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5 切なる願い

 時間の経過とともに、月明かりが柔らかく質を変え、さらに角度もついてきた。

 惨たらしい話を平然と語った彼女は、ふう、と息を整えてから続けた。

「かつての患者の霊魂は、私たちを粘っこく羨み、激しく憤っていることでしょう。当時の彼ら彼女らと違って、私たちは手厚い治療を受け、苦痛を緩和されて、穏やかに死ぬこともできるのですから」

 昼間友人から聞いた怪談話が欠いていた、現代の我々が恐れるための主題――彼女の話から、ようやくそれは明らかになった。俺たちは、あまりにも恵まれすぎている。憎しみの中で果てた者たちは、ともに天へ召される仲間を探し求めているのではない。ひとりでも多く、同じ地獄へと引きずり込みたいのだ。

 大量の屍を作った霊魂がいまも病院に留まっていたなら? 望んでいたのとは異なる、おぞましい死に対する悔いを晴らすことができない限り、ここを去ることなどできないだろう。

 そして、それは俺の目の前にも――


「醜い争いをした患者たちの気持ちは、とてもよくわかる気がします。傷だらけの姿で、ハエをたからせて死にたいと思う人間が、どこにいるでしょうか。でも、殺戮を繰り広げた罪深い人々に共感していると思うと、眠れなくなってしまうのです」


 彼女もまた、生傷と火傷によって身体の均整を損なっている。

 そのような姿でさえ俺は惹かれてしまうのだが、彼女が自身の姿をどう思っているのかは別問題だ。

 だとすれば、彼女が病院の過去に強い関心を示しているのも頷ける。

 加えて俺は、もうひとつの直感を得ようとしていた。


 身体の自由もないほど弱った彼女が、どうしてこれだけ長い話をできる?

 他者との接触が限られる個室で、若い彼女がなぜこれほど噂話に詳しい?

 誰もが気分を害する惨たらしい話を、なぜこうもつらつらと語れるのか?

 執着していることとはいえ、疲れを知らないのは奇妙だ。

 医者や看護師が話しそうにないことを知りすぎているのも奇妙だ。

 患者の容体や殺戮の様相、院内の変化など、惨いことを克明に語れるのも奇妙だ。


 火傷と傷跡、美しく纏う神秘の輝き。

 病院の過去を思い、眠れなくなるほどの悩み。

 俺が抱きはじめた恐怖は、怪談に由来するのではない。


「私もいずれ、ここを去るべき者です。でも、去ってからのことが不安でなりません。だから、できるだけ美しい姿で果ててしまいたい……私は、間違っているでしょうか?」


 美しく逝く望みを叶えることは、彼女にとっては裏切りなのだろう。

 永くこの病院に居残って、切実なる望みを叶える勇気を欲している。

 炎に焼かれて激痛に泣いた。

 本来の美しい姿は失われた。

 目に見える彼女は美しいかもしれない。

 それでも最期は苦痛に悶えていたのだ。


「間違っていないと思う」


 俺は意を決した。

 胸の奥には恐怖が渦巻いている。出会うべきでない存在と出会ってしまったことに、身体の芯から震えてしまう。だとしても、この出会いには感謝したかった。眠れない夜に出くわした神秘に、俺は感動していた。

 病院のおぞましい過去は、この素敵な夜のうちに清算してしまうべきだ。


「この世に生を受けた命に間違いなんてない。これは誰も疑いようのないことだろう? 生き様にどんな罪があっても、命そのものに罪があるなんてことは、ありえない。劣っているとか、悪いなんてこともない。たとえ、どんな姿になっても」


 窓からの薄い明かりは彼女の膝を照らす。文庫本の表紙は、よく見えない。


「だとしたら、その生が終わるときには、どんな終わり方だっていいはずだ。どんなに醜い終わり方だったとしても、どんなに不運な終わり方だったとしても、関係ない。その死は生きていた証であって、それを否定することは、生きる魂を否定するのと同じで許されない。だから、より良い姿でより人間らしく死にたいと望むことは、決して悪いことでも劣ったことでも、罪でもない!」


 後悔に満ちた最期だったと思う。

 せめて二度目にこの世を去るときには、後悔しないで済むように。


「…………」


 俯いた彼女の顔が髪に隠される。

 露わになったうなじにも、火傷の跡が覗いていた。


「ありがとうございます。おかげで、勇気を持てる気がします。今夜、最期にあなたと会えて良かった」


 顔を上げた彼女は、悲しげに、それでいて晴れやかな笑みを浮かべていた。

 病室に白くきらきらとした輝きが入り込んできて、俺と彼女は目を細める。時間を忘れて向かい合っているうち、早くも朝が近づいてきたようだ。眠れないまま、夜が明けようとしている。

 早番の職員たちが俺たちの密会に気づくのも時間の問題だ。深夜ならともかく、診察の始まる日中には勝手な行動を慎むべきだろう。別れのときが来たことを目配せで通じ合わせ、握手の代わりに、膝の上に置かれた彼女の手に、自分の手を重ねた。

 霊的な触れ合いとは思えない人間らしいぬくもりが、掌から腕を伝い、肩を伝い、胸を打った。

 これで本当に最後だ。

「あなたはもうすぐ病院を去るのですよね。もう二度と会うことはないと思います。たった一晩顔を合わせただけなのに、寂しい別れになりました。どうかお元気で、さようなら」

「ああ、さようなら。また会いたい気持ちは山々だけど、それも仕方がない」

 部屋のドアを閉めるとき、決して振り返ることはしなかった。

 彼女の旅立ちを応援しなければならないから。

 大丈夫、別れる君は、醜くなんかない。




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