佐吉のうた
アンリさま主催「キスで結ぶ冬の恋」参加作品です。
少しだけ、用語説明を。要らなければ飛ばしてください。
聚楽第 …… 豊臣秀吉によって京都に造られた城郭風の邸宅。
公儀 …… 政治をおこなう機関のこと。このお話では豊臣秀吉による政権。
上方 …… 京都周辺を漠然と示した呼称。本当は江戸時代の言葉。
殿下 …… 摂政・関白・将軍の職に就く人物の敬称。このお話では豊臣秀吉(関白)のこと。
もう一つ追加で……
国衆 …… その地に長く住んでいる武士。
これはですね、たとえば、武田氏という戦国大名に従った信濃の真田氏とか……そういうの……だと思うのですが……、説明が難しいので、その土地の有力者とでも思ってください。
では、そろそろ本編へ。
天正十九年(1591)、十一月某日。ーー
この日、朝からふり続いた雨が昼過ぎに雪へと変わり、日が沈み夜半となった今、大坂城下一帯は青白い光に包まれておりました。雪をふらす雲の向こうに、ぼんやりとした月。その光が、すでに土へとおりたって身を寄せあっている降雪へとふりそそぎ、まぼろしのような景色を生じさせているのでした。
石田治部少輔三成の屋敷は、大坂城の北、淀川に浮かぶ備前島という中洲にありました。有力大名の多くが京の聚楽第周りに屋敷を構えるなか、公儀の政務を取り仕切る三成は大坂屋敷へ残り、毎朝天満橋を渡って登城し、日中は城内で政策の考案や年貢の算出など多くの役割をこなしておりました。そうして、夜にまた橋を渡り、備前島の屋敷へと束の間の休息をとるために帰ってくるのでした。
といっても、三成はこの年、長いこと上方を離れておりました。前年、公儀による小田原征伐、つづいて奥羽仕置きがおこなわれ、ようやく天下統一が豊臣の名のもとになった矢先、仕置きを終えたばかりの奥州で、大規模な一揆が起こったのです。三成は一揆鎮圧の指示のため奥州へ下向し、その地で年を越しました。一揆が鎮まり上方へ戻ったのも束の間、三月になってふたたび反乱が起こり、三成は鎮圧を監督しなければなりませんでした。九月になってようやく反乱が鎮まり、そうして今、三成は大坂へ戻り、政務をおこなっているのでした。
しかし、年明けには朝鮮への出兵が予定されており、今度は九州の名護屋まで兵を率いていかなければならない ーー このお話は、ちょうどこの時期の三成の、彼の奥さんとのお話です。
一、三成とおりん
「なんだ、起きたのか」
「起こされたのですよ」
三成の妻は、名をおりんといいました。歳は良人と同じほどで、背丈も大して違いません。
「誰に」
「あなたに」
ただし、彼の華奢な身体つきに比べ、妻のほうはいくらか豊かでした。十四年ほど前、三成が主君秀吉に仕え始めて間もない頃に、彼はおりんを妻に迎えたのでした。
「俺も偉くなったもんだ……」
縁側に腰かけた三成は、いまだ止む気配のない雪を眺めながらそう呟きました。妻のほうは、かすかに見える良人の横顔を見つめつつ、少し離れたところにゆっくりと膝をつきます。夫婦には十二、三になる娘が一人と一昨年生まれたばかりの息子が一人おり、同じ屋敷で暮らしていました。今は乳母のもとで、すやすやと眠っていることでしょう。
「あなたがいつになく不安そうだから」
「お前は不満そうだな」
「だって、私……」
静かな夜 ーー すべてのものが静止して、まるで時が止まっているかのよう。そうでないとわかるのは、降りつづく雪とゆらめく灯、それと雪雲の向こうから照らす月の光のためです。青白い景色のなかに、沈黙が流れます。
「風邪をひくなよ」
三成がそっと、沈黙を破ります。
「あなたこそ。というか、今さらそんなこと」
おりんがそう良人を責めると、彼は目尻にしわを寄せ、それからゆっくりと妻のほうを向きました。
そうして、青く照らされた顔にうっとりとした笑みを浮かべて、唐突に言いました。
「茶を点てようか」
***
お抹茶には、濃茶と薄茶の二種類があり、正式の茶事ではまず格上の濃茶が振舞われるというのが常でした。濃茶はその名の通り濃い緑色で、甘みのある上品な味わいが特徴のお抹茶です。茶事では吸茶といって、一杯の濃茶を回し飲みするということがおこなわれておりました。これは、秀吉の茶頭をつとめた千利休が始めたものといわれております。
しかし利休は、この格式ある濃茶よりも薄茶のほうを「真の茶」としておりました。薄茶は濃茶と違い、色が薄く渋みの強いのが特徴です。吸茶のようなことはおこなわれず、一人ひとつの茶碗で服します。薄茶は多人数の参加する茶会や禅寺などで振る舞われますが、わびさびの趣を大切にした晩年の利休は、この薄茶こそ至高なるものであると考えていたのでした。
