人間尊氏
よしあしと 人をばいひて たれもみな
わが心をや 知らぬなるらむ
……
「今となって考えてみれば、あの男のことは何もわかっていなかったのかもな」
そう語るのは希代の婆娑羅大名、佐々木導誉であった。その破茶滅茶とも言える人生は、後世の世の中でも語り継がれているほどである。
しかし、彼ももう老年。とうに政界からは引退し、隠居生活を一杯の酒と共に過ごしていた。
「確かに儂はあの男と共に戦さ場を戦ってきた。そして今の地位を掴み入れ、こうして今まで生きてきた。あの男には感謝しておるよ。あの男がいたから、今の儂がいる。くく、こんなことを言うのは儂らしくないか」
自らの言葉に自嘲しつつも、あながち間違いではないかのような笑みを浮かべる。傍で聞いている童は、あまり話の内容が掴めていないらしく、きょとんとした表情を見せていた。
「むぅ、童には難しいか? だがまあ、聞いておくれ。死に行く老人の昔話だ。ふと、あの男のことを思い出したのでな」
詫びがわりと言わんばかりに、道誉は童の頭をかき撫でる。
「しかしま、あの男はいい男だったが、遠い男でもあったかもしれん」
童を膝に乗せながら、男は虚空を見上げる。雲がかって星も月もない夜だ。だからか、辺りは静寂な闇に閉ざされている。唯一の光といえば、荏胡麻の灯火。だがこいつもゆらりゆらりと揺れて頼りない。
「そうだな、あの男には存外こういう風景が心の中にあったのかもしれない。あの当時は儂も理解はできんかったが、今だからこそわかるかもしれないだろうな」
ぐいと、道誉は酒を吞み下す。その脳裏に浮かぶのは、かの男との記憶だった。
……
「儂は疲れてしまったよ」
と、ぼやくその男がそこにいた。
声は弱く、体も色あせている。もはや死も近いだろうと思われるその男こそ、足利尊氏その人だった。
数々の戦で負けながらも、その度に逆境を跳ね除け勝利し今や征夷大将軍となった男も、戦の矢傷が元で体に巣くった病には勝てないらしい。
「戦続きの人生だったが、この手に残ったものが何もないとはやるせないのう、佐々木殿」
から笑いと共に彼は拳を握るそぶりをする。そこに握られたものは、確かに何もない。
「何もないとは何事だ。全く貴様も勘違いな男だのお。貴様の元には力が残った。名が残った。それは楠木や、貴様が目の敵にしていた新田には残らなかったものぞ」
と、病床の中にいる男にでさえ豪快な口調を飛ばすのは他ならぬ道誉だった。そろそろ死に際らしいという噂を聞いて、わざわざ来たのである。
共に戦い続けて来た仲ではあるが、関係は中々難しい。道誉も尊氏も互いに一目を置いていたわけであるが、二人が二人ずっと味方同士というわけじゃなかった。ときには反目し合い、立場を違えることもままあった。
それでも最後は結局、友としてここに居合わせている。鎌倉幕府の打倒から戦ってきた男は、もはやこの男と数人あたりしか残っていない。
「みんな死んで、次は儂の番か」
「ああ、次は貴様の番だとも。まさか儂は貴様が床の上で死ぬとは思わなんだよ」
まるでからかうように尊氏の肩を叩く道誉。だが、一向に尊氏の気力は弱いままだった。
また、いつものあれか。
道誉は顔は笑いながらも、内心は辟易としていた。
尊氏は滅法強くなる時と、滅法弱くなる時があった。
事実、戦さ場での戦いはどれだけ劣勢でも死を恐れることなく、自ら先陣を切り戦う。先の戦も自らが率いた軍が敵を敗走させる一手となった。
だが、途端に負け戦や状況がかなり悪くなると、進んで腹を切ろうとする。その決断があまりにも早すぎるので、彼の周りの部下達は苦労したものだ。
さらに言えば、たとえ勝ったとしてもこの弱気が尾を引いていれば、出家や遁世を望むのもこの男の稀有な特性だった。実際にそう言った文書が残っているのが面白い。
権力を得てもなお驕らず、むしろその権力の飾り物でいいとした男こそが尊氏なのである。
しかしながら、まるで自分に欲がないかのような生き方は、道誉には理解し難いものがある。
道誉の生き方はまさに欲の権化。既に婆娑羅と呼ばれるその男はやることなすことが派手であり、全て自分の欲に直結している。
だからこそこの、無私の男が理解できず、苦々しい。
しかし、その自分とは正反対の人間が逆に新鮮に見えたのだ。自分の理解を知らない人間として、そこにいたのだ。それ故に、今までこの男の隣に立って戦ってきた。この男に尽くしてきた。
この男と共に生き、ときにその性分に呆れ半目することもあったが、それはそれで楽しかったのだ。
だが、もはやこの男も死が迫っている。この性分を見るのも、これが最後かもしれない。
そう思うと、辟易は哀愁に変わっていく。
「もはや、貴様と共には戦えぬか。寂しいのお。貴様がいなくなったら、儂は好き放題してしまいそうじゃ」
「……お主は、儂がいてもかなり好き放題していたと思うが?」
