4、正妃は死ぬことにした
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「……フリージア、まだ考えは変わらないのか?」
扉の向こうから聞こえてきたリクハルドの声で、思い出の思索から我に返る。
「陛下?」
「今、周りには誰もいない。護衛も下げた。少し話せないだろうか?」
「扉越しでしたら」
「それじゃ……顔が見えない」
「扉越しでしたら」
「……わかった」
ギシリと音がした。リクが扉にもたれかかったのだろうか。
「……私に、オレに愛想が尽きたのか?」
「陛下にだけではありません。ご安心ください」
「ははっ、全然安心できないな……なあ、フリージア」
「はい」
「だが……だけど、死ぬ必要はないのでは?」
「いえ、私が選んだ死に様です」
「本当は、無実である証拠もあるんだろう?」
「ありません」
すでに処分したのだから。
「なあ、フリージア……ねえ、フリージア様」
「何でしょうか、陛下」
「オレはあの頃に戻りたいよ」
「あの頃とは?」
「……辺境伯領で、穏やかに過ごしていたときに」
そう言って牢屋の扉越しに、彼は幼い頃の思い出を語り始めた。
「あの頃、オレたちは……」
相槌ひとつ打たない私が、その話に聞き入っているとでも思ったのだろうか。
次々と思い出話が耳を通り抜けていった。
ああ。
彼は何もわかっていない。
私が本当の意味で膝から崩れ落ちたのは、その言葉だったというのに。
「あのとき、リーナが」
「陛下」
いい加減、我慢の限界が来てしまい、相手の言葉を強い調子で遮ってしまう。
「あ、え?」
「耳障りです」
「……リーナの話をしたからか?」
「いいえ。一つだけ言わせてください」
「あ、ああ」
私は息を吸った。
大きく、大きく。
再び腐り切った国全てに届くように。
「嘘でも! 過去に戻りたいなど言わないで!!」
これが本当の気持ち。
私の心を折った陛下の言葉。
「私たちは、立ち上がったの! 民のために、正しくあろうとして!」
最初の一歩を踏み出したのは、
「リク、あなたでしょう! 苦しむ民を救いたいと!」
言い出したのは、貴方だ。
だから私たちは走り出した。
「どうか、正しくなかったあのときに、例え私たちが幸せだったとしても、苦しんでいた時代に戻りたいなんて!」
どうか、あの少年と同じ声で、もう聞かせないで。
「……もう聞かせないで」
私の全てを否定する言葉を、聞かせないで欲しいの。
無我夢中で走り抜けた。
命の危険だって何度もあった。
この国を良くしたくて、色んな人を幸せにしたくて辿り着いたのに。
変わっていった人々、再び腐っていった国。
それでも足掻いてやると思った私に、リクが言った言葉は残酷すぎた。
もう耐えられなかった。
「……貴方の言葉はもう、聞きたくないの……」
膝を屈した私に、扉の向こうから言葉は聞こえない。
少しして、走り出す足音が聞こえた。
「私は疲れてしまったの……」
全力を持ってしても辿り着けない正しさに。
私がどれだけ頑張っても、天秤の反対側で堕ちていく仲間たち。それを見ることに疲れてしまったのだ。
立ち上がる気力はもうない。
だから、終わりにしましょう。
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王城内に急遽設置された処刑台に向かって歩く。
粗末な衣装となった私を見つめている人間も多いだろうが、すでに見回す気力すらない。どうだっていい。
私が死ねば、王宮が混乱に陥るだけではない。おそらく辺境伯家が造反する。民がまた苦しむでしょう。でも、それもどうでもよいの。
――この国は、思えば新ニスカヴァーラ朝が国主となったときから、今のように腐る要素を内包していた気がする。
まあ、つまり最初からだというのが情けないことだけど。
事の発端は、前王朝を倒して、戴冠式に向けた用意を始めたときの話だ。
リクハルドが戴冠すると同時に結婚をすることにした。世に安定を知らしめるためだ。
それ自体は賛成した。その相手が私というのもわかる。彼を憎からず思っていたのもあるし、戦友でもあったのだ。
