐は大学の専任の件は、母には言わないでよかったといまさらながら思う。言っていれば、期待だけ持たせて、落胆させていたところだろう。事務局長就任の件も土岐が希望的観測で勝手に願望していることで、このことも母には言わない方がいいと思う。しかし、この希望的観測は土岐の心の傷をいやすのに多少効果があった。


 その日の午後、金井と専務理事は一、二時間、二人だけで理事長室で話し込んでいた。たぶん、文部科学省の審査が通ったら、東亜クラブの事務局長職を辞すという話だろうと思う。事務局長の後任人事が話題になっているのかもしれない。専任教員となっても、一週間まるまる大学に拘束されるわけではないから、理事長の篠塚のように、週二、三日は嘱託のような形で、東亜クラブの雑務を消化することができるだろう。事務の引き継ぎもしなければならない。土岐が後任になれば、事務の引き継ぎはスムースに行える。東亜クラブには基本的にたいした業務はないので、金井が事務局長でなくなっても、それほどの問題は生じないだろう。

 その日の夕方、東亜クラブのリーフレットが出来上がってきた。予定よりだいぶ納品が遅くなったが、河本印刷の外回りに悪びれた様子はない。今回に限ったことではないが、東亜クラブの発注額がわずかであるため、他の仕事を割り込ませていたようだった。出来上がったリーフレットを金井と福原に一部ずつ持って行った。二人とも一瞥しただけで、とくにコメントはなかった。福原はなんとなく状況を察知したようで、土岐に対する態度が妙によそよそしくなっていた。そう感じるのは土岐の邪推なのかもしれない。

高層ビルの窓の外はすでに夕闇が支配し、隣り合うビルの窓灯りが明るさを増していた。レインボーブリッジにも明かりがともされた。部屋の照明にも外界の照明にも目の細かい網がかかっているようで土岐の視野を重く深い闇がとり囲んでいた。外界の闇が濃くなるにつれ、鏡のような窓に映る事務所内の光景が次第にコントラストを強めてきた。


 帰宅までの通勤電車の中の景色もいつもと違って見えた。車内広告のカラフルな色彩が鼠色を帯び、空々しく思えた。駅に到着するたびに乗り降りする客の土岐の体への接触が悪意のあるもののように感じられた。

 八王子駅で降りて、近くのスーパーマーケットでペットボトルの安い焼酎とスナックを買った。帰宅してから、その焼酎をコーラで割って数杯飲んだ。滅多に晩酌はしないので、何かがあったことに母は気づいて、しつこく聞いてきた。

「おまえ、なにかあったのかい?」

「なにもない」

「そんなことはないだろう。おまえが自分で酒を買ってきて呑むなんてことは、ここに引っ越してきてから一度もなかった」

「なにもない」

「言ってごらん。・・・言えば少しは楽になるよ」

「なにもない」

「なにかしでかしたとしても怒らないから・・・」

「なにもしていない」

と土岐は言い張って、しらをきったまま、したたかに酩酊して床に入った。アルコールの棒で頭を殴られたような感覚があった。専任教員を不適格と審議されたことを考えるとなかなか寝付けなかった。全人格を否定されたような気がした。そのうち考えることを変えて、事務局長職への昇進の可能性を思い描くと、知らないうちに寝入っていた。

 

 翌日の火曜日の午前中、理事長室で、また金井から話があった。専務理事が出勤する前だった。最初はさえない顔をしていると感じたが、話を聞いているうちに同じ金井の顔が申し訳なさそうな同情の表情に見えてきた。

「きのうの夜、専務理事から私の自宅の方に電話があって、・・・私の後任が内定したそうです。専務理事が経産省にいたときのノンキャリの部下で、外務省からの出向だった人で、・・・それはそれでいいんですが、その人が、

『どうしても、もう一人直属の部下だった外務省のノンキャリの人を連れて行きたい』

と言ってるらしいんで、・・・そうすると予算的に、それだけで人件費がいっぱいになってしまうんで、・・・たぶん、君については、いまのところ来年度の契約を更新するのが難しいような状況になりそうで・・・」

 金井の話を聞きながら、専務理事が土岐の机の脇を通り過ぎるときの表情を思い出していた。東亜クラブの業務がないとき、土岐はいつも研究論文を読んでいたり、非常勤講師の授業の準備をしていたりしていた。

(なにやってんだ?おまえ)

と言いたげな専務理事のさげすみの目つきが記憶に残っている。土岐は土岐で、午前十時過ぎにハイヤーでやってきて、午前中一杯新聞や雑誌を読んで、十二時過ぎると昼食に出かけ、午後二時ごろに帰ってくるとパソコンでメールを打ったり、ネットサーフィンをやったりし、午後四時過ぎにはハイヤーで帰宅する専務理事と話をするとき、敬意を表すことは極力しなかった。決して非礼な言動はとらなかったが、言葉の端々や表情の取り繕いで、土岐が専務理事を尊敬していないことは、察知していただろうと思う。権力を持つ人間に対して、心の底から敬意を表している言動を取らなければ、なんらかの報復があるであろうことは想像できたが、心にもない敬意を表することは土岐にはできなかった。媚びへつらうことすらもしなかった。そういう態度を尊大と受取られても仕方がないのかもしれない。一流国立大学卒の自負をもっている専務理事が、そういう土岐のような二流私立大学卒の部下に対して、便宜を図ることをしないであろうことは理解できた。

「それは承知しています。わたしの契約は単年度契約ですから・・・」

とざわざわと怒涛のように波打つ激情を抑えながら震える声で言った。

「申し訳ないね。まだ確定したわけじゃないけど、直前になって言っても、すぐにつぎのポジションが見つかるというわけじゃないから・・・まあ、早めに言っておいた方が、君も準備できるだろうし・・・私もアンテナを張って、君に適当なポストがないかどうか、気をつけていようと思うけど・・・扶桑総研の方はどうなんだろう?」

「声を掛けられてはいませんが、一応、当たってみます。・・・どうも長い間有り難うございました」

「いや、まだ確定したわけじゃないんで・・・それから、専務理事にお願いしたんだけど、今回の扶桑総研から振り込まれた金額は、来年の三月に慰労金ということで、そっくり君に渡そうということになりましたから・・・」

と言う金井の歯切れが急によくなった。

「そうですか、いろいろと気を遣っていただいて、すみません」

と礼を言わざるを得なかった。

「まあ、君は私と違ってまだ若いし、なんといっても本当の研究者だから、いずれきちんとした大学のポストが見つかるでしょう」

と金井は慰めるようなことを言ってくれたが、口先だけのことなので、土岐はすこしも嬉しくなかった。今後少子化が進み、大学の新増設はほとんどないというのが、常識になっている。金井もそのことは知っているはずだ。


 今年初めての寒波が襲来していたその日の夕方、電話予約を入れて、扶桑総合研究所の鈴村に会いに行った。扶桑総合研究所の求人の状況を知るためだった。ACIの報告書作成依頼の話以降、会ってなかったので、挨拶の意味もあった。

 五時半ごろ、受付を通さずに、直接鈴村の机の前に立ち寄ると、鈴村は机の周りをダンボールに放り込んだ報告書や書類に囲まれて、経産省のシンクタンク助成の企画書を書いているところだった。

「お忙しいところ、すみません」

と土岐が詫びを入れると、鈴村は壁に立てかけてあった折りたたみ椅子を出した。

「いやあ、・・・もう帰ろうかと思っていたところだ」

 暖房の効きすぎなのか、鈴村は額に薄っすらと汗をかいている。

「ACIの件ではお世話になりました。非常に貴重な経験をさせていただきました」

「うん、そうでしょ。・・・書物の知識が机上の空論だって分かったでしょう」

「そうですね。知らなかったことがいっぱいありました」

と言いながら窓の外をちらりと見ると、晴海通りの夜の帳に広がる電飾の中を通勤帰りの人々が塊になって駅に向かって足早に歩いていた。土岐の心が風に舞う落ち葉のように揺れまどいながら落ち込んでいるせいか、気まずい雰囲気が感じられた。鈴村にいつもの陽気さがない。土岐の方から押しかけてきたので、土岐が用件を切り出すのを鈴村は待っているようだった。なかなか言い出す踏ん切りがつかなかったが、いつもは快活な鈴村が一向に話題を提供してくれないので、土岐は話を切り出さざるを得なかった。

「・・・話は違うんですが、・・・わたし、来年の三月に東亜クラブとの契約が切れるので、求人情報を探しているんですが、心当たりはありませんか?」

と言いながら、内心、扶桑総合研究所の求人に関する情報を聞き出そうと思っていた。

「うちも、来年はこの不況で、求人ゼロだよ。もっとも、・・・砂田君のところの、ACIがらみの仕事が継続されていれば、話は別で、・・・彼の下に、一人くらい、君みたいな人を採ってもいいかなあと、考えてはいたんだが・・・」

 その話は以前聞いたことがあったが、一条の光を求めて、土岐は問い質さずにはいられなかった。

「ACIがらみって、いいますと?」

「今回の国鉄電化プロジェクトで、財務分析にうちが一枚からんでいるということにACIが執着したんで、・・・

『それじゃ、これからも、ODA関係の財務分析はうちでやりましょう』

ということになっていたんだ。そうなれば、

『英語のできない砂田君じゃ、きついだろう』

ってんで、部長会議で、

『一人、財務分析用に採ろうか』

という話が出ていたんだ。これが、本決まりになれば、当然君を第一候補にして打診するところだったんだが、・・・先日、向こうさんから、

『その話はなかったことにしてくれ』

という連絡があった。理由を言わないんで、・・・訳が分からないんだけど・・・」

 言いたくなかったという思いが、鈴村のしんみりとした表情に表れていた。土岐の頭の中で、神経繊維が何本か切れるような微かな痛みが感じられた。

「わたしのレポートがまずかったんでしょうか?」

「そうなのかどうなのか、・・・なんらかの社内事情なのか・・・いくら聞いても言ってくれないんで・・・まあ、口約束だけで、ACIと正式に契約していたわけでもないし・・・そういうことで、・・・でも、君は貴重な戦力なんで、専門的な人手が足りなくなったら是非また協力して欲しい」

と鈴村は手のひらを返したように努めてあっけらかんとして言う。この話題からはやく逃れたいようだった。たしかに土岐にとってありがたくない情報をもたらした元凶は鈴村ではない。彼はそのことを早く忘れたいようだった。そのためには、彼の前に座っている土岐の表情から曇りが消えなければならないが、そういう芸当は土岐の得意とするところではなかった。土岐の顔色をうかがいながら話す鈴村の話に歯切れの悪さを感じた。何か言いよどんでいる気配を感じた。ものごとにあまり拘泥しないのが鈴村のいいところだが、いまはその言葉に虚しい響きしか感じられない。

