三話~野に駆け憧るその心へ~
ねこがすきです
ソトロンがその女の子を拾ったのは雨の日だった。
都での用からの帰り、裸でぽつりと道を歩いていた少女。追い剥ぎにでも遭ったのだろうかと急いで保護したが、その顔に悲しみや痛みもなく身体を汚された形跡もない、ましてや年頃の少女が恥ずかしがることもなく、そのままで懐いてくるものだから面食らったものだ。
頭には近隣の森に棲み着いている狼、シルバーファングのような耳を持ち、尻尾までそれに近い。まるでシルバーファングがそのまま人の姿形をとったような少女を最初は飾りか、東の民族かと思ったものだが、彼女の”変身”を見てそれは違うのだと理解した。
魔物が人の形へと変貌するなどといった話はかつて聞いたことがない、だからこそこの小さく無知で、か弱い娘を野に放てば起こりうることが容易に想像できたからこそ彼はこの娘を囲い匿った。
都に嫁いだ娘や孫を残して逝った息子のことを思い出したのかもしれない。実際孫がひとり増えたみたいで彼の生活にも潤いが増したが、年の功か、直感がその生活も決して長く続かないだろうと感じさせていた。
なにせ前代未聞だ、自分も都の学者や教会の人間ではないものだから知識量で人をあっと言わせられるほどのものはないにしろ、なにぶん長く生きている、レラと孫が名付けた少女がこの世界ではじめての存在か……そうでないにしろ、極めて希少な何かであることだけは易く想像できた。
希少なものは、それだけで人間の手が伸びる。
金や宝石、希少な魔導書、高価な薬、千差万別だ。
そしてその希少なものは、純粋な力が奪い取るのが世の常である。
そしてモンスターというものは権利を保証されていない怪物だ。
人がヒトとして自らを守り、時には経済、名誉、武勲のため狩り殺さねばならない存在だ、人の姿をしていても、本質がモンスターであることにほかならないならその権利が人間と同様に保障されるかと言うとそうはいくまい。
もしこのまま野に放てば、この無垢なレラは誰かにその尊厳を奪われ続けるだろう、心が擦り切れてしまうかも知れない、もしかすると命だって。
人の世は残酷なのだ、彼女が信じる優しさとあたたかさに包まれた楽園、無垢な瞳が映すしあわせな世界の裏で血と欲のうずまいた闇夜が地平線まで広がっている。
だからせめて、人がどういうものか、人の世で生きていくというのがどういうことかだけ教えてあげたい、自分を奪い取られないように世界を生きる術を少しでも教えてあげたい。苦痛なのは現実という刃を突きつけることだが、浅い傷はいずれ免疫になる。
例えば、彼女が信じ追いかける人間が、どんな人間だったとしても―――。
「おや、レラさん」
「おじいちゃん、わたし走ってくる!」
「人に見つからないようにするんだよ」
人に憧れ人に恋するこの少女は、機が熟せば時を待たずに飛び出していくだろう。
これは天が年寄りに与えた最後の仕事なのじゃないかと、そんな気もしていた。
わたしはたまに、人に見つからないようにするっていう条件つきで村のそと、ずーーーっと広がる平原を”変身”して走ることがある。
森の中でしか生きてこなかったわたしにとって、こんなに世界が広いなんていうことはとっても嬉しかった、どこまで走っても先が見えなくて、地面の果てがどんどん伸びていくの、その地平線にたどり着くまえにわたしが疲れちゃうんだから、すっごい広いんだ。
このずっとずっと先の先、一番最後はどうなってるんだろう、このままずーっと走り続ければいつかは行けるのかな。いってみたい、ああもう、やりたいことばっかりがどんどん増えていってこまっちゃう、ひとつめもまだ全然できてないのに。
木立をくぐって砂利をけとばして、誰もいない野原をただひたすらまっすぐ走り続ける。