「あ、これは失敬」
と、自らの頭をペシリと叩き、おどけて見せる道誉。その姿に意気消沈している尊氏も苦笑してしまう。
「いや、貴様がいるなら、後のことは別に心配する要素はなさそうだな。西に直冬、吉野がいるが、貴様なら簡単に蹴散らしてしまおう」
「おうよ、この儂に任せろ。儂がこれまで以上の働きを見せようぞ」
豪快に笑う道誉を、尊氏は笑みを持って返す。尊氏が死んでも、敵は未だに残っている。しかし、いくら敵を前にしてもこの男は妙に物怖じするところがない。むしろ、その敵をもてなすことだってあった男だ。だからこそ、尊氏はこの婆娑羅を最後の最後まで信用してきたというものだった。
尊氏は一息つくと、急に起こしていた体を横にする。息も少々荒い。
「どうした。もはやこれまでか?」
「……ああ、これまでらしい」
このまま果てそうではないかという尊氏を前に、道誉は見舞いに持ち込んできた酒を取り出す。とくとくと注ぐと、尊氏の枕元にそいつを差し出した。
「餞別だ」
と、ただ一言。
「貴様らしい、餞別だな……だが、儂にはそいつを飲む気力は無い。……代わりに、そうだな、儂の話を聞いてはくれんか」
「聞きたくないな。貴様の弱音話など、聞きたくないわい」
「ふ、そう言うと思ったよ。お主はそういう人間じゃからな」
「ああ、そうともよ。どうせ、貴様は帝を敵に回した後悔やら、弟を殺した後悔やらを述べるつもりであろう。そしてそれをして、何も残らなかった、そう言いたいのだろう。貴様の事など、お見通しじゃ」
「……そうか」
そう零して尊氏が見せた笑みは、先ほどの気弱な笑みではなかった。かつて戦さ場で何度も見せた、「例の笑み」を浮かべていた。
「儂は、この手で自らの大切なものを失っていった。儂と辛苦を共にした弟も、忠誠を捧げた帝も、彼らと戦う事で皆失ってきた。……なあ佐々木殿、最近儂は夢を見るのだ。戦さ場の夢だ。相変わらず儂は戦っているのだ。死など怖くもなんともない。だが、相手が相手だった。ときには新田、ときには楠木、帝、そして弟……その夢を見るたびに、儂は彼らと戦い、勝ち、亡き者としてきた」
聞かないと言っておきながら、道誉はその話を止める事も、野次を打つこともしなかった。
尊氏は一呼吸置いた後、再び言葉を紡ぐ。
「そうだ、儂はいつも終わってから気づくのだ。振り返ってみれば、儂一人しか立っていないということに。血煙が渦巻く中で、儂はただ一人だった。あまりに自分が滑稽で、笑ってしまったよ」
目は、遠くを眺めている。
彼の目に、何が映っているのかは、誰にもわかりはしない。傍にいる友も、当然だった。
「……貴様はやはり勘違いをしておるぞ」
「何を、だ?」
尊氏の眼が道誉に向く。目に映ったその男は、先ほどのように笑ってなどいない。酷く似合わぬほどの真剣味。
「貴様が、そんな顔をするとは……な」
「するさ。貴様がそこまでのたわけだからな。いいか、もう一度言うぞ。貴様は一人ではないぞ。貴様には息子がいる。貴様に尽くす者共がいる。そして、友である儂がいる。それを忘れて一人とは、たわけたこと言うなよ愚か者」
酷く憤った口調で言うと、尊氏への餞別の筈の酒を彼は勢いよく飲み干す。そのまま憤りと共に猪口を投げ捨てると、尊氏に背を向けて立ち去ろうとする。
「なあ佐々木殿。お前はそうは言ってくれるのは嬉しい。……だかな、儂の心など、儂しか知らぬものよ」
消え入りそうな声が、道誉の耳に妙に残る。
それを振り切るかのような声で、彼は言う。
「貴様が何度そんなことを言おうと、貴様と生きた日々は楽しかったぞ。……さらばよ、友よ」
「ああ。さらばだ」
それが、かの男と交わした最後である。
……
「別れ際、とうとう儂は足利殿の顔を見ることはなかったし、足利殿は儂を友とは呼ばなかったな」
既に夢の中にいる童の頭を撫でながら、老人は未だに言葉を紡ぐ。
「なあ、足利殿よ。貴様は自分は誰にもわかってもらえないなどと抜かしていたな。ああ、そうよ。儂は貴様の事など、一片もわかってはいなかったわ。だが、わかっていない割には楽しくやっていけてたと思うぞ。……それは、貴様も同じだったのではあるまいか?」
しかし、闇にいくら問いかけてみても、答えなどは返ってくることはない。言葉は虚しく深淵へと沈んでいくだけだ。
それでも、今は亡きかつての友に、男は語りかけるのである。
「足利殿。儂は、貴様が好きだったよ。お主という人間が好きだったからこそ、友と呼んだのだ。……貴様は、どうだか知らぬ。だがな、儂のこの気持ちに嘘偽りは無かったのは、確かだぞ」
まるで、杯を交わすように掲げ持つと、最後の一杯をぐいと飲み干す。
もはや、共に飲む酒は無かった。
「もう一度、貴様とは飲み交わしたかったものだな」
細々と照っていた灯火は、風に吹かれて散っていった。