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1 眠れない夜

 夜更けにも拘わらず、ぱっちりと目が冴えていた。


 病床で夜を明かすのは憂鬱だ。虫垂炎をこじらせただけの、ほんの数日の入院でさえ、暗闇の中で俺の心は荒んでいた。若いくせに、と笑われるだろうが、夜更かしと少しの寝酒が癖になっていた身体には、病院の生活は必要以上に規則正しい。懐かしき我が家の、程よくくたびれた布団のほうが、すべすべとした清潔なシーツよりも眠り心地が良い。何より、同じベッドで誰かが死んだかもわからないという不吉さが快眠を妨げる。

 しかも、昼間見舞いに来た――より正確には「遊びに」来た――同級生たちが、数日間を過ごす病院の曰くを語っていったものだから、それが作り話、あるいは現在の自分とは無関係な話だとわかっていても、つい脳裏によぎるものがあって鬱陶しかった。

 その作り話というのは、この病院がかつて傷病兵や戦災による負傷者、そのうち特に末期の者を受け入れる病院だったころのエピソードだ。瓦礫に埋もれ、炎に焼かれ、四肢を失い、刃物で内臓を抉られ、五感を潰した患者たちは、それでも魂だけは手放すことができず――いや、放れずに引っかかっていただけかもしれない――喘ぎのたうち回りながら死んでいったという。我が身を苦しめた憎しみの連鎖を呪う人々は、いまもこの病院に留まり、三途の川をともに渡る仲間を求めているらしい。

 友人のその話自体は、語り口がこなれていた以外は、さして恐ろしいものではなかったはずだ。何せ、怪談話には肝心の、恐怖を抱かせる核がなかった――死んでいった人々とは無関係の我々が、彼らに恐怖を抱く理由がないのだ。彼らは死にゆく中で戦争や為政者を恨んだかもしれないが、いまを生きる俺たちを憎んだり、脅かしたりするわけではない。ただ霊として居座っているのみだ。

 それならば怖い話ではない。

 それらしい語りがなされたというだけで、あまりにも不条理な最期を迎えた人々に同情さえできるようなものだ。

 だというのに、俺は眠れなくなった。

 眠ろうと念じれば念ずるほど眠れなくなる。

 ないものにしようとすればするほど、恐怖は心の奥底で蠢いた。

 くだらない不安に蝕まれてしまう前に、俺は病床を抜け出した。



 夜の病院の廊下を歩くと、誰かに見られているような感覚がある。

 当然だ。

 ナースステーションというものは、必ず、フロアの病床を見渡せる場所に配置されている。そこにナースが居ようと居まいと、俺たち患者はナースがどこからか駆けつけてくると思って過ごすことになる。学校の職員室と同じだ。

 だから、夜の廊下を歩いていて感じる視線に恐怖はない。むしろ見守られているようなものだ。暗がりに感じる自然な恐怖心と、視線の感覚とを混同しなければよい。

 夜勤のナースには、少し歩いたらすぐ戻ると言った。慣れ故のがさつさが目立つベテランナースは、俺の言い訳を咎めようとはしなかった。すでに盲腸を切り取って、退院も近い若者など、心配するまでもない。

 腹がちくりとすることもあったが、気にせず歩いて行った。

 闇に包まれる不安は自然なものだ。緊急時に医者やナースが駆け回れるよう設計された廊下であることを理解しながら歩いていれば、その不安も幾分和らぐ。それに疲れたら、眠りたくなったというサインだ、病室に戻ろう。

 闇の次に襲ってくる不安は、道に迷ったということだった。

 行動範囲の限られる不慣れな院内で、しかも暗い時間にうろついていたものだから、帰り道を見失った。病棟の奥深くまで来てしまったようだから、広いエリアを見つけて地図を確認しなければならない。


 ぱたん。


 ふと響いた物音に、俺の肩が跳ねた。それから、反射的に背後を振り返り、周囲を見回す。踵が浮いて、素早い次の行動に備える。

 無論、誰がいるでもない。

 人の気のない廊下が続く。

 ふっと息を吐くと、焦った自分が馬鹿らしく思えた。せいぜい、俺と同様に眠れない患者がいて、その人物が何かを取り落としでもしたのだろう。恐れることはない。


 はあ。


 続く嘆息が耳に入り、考えを改める。

 すぐ近くの部屋、若い女の声らしい。


「あの」


 思った通り、若い女の声だ。か細くて、少し低い。この世の向こう側から届けられるような、静けさに響く声に驚いて身構えてしまうが、霊的な相手の声ではないと確信できる。そうだとしたら、特徴ある彼女の声はあまりに生々しい。


「職員の方ですか? よければ、拾っていただけると」


 自分を医師か看護師と勘違いしたらしい。俺に落としたものを拾ってくれるよう懇願するのだから、病床から乗り出すほどには身体を自由に動かせないようだ。

 周囲を見回し、声が聞こえたと思しきドアに身を近づける。その隙間から、自分の声を届ける。

「医者でも何でもなくて、ただの患者でも、入っていいのですか?」

 このあたりの病室は、標準の四人部屋ではなくて、個室のはずだ。そんなところに、夜、男性を入れてもいいのか確認することを意図した。


「……ええ、構いません。入ってください」




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