「お邪魔しました」

と言いかけて、折りたたみ椅子を壁にかけたところで、鈴村がやっと本音の重い口を開いた。

「これは、・・・わたしの想像だが・・・今回の電化プロジェクトが、ひとまず、おじゃんになったのが効いたのかもしれないね」

 土岐は立ったまま、鈴村を斜め上から見下ろした。

「えっ、・・・駄目だったんですか」

「そうらしい。詳しいいきさつは聞いていないけど・・・」

「そうですか・・・」

「砂田君が相当落ち込んでいる。彼は君についてなにか誤解しているようなんで、しばらくは会わないほうがいいかもしれないね。今日はもう彼は帰ったから大丈夫だけど」

 それですべてが分かったような気がした。土岐の体の中を得体のしれない不快な塊がどろどろに融けて駆け巡っているようだった。


 帰宅の電車の中で、土岐の身辺に起きたことのすべては王谷の陰謀ではないかと疑った。報告書を精読し、分析したシュトゥーバが財務分析のまやかしを見破り、プロジェクトの中止を国鉄総裁に進言し、国鉄電化計画はストップしたのだろう。その結果、王谷の指示で、ACIと扶桑総合研究所のODAがらみの業務提携が頓挫し、扶桑総合研究所の土岐のポストが消えた。一方で、白石、西原、南田の国立大学マフィアのコネクションで、文部科学省か審議委員の大学教授に手を回し、新設学部申請の教員リストから土岐の名前を削除した。新設学科の件は、王谷には直接話していない。インド料理店でこの件を話した相手は、白石と丸山だった。おしゃべりな丸山がこの件を王谷に話したとすれば、王谷が文部科学省に直接手を回したのかもしれない。さらに外務省ルートで、萩本専務理事のかつての直属の部下が外務省からの出向であったことを利用し、その出向者を事務局長にねじ込み、ついでにその部下を研究員として引き連れてくることで、土岐を東亜クラブから追い出すことに成功した。しかし、ACIと扶桑総合研究所の業務提携が破談になったことは王谷の権限の範囲内であるから、当然であるとしても、文部科学省と経済産業省のルートには疑問が残る。そのルートを王谷が利用することの意味が分からない。王谷には何の利益もないはずだ。むしろ、そういう工作をしたとすれば、工作を依頼した王谷の方に、借りができる。借りを作ってまでして、そうするメリットが土岐には分からなかった。

(ぼくのようなしがない財団法人の薄給の一研究員を追い落とすことにどれほどの利益が王谷にあるのか?画策に要するコストのほうが大きいのではないか?ぼくの存在を不快に感じている専務理事自身の画策かもしれない。その画策に金井さんがまったく異議を唱えなかったとすれば、金井さん自身もぼくを面白くない存在と思っていたのかもしれない)

 かつて、金井から、

「専務理事にはきちんと挨拶をしたほうがいい」

というような注意を一回だけ受けたことがあった。土岐の専務理事に対する態度は金井の目にもあまったのかもしれない。それ以上に、その忠告は金井に対する土岐の態度についての暗示であったのかもしれない。

金井に対して決して無礼な言動をとった記憶は土岐にはなかったが、彼に対する尊敬の念がなかったので、敬意を表することをしない土岐の言動の端々に彼を不快にさせるものがあったのかもしれない。

 王谷の陰謀については、丸山に連絡を取って、真相を確かめることも土岐は考えた。しかし、かりにすべてが土岐の推察通りであるとしても、それが解明されることになんの意義も見出せなかった。


 翌日、土岐は先週末の講演の録音をテープに起こす作業を始めた。実際の講演を聞かずに原稿に起こすのは初めてだった。先週、金井が講演会出席の残業を免除してくれたときは、誰が原稿にするのか疑問だった。ひょっとしたら金井自身が録音を文章に起こすのかと思ったが、雑用はやはり土岐の仕事だった。リアルタイムで講演を聞かずに原稿にするのは少し厄介だ。金井はそのことを承知で、土岐の残業を免除したのかどうか、土岐には分らない。これまで土岐が講演を文章化したのは、多くが企業経営者や経済官僚の話で、教育関係者は初めてだった。土岐が春学期だけ非常勤講師を務めていた東京政経大学の理事長である金子留吉の話は格調が低かった。企業経営者がおカネの話をするのは違和感がないが、教育関係者が終始、お金の話ばかりをすることに土岐は違和感を覚えた。建学の精神や教育方針といった話題が一切なかった。来年度から土岐が受け持っていた春学期の講座は金井が担当することになるが、土岐は理事長の講演を聞いて東京政経大学と縁の切れることの未練が多少薄らいだ。

 一通り、講演を文字に起こし、最後に口語を文語に変え、多少脚色し、表現も活字に耐えられるように変えた。土岐が着任したばかりのころ、アジアのある国で、張りぼての龍に眼を入れる儀式の話があり、これを土岐が、

「点睛の儀式」

という造語で表現したことがあった。講演者が言ってなかった言葉だが、校正のチェックをした金井には褒められた。しかし、最後に講演者自身の校正の段階で、この造語は削除された。

 木曜日の午前中に講演録の最後の推敲を終え、コピーを金井に提出した。金井は、昼休み中に読み終えて、殆ど修正することなく、

「講演者にメールの添付ファイルで、本人校正をお願いするように」

と土岐に指示を出した。土岐は理事長の金子留吉のメールアドレスを聞いて、講演録を送信し、校正を依頼した。その返信があったのは金曜日の午後だった。数か所、手が入れてあった。大学の宣伝のような文言や講演時に話していもしないような挿話もあった。土岐は金井の了承を得て、そのまま講演録を作成し、会員企業に配送した。夕方近くにすべての作業が終了し、講演録を一部、保管用としてキャビネットにファイルした。ついでに終業時間まで十五分ばかりあったので、過去の講演録を見た。着任してからの講演録は土岐が編集しているので、それ以前のファイルを見てみた。着任以前の講演録の末尾には、

〈文責・金井〉

とあった。年度ごとの一覧表を見ると、土岐が着任してからと同様に、企業経営者が多く、ときどき東亜クラブの監督官庁の経済官僚も混じっていた。土岐が着任する1年前の外務官僚の講演が土岐の目を引いた。講演者名は三橋光夫、司会は専務理事の萩本になっていた。土岐はファイルごと取り出して、こっそりと自席で読んでみた。


〈本日は同窓のよしみで、萩本専務理事と金井事務局長に講演を依頼されました。萩本さんは大先輩で、金井さんとはキャンパスで接近遭遇したかもしれませんが、三歳ばかり違うので、同窓だと知ったのは、萩本専務理事の口利きです。しかし、これだけのコネクションでは講演のお声がかからなかったかと思います。多分、講演を依頼されることになった理由は、私自身が来年度からアジアの小国の大使として赴任することが内定したからであろうと思います。そういうことで、今夜のお話は、私の置き土産のような感じです。私自身は、国際政治そのものよりもODAに非常に興味がありまして、東亜クラブの会員企業さんにとって、多少ためになるようなお話ができるのではないかと思います。実際もう少し若い頃、ODAを扱う政府系金融機関に出向で行っていたこともあります。さてそろそろ本論にはいりますが、日本は第二次大戦後、戦時中にご迷惑をおかけした東南アジア諸国に対して、莫大な戦後賠償を行いました。まだ日本が高度経済成長を始める前の話です。以来、日本の経常移転収支はずっと赤字です。日本の歴史上、敗戦で賠償を支払うのは初めてのことでした。米ソの東西冷戦構造の影響もありましたが、アメリカが日本に対して終戦直後行った食糧援助が日本人のパン食を習慣づけ、その後の対米小麦輸入依存を定着させたのと同じように、日本政府も戦後賠償をその後の東南アジア諸国との経済関係を構築する方向で行いました。外交とはそういうものです。

戦略のない外交は国を滅ぼします。戦後賠償で東南アジア諸国に蒔かれた種は日本経済が復興を遂げてから、ODAに引き継がれました。最初から、純粋に経済的な観点からの援助ではなく、政治がらみの案件が常識になっていました。軍隊をもたない日本としては、援助が最大の武器になったのです。これはもう既に時効だから言うのですが、ODAは現地政治家の私腹を肥やし、その時々の現地政権を支援し、同時にODA関連企業を経由して日本の政治家の政治資金にキックバックされ、今日まで黙認されてきました。ODA関連の日本の企業にとっては公共事業のような役割も果たしました。国内の公共事業ですと、建築・土木・ハコモノに限定されるのですが、ODAであればより広い範囲の企業に税金を還流させることが可能になります。

たとえば、発送電・電信電話関係は国内公共事業としてお金をばらまくのはうまくないのですが、発展途上国であればインフラ整備という理由で膏薬を張り付けることができます。まあ、発送電は半分官業のようなものですし、電信電話もつい最近まで官業でしたから、お金をばらまく必要もなかったのですが、国内公共事業と縁のない産業・企業に対しては税金を使うに当たり、経済官僚にもなんとなく後ろめたいものがあります。高度経済成長期は税収も増え、国内公共事業に限らず、ODAのそうした不効率な資金の使われ方も容認されてきましたが、昨今の膨大な国債発行残高を背景として最早見過ごされなくなったというのが背景にあります。しかし、現在でもODAは交換公文等を介して、外交的に高度に政治的な判断で行われているのが実情で、その実態を調査することは内政干渉につながることもあり、同時に行政当局からも政治的な圧力がかかるのが一般的です。国内法規と対象国の法規、日本の政治家と相手国の政治家などが絡み合って、赤字財政だからと言って単純に削減できないのが実情です。ODAに求められる視点は、あくまでも経済合理性と税金の節約ということで、建前として国際政治的な視点は、それが本音であるという形では明示しません。かりに政治的に問題があったとしても、経済合理性にかなうものであれば問題とはしないというのがODAのスタンスです。今後とも東亜クラブの会員企業におかれましては、被援助国の経済厚生の向上につながるような案件がありましたら、当該国の大使館を通じて情報をいただければ幸いです。プロジェクトは一応国際入札という形式をとりますので、案件の仕様はできれば日本仕様でいただければ、日本国内で納付して頂いた法人税は合法的に迂回させることが可能になるものと思います。今夜は、ご清聴有難うございました。(文責・金井)〉