当時でも私は結婚するには遅い年齢だったし、宰相のような役職について国に尽くしたかった。
だが革命の立役者である辺境伯家との繋がりを、確かなものにすることが必要だった。
リクハルドが信頼する仲間の中で、正妃になれそうなのは隣国の姫のみ。他の人間の家柄は、どれだけ高くても男爵家の令嬢だったリトヴァぐらいだ。
わかってましたとも。私とて貴族の娘だ。結婚に自由があるとは思っていなかった。ゆえに私が正妃として立つことは納得した。
そこはね、納得した。
しかし、ここでリクハルドの悪い癖が出る。女性に甘いのだ。特に自分を慕う人間には。
彼は他の女性陣に押され、全員一緒に結婚式を挙げさせたいと言い出した。全員で一度に、合計で八人だ。
前代未聞どころではない。この世界の歴史で前にも後にも彼以外に現れないでしょうね。
それに王朝はまだ建ったばかり。私は当然、反対したが、他の人間たちが『嫉妬している』などと言い出し、リクハルドを説得した。
最後にはよりにもよって多数決で決められた。
それだけでも良くないのに、リクハルドが、ただの村娘だったリーナを第二妃にしたいと言い始め、まだ実態のわからない公爵家へ協力を願ったのだ。
確かにリーナはどこまでもついてきた。特に我儘を言うこともなく、ずっとリクハルドに寄り添ってきた。気持ちを察することはできる。
相手の公爵家は、前王朝で蔑ろにされていた一家だった。現公爵の祖母が旧ニスカヴァーラ王朝の王女であったゆえである。
だがこのリクの遠戚に当たる公爵家の実態は、前王朝・そして近王朝によくいる腐った貴族そのものだったのだ。
重税をかけて豪奢な生活を送り、民を顧みない。たまたま私たちが討伐した前王朝で、侮辱的な扱いをされていただけである。
まだ実態がわからなかった新王朝設立時、結婚式を合同で行うために焦って内側に入れてしまった。
もちろん私は何度も説得を重ねた。
時間を置いて、もう少し王朝が安定してからでも良かったはずだと。その度にリクは少し嬉しそうな顔のまま聞き入れなかった。
やがて戴冠式の後の結婚式で、彼の後ろを歩く私は、恥ずかしくて死にそうだった。後ろに七人の花嫁を連れて歩く結婚式など、私の人生で起こるなど想像していなかった。
思えば、あの辺りからだったかしら。彼への思慕が急激に冷めていったのは。
政治的に言えば公爵家の専横を許してしまい、大失策だった。
私は正妃としてリクを支え政治に深く関わるはずが、いきなり後宮の主人も兼ねなくてはならなくなった。
忙しくてたまらなかったが、国と民を思えばと……リクもそこは同じ気持ちだと信じて頑張り続けた。
だが、彼は乱世の人だった。王として政に気が向いていなかった。
周りから吹く心地よいだけの言葉の風に浸り、すぐに腐っていったのだ。
妾の中では比較的真面目なリトヴァですら、王の寵愛を得て立場を確固としたものにするべく、内部闘争に明け暮れるばかりだった。
公爵家の操り人形になった第二妃リーナや、隣国の姫ラールカーナは言うに及ばずだった。
その矛先はどこに向かうか。
正しく妃を全うしようとした、私しかない。
結果として、民のためにとリクの代わりに政治を取り仕切りながら、後宮の中ではやり玉に挙げられた。
新王朝についた貴族たちも、まだ体制が固まりきっていない今のうちだと言わんばかりに、権力の暗闘を繰り返す。
それでもまだ、私は何とかしようと思った。
国を正しい姿に戻すために、リクとともに立ち上がったのだ。
働き過ぎて倒れたことも何度かあった。
そこに見舞いに来たリクハルド・ニスカヴァーラが……この国を正そうと最初に声を上げた彼が、私にこう言ったのだ。
『昔の方が良かった』
私は心が折れた。
何の意味もなかった。
誰がどうなろうと、何がどうなろうと。
だから今、両手首に巻いたロープを引かれ、処刑台に上りきる。
何かを振り返ることもしない。
誰かに促されることもなく、断頭台へと首を差し出した。
目を閉じれば、首の後ろに衝撃を受け、意識が遠くなっていく。
頭に受けた痛み。首が落ちたのだろう。
ああ。
これでようやく、この盛大な徒労の果てから、逃げ出すことができたのだ。