いつもめざすのはただひとつ、道がなだらかに盛り上がってきたあたりからさしかかる、シイの木が繁る小さな山だ。
このあたりでわたしたちシルバーファングの天敵はいないから、小枝を踏み抜いておっきな音を立てても、うっかり転んでおなかを見せても大丈夫。はやる気持ちで脚をけとばし斜面を弾いてとびあがるとそれは見えてくるの。
ヒトがいっぱいいる都、そのすべてがこの小高い山から見える。
ぐるーーーーっと地面に沿ってまるーく囲われたたかーい壁のなかに、ヒトが次々に入っては出たりしてて、そのなかでぼんやりいっぱいヒトが動いてるのがみえる。いっぱい家がならんでて、村が何十個もすっぽりおさまっちゃうんじゃないかってくらいとってもひろい。
”傘のヒト”もあそこにいるのかな、会いに行きたいな。
地面にへたりこみながらただただ眺めてるのが楽しくて、時間がすぎるのも忘れちゃう。
わたしがおもいっきり走れば、あそこにあっというまに行けるはず。でもまだおじいちゃんたちに恩返しができてないし、それにまだ行っちゃダメって言われてるから、言いつけは守らないといけない。おとしよりの言うことを守るのもヒトのルールなんだって、そういえばわたしたちも群れのリーダーは経験のあるのだったなあ。
…あんなに大きくて広い場所をつくって、中ではなにをしてるんだろう、お料理かな、お勉強かな、いっぱい遊んでたり?尻尾を無意識に振りながら、中がどうなってるかをいつも考える。でもいっくら考えてもぜんぜんわからないの、あんなにいっぱいヒトが集まってなにをしてるんだろう、でもよくわからないけどすっごいんだとおもう!
だからわたし、知りたい。
ヒトにもっと触れて、ヒトとして生きたい。
傘のヒトに傘を返しに行ったら、いっぱいお話も聞かせてもらうんだ。
まずあなたは誰、どこから来たの、なんであそこにいたの、
あ、一番最初は”ありがとう”だよね、あいさつ、あいさつ。
そしたら次は、次は…うう、頭がぐるぐるしますわうわう。
気づいたら身体もごろごろころげまわってて、毛皮が土まみれになってた。
お日様にもおなかを向けてて、わたしがちょっと傾いてるからおひさまも傾いてるってことだってわかった。ななめよんじゅうごど、ちょっとながーくここにいすぎたかな、いつもこうなんだけど今日はちょっぴり長めでそのぶんお日様にあたって身体がぽっかぽか。
身体をひねって起こすと土が舞って、くしゅんとくしゃみが何回か出ちゃう。うわあ、すっごく汚れちゃった……”変身”しててもついた汚れは消えなくて、ヒトの姿になったときにもしっかりくっついてるから洗わないといけない。
わたしたちは雨を浴びたり砂を浴びたり、舐めてたけれどヒトはおふろで身体を洗うの。ぐっつぐつのお湯につかってざばーって身体を流す、はだかんぼになってごしごし身体を耳の裏から足の裏まで、足の裏はちょっとくすぐったいから逃げようとするけどセドラちゃんにはいつも負けちゃう。
村にはみんなで使えるおふろがあって、女の子と男の子でかわりばんこに使ってる、一緒に入るとたのしいし気持ちいいからわたしは男の子とでもいいよーって言ったんだけど、そこもヒトのルールみたい、やっぱりヒトってわからない。
今日はすっごく汚れちゃったから怒られちゃうかな、そうおもうと耳がぺたんになってしゅんとしちゃう、でも悪いことをしたら怒られなきゃならないのもルール、わたしには帰る場所があるのです。
ちょっとだけ高いとこから見ようとして、ヒトの姿になって都をみつめる。
ヒトの目は広くて便利だけど、こういうときはちょっと見づらい。でもほんのすこしだけ都が広く見えた気がして、わたしは満足してまた変身すると山を駆け下りた。
来る時よりあったかくなったお日様の光と草の香りに包まれて、わたしはわたしの帰る場所へと走り出した。