 講演録を読みながら、土岐の背中に凍りつくような電流が流れた。パソコンの保存メールから、以前、

〈Kakusifile〉

から受信した文章を開いた。

@あまり、詳細を述べると当方の身元が明らかになる恐れがあるので、簡潔に調査報告書の書くべき視点について説明します。日本は第二次大戦後、東南アジア諸国に対して、莫大な戦後賠償を行いました。アメリカが日本に対して終戦直後行った食糧援助が日本人のパン食を習慣づけ、その後の対米小麦輸入依存を定着させたのと同じように、日本政府も戦後賠償をその後の東南アジア諸国との経済関係を構築する方向で行いました。戦後賠償で東南アジア諸国に蒔かれた種はODAに引き継がれました。純粋に経済的な観点からの援助ではなく、政治がらみの案件が常識になっていました。ODAは現地政治家の私腹を肥やし、同時にODA関連企業を経由して日本の政治家の政治資金にキックバックされ、今日まで黙認されてきました。高度経済成長期は税収も増え、そうした不効率な資金の使われ方も容認されてきましたが、昨今の膨大な国債発行残高を背景として最早見過ごされなくなったというのが背景にあります。しかし、現在でもODAは交換公文等を介して、高度に政治的な判断で行われているのが実情で、その実態を調査することは内政干渉につながることもあり、同時に行政当局からも政治的な圧力がかかるのが一般的です。国内法規と対象国の法規、日本の政治家と相手国の政治家などが絡み合って、単純な調査を行えないのが実情です。以上より、調査報告書に求める視点は、あくまでも経済合理性と税金の節約ということで、政治的な視点は求めません。かりに政治的に問題があったとしても、経済合理性にかなうものであれば問題とはしないというのが当方のスタンスです。できれば、誰がどのような無駄使いを画策しているか、首謀者は誰か、組織ぐるみであるとすれば、どのような組織か、証拠に基づいて調査し、プロジェクトを破綻の方向に誘導していただければ幸甚です。以上@

講演録と見比べてみると、講演録の内容の半分ぐらいが、メール本文にある。土岐は、

〈kakusifile〉

の送信者がこの講演録を見たことを確信した。会員企業数が現在とあまり変わらないとすれば、百数十社である。この講演録はそこに配付され、会員企業の誰かが見た可能性がある。土岐は会員企業名簿を開いた。竹内工務店を探してみた。名簿は五十音順で、竹内工務店はた行の最初に名を連ねていた。

(ということは、竹内工務店の誰かが、kakusifileの送信者ということか?)

講演録の直接的な関係者としては、三橋大使と金井だが、三橋という名前については、土岐は聞き覚えがあった。電化プロジェクトの現地打ち上げを大使館で行ったとき、土岐は体調不良で欠席した。そこの大使が三橋という名前であったような気がした。さっそく、外務省のホームページで確認した。確かにS国の大使は三橋光夫だった。

 終業時間をとっくに過ぎていた。福原が不審な目つきで土岐の方を見ている。土岐は疑問を抱えたままファイルをキャビネットに戻し、帰宅についた。中央線の電車に揺られながら講演録について反芻した。

(S国の三橋光夫大使は東亜クラブで三年前に講演していた。萩本専務理事と金井事務局長と同窓だった。とすれば、今回の国鉄電化プロジェクトについて、東亜クラブと三橋大使の間で何らかの情報交換があったとしても不思議ではない。kakusifileから受信したメール内容と三橋大使の講演録はほぼ同じ文面だ。講演録は会員企業百数十社に配付されていた。とすれば、その議事録を見た人間がkakusifileの送信者のはずだ。誰だ?10万円が入っていた封筒の竹内工務店の誰かか?ACIの丸山の話では、今回の国鉄電化プロジェクトを立案したのは経済産業省から現地大使館に出向している西原とのことだったが、そもそも発案したのは三橋大使ではなかったのか?三橋大使が西原を使って、プロジェクトを推進しようとした考えることもできる。そうであるとすれば、三橋大使にとってプロジェクトが流産したことは面白くないはずだ。そこで一等書記官の白石から、僕が東京政経大学の新設学科の教員として文科省の大学設置審議会で審査されているという情報を得て、同窓の文科省の官僚と同窓の大学教授の審議委員に働きかけて、業績が不足しているという理由で、僕を教員審査で否とするように画策したのか。金井は自分が大学教員になりたい一心でそれに協力した。萩本は東亜クラブを自分の子飼いで固め、居心地をさらに良くするために、僕を来年度から排除する計画を立てた)

とそこまで考えて、土岐はため息をついた。今更ながら自分自身に何の対抗手段もないことに思い至された。

(だから金井は東京政経大学の理事長に僕を合わせたくなかったのだ。海外出張のためのねぎらいで残業を免除したわけではなかったのだ)


いつものように八王子駅前から路線バスに乗り、帰宅した。借家の周りには街路灯がないので、玄関は杉林の闇に覆われていた。唯一の灯りは隣家からもれてくる生活の照明だけだった。隣家の脇の細い路地を通って自宅玄関に立ったとき、家の中が真っ暗だった。帰宅時に母が家にいないことは滅多になかった。外出する場合は、かならず連絡をくれていた。 

玄関の鍵を取り出して、手探りで鍵穴に鍵を差し込んで回してみた。開錠の感触がなかった。そのまま玄関の引き戸を開けると、寒々とした家の中は真っ暗だった。玄関の照明をつけると、台所に続く狭い廊下が闇の中にぼーっと浮かび上がった。その先で、エプロンをかけたまま、うつ伏せに倒れている母の足が見えた。これから夕食の準備に取り掛かろうとしていたのか、エプロンの紐が腰の後ろで結ばれていた。

土岐は鞄を廊下に投げ出した。

「どうしたの」

と玄関から靴を脱ぐのももどかしく、駆け寄った。母の背後から肩を揺すると、

「うーん」

と消え入りそうな声で唸っている。

「救急車を呼ぶよ」

と大声で言うと、かすれた声で、途切れ途切れに、

「大、丈、夫、・・・」

と聞き取れないほど小さな声で言う。

「救急車呼ぶよ」

と言い捨てて、固定電話で119に電話をかけた。すぐに出てきた。

「はい、119番です」

住所を言い、バス停前の道路から駐車場を隔てて、一軒奥の平屋だと教えた。

「道路に出て、待っています」

と言うと、

「十分程度で到着します」

という返答があった。それから、母の状況を聞いてきた。土岐は見たままを言うと、

「とりあえず、動かさないで、そのままにしておいてください」

という指示があった。電話を切ってから母の寝巻きと着替えを探した。それほど多くの衣類があるわけではないが、箪笥のどこに母の下着があるのか分からない。居間にあったガウンを母の背中に掛け、まだ取り入れていない母の洗濯物を買い物袋に入れ、母の老眼鏡と保険証と厚手の靴下を同じ袋に詰めた。他に必要なものを考えてみたが思いつかなかった。

 都内に住んでいる叔母に連絡しようかとも思ったが、もうすこし様子を見てから電話することにした。母は叔母とはあまり折り合いが良くなく、普段からも没交渉だった。

 台所に倒れた母は動かないままだった。毛玉だらけの緑のソックスをはいた足の裏が、小学生のように小さく見えた。台所の石油ストーブに火をつけようとしたが、灯油がはいっていなかった。薄ら寒い台所で救急車が到着するまで母の傍らにいることにした。

微かだが、呼吸している様子は窺えた。口元が動いたようなので、耳を近づけた。

「お、ま、え、・・・駄目、だった、よう、だね」

「何が?」

「・・・大、学」

「知ってたの?」

「さっき、岩槻、先生、から、電話・・・」

その電話が母が倒れた原因という確証はなかったが、岩槻には言わなくても言いことを平然と言う性癖があった。それで場が白けることがよくあった。岩槻に土岐が大学への就職に応募していることについて口止めをしていなかったので、一概に岩槻を責めることはできない。しかし、どういう言い方をしたのか、土岐は気になった。岩槻は人の気分を害さないようにうまく話しのできる人間ではなかった。あることをあるがままに何の脚色も修飾もしないで語る人だった。大学の研究者というのは、えてしてそうした者なのかもしれない。

「もう、話さなくていいよ」

母は息も絶え絶えに、苦しそうだったので、土岐は話しかけることをやめた。しかし、 母は話すことをやめなかった。

「たぶん、もう、・・・だめだと、思う。・・・あたしの、仕事は、・・・おまえを、きちんと、・・・育てる、ことだった。・・・おまえも、もう、三十すぎ・・・どうでも、いいような、生き方は、するなよ」


それは母の口癖だった。

「いい加減な生き方をするな」

とか、

「意味のない生き方をするな」

とか、

「正しいと信じる生き方をしろ」

とか、土岐がもの心のつく子どもの頃からそう言っていた。土岐が大学卒業と同時に就職することをやめ、大学院に進学したことに大きな影響を与えていたように思える。

博士課程前期課程のとき、土岐が狂おしいほど好きだった女性と別れた理由もそれにあったような気がする。彼女は大手不動産会社に就職し、土岐から見れば高い給料を得ていた。博士課程前期課程修了であれば、二浪扱いで多少の就職口もあった。彼女との結婚を選択するならば就職しなければならなかった。彼女と結婚し、きちんとした家庭を築き、社会人としての責任を果たす生き方はそれなりに意味のある生き方であろうとは考えた。しかし、そういう生き方は自分にとっては意味のある生き方であるようには思えなかった。その後、

「彼女は外資系の高給取りの外国人と結婚した」

とゼミのOB会で同級生から土岐は聞いた。


 遠くからサイレンの音が途切れ途切れに聞こえてきた。玄関の門灯をつけ、サンダルを引っ掛けて狭いバス通りにでた。サイレンの音は次第に大きくなり、心臓の鼓動のように点滅する赤色灯が見えた。あたりはすっかり暗くなっていたので、片側一車線の道路の中央に出て両手を大きく振った。救急車はヘッドライトを煌々とつけ、土岐を認めると速度を落とし、二メートルほど手前で停車した。その後ろから、後続のライトバンの運転手が、迷惑そうな面持ちで追い越していった。

 土岐は担架を手にした小柄な救急隊員二名を自宅に誘導した。救急隊員は玄関で靴を脱ぐと狭い台所に上がり、倒れている母の脇に担架を置き、母にメリハリのきいた声を掛けた。