その利休はこの年の二月、ちょうど三成も奥州から上方へ戻っていた頃、不遜の咎によって秀吉から切腹を命じられて最期を遂げたのですが ーー、今、三成の点てているこのお抹茶も、利休の愛したわびさびの薄茶でした。
「私、お茶のお作法なんて」
「作法なんてのは男のものだ」
「だったら……」
黄色い灯が、酔ったような彼の笑みをうつし出します。
「だったらどうして、私にお茶なんか……」
おりんは眉根にしわを寄せつつも、不思議な穏やかさを見せる良人の表情から両の目を離せずにおりました。
***
三成には、三献茶という逸話があります。彼がまだ十五の少年で、佐吉という幼名で呼ばれていた頃、また、天下人豊臣秀吉がまだ織田信長の一家臣にすぎず、羽柴の姓を名乗っていた頃のお話です。
三成は、北近江の国衆石田家の次男として生まれ、天台宗の寺院に預けられておりました。この寺で三成は、座禅や写経、茶の湯など、厳しい修行を積んで育ちました。
一切の衆生、ことごとく仏性を有す ーー すなわち、生きる者は誰であれ、真理を会得する素質を有するということ ーー、そして、その真理とは何か、様々の修行のうちに常にそれを探し求めよと、三成は和尚様から教わりました。
「怠けるな、佐吉。おのれ自身で、常に答えを探し求めよ」ーー
天正二年(1574)年、前年にこの地の領主となったばかりの秀吉が、鷹狩りの最中、三成のいる寺を訪れて言いました。
「誰か、茶を持ってこい」
「ただいま」
「早よ持て」
三成はまず、茶碗の七、八分目あたりまでぬるく点てた茶を用意しました。
「ん。よし、今一服」
三成はにこりと笑い、今度は茶碗の半分より少なく、前より少し熱く点てた茶を用意しました。これを飲み干した秀吉は、彼のほうをじっと見つめます。
「お口に合いませんでしたか」
不安になった三成がそう尋ねると、秀吉は彼を見つめたまま、右の手でゆっくりと自分のあご髭をなでながら、低い声で言いました。
「小僧」
「は……」
「今一服」
「……ただいま」
三成は、今度は小さな茶碗に少しばかりの茶を熱く点てて用意しました。
ーー 喉の渇きをうるおすにはぬるい茶をたっぷり、味をたしなむには熱い茶を少し。この気配りは、殿様のお心に適うほどのものではなかったのかもしれない。しかし、今の自分にはこの程度のことしかできない。それだけの人間なのだ。であれば、自分を信じて最善の気配りをする……、今はそれしかない、できることをするだけだ。ーー 三成は緊張した面持ちで、それでも精一杯穏やかな表情を意識しながら、真心をこめて点てた茶を秀吉へ差し出しました。
「お待たせいたしました」
「ん」
暮れかかった日が殿様の顔を照らします。四十前の小柄な殿様ではありましたが、その細い両の目はぎらぎらとした輝きを放ち、目の前の三成には、顔に刻まれた彫りのひとつひとつが、この人物のただならぬ貫禄を表しているように思えたのでした。
秀吉はゆっくりと茶碗を戻し、三成の目を見つめてこう言いました。
「狡い小僧め」
***
「人の心はわからないもんだ」
「私には、あなたのお心がわかりません」
「ほらな」
「ほらな、って……」
おりんは相変わらず、怪訝そうなあきれ顔を三成へ向けておりましたが、良人を見つめるその瞳は、好奇と怯えの合わさったような、なにか夢でも見ているような表情をたたえておりました。
「ほらな、というのは冗談だ。俺だって冗談くらい言える、ーー」
「意味がわかりません」
「お前の前ではな」
「……だから、意味が……」
三成はゆっくりと目尻にしわを寄せ、おりんの目はますます彼に引き込まれていきます。
「他人は俺のことをごますりのうまいやつだと言う。そのくせ気遣いのできぬやつだとも。知った気でいるのだ、俺の心を。……だが、お前は別だ」
「……」
「これは俺の、夢の話だ。しかし真実でもある。お前に聴いてほしい」
二、佐吉のうた
大坂城下は相も変わらぬ静謐さに包まれておりました。まるで城下一帯が、いえ、城北の石田屋敷のみが、時の流れから隔離されているようでもありました。そんななか、三成はおりんに、この夢のような話を聴かせたのです。ーー
「これは、お前を妻に迎える前の話だ。つまり、殿下への仕官が決まって間もない頃。殿下はまだ織田家の一家臣羽柴様であられたが、あのお方の恐ろしさは今も昔も変わらない。……例の茶のことで殿下のお気に入りとなってしまった俺は、父や兄を差し置いてあのお方の側近くに仕えることになった。俺が何かをすると殿下は褒めてくださったが、俺には殿下が冷徹なお方に思えて仕方なかった。ーー にこやかに笑っておられるお目の奥で、家来の技量を判じているような、そんなお方に。……」
