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2 傷だらけの美女

 入っても構わないとの答えにやや面食らったが、促された通りにする。

 恐る恐るドアを開いた。

 ベッドで身を起こして俺を待っていたのは、思った通り、若い女性だった。

 カーテンの隙間からわずかに入る月明かりが彼女を照らし、艶のある髪が光を散らしていた。ごく弱い光でも暗闇に慣れていた目には眩しくて、表情は伺えなかったが、壁に浮かぶ影を見ても鼻筋が通っているらしいことがわかり、細い首や手首からは得も言われぬ艶めかしさを受け取った。

「すみません、それを」

 視線が動いたのを見て、ベッドの足の傍に転がっていた本を見つける。そのとき、目が慣れて彼女の姿を捉え、自力で本を拾えなかった理由を悟る。


 顔に、腕に、肩に、脚に――体のあらゆる箇所に包帯が巻かれていた。

 これでは身体に自由がなくても仕方がない。幼児に乱暴にされて綿の飛び出たぬいぐるみを思わせるほどに、傷だらけだった。


 すっかり紙が傷んでしまった文庫本を拾い上げ、彼女の膝の上に乗せる。そのときふっと彼女の口許がほころんだのを目の端に捉えて、月明かりを頼りに彼女の顔を見た。


 ひと目見たその瞬間に、大切なことを二、三忘れてしまったかもしれない。


 無論、初めて出会い、初めて目にした女の顔なのだが、この顔面を傷つけた者を恨んだ。顔のほぼ半分が包帯に隠されているし、そうでないところにも火傷か何か、赤く爛れた跡が覗く。しかし、目を覆いたくなるような痛々しさがあってもなお、彼女は眠れぬ俺の陰鬱な胸の内を清らかにさせてくれた。もしこの生傷がなかったなら、俺の目には、彼女が何か神秘的な存在として映っていたに違いない。

「どうして、本を?」

 ふと語り掛けてしまったのは、間違いない、眠れないまま夜を過ごしてもいいと無意識に判断していたからだろう。

 彼女は、わずかに微笑んだ。

「あなたと同じだと思います。眠れなくて」

 そんなことはわかっていた。眠い人間がこの夜更けに本を読むはずがない。問いたかったのはそうではなく、どうして本を読めるのかだ、と伝えようと漏れた「あ」が彼女に届くと、彼女もまた「あ」とこぼした。

「ええと、月明かりだけでも充分読めるんですよ。暗がりには、慣れていますし」

 そう言って、彼女は照れ笑いした。

 彼女が俺の中で神秘と化した瞬間だった。

「出会ったばかりで不躾ですが、お互い眠れるまで軽くお話しませんか?」

 彼女の提案を断る術はなかった。いや、そもそもその気がなかった。ひと目にして惹かれてしまうような彼女を置いて、自分の病床に戻ろうなどとは。

 手近にあった椅子をベッドに近づけて座った。

「眠れなかったのは、どうして?」

 年頃は同じか少し下に見えたので、くだけた言葉で話すことにした。

「何というか……」

 俺に対して、丁寧な口調を崩さなかった。それが彼女を崇高なままで見せてくれた。

「気分が暗くなってしまって。病院で横になって夜を迎えるたびに」

 全身に怪我を負っているのでは、入院期間も長くなるだろう。一日が過ぎるのを感じるごとに、虚しい日々を過ごしたと気分が憂いでいくのも頷ける。

 もう一歩共感するには、否、もう一歩踏み込むには、彼女が悲惨な傷を負った事故なり事件なりがどのようなものだったのか、知りたいと思った。問うてみれば、親身になれるような気がしたのだが、惨い話を切り出すのは気が引けたし、その勇気もなかった。

「沈んだ気分のときには、本を読むのか」

「はい。言うなれば、空想の世界で眠るために」

 ぼろぼろの本を大切そうに抱いているのを見るに、お気に入りのその本が彼女にとって大きな心の支えになっていると理解できる。タイトルは、よく見えない。

「あなたは、どうして眠れなかったのですか?」

 問いを返されて、俺は素直に笑った。恥ずかしい話だが、と切り出して。

「昼間にこの病院の昔の話を聞いてね、気になってしまって」

 すると彼女は、隠れていないほうの右目を見開いた。その様子に俺がはっとしたときには、目を伏せて逡巡しているようだった。何事かと顔を覗き込むと、少し嫌がるようなそぶりを見せた。

「ごめん、こういう話は苦手だった?」

「いえ、大丈夫です」

 そのあとに、「顔の火傷を見られたように思ったので」と口が動いた。

 意図していないとはいえ済まないことをしたなと思っていると、話題は思いもしなかった展開を見せる。

「気になると言いましたが、あなたは、どれくらいのことを知っていますか?」

 意外にも傷病兵らの凄惨な話題に食いついた彼女は、真剣なまなざしと、どこか明るい声色で俺に向かっていた。怪談話の類が好きなのか、それともただの噂好きなのかはわからないが、かねてからこの話をできる相手を探していたというふうに見える。

 積極的な彼女に惹かれる一方で、なぜそれを求めるのか図りかねる。

 正体の知れない意図に一抹の不安を感じながらも、俺は変わらず、眠れない夜を求めていた。

 時間とともに月が動いたのか、月明かりは彼女の顔から逸れていって、髪と包帯が作る陰の中から、右目が浮かび上がるように光っている。俺は少しばかり、彼女の異様な魅力には人知では思い至らない性質が含まれているのではないかと疑った。

 多くのことは知らない、と答え、彼女の語りを促した。




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