「どうされましたか?」

 母はかすかに唸っているだけで、言葉が出てこない。しゃがみ込んだ一人の隊員が母の手首で脈をとっている。もう一人の隊員が振り返って玄関に茫然と立っている土岐に聞いてきた。

「どうされたんですか?」

「外から帰宅してきたら、そこに倒れていたんです」

「そうですか。ひとまず、救急病院に搬送します」

と言いながら、二人がかりで母をうつぶせのまま担架に乗せた。

「付き添いをお願いします」

と言われるまでもなく、土岐は先刻用意した買い物袋を持ち、門灯をつけたまま玄関の鍵を閉めて、救急隊員に続いた。杉の枯れ枝を踏みしめながら歩くと隣家の主婦が洗い髪のまま詮索したげな面持ちで玄関から首を出していた。普段から会話をすることがほとんどなかったので、土岐は小さく会釈だけした。

 狭隘な救急車の後部で横たわる母と一人の救急隊員と土岐の3人になった。窮屈な車内で土岐は救急隊員とともにベッドの傍らの長椅子に腰掛けた。

「なにか、持病はありましたか?」

と聞かれたので、

「糖尿病があります」

と答えた。

「血糖値はどのくらいですか?」

と聞きながら、運転手が搬送先の病院に電話しているのを傾聴している。

「最高で二百か三百か・・・そのくらいだと思います」

 本当はよく知らなかった。

「倒れたのは初めてですか?」

「ええ」

 運転手は、後部座席の会話に耳を傾けながら電話を掛け続けている。搬送先の病院がなかなか決まらないようだった。もう一人の救急隊員と母の病歴や生年月日や血液型についてのやり取りが、四、五分続いた。もう聞くことがなくなったようで、隊員は再び母に声を掛けた。

「土岐さん。聞こえますか?」

 母は何も答えない。うめき声も聞こえてこない。耳を澄ますと微かな息の音がかろうじて聞こえてくるだけだった。救急車の屋根の上で点滅している赤色灯と同じようなものが土岐の頭の中で回転していた。やっと、救急車が思い出したようにサイレンを唸らせて走り出した。119番に電話してから、30分以上経過していた。

「たぶん、二次救急では対応できない症状なので、救急救命センターに向かいます」

と運転手が言う。救急車はゆっくりと走り続けた。交差点で赤信号に遭遇するとサイレンの音を大きくして、スピーカーで周囲に注意を促すが、逆に車の速度は低下する。


 それから30分足らずで救急病院に到着した。救急車は救急病棟の車寄せに滑り込んだ。正面玄関だけに照明がともり、その両脇の部屋の照明は暗かった。看護師が二人、玄関先で待ち構えていた。折りたたみの担架が救急車から先に下ろされ、担架の足が延ばされた。看護師がかがみこむようにして歩きながら母の耳元で何かを囁いている。母は何も応えない。

担架は照明が半分落とされた薄暗い廊下の突き当たりの、浅黄色のカーテンだけで仕切られたベッドの脇で止まり、母が持ち上げられて病院のベッドに仰向けに移動させられた。周囲に同じようにカーテンだけで仕切られたいくつかの空間があった。白衣に手を通しただけの若い当番医が泰然と現れた。首に聴診器とセキュリティ・カードを下げている。母の目の中をペンライトでのぞき込みながら、

「わかりますか?」

とすこし大きな声で呼びかけている。母は答えない。担当医は、

「ご家族のかたですか?」

と聞いた。土岐に聞いてきていることにすぐには気づかなかった。すこし間をおいて、

「息子です」

とその担当医の背中越しに答えた。

「どうされたんですか?」

と何事も起こってないかのような落ち着いた声で土岐に聞き続ける。

「帰宅したら、台所で倒れていました」

「以前にもこういうことありましたか?」

と相変わらず、母を手当てしたまま、土岐を見ずに聞いてくる。

「いいえ、今回が初めてです」

「持病はありますか?」

と聞く担当医の胸のあたりに下がったネームカードが揺れている。

「糖尿があります。二百ぐらいだと思いますが・・・」

「このお年なら、多少血糖値が高くても、病気というほどではありません。痛がっていましたか?」

「いえ、さほど。帰宅したときは、もう意識がはっきりしていなかったようで・・・ふた言み言、口をききましたが・・・」

「気分が悪いというようなことは言ってませんでしたか?」

「・・・言ってなかったと思います」

「吐いた様子はなかったですか?」

「・・・倒れていたその場にはなかったと思います」

「・・・ちょっと、意識が遠いようなので、精密検査をしないと分からないですね」

と言いながら、キャスターのストッパーをはずし、母が横たわるベッドをカーテンの外に移動し始めた。付いて行こうとする土岐に看護師が、

「そこの椅子でお待ちいただけますか?」

とベッドを押しながら、廊下の薄茶色の長椅子を顎で示した。キャスターのきしみ音が廊下に寒々と響いた。看護師と若い担当医は廊下の右奥の集中治療室に足早に消えた。

腕時計をみると八時を過ぎていた。土岐は廊下の固く冷たい長椅子に腰掛け、自宅から持参した買い物袋を脇に置き、背広の胸ポケットから携帯電話を取り出し、岩槻に電話した。左耳に呼び出し音が十回近く鳴ってから、やんだ。

「夜分恐れ入ります。土岐と申しますが、岩槻先生のお宅でいらっしゃいますか?」

「はい、そうです」

と女性の声だった。たぶん、奥さんだと思う。

「岩槻先生はご在宅でしょうか?」

「はい、少々お待ちください」

と土岐を認知したような応答だった。正月に岩槻の自宅に新年の挨拶にうかがったときの奥さんのこぼれるような笑顔が思い出された。

 待っている間に右手でネクタイを緩めた。首筋と喉元から冷気が侵入してきた。ぞくぞくっとしたので、左の肩で携帯電話を抑え、両手でネクタイをすこし締め直した。しばらくして、岩槻が出てきた。

「あ、土岐君」

「夜分恐れ入ります。先ほど、お電話をいただいたそうですが・・・」

「先ほどと言うか、夕方過ぎだったと思うけど、・・・君は帰っていると思ったけど、・・・お母さんが出られて・・・」

「帰りがけに、扶桑総研の鈴村さんにお会いしてきたもんで・・・」

「そう・・・君の文科省の審査の件だけど・・・その後、周りをあたってみたら、どうも誰かが手を回したようだ。名前までは分からないが・・・」

「やっぱり、そうでしたか」

「心当たりがあるの?」

「ええ、まあ、なんとなく・・・」

「学長と学科長予定者の村角にも聞いてみたけど、彼らもまったく知らないようだった」

「でも、何でそんなことをするんでしょうかね。たぶん、その人にとって、わたしを新学科のスタッフからはずすことは、何の利益もないはずなんですがね」

「きっと君はねえ、その人の不興をかったんじゃないかな。文科省に手を回せるほどの人物だから、それなりの人だとは思うけど・・・まあ、そこにもここにもいるという訳ではないが、・・・いるんだよね、そういう人って。・・・溜飲を下げるためというか、自分の腹の虫をおさめるためにだけ、持てる権限や権力の限りを使いまくるという・・・自分の腹の虫がおさまるのが、その人にとっての利益と言えは利益なんだろうけどね。・・・それなりの人物ではあろうが、誰もが煙たがっているような人物だ、たぶん」

と岩槻は他人ごとのように淡々と言う。

「そうですか、ありがとうございました。・・・これは、また、お願いなんですが・・・来年4月以降の職がなくなりそうなんで、お心当たりがあれば、ご紹介ください」

「あれっ、東亜クラブはどうしたの?」

「金井さんの後継の事務局長が部下を引き連れて来るそうです。わたしのいまのポストはその部下の人にあてられるそうです。先生には、せっかく、いまのポストを紹介していただいたのに、申し訳ありません」

「まあ、それは君の責任ではないだろうとは思うけど・・・」

と岩槻は言ってくれたが、土岐にまったく責任がないとは言えない。自分でも自覚はしているが、専務理事の萩本に限らず、土岐は、どんな人とでも良好な人間関係を維持し続けるという能力に決定的にかけている。媚びへつらうということができない。お追従も言えない。そうすれば相手が喜ぶであろうと承知していても、確信犯的に甘言を弄することができない。そうすることができなかったという意味では、自業自得のきらいがないわけでもない。

 そのとき看護師が集中治療室から走り出て来た。とがめるような目つきで、携帯電話を耳にあてている土岐の前に立ち止まった。

「すいません、これで切ります。夜遅く失礼しました」

と口早に言って携帯電話のスイッチを切った。携帯電話を切り終わらない前に、看護師が言いとがめるように話しかけてきた。

「病院内では携帯の電源は切ってください」

土岐は慌てて携帯電話の電源をオフにした。看護師はそれを見届けて、

「患者さんはしばらく、入院していただくことになると思いますが・・・おうちに、他にどなたかおられますか?」

「いえ、わたしだけです」

と土岐はすまなさそうに言った。言ってから、なんですまなさそうに言わなければいけないのかと自問した。

「とりあえず、今夜は救急病棟ですが、明日、様子を見て一般病棟に移っていただくことになると思います。ここに、持ってきていただきたいもののリストがありますので、明日の午後に、ご持参いただけますか?」

 そう言いながら看護師は、寝巻、着替え、洗面用具、保険証、救急費用などが箇条書きされたリストを土岐に事務的に手渡す。いつもそうしているような、言い慣れた言葉と幾度も繰り返されたような所作だった。土岐が帰ろうとすると、

「あ、それから、この用紙に書き込んでいただけますか?」

と言いながら、看護師は受診者カードを差し出した。土岐はそのカードの空欄に母に関する情報を書き込んだ。連絡先には、土岐の携帯電話を記入した。


十四 投函者


 その夜、土岐は自宅に引き返した。自宅の借家にはいつも母といた。いつも母の生活の気配を感じていた。その母が、今夜はいない。ひんやりとした夜気に底知れない寂寥が漂っているような気がした。

 土岐はパソコンを立ち上げて、メールをチェックしてみた。

〈Kakusifile〉

からのメールはなかった。電化プロジェクトが要望通りに頓挫したことを伝えて、残金の九十万円と現地での領収書不要の調査経費として十万円を請求することにした。

@電化プロジェクトが流産したという情報を、扶桑総合研究所から入手しました。つきましては、お約束の残金九十万円と現地での調査費として十万円、合計百万円をお支払いいただければ幸いです。お支払方法は手付金と同様で結構です。私事で恐縮ですが、本日、母が急病で入院したため、至急にお支払いいただければ幸甚です。土岐明@

 土岐は必要なことだけを書いて、送信をクリックした。すぐ、警告音がして、

「メッセージは送信されませんでした」

というエラーメッセージが表示された。土岐は、送信済みファイルを開き、アドレスを確認した。

〈Kakusifile〉

と@以降のフリーメールのドメインのスペルを手帳に書き込んだメモと照らし合わせて確認したが、誤りはなかった。土岐はもう一度同じ文面で、メールを送信した。再び、警告音がして、

「メッセージは送信されませんでした」

というエラーメッセージが繰り返された。エラーの理由を確認すると、

「送信先のアドレスがありません」

となっていた。

 土岐は手をキーボードの上において、今起こっていることの意味を考えてみた。

(もう目的を達成したので、アドレスを消去したということなのか?であれば、そのうち、残金は前回と同じ方法で送られてくるということか?しかし、そうであるとすると、現地で使った経費はどうやって請求すればいいのか?そういう申し出をしたことを忘れているのか?それとも、請求書のいらない経費はやはり認められないということか?あるいは、残金の支払いも必要経費も、約束しなかったことにしたいということなのか?)

と考えながら次第に不安になって来た。


 翌日の土曜日の昼近く、土岐は前夜、看護師から手渡されたリストの品目を用意して、バスで病院に向かった。夜は気づかなかったが、病院は河川敷のほとりに立っていた。外来の休診日のせいか、閑散としていた。ナースステーションで昨夜、救急で運び込まれた者の家族だと説明すると、昨夜と違う担当の看護師が応対してくれた。

「もうしばらく、救急病棟で、一般病棟へは来週の月曜日以降になると思います。月曜日には担当の先生から、説明があると思いますので、来週また来ていただけますか・・・とりあえず、保険証と着替えは預かっておきます。それから、昨夜の、救急費用を会計で清算していただけますか?」

と言いながら、請求書を土岐に渡す。土岐はちらりと請求書に目を落として、

「母に面会できますか?」

と聞いた。

「いま、集中治療室なので、面会はできません。容態は安定しているようです。今日は、いくつか検査をする予定なので、付き添いはとくに必要ありません。月曜日までに、なにかあれば、こちらからご連絡します」

 土岐はそのまま救急の会計で昨夜の費用を支払った。土岐の財布が軽くなった。


一旦、自宅に帰り、着信メールをチェックした。

〈Kakusifile〉

からの受信はなかった。このまま連絡が取れなければ、残額の九十万円と現地経費の十万円は入手できなくなる。母の入院費用がいくらかかるか分からないが、土岐の手許には現金が殆どなかった。

土岐はパソコンの画面をぼんやりと眺めながら、大学院の修士のときに知り合った男のことを思い出していた。大浜隆久という。大学院在学中から、システム・エンジニアのアルバイトにのめり込んでいた。途中から教室で見かけなくなった。最後に会ったのは、学生課の窓口で、彼が退学届を提出しに来たときだった。

「退学届を出さないと、除籍だとさ」

と不貞腐れたように言っていた。土岐と同年であったが、土岐を見下したような言い方だった。誰に対しても横柄な物腰で、同級生からも好かれていなかった。自分で自分を傍若無人と評していた。しかし、パソコンのプログラムや様々なソフトについては、教授すら彼に教えを請うほど熟知していた。

(大浜なら、kakusifileの主を追跡出来るかもしれない)

そんな一縷の望みが土岐の古い手帳の住所録をひも解かせた。数年前の携帯電話番号だったが、大浜がでてきた。

「土岐?・・・ああ、大学院のときの・・・」

と鼻先で話す。

「ちょっと、メールのことで、相談したいんだけど、会えるだろうか?」

 大浜の口調が、傲慢なトーンに変わる。

「こちとらね、貧乏暇なしで、土曜日も出勤で、・・・」

「明日の日曜日はどうだろう」

「いや、明日はちょっと用事がある。今日なら、三時すぎには仕事の区切りがつくけど」

と言われて、土岐は大浜に会いに渋谷まで出向くことにした。大浜は土岐にとって最も好ましくないタイプの人間だった。土岐は相手の立場や心情を全く忖度しない人間が大嫌いだ。大浜はそういう傲岸なタイプの人間だった。

 土岐はポケットに現金1万円を入れて配送されてきた竹内工務店の茶封筒を折り畳んでポケットにしまい、渋谷に向かった。


 渋谷は学部学生のころには飲み歩いたが、学部を卒業してからは、遠のいた。道玄坂の雑居ビルの店舗は殆どが入れ替わっていた。土岐は途中の洋菓子屋でクッキーの箱を買った。道玄坂をのぼりつめて、飲食店街からはずれたペンシルビルに大浜の会社があった。玄関ロビーが歩道から10センチほど低くなっており、10平米ほどの中途半端な広さのエレベーターホールがあった。大浜は6階にいると言う。6階でエレベーターを降りると、目の前にOHエンタープライズというロゴの入ったドアが目の前にあった。土岐がノックをすると、

「あいてるよ」

という大浜の不遜な声がした。ドアの中には窓沿いに細長い部屋が広がっていた。幅2メートル、長さ10メートル足らずのスペースに、窓沿いに1列、横並びに机が置かれていた。大浜の机だけ、こちら向きにおかれ、顔の下半分がパソコンのディスプレーに隠れていた。

「おう」

と大浜は土岐を一瞥して横柄な声を出す。

「ご無沙汰してます。・・・仕事中どうも・・・」

と土岐が言うと、大浜は激しくキーボードを叩きながら、

「いま、終わるところだ」

と言う。土岐は、部屋の奥に進み、大浜の前の椅子に腰かけた。

「これつまらないものだけど・・・」

と土岐はクッキーの箱の入った包みを大浜の脇に置く。

「どんな用なの?」

と大浜は相変わらずキーを叩きながら、土岐の顔も見ずに言う。

「実は、メールアドレスの主を調べたいんだけど・・・」

 大浜は何も答えない。暫時、沈黙が続く。土岐は仕方なく、続ける。

「そのアドレスにメールを送りたいんだけど、アドレスの主がアドレスを抹消したみたいで、メールを送れない。何度やっても、メールを送れなかったというエラーメッセージが出てくる。そこで、なんとか、メールの内容を伝えたいんで、メールアドレスの主を特定する方法を教えてもらえれば、・・・」

「アドレスは?」

 土岐はメモ用紙を探した。

「何か紙がないかな?」

「いいよ。とりあえず、アドレスを言ってみて・・・」

「kakusifile@***.jp」

と土岐が言うと、素早い返答があった。

「あ、だめ。それ、フリーメールアドレスでしょ。そのポータルサイトを提供しているところは、個人情報のみかえりに、フリーメールアドレスを出しているから、当然、そのアドレスの個人情報を握っているけど、個人情報を守るということを掲示して情報を打ち込ませていることもあるし、なによりも、カネをかけているから、ただじゃ教えてくれないよ」

「いくら出せば、教えてもらえるのかな?」

「そのアドレスだけじゃ売らないよ。パッケージでロット単位で買わないと・・・」

「最低いくらぐらいで買えるんだろうか?」

「買う時は、年齢とか、性別とか、職業とか、住所とか、個人情報を特定化しないと、売る方も売りようがない。たとえば、お前の場合、ユーザ名がkakusifileという人物の情報が欲しいわけだが、それだと目的が特定の個人情報ということになる。お前がその個人情報をどういう目的で使うか知らないが、特定の個人の情報だけを提供すると、提供された個人があとで、

『なんで教えたんだ』

とクレームをつけてくる可能性がある。だから、その情報だけを売るということは絶対しないだろう。それに、そのポータルサイトを提供しているところは、自社で個人情報を十分活用して、採算が取れている筈だから、カネを出すからと言っても、まず、売ることも教えることもしないだろう。カネを払えば、指定した特性の登録者にメールを代理で送信してくれると思うけど・・・特定の個人に、というのは聞いたことがないな。広告メールのようなものなら可能性はあるかも知れないが、私信のようなメールだと、個人情報を提供したことがばれるから、多分だめだろう」

 大浜は相変わらず、キーボードを叩いている。長髪の多いIT業界の関係者としては珍しく、坊主刈りにしている。外回りのやくざのような風貌だ。

 土岐は思案に暮れた。大浜が話すたびに虫唾が走った。もうひと押しする気力が失せていた。土岐は、十万円が送られてきた宅配便の線から、

〈Kakusifile〉

の主を探すことにして、早々に大浜の許を辞した。不快さだけが残った。


道玄坂を下りながら、例の現金10万円が封入されていた封筒をポケットから取り出して子細に点検した。封筒には千代田区に本社のある竹内工務店の住所と電話番号が印刷されていたが、東亜クラブの会員名簿で確認するまで、土岐には全く心当たりのない会社だった。土岐とのつながりは、東亜クラブの会員企業ということだけだ。しかもその封筒は一度開封された跡があり、再利用されているように見えた。極秘のミッションを伝える封筒に印刷されている会社とその人間が何らかの関係があるとは考えにくい。封筒なんか何でもいいわけだから、竹内工務店の封筒は単なる廃品利用に過ぎないと思われる。そう考えると、発送者にたどり着くためには、その封筒が発送された場所を特定する方が最短であるように推察された。

 土岐は渋谷駅前のネット喫茶に入り、その封筒を配送した運送会社のホームページにアクセスした。運送物のお問い合わせは、お問い合わせ番号を入力すれば出力される、という案内があった。土岐は手元の封筒に貼り付けてあるシールを見た。バーコードのシールが張り付けてあるだけで、お問い合わせ番号がない。

(この配送サービスの商品設計は、配送者が配送物をお問い合わせ番号で、知ることができる、という造りになっているのか)

と土岐は途方に暮れた。仕方なく、その運送会社のお問い合わせ窓口に電話することにした。5、6回コールがあって、女の声が出てきた。

「はい、コールセンターです」

「あのう、先日受け取った封筒の配送元を知りたいんですが・・・」

「それでしたら、バーコード番号から、当社のホームページにその番号を入力してください。お問い合わせ番号は、バーコードの最初と最後のアルファベットを除いた数字になっています」

 封筒を見ると、バーコードの下に両端をアルファベットのaに挟まれた、十二ケタの数字が並んでいた。土岐はその数字をパソコンの運送会社のお問い合わせ画面に打ち込んでみた。投函されたのは、土岐が封筒を受け取った日の前日の午後六時から八時の間で、場所は新橋センターとなっていた。

(コンビニの店名がない。新橋センターは集配所ではないのか?)