「あの日、俺は表を歩いていた。近江の長浜では雪が降り積もっていた ーー ちょうど今夜のように。……和尚様のお寺を出てからというもの、俺は自分の道を見失いつつあった。迷っていたのだ、どう生きていくべきか。あるいは……、そう、馬鹿げたことも考えたもんだ。……」
「表を歩いていたと言ったが、どこか、森のような場所だったと思う。夜……かなり遅い時間だ。鳥の声もなく ーー ただ、降り積もる雪が雑木を白く覆って、月明かりが差していた ーー、そんな気がする」
そこまで話し終えると、三成は立ち上がって、どこからか木の箱を取り出して持ってきました。彼はそっとふたをはずし、一切れの和紙を取り出しました。その和紙には三成の字で、唄の文句が書き込まれておりました。
「ぼうっと歩いていたら、どこからか、こんなものが聴こえてきたんだ」
ーー もめんのように短くて
はかないいのち花とちる
浮世は雪となり代わり
きよき水へと身をさそう
つちに根をはる杉のきよ
こよいもさむき谷にあり
ひとり年輪かさねては
いく千年をもの思う
おまえもつらくないものか
いかにその根がつよくとも
こころよせあう友もなく
ただ風のみがふれてゆく
わたしは道がわからない
のるべき舟もみあたらない
ただひとつだけわかるのは
ここに居所のあらぬこと
もめんのように短くて
はかないいのち花とちる
浮世は雪となり代わり
きよき水へと身をさそう
彼は優しい笑みを浮かべていましたが、それはどこか強張った、真剣な表情にも思えるものでした。彼の目の奥には、包み込むような優しさと、なにかを求めるような必死さとが同居しておりました。哀しげにも見え、温かくも思え、少しばかりぎょっとするような色をもふくんだなんともいえない表情 ーー いまだかつて、おりんは良人のこんな顔を見たことはありませんでした。
「その翌日だった。長浜の城で、うら若い娘の怯えた目を見たのは。そして思った、俺にはあの娘が必要だ、って。俺は小姓の分際で殿様に訴え出た。私を構ってくださるのならば、あの娘を私にください、と。殿下はすぐに娘の父親にかけ合い、その娘との結婚をお認めくださった。そうして俺は、お前を妻としたのだ」
「……」
三成はゆっくりと和紙を木箱へ戻し、ふたを重ねました。
「自分は何をなすべきか、俺はいまだに悩むこともある。ただ、常に心にあるのはこの唄で、時には鞭打って俺を奮い立たせ、時には心の支えとなって、はかなげな声で勇気づけてくれる。そう、俺にはそういう存在が必要で……、俺にとってお前は、そういった存在で、だから ーー」
「私はあなたの唄」
「……」
三成は顔をほころばせ、その両の目からは、熱いしずくがこぼれ落ちました。
おりんのほうでも涙を流し、彼女はそれを手の甲でぬぐって言いました。
「あきれた人。……そんなふうに思ってらっしゃるなら、これからは『うた』と呼んでくださいまし」
「うた……」
「まったく」
「もっと早くからそうすべきだった」
「今からじゃもう、慣れませんからね」
「うた……、俺のうた……」
***
青白い光に包まれたまぼろしのような景色のなか、障子の戸がそっと沈黙を破ります。
部屋から出てきた一対の男女が縁側へ腰かけて身体を寄せ合い、ーー そうしてゆっくりと、彼らの紅いくちびるが、重なっていくのでした。
- 了 -
石田三成の妻皎月院は、その名を「おりん」とも「うた」ともいわれています。なのでこのお話では、こういう形に。
また、作中の唄の文句は作者オリジナルのものですが、近江→近江朝廷→大友皇子 という連想から、大友皇子の妃であった十市皇女への挽歌としての高市皇子の歌三首を意識して書いたものです。
ついでに、私は石田三成という人物が好きでして、いつか彼を扱った小説を書きたいとずっと思っていました。
私の三成びいきは、映画エッセイの『のぼうの城』を取り上げた回でも少し漏らしております。
最後に、この場を借りて。
アンリさま、楽しい企画をどうもありがとうございました。
私は書き手としては秋からの参加でしたが、楽しませていただきました。
企画を盛り上げてくださった小鳩子鈴さま、たこすさま、他の方々にもお礼を申し上げます。
みなさんどうもありがとうございました。
それでは、長くなりましたが……
お読みくださった皆さま、どうもありがとうございました。
今後とも、石田三成をよろしくお願いいたします。
ではまた。
檸檬 絵郎