そこに新橋センターの電話番号があったので、掛けてみた。

「はい、新橋センターです」

「お忙しい所すいません、いま、受け取った配送物の投函場所を確認しているんですが」

「はあ?」

と質問の趣旨が理解できないようだ。

「ネットでお問い合わせ番号を打ち込むと、投函元がそちらのセンターとなっているんですが、それ以前のコンビニの場所はどうやって調べればいいんでしょうか?」

「・・・すいません、どういう目的で、お調べになりたいんですか?」

「個人的にちょっと・・・」

「申し訳ありません。そうしたご質問にはお答えしないことになっています」

「でも、配送物を受け付けたコンビニに記録が残っていると思うんですが、・・・」

「ええ、確かに残っていますが、調べるのにかなり時間がかかります」

「調べていただけませんか?」

「申し訳ありません」

「じゃあ、エリアだけでも、教えてもらえますか?」

「一応、港区のほぼ全域を対象に集配しています」 

土岐の体から力が抜けた。念のため、港区にあるその運送会社の系列のコンビニを検索してみると、全部で五〇店舗を超えていた。一旦諦めかけたが、その中の一店舗に電話してみた。

「はい、六本木店です」

「すいません。ちょっと、配送物について、調べているんですが、バーコード番号で、そちらの店から投函されたかどうか、わかりますか」

「ええ、わかります」

「それじゃ、これから番号を言いますので・・・」

「すいません。そういうお問い合わせには、お応えしていませんので・・・」

「じゃあ、どうすれば、確認できるでしょうか」

「そのバーコードをお持ちいただければ、スキャナで読み取りますので・・・」

 土岐はそれ以上粘るのをやめた。出来ないことではないだろうが、スキャナで読み取れば一瞬だが、十二ケタの番号を電話で一つ一つ聞きながら入力することを要求するのでは、営業妨害になる。土岐は、五十数店舗の全てを踏破することにした。とりあえず、コンビニの店舗一覧から港区の店舗名をプリント・アウトした。


 翌早朝、土岐はスニーカーを履き、ジャージーを着て、新橋に向かった。日曜日の中央線はすいていた。封筒の竹内工務店の本社が千代田区内幸町にあったので、最初に千代田区の内幸町に隣接するコンビニを当たることにした。

 八時すぎに新橋駅で降りて、駅裏の貸し自転車屋でマウンテンバイクをレンタルした。

「五時までに返却願います」

と言う店員の声に送られて、そのレンタサイクルにまたがった。最初にそこから最も近いコンビニに行き、問い合わせることにした。

店員は二人いた。一人はレジで、もう一人は弁当の棚を整理していた。土岐はレジに並んだ。前に二人いた。弁当の棚を整理していた男性店員がもう一つのレジに駆け寄り、

〈隣のレジにお願いします〉

という案内のボードを取り除き、

「こちらにどうぞ」

と列を作っている客に声をかけた。土岐の前に並んでいた二人の客のうち、後ろの一人がそちらのレジに向かった。土岐の前のレジの一人が会計をすませ、土岐は列の二人目になった。前の一人が、数点の商品をテーブルに並べた。土岐はレジの二人の店員を見比べた。列に並んでいるレジの店員は若い女性で、アルバイトのように見えた。もう一人の店員は中年男性で、この時間帯の責任者のように見えた。土岐は、そちらのレジに移動した。移動して間もなく前の客の会計が終わった。男性店員は土岐の手に商品のないのを確認して、

「おや」

というような顔をする。土岐は、低頭して聞く。

「すいません。ちょっと、お聞きしたいんですが、この封筒がこちらから配送されたかどうか、確認していただけますか?」

 土岐が差し出した封筒を受け取ると、店員はバーコードスキャナーをあてて、

「この店ではないですね」

と封筒を素早く土岐につき返す。

「どこの店か分かりませんか?」

と土岐が聞くと、店員はレジを閉じるボードを出しながら、

「さあ、わかりません」

と木で鼻を括るようにして、レジカウンターの外に出てきた。

 新橋駅の周辺の他のコンビニでも、同じような回答が返って来た。東新橋と西新橋を回り、次に土岐は虎ノ門から元赤坂と赤坂方面のコンビニに向かった。発送者が政治家と関係のある者であれば、永田町に隣接するコンビニを利用した可能性があると考えたからだ。それぞれのコンビニの間には五百メールほどの距離があった。一時間で四店舗ほど回ることができた。午前中で二〇店舗近く当たってみたが、どこも、

「この店ではないです」

という返答だった。土岐は少し疲れていた。休憩を兼ねて、六本木のファストフッド店で昼食をとることにした。

 あと三〇店舗ほど残っていた。六本木、北青山、南青山、東麻布、麻布台、麻布十番、南麻布、元麻布、西麻布、三田、高輪、白金、白金台、あたりは、心当たりの全くない地域だった。土岐は、昼食後、北青山から、西麻布を経由して三田と浜松町へ抜け、港南、海岸を北上するか、六本木から、芝公園と愛宕を経て、芝大門、芝、浜松町を先に回り、三田、麻布、青山へ北上するか、逡巡していた。あと、台場の店があったが、自転車では行けないので、行くつもりもなかった。可能性がありそうなのは浜松町だった。東亜クラブの所在地が浜松町だからだ。そういう意味で関係がある。他の地域は、まったく関係らしい関係のない所だった。

ハンバーガーを食べ終えたとき、青山から南下してゆくルートを選択した。このルートだと浜松町は最後の方になるが、新橋で自転車を返却しなければならないので、リスクが少ないように思えた。

 四〇店舗を超えたあたりで、尾てい骨がサドルに擦れて痛くなった。

 浜松町で、五〇店舗を超えたが、当たりはなかった。その店は浜松町の駅と東京タワーの中間にあり、東亜クラブのある高層オフィスビルまでは5百メートルほどあった。台場を除いた最後のコンビニは浜松町と新橋の中間にあった。

「もしや」

と期待したが、空振りだった。ゆりかもめに乗って台場まで行く気力も期待感も最早残っていなかった。あたりはすっかり暗くなっていた。ひんやりとした夜気にサイクリングの徒労感が重い疲労となって土岐の体を包み込んだ。

(どこかの店のレジのバーコードスキャナーが誤作動したのか?どこかの店員が面倒くさがって、調べたふりをしたのか?それとも、台場のコンビニなのか?警察の名前を騙ることができれば、電話1本で半日もあれば、こと足りた)

とついて出る言葉は愚痴ばかりだった。台場のコンビニについては、東京湾の向こう側で港区の飛び地のようなところだし、

「まさか、あんなところ」

という思いが強かった。

 土岐は憤懣を込めてハンドルを強く握りしめた。自転車のライトを点けた。レンタサイクル店に向かう交差点から、新橋駅方向を見ると、本屋の隣に、運送会社の新橋センターの看板が見えた。その先にゆりかもめの駅があった。土岐は吸い込まれるように、そのセンターに車輪を向けた。

 新橋センターは歩道から少し奥に倉庫があった。背後を見上げるとゆりかもめのホームがある。良く見かける軽トラックが歩道と倉庫の間に一台、路面にもう1台停車していた。右奥に狭い事務室があり、引き戸が開け放たれて、入り口わきの机の上に送り状などの書類が散乱していた。その机の奥に細長いテーブルがあり、女性事務員が電話していた。配送の確認の電話のようだった。土岐は電話の終わるのを待った。

電話が終わっても事務員は土岐の方を振り向かない。土岐は気づいていると思っている。事務員は忙しそうに伝票を整理している。土岐は仕方なく声をかけた。

「すいません。ちょっと、お尋ねしたいんですが・・・」

 事務員はちらりと土岐を見上げて、

「すこし、お待ちください」

と言って、作業をやめない。コンビニの従業員とは対応が天と地ほど違う。二、三分してやっと事務員の手がとまった。

「ええと、なんでしょう」

と言いながら、回転椅子を少しずらし、上半身だけ土岐の方を向く。

「この封筒なんですが、お問い合わせ番号で追跡したところ、このセンターが集配場所になっているんですけど、今日一日かけて、管内のコンビニに聞いて回ったんですが、どのコンビニでも投函された記録がないんですけど、こちらのセンターが集配場所となるコンビニは、港区以外にもあるんでしょうか」

「ほんとに全部まわったんですか?」

と女事務員はわざとらしく、目を丸くする。

「ええ、台場以外は・・・」

「それじゃ、そこかもしれないですね」

と素っ気なく言う。

「台場の配送物もこちらで集配するんですか?」

「あ、すいません、台場は、江東センターで集配されます」

 それを聞いて、土岐は合点がいった。いくら同じ港区といっても、東京湾の向こう側のコンビニの配送物を対岸の新橋で集配するのは合理的ではない。

(しかし、そうだとすると、この封筒はどこで投函されたのか?)

「すいません、ほかに投函するところはありませんか?」

 事務員は中年女性だった。遠目には若そうに見えたが、目元に深い小じわが寄っていた。

「あるとすれば、ここ」

「えっ、ここでも投函できるんですか?」

「あんまりないけど、ここでも受け付けていますよ。駅からも遠いし、人の流れもないんで、近所の人しか、来ないけど・・・」

「じゃあ、この封筒がそうだと確認できますか?」

「ここでは、そのまま入力するんで、他のコンビニから来たものと一緒になるから、伝票を見れば確認できるけど、パソコンに入力しちゃうと、伝票を整理していないんで、・・・」

「分からないということですか?」

「いいえ、ほかのコンビニで受け付けていないと言うのなら、ここしかないでしょ」

「そうですか・・・ひと月くらい前なんですが、この封筒を持参した人を覚えていませんか」

 女事務員は封筒をちらりと見て、呆れたような顔付きをする。

「さあ、事務をやっているのは私一人じゃないし、持ち込んだお客さんの顔はいちいち覚えようとはしないし・・・」

「でも、直接持参する人は少ないんでしょ」

「少ないと言っても、そこそこにはあるんで」

「この封筒は竹内工務店のものですが、投函した人の記録はありませんか?」

「レター便の場合、差出人の記名は必要じゃないんで・・・一応、宛名と差出住所が分かれば受け付けています。その封筒の場合、一応、竹内工務店が差出人ということになりますね」

と言いながら事務員は伝票処理をし始めた。土岐はそれ以上追及することを諦めた。

(もし、この封筒の受け取りを拒否していたら、封筒は竹内工務店に返却される。投函者はそういう可能性はないとふんでいたのだ。留守であろうとなかろうと、郵便受けに投函するから、宛名人が受け取り拒否する場合以外に、竹内工務店に配送物が返還されることはないということだ)

 後味の悪い結末だった。消去法で、あの十万円が新橋センターから投函されたらしいということだけで、そうであるという積極的な証拠はつかめなかった。人物も特定できなかった。疲労感だけが残った。その上、残額の九十万円と経費の十万円の喪失感がその疲労感を増幅させた。

(なぜ、わざわざ新橋の配送センターで投函したのか?コンビニの方が客が多く、かえって人目につかないのではないか?配送センターでなければならない理由が何かあったのか?コンビニで投函してはまずい理由が何かあったのか?いずれにしても、新橋界隈に仕事場のある人物が投函者に違いない。それとも投函者はこの辺の住民か?そうでないとすると、新橋駅からわざわざここまで投函しに来たのか?)

 土岐は自転車をレンタサイクルに返却した後、翌朝、竹内工務店の本社に寄ることにした。


十五 洋上の滴


月曜日の早朝、駅前の病院に立ち寄った。ナースステーションで母の容態を確認した。まだ集中治療室にいて、主治医が出勤していないので、詳細は昼ごろ分るとのことだった。それから東亜クラブに向かった。途中、新橋駅で降りた。日比谷通りへ出て、日比谷公園に向かって左側の小さなビルに竹内工務店の本社はあった。正面玄関の奥に、受付があったが、誰もいなかった。受付の奥に守衛室があり、小さな窓口が空いていた。土岐は守衛に声をかけた。

「すいません。ちょっとおたずねしたいんですが・・・」

 窓口から剥げ頭が首を出した。

「まだ、本社の勤務時間は始まっていませんけど・・・」

「いえ、この封筒について、お聞きしたいんですが・・・」

 土岐は守衛に封筒を差し出した。守衛は封筒を手にとって、

「これがなにか?」

と言いたげに土岐の顔を見上げる。

「その封筒、何に使われたか分かる人はいないでしょうか?」

「たぶん、これは総務だな」

と守衛はひとり言のように言う。

「ちょっと、総務に聞いてみましょうか?もう、誰か来ていると思うんで・・・」

と言いながら守衛はプッシュフォンのボタンを押す。

「あ、総務ですか?どなたか、封筒のことについて分かる方、いますか?・・・そうですか、ちょっと、来客で、なにか、わが社の封筒について、お聞きしたいことがあるとかで・・・ええ、それじゃ、お待ちしています」

と受話器を置いて、土岐に封筒を返却しながら言う。

「いま、これから総務の人が、こちらに降りてきますので・・・」

 それから数分して、キャリアウーマン風のOLが守衛室に近づいてきた。

「こちらの方?」

と土岐を指差す。土岐は、その女性に頭を下げた。

「すみません。朝早く・・・」

「なんでしょうか?」

と言いながら、土岐の姿かたちを素早く品定めしている。女の目が土岐の手にある封筒を見ている。

「御社のこの封筒なんですが、何に使われたかわかりますか?」

 土岐が差し出した封筒を女は手にとって、表と裏をしげしげと眺めている。

「これは、2次使用されてますね。宅配便で使用したみたいですが、この封筒の左上に、

〈ゆうメール〉

というのが印刷されていますよね。多分これは、IRで使ったものだと思います」

「IRと言いますと?」

「インベスターズ・リレーション・・・つまり、投資家向けの情報の発送用に使ったものだと思います」

「投資家と言いますと、株主ですか?」

「それがメインですが、これから株主になっていただきたい投資家向けにも情報を郵送しています」

「これから株主になってもらいたい投資家と言うと、どういう人ですか?」

「プロの場合は、ファンド・マネージャーや証券アナリスト、大企業の資金運用部の人とか、単純に資料を請求してくる一般投資家とか・・・たぶん、すでに株主になっている人向けには信託銀行に資料配布を委託しているので、この封筒は、株主以外ということになろうかと思います」

「株主以外と言う場合、何通ぐらいになるんですか?」

「今年の場合ですか?」

「ええ」

「わが社は決算が三月期なので、昨年度の財務諸表をまとめたのが、五月ごろで、資料配布が六月からだから、まだ、四半期しか発送していないので、多分、せいぜい千通程度じゃないでしょうか」

 千通という言葉を聞いて、土岐は一瞬めまいを覚えた。

「全国に配送されたわけですよね」

「まあ、そうですけど、都内が殆どです。ほら、この封筒に窓口がありますよね。ここから宛先が見えるようにして郵送するんですが、・・・」

「配送先のリストを見せていただくわけにはいかないですよね」

と土岐が言うと、女は軽く目を剥いた。土岐も言った後で、後悔した。

「それはちょっと・・・どういう事情でお知りになりたいんですか?」

「個人的なことで・・・どうも、お忙しい所、すいませんでした」

 東亜クラブには少し遅刻して着いた。咎める人はいなかった。自席についてから、フリーメールを提供しているポータルサイトから、ユーザ名、

〈Kakusifile〉

で登録してみた。このユーザ名が使用されていなければ、登録できるはずだった。すんなり、登録できた。かりに、このアドレスが誰かとの交信に使用されていたとすれば、メールを盗み読みすることができるかもしれない。ためしに、有料契約のプロバイダーから貰ったメールアドレスを使って、

〈Kakusifile〉

あてに、空メールを送信してみた。少し時間を要したが、フリーメールアドレスに着信した。

昼過ぎ、マナーモードの土岐の携帯電話が机の上で激しく蠕動した。土岐は携帯電話を持って廊下に出た。

「土岐さんの携帯ですか?」

「はい、そうです」

「おかあさんの容態が急変したので、こちらに至急来ていただけますか」

「はい」

と答えて、土岐は金井の許可を得るために事務室に戻った。金井は丸顔の中央に皺を寄せた渋面で書類を作成していた。土岐は金井の前に立った。

「すいません。いま、母が入院している病院から電話がありまして、すぐ、来てほしいということなんですが・・・」

「白内障の手術ですか?」

「いえ、先週末、自宅で倒れまして、救急搬送して、そのまま入院しています」

「そう」

と金井は渋面のまま、土岐を見上げている。

「早退して結構です。お大事に・・・」

と金井が言い終える前に、土岐は自席に戻り、帰り支度を始めた。

 中央線に飛び乗って、八王子に向かう車中で、金井が言った、

「白内障の手術ですか?」

という言葉が気になった。金井が母の病気を知っているということは、土岐が金井に言ったに違いないとは思うが、土岐はそれを思い出せなかった。福原には言った覚えがあった。いつだったか、昼休みに福原と事務室で食事をしながら、

「目が老化すると白内障か、緑内障になるみたいね」

と福原が言ったとき、

「母が白内障なんですよ」

と言ったような記憶がある。

「早く手術を受けさせないと、悪化するので・・・唯一の趣味がテレビを見ることなんで、早く直してやりたいんですけど、・・・でも、いま、お金がなくて」

というようなことを言った可能性がある。そのとき金井は自席にいたかもしれない。金井はいつも昼食を1時近くにとる。地下の食堂街に出かけるのだが、混雑を嫌って土岐や福原と同じ時間帯には食事をしない。あるいは福原が何かの折にそのことを金井に話したとすれば、金井が母の白内障を知っていたとしてもおかしくはない。

 土岐は直接、大学就職の件を金井に言ったことはなかったが、岩槻が金井に言った可能性がある。大学就職が確定すれば、土岐のポストの後任を探さなければならないので、そのことを金井に匂わせたとしてもおかしくない。もともと、東亜クラブの職を斡旋してくれたのは、岩槻が東亜政経学会で金井と面識があったからだ。岩槻にしてみれば、自分が紹介した事務員を自分の都合で大学に引き抜くのであれば、事前に断りの連絡をするのが常識だろう。いつの時点で金井がその情報を岩槻から得たかは分らないが、金井がその大学教員のポストを得るために、画策したとしても不思議ではない。金井は専務理事の萩本や現地大使館の大使の三橋や一等書記官の白石や経済産業省からの出向の西原と国立大学の同窓だ。大学設置審議会の同窓の委員に手を回したことは十分考えられる。

 中央線沿線の住宅街を眺めながら、土岐は金井に出した年賀状の住所が、港区台場であったことを思い出した。土岐が東亜クラブに就職して間もないころ、理事長室の窓からレインボーブリッジを指差して、

「あの橋の先の海浜公園の先の高いマンションが自宅です」

と金井が語っていた情景がよみがえって来た。事務室の隣のサロンで現理事長の還暦祝いのパーティーを開催した夜、一度だけ一緒に帰宅したことがあった。そのとき金井はゆりかもめで始発の新橋から乗りたいと言って、新橋で降りた。普段は竹芝で乗り降りしているが、事務所から10数分も歩きたくないときや、どうしても台場まで座ってゆきたいときは、始発の新橋からゆりかもめに乗ると言っていた。金井が新橋で降りて、宅配業者に10万円入りの封筒を預けた可能性は十分にある。しかし、そのことを確認することに土岐は意味を見出すことはできなかった。かりにそれが真実であるとしても残額の100万円を金井に請求できる権利があるのかどうか、土岐には疑問だった。

 金井は土岐に国鉄電化プロジェクトを破綻させるように誘導した。破綻の際には三橋、王谷、白石、西原が大学設置審議会の同窓の委員に口利きをすることを見込んでのことだ。東京政経大学の理事長を東亜クラブの講演会の講師に招聘し、多額の講演料を支払い、土岐を差し替えるように仕向けた。東亜クラブの事業が将来的に先細りになる状況では、金井が大学教員への転職を考えたとしても非難することはできない。それに金井は保険のきかない難病の子どもを養っている。土岐は、

〈Kakusifile〉

の送信者が金井だと断定した。しかし、直接金井と対決して、すべての事を明らかにしようという気持ちにはならなかった。もし立場が逆であれば、自分も金井と同じようなことをしていたような気がしてならないからだ。

 中央線の快速に揺られながら、現在の苦境に至った原因を考えてみた。直接的な契機になったのは政権交代だ。これによって公益法人に対する補助金がカットされ、将来的な統廃合の方針が打ち出された。そうでなければ、金井も生活の糧を求めて大学のポストを土岐からかすめ取るために画策しなかっただろう。間接的には土岐の性格がある。上司や同僚や周囲の人たちに対して愛想もなく、おべんちゃらも言えない。組織の人事権を掌握している立場にある人間であれば、自分に対して尻尾を振る人間を重用するのはごく自然だ。土岐は心から尊敬できる人物に対してしか、お追従を言えない。理事長の篠塚に対してなら喜んでこびへつらってもいいと思っているが篠塚は東亜クラブの業務に関しても人事に関しても萩本と金井にまかせっきりた。篠塚は大学の仕事と研究活動で繁忙を極めていた。

 八王子駅に着くと、駅前でタクシーに乗った。行き先を言うと、運転手が舌打ちした。病院までの一キロたらずの距離をタクシーを走らせた。タクシーを救急外来の玄関の方に着けさせた。救急外来の受付で要件を言うと、窓口の女性が電話で問い合わせてくれた。

「集中治療室のほうに行ってください。場所は分かりますか?」

 土岐は場所も聞かずに、病室に向かって廊下を走りだして、集中治療室の扉を蹴り上げるようにして中に入って行った。さまざまな医療機器が所狭しと林立している中で、若い当直の担当医が茫然と立ち尽くし、心電図モニターのフラットな水平線を見つめていた。

 それから何が起こったのか、土岐には断片的な記憶しかない。長い時間だったのか、ほんの数分のことだったのか、分からない。母の臨終をいつ担当医が告げたのか記憶がない。

若い担当医は、どういう言い方をしたらいいのか、戸惑うように、

「たぶん、症状からして、くも膜下出血だと思います。病理解剖を希望しますか?」

というようなことを言った。

「いいえ」

と土岐は答えた。いつか母が、

「死んだ後、切り刻まれるのはいやだ」

と言っていたのを思い出したからだった。父が死んだときも、父は献体してもいいようなことを言っていたが、母は担当医にそのことを申し出なかった。

「それでは死因は心不全でよろしいですか?」

「ええ」

 担当医が言っている意味がよく分からなかったが、土岐はそう答えた。

「でも、くも膜下出血であれば、もっと痛がるはずなんですがね。・・・そういう様子はなかったですか?」

「ええ。・・・普段から我慢強い人で、不快な表情をすると周りにいる人も不愉快になるから、それが自分にも巡り巡ってくる。・・・だから、どんなに不快なことがあっても顔に出してはならないということを信条としていた人でした」

 そう言いながら、我慢、忍耐、気配り、気遣い、思いやり、忖度、自己犠牲、という母を評するキーワードが脳裡にうかんだ。

「でも、痛いときには痛い、苦しいときには苦しいと言ってくれないと、診断を誤ることにもなります。・・・それから、到着がもうすこし早ければ、なんとかなっていたかもしれませんが・・・まあ、まれにたいした痛みを伴わない症例がないことはないんですが・・・」

と非は自分には一切ないということを強弁する。

母はベッドに横たわったまま看護師に付き添われて奥行きのある灰色のエレベーターで病棟地下の霊安室に移動された。カラカラとベッドの脚先の車輪が軋み音をたてる。急ぐ必要もないのに、看護師の歩き方が足早に思えた。地下一階は真っ暗だった。緑色の避難灯だけが煌々と灯っていた。看護師は薄暗さに目が慣れて来た廊下をベッドを押しながら、

「病室でなくなられたんなら、病室の方で清拭をしたり、着替えをさせたりするんですけど、いま病室の方、あきがなくって・・・ごめんなさいね」

と言い訳のようなことを言う。土岐の耳には、商品を取り違えて誤っているスーパーのレジ係の話のように聞こえた。職業だからその言葉に情動が感じられなくても仕方がないのかもしれないが、土岐の癇にさわった。

霊安室は廊下の突き当たりにあった。窓も備品もない殺風景な部屋だった。薄暗い照明の下で母の顔は深い眠りについているようにしか見えなかった。

立ちすくむ土岐の傍らで、看護師が囁くように言った。

「この病院と契約している葬儀社のほうで、あとのことは万事やってくれると思うんですが、・・・よろしいですね」

「・・・よろしいって・・・なにがですか?」

と土岐は言葉の棘を隠そうとしなかった。

「末期の水とか死化粧とか・・・その葬儀社に連絡してよろしいですか?それとも、どこかの互助会か何かに入っていますか?・・・一応、この病院内のことは、契約している葬儀社にお願いすることになっているんですが・・・」

「その葬儀社で構いませんが、・・・しばらく二人だけにしてもらえますか」

と土岐はこみ上げてくる怒りに声を震わせた。

看護師に罪はないとは思うが、彼女の言葉に土岐の神経が逆なでされた。彼女にとっては多くの死の中の一つに過ぎない。そうであれば、そういう情感しか言葉に込めることはできない。頭の中では分かってはいるが、こみ上げてくる感情の高ぶりを土岐は押さえ込むことができなかった。

看護師は霊安室を出た後、しばらくして母の私物を持って戻ってきた。ベッドの枕元の小さなテーブルの上に土岐が持参した買い物袋と母のエプロンを畳んで置いた。それから母の両手を胸の前で組ませた。

「清拭はこちらでしてもいいんですが、・・・いま救急外来の方で手がないもので、・・・申し訳ないです。・・・葬儀社への連絡は、そこの内線電話でお願いします」

と言い残し、電話器を指差して出て行った。電話器の傍らには連絡先の電話番号が、いくつか印刷されて、置いてあった。

土岐は、母の顔を漫然と見続けた。そのうちに、母が土岐に、ことあるごとに繰り返し言い続けてきた言葉が思い出された。

「つまらない生き方をするんじゃないよ」

「どうでもいいような生き方をするんじゃないよ」

「世間さまに恥ずかしいような生き方をするんじゃないよ」

「自分で自分を裏切るような生き方をするんじゃないよ」

「わたしの仕事はおまえを一人前にすることだった。わたしの仕事は大体終わった。あとはいつ死んでもかまわない」

「お母さんがいつまでもいると思うなよ。いずれ死ぬ。おまえだって、そのうちいつかは死ぬんだから・・・」

「わたしが死んでも葬式はしなくていいよ。無駄なカネは使うんじゃないよ」

「戒名なんかいらないよ。仏教なんか信じちゃいないんだから・・・」

(結局、母の人生は何だったのか。父のように晩年になってやりたかったボランティア活動をして、自分がため込んだ私財を使い切ったわけでもない。父は夫婦で築き上げた財産を殆ど使い果たして死んでいった。母にはわずかばかりの預金しか残らなかった。その預金も糖尿病の治療と白内障の診療で吸い取られ、自分がやりたかったことにつぎ込んだわけではなかった。ぼくが大学院に進学したために、金銭的に余計な負担を母にかけてしまった。学部卒で企業に勤めていればいくらかでも母に楽な生活をしてもらうことができたはずだ。ぼくを育てることが一生の仕事であったとしても、その息子がいまだに定職を得ていない。来年の四月から無職になる。そうであるとすれば、母の人生はなんのためにあったのか)

 土岐は自分の罪深さに身動きができなくなっていた。土岐の周りの空気が凍り付いているように感じられた。考えることができなくなっていた。どれほどの時間がすぎたのかわからない。腕時計を見ようという気にすらならなかった。ベッドの脇に折りたたみの椅子を置き、ただ座り続けた。自責の念だけが、椅子から転げ落ちそうな土岐を支えているような気がした。

 母の傍らの小さなテーブルの上の一番上に前掛けが折りたたまれていた。幼女のままごと用のエプロンのようにひどく小さく感じられた。上にそっと手を乗せると、冷たいポケットのあたりにごわごわとした感触があった。ポケットから取り出すと大判の絵葉書が二つ折りになっていた。宛先は扶桑総合研究所になっていたが、そこから転送されてきていた。絵葉書の写真はS国の海岸だった。波打ち際に地元漁師の小さな漁船があり、どこまでも続く真っ白い砂浜と清冽な青い海が写真の下半分におさまり、上半分には暑く蒼い空が広がり、その空にしみいるような白い綿雲が浮かんでいた。裏側の文面を見ると、文章は手書きの英文で、細かい字で書かれていた。差出人はシュトゥーバだった。


〈親愛なるミスター・トキ、君のおかげでわが国の国民は累積債務の塗炭の苦しみを免れた。君のアペンディックスは君の国の新聞社の特派員がわたくしに見せてくれた。その特派員は何度聞いても情報提供者の名前を教えてくれなかった。君の国では情報提供者の名前を絶対に明かさないとのことだが、君が提供したものだと信じている。なぜならば、この情報をわたくしは君に求めたからだ。君以外に一体だれがこの情報をわたくしに提供するというのだ。わたくしはこの情報を国鉄総裁や財務部長に見せて説明したが、プロジェクトを検討しなおす姿勢を見せなかったので、この情報をその特派員の助言にしたがってわが国の新聞社と中央銀行総裁に提供した。その結果、このプロジェクトは大統領の裁定でひとまず棚上げとなった。その特派員はこの記事を本社に送信したらしいが、本国の新聞には掲載されなかったそうだ。そこでこの絵はがきを書いている。

大使館のミスター・ミハシ、ミスター・シライシ、ミスター・ニシハラ、それに扶桑物産のミスター・ミナミダには随分と非難されたが、わたくしの判断は正しかったと信じている。いま、財務副部長の職を解かれ、一国鉄省員として働いている。給与はすこし減額されたが、空港で君を見送った息子には胸を張っている。その息子が君からもらったおカネは少し多すぎたので、返そうと思っていたが、そういう事情で使ってしまった。このおカネにも感謝している。ところで、写真は首都近郊の海岸の風景だ。太古の地球には海水はなかった。大海も最初は一滴から始まった。わたくしのしたこともその程度のことだろうと思う。しかし、一滴がなければ大洋は存在しない。君の一滴とわたくしの一滴がいつかどこかの海域で繋がることを祈っている。君の忠実なる友、カッシー・シュトゥーバ〉


 土岐は、もう一度絵葉書の写真を見た。母は英語が読めない。母は郵便受けからこの絵はがきを取り出し、どんな思いで見ていたのか。母の戸惑いと潮のかおりが漂ってくるようだった。一度も行かなかったが、この海岸は国鉄省の作業場からそれほど遠くはなかったはずだ。おそらく、ふたたびS国に行くことはないと思うと、熱いものがまぶたにあふれた。写真が歪んで見えたあと、熱いひとしずくが写真の青い海の上にこぼれた。霊安室の薄暗い照明にきらめきながら、そのしずくは洋上に吸い込まれて